旧長峰峠(ca.1503m)
長峰峠の地図1
長峰峠の地図2
長峰峠の地図3
長峰峠の地図4

 御嶽四門の一つで西の「菩提門」とされ、飛騨から入って初めて御嶽山の見える場所である。木曽側からは飛騨街道、飛騨側からは木曽街道、江戸街道、鎌倉街道と呼ばれていたようである。現在の国道361号線の長峰峠(新長峰峠)から更に登った所にある。ヤブ払いがされていないとの1999年の記事を見かけたので残雪期にワカンで歩いてみたら、名所は雪の下に隠れていて見ることが出来なかった。だが、新しい看板があったので無雪期もまた歩けるようになっているのかも知れないと思い、夏に再訪した。ヤブは殆ど無く、夏も問題なく歩けた。1502.9mの三角点「平岩」のある辺りが旧道の最高点である。元は信州と飛騨との境という意で「御境峠(尾境峠/御界峠とも)」と呼ばれていたという新長峰峠から小日和田に向けて歩いてみた。飛騨側から登ると峰伝いすること約1500mで初めて信州側に下るので長峰峠の名が付けられたという。昭和41(1966)年に新長峰峠の車道が通じて昔からの長峰峠は「旧長峰峠」となった。


 現在の長峰峠である国道361号線の新長峰峠から入山。旧道は国道のすぐ東側の尾根の上にある。峠の数十m南側の路側帯が広い辺りが旧道のカーブのようで、そこから尾根に上がったようだと考えてみたが、新長峰峠の直上から南方へ登るように路盤がある。新長峰峠の当初は県境が最高点ではなく少し南の古い長峰峠の道の尾根上から下りてくる所が最高点だったのかもしれない。今回は県境より南の路側帯の広いカーブの所から取り付いた。唐松林である。

 新長峰峠の直上からの路盤が合わさると新しい案内板があった。1m程度の雪に覆われているが道型ははっきり見える。唐松林から二次林に替わっていく。尾根の西側を巻いて絡みながら登っていくが尾根の直上を進む所もある。尾根線上では残雪の切れている所もあった。1409m標高点を越えると国境稜線の尾根から沢地形を渡り西隣の小尾根に取り付く。山の尾に切られたうねうねとした道を登っていく。左手の浅い谷から水音が聞こえる。

 再び西に回り込んで標高1490mを越えると広い更地に出る。更地の後方に継子岳を中心とした御嶽山の展望が広がる。更地の左手にコンクリの水槽のような物があったが、何だか分からなかった。或いはオケジッタスキー場最上部の施設の跡であったか。


新峠の上に
新しげな案内板

道型は
はっきりしている

更地から継子岳
(御嶽山)

 更地を登り切ると既に三角点のある台地の一角で、道の分岐がある。「望岳の森へ」と書かれた道標で左手に折れると地形図にある林道幕岩平線に繋がっており、オケジッタの日和田体育館の方へ下りられるようだが今回は割愛。


更地の脇の
水槽?

分岐の
標識

望岳の森への
分岐

 直進して台地を北へ進むと三角点「平岩(1502.9m)」があるはずだが、雪が深いので分からず。広い平坦な所で、雪でどこに道があるのかもはっきりしない。前方に看板が現れる。木曽義仲の伝承のある「駒かけ岩」とのことだが、一面雪で駒かけ岩がどこにあるのか、どのような岩なのかは分からなかった。そのすぐ先にまた看板があり、こちらも木曽義仲の伝承のある「腰掛岩」とのことだが、こちらも雪に覆われて全く分からなかった。すぐ傍に硯石という石もあったらしい。腰掛岩の看板の横には石碑が幾つか雪の上に顔を出していた。頭の取れた石仏を上に載せているのは天保の飢饉の明けた天保10年の石経塚なのだという(高根村史(1984)では石経塚、開田村の石造文化財(1993)では地蔵菩薩座像)。これらの石碑のある三角点より100mほど北方の腰掛岩の辺りが旧長峰峠と言うことなのだろう。標高は殆ど三角点と腰掛岩で変わらない。

 腰掛岩の後ろには乗鞍岳が聳えているのがよく見える。御嶽山の方向は樹林に覆われていて、昔は遥拝所があったとのことだから見えたのだろうが、スッキリとは望めなかった。


駒かけ岩の案内板

腰掛岩の案内板

石経塚

 旧長峰峠から尾根の西側斜面に入って下る。斜面の下手には林道幕岩平線が延びてきている。標高1460m強の所で尾根に切通があり、そこを通って東斜面の谷間へジグザグに下りていく。切通しの北方の1460m強のコブは新長峰峠上と小日和田口の新しげな看板に「納剣山」とある。谷間に下りるとすぐに橋があり、右岸へ渡る。明るい谷間を坦々と下り、標高1340m辺りで橋があり左岸へ渡ると針葉樹の植林下である。左岸の区間は短くて標高1320m辺りでまた橋で右岸に戻る。

 右岸に戻ると道は次第に堀割状となる。標高が下がって日も高くなって気温も上がり、残雪と言うには密度のあまり高くなかった雪が腐れてきてワカンを付けていても時折太股まで沈むのでなかなか歩みが進まなかった。小日和田川を橋で渡り、小日和田の廃屋の前に出た。此処にも新しい案内板があった。江戸街道は左折してすぐ右手の森越八幡神社の前から前坂峠(森之腰峠とも)を越えて日和田に、更に後ろ峠(十三曲峠とも)を越え、野麦街道へ続いていた。続けて前坂峠を越えて日和田まで行ったが割愛。木曽側も長峰峠を越えてから中山道まで関谷峠・西野峠・地蔵峠と峠の連続であった。山また山の江戸街道であった。小日和田から西野へは長峰峠の他に、長峰峠の東方で山越え、国境越えする藤沢峠もあった。旧長峰峠以上にヤブに還っているであろう藤沢峠も残雪期に歩いてみたいが、西又川の源流徒渉箇所に橋が残っているのかどうかが気がかりである。


旧長峰峠から
乗鞍岳

切通を少し下がった
所から振り返る

小日和田近く
堀割状

 御境峠の名を、高根村史では信州と飛騨の境と言うことを命名の理由に挙げているが、稜線上の境という意味での尾境(峰境)の用字の方が当を得ているのではないかと考えてみる。


★再訪旧長峰峠・夏

 雪に埋まって見えなかった名所と望岳の森からの登路を確かめに、夏に再訪してみた。

 新長峰峠の僅かに長野県側に遊歩道としての旧長峰峠の登山口があり、余り踏まれていないがヤブと言うほどのことなく旧道に上がることが出来る。旧道の路盤に上がると、僅かに更にその先も登って、祠と馬頭観音や双体道祖神などの石造物の並ぶ一角がある。「新」長峰峠の遥拝所と言うことかと思われるが、御嶽山は唐松の木の間越しの眺めである。春先に道型を見いだして登った150mほど下手からの旧道は深く濃密な笹藪に覆われていたが、旧長峰峠への道は殆どヤブはない。緩やかで倒木も殆ど無く、その気になればマウンテンバイクでも登れそうな道が続いている。

 はじめのうちはカラマツの植林の中を進むが、まもなく広葉樹林となる。唐松林の林床にはホタルブクロやヤマオダマキ、オカトラノオなどが見られた。林の中は薄暗く、春先の木々に葉が無かった頃との雰囲気の違いに驚かされる思いがする。ヤマオダマキは殆ど白色の花ばかりである。峠までの後半は時折緩い丸木の階段が現れるようになる。

 春先に登った時に気になっていた左手からの沢音は今日も聞こえていたが、上手に至り、その沢を横断する所では水は流れていなかった。沢筋には草が茂り、大雨の後でも水の流れることは無さそうな沢地形であった。


新長峰峠の登り口
交通標識の
左から入る


新長峰峠遥拝所と
言うことか

祠から見た
御嶽山
木の間越し

案内板

ヤマオダマキ

ヤブは薄い

上部は階段有り

 春先に登った時に展望の良かった山頂直下の更地は高い草が茂り、御嶽山は見えるのだが、春先の爽快な眺めとは何かが違う感じがする。

 望岳の森分岐点では案内板の背の高さに驚かされる思いがする。分岐点を過ぎてすぐに道の右手に三角点。平坦な森の先の左手に駒かけ岩がある。高さ50cmほどの横になった岩で、上面の一角に窪みがあり、雨水が溜まっている。この窪みが木曽義仲の愛馬が戦勝を予知して勇み立って出来たのだという伝承があると看板に書いてあった。看板には愛馬による窪みが三つあり、更に義仲が槍を突っ立てた穴もあると書いてあったが、岩の上面水が溜まるほど深い窪みは一つしかなかった。浅い窪みがもう一つある。岩の側面にも深い窪みがあり、雨水が溜まって、そこから流れ出る水が削ったものか深い溝も付いている。この窪みの雨水はイボに効くとか、木曽と飛騨の両方に分流するなどと書いてあった。この岩は稜線より西側にあり、実際は穴の水は全部飛騨側に流れそうな気がする。

 駒かけ岩から更に北に進むとすぐに、今度は道の右手に腰掛岩。駕篭掛け岩ともいうという。2m四方程度で高さ20cmもない低い平岩が二つ並んでおり、どちらかが腰掛岩と思われたが、どちらも腰を掛けるには低すぎる気がした。腰掛けてみると、どちらも低すぎて快適さが無かった。高根村史にはこの二つの岩の写真のキャプションに「腰掛岩と硯石」とあり、白黒の小さな図版でどちらがどちらかは分からないのだが、ボコボコしていて真ん中付近に水が溜まりうる窪みのある南側の岩が、高根村史に源義仲が軍略を記した時にくぼみの水を硯に使用したと書く、墨汁に使う水の溜まる硯石なのか。案内板は二つの岩の北側にあり、北側の岩は中程が緩やかに滑らかに撓んだ形状であり水は溜まらなさそうで、案内板に近い北側の水が溜まらないのが腰掛岩/駕籠掛け岩なのだと思う。高根村史には義仲の使用した「水は今だに枯れることなく『義仲の硯水』と呼ばれている」とあるが、浅い窪みに水は無かった。望岳の森登山口の看板には、腰掛岩には義仲が長峰峠で休息した際に座った岩で太刀のコジリ跡があると書かれていたが、二つの岩を見てもどこがそのコジリの跡かは分からなかった。

 腰掛けるには低すぎるのに「腰掛岩」というのはどうも解せない。山上の広く平坦な所にあるので土を昔より被ったということも無いと思う。明治前期の皇国地誌残稿開田村分では飛騨国境にある「昔時木曽殿、飛騨を攻めし時、腰を掛し石と云ふ」名勝が「平岩」という名である。北側の薄く滑らかに撓んだ岩が削り節のように削ったような「刮削き岩(こそかきいわ/こそがきいわ)」通称「腰掛岩」一名「平岩」で、南側の岩が刮削き岩の横にあるというだけで何の意味もないということの「漫ろ石(すずろいし)」通称「硯石」でないかと思う。休む為に源義仲の駕篭が据えられたという腰掛岩の別名の駕篭掛け岩というのは巻き気味に削られたように見える「勾削き岩(かがかきいわ/かががきいわ)」ではないかと思う。三角点の名ともなった平岩というのは花びらのように滑らかな一枚の岩ということの「枚岩(ひらいわ)」だと思う。コジリ跡というのは元は岩の傷を指していたのではなく、全体が削り(ケズリ)取られたような形ということだったのではないか。馬を繋ぐ支点の無い駒かけ岩も、深い穴のような窪みを端の方が欠けていると見た「コバ欠け岩(こばかけいわ)」ではないかと思う。

 左手の石経塚の手前には平岩が木に立てかけられていた。「御嶽の信仰と登山の歴史」に「これが御嶽の祭祀と関係のあるものかどうかは文字が摩滅しているため判然としない」と書かれたのは、この岩であっただろうか。開田村誌のこの岩らしき岩が写る図版には「大正年代の新しいもの」との注があるが・・・。石で何かを作ると言うことは永続的な記念を意図するものであったのだろうが、石でも摩滅してしまうと言うことがあることに諸行無常を感じる。石経塚の上の石仏の頭も、いつしか落ちてしまう。

 道は腰掛岩と石経塚の間を進み、すぐ先に春先に乗鞍岳の展望が得られた場所だが、木々の葉に遮られて乗鞍岳は殆ど見えなかった。ここから小日和田の方へ下る。石経塚の左手にも古い道の路盤があったが、大部流れて腰掛岩と石経塚の間の道に付け替えられたようである。


更地は
草むらだった

更地から望む
夏の御嶽山

望岳の森
分岐点

駒かけ岩と
標識

駒かけ岩の
窪み

腰掛岩と硯石
多分手前が硯石で
奥が腰掛岩

推定腰掛岩アップ
撓んだ滑らかな曲面の
岩である

文字が摩滅している
というのはこの岩か

唐松林の中を
小日和田へ下る

 下り始めると左手はまた唐松の植林になる。切り通しから小日和田までは春先の初訪時に完全に道型をトレースできたので、今回は林道幕岩平線で国道361号線に戻り、途中で望岳の森分岐までの道を確認することにした。

 林道幕岩平線は切り通しのすぐ上で旧道に合流して終点となっているが、長く使われていないようで木々や草が高く茂っている。その上、水はけが悪いようで藪の中に所々水が溜まっている。切り通しから登山口までのこの林道は地形図に描かれているけれど、少なくとも現状では周回ルートとしては使わない方が良さそうである。横断する一つの沢に水が流れていたが、藪に囲まれているので水を汲むのはちょっと面倒そうであった。

 登山口は分岐点から延びる尾根の上にあって、看板があるのですぐに分かる。ここが実質林道の終点である。尾根の鼻の上で展望が良く、南に継子岳、北に乗鞍岳がよく見える。

 登山口から旧長峰峠の分岐点までは広い刈り分けの道で所々階段がある。標高1490mでカックリ左に折れて古い作業道跡に入る。上の方から登山口に下りてくる際は目印も何もないので迷いそうである。分岐点はもうすぐ先である。

 林道幕岩平線の登山口には、分岐点から下りてきた尾根をそのまま下る「散策の路」の案内板があったので、望岳の森に付随する散策路でどの道も日和田体育館辺りを起点にしているのだろうと、これを辿ってみた。尾根上の道は次第にヤブが茂るようになり、途中にはっきりした左手に入る分岐点があったが、そのまま尾根上の道を進むと展望のない「展望台」を経て沢沿いに下り、また左手に入る分岐があったが今度は道が完全に藪に覆われて辿れないのでそのまま直進すると橋のない幕岩川の河畔に出てしまった。後から日和田体育館入口の、望岳の森の案内板を見ると×印で行き止まりとなっている。登山口から下手の林道幕岩平線も多少ヤブが茂って続いているのが見えたし、望岳の森はあまり整備されていないようである。


望岳の森
登山口

登山口
御嶽山の展望

登山口
乗鞍岳の展望

尾根上の
広い刈り分け

階段の
箇所がある

林道幕岩平線
草が茂っている

 新長峰峠から古い道に入る前に、関谷の奥から西又川の右岸支流沿いに新長峰峠へ登る、地形図に点線である旧道を下と上から少し入ってみたが、濃密な笹薮で覆われていて辿るのは諦めた。

 高根村史(1984)には北西側の屋敷ヶ洞からも「約一キロメートルで」旧長峰峠の「頂上近くへ行く道がある」とある。


★三訪旧長峰峠・納剣山


小日和田の長峰峠の案内板
屋敷ヶ洞付近拡大 上が南

・納剣山の位置

 新長峰峠上と小日和田の新しげな長峰峠の道の案内板地図によると納剣山は1460m強の屋敷ヶ洞の東の奥で旧長峰峠北方のコブだが、高根村史の「納剣山の洞窟」(p1264)を読むと、「国道沿いに小日和田集落から留之原集落に入ると間もなく、幕岩川を隔て、岩山が屹立している。今日では岩を打崩したので洞窟の跡が僅かに残っているだけである。」とあり、納剣山は屋敷ヶ洞(屋敷ヶ洞は留之原と共に小日和田ではなく日和田に含まれる)の辺りの幕岩川右岸すぐの崖のある山地のことのようである。昔、洞窟があって木曽義仲が戦勝を祈願して洞窟に剣を奉納したから納剣山と呼ぶようになったともあるが、急斜面の崩壊地の上が納剣山なら、「ぬけ(抜)・の(助詞)・やま/せり(山)」の転が納剣山でないかと思う。

 上記案内板地図では、1375mのピークに屋敷ヶ洞の国土地理院の地形図にある手前の人家の車道対面辺りから道があり、山頂に石塔があるように描かれている。この石塔のある山頂が納剣山ということでないのかと考えて、屋敷ヶ洞を訪ねてみた。合わせて屋敷ヶ洞から旧長峰峠に登る道がどこを通ったのか分からないか、旧長峰峠にも三度上がってみた。

・旧長峰峠

 オケジッタバス停から林道幕岩平線を上がってまずは旧長峰峠に上がる。7年前から木々が伸長したのか乗鞍岳が見えなくなっていた。前の二回で気づかなかった御嶽山大権現の碑石が石経塚の奥、腰掛岩の道の対面の木の後ろに折れて立てかけてあるのを見る。嘉永四年の年記がある。腰掛岩、硯石、駒かけ岩を見直して、オケジッタスキー場跡の頭の草地から御岳山を見て小日和田への切通しまで下る。7年前は路盤に木まで生えていた林道が整備されてきれいになっていたのに驚く。水音はすれどヤブで水の見えなかった林道脇も水が見えるようになっていた。

 旧長峰峠から屋敷ヶ洞への下り口がないか、切通しの路盤の周りを見たが全て濃い笹薮で入れる気がしない。路盤跡らしき段も笹の上に見えない。切通しのすぐ南西の小尾根かそのもう一本南の大尾根から屋敷ヶ洞に下りたかと予想していたが、藪が濃くて入る気がせず、入って下るのは諦める。一旦、切通しから小日和田に下る。暗い樹林下だが広くヤブが刈られていて歩きやすい。橋は沢の本流には7年前に数えた通り三ヶ所だが、他に右岸支流を渡る小橋が三ヶ所あった。小日和田が近づくと左手は畑の跡の植林地のようで、道はやはり掘割状。この広く緩やかな道を昔は馬を連れて人々が行き交ったのだと思う。


御嶽山大権現の碑石

腰掛岩 撮り直し

駒かけ岩 側面の穴

林道がきれいに

林道脇で水も汲める

切通しの西側 笹薮

夏の小日和田側
幅広刈り分け

道の脇 大木の枯れ木

掘割状

・納剣山の推定・屋敷ヶ洞

 国道361号線を小日和田落合を抜けてオケジッタの方に登っていくと、高根村史(1984)の頃より木々が伸長したのか、岩山の屹立というのがあまり見えない。屋敷ヶ洞のすぐ南の1375m標高点の山の北西斜面には垂壁があるのが留之原の蕎麦畑越しに国道から見えるが、岩を打ち崩してあるようには見えない崖である。1375m標高点の山の西南西の幕岩川側の末端に崩壊地のような白い崖があるが、面は荒れており砕石場の跡のようにも見える。地形図に国道からこの白い崖の下の右岸に渡る道が描かれているが、橋がなくて渡れない。幕岩川は水が多く飛び石でも靴を濡らさず渡るのは無理そうである。

 国道を少し戻って屋敷ヶ洞への道に入って幕岩川の橋を渡ると道の左側に崖が続いていた。1375m峰西南西の白い崖より崖として古そうに見えた。規模も大きくすぐ下に道路が通っているので路肩に落石止めの土嚢が積まれている部分がある。車道の拡幅に際して落石事故予防に一部を予め打ち崩したこともありそうに見える所である。ある程度は硬そうで、ハングした洞窟状の部分が昔はあったと考えられそうな崖で、この崖が納剣山でないかと思う。新しげな案内板の納剣山の位置は屋敷ヶ洞の上という情報が屋敷ヶ洞の最奥ということになって1460m強のコブの位置になったのでないかと疑う。


1375m峰北西の垂壁
手前は蕎麦畑

1375m峰西南西の白い崖
南から見る

屋敷ヶ洞への道脇
幕岩川を渡ってすぐの崖

屋敷ヶ洞への道
幕岩川を渡ってすぐの崖続く

納剣山と
屋敷ヶ洞から長峰峠に上がる道推定

 新しげな案内板の1375m標高点の山の登り口となっている所にあるお宅の下手に「小日和田御嶽様山頂の石仏」の駒板があるが、どこからその山頂へ入ったものか、踏み跡も見当たらない。お宅の方が玄関で草むしりされていたので伺ってみると、登り口は駒板の所ではなくお宅の上手で、近年は登る人もおらず橋も落ちてしまったとのこと。お宅の上手のその落ちた橋を見ると丸木を並べた橋の殆どは落ちているが丸木の二本は生きていて何とか渡れる。だが、渡った先から高い草が丸木に迫り出していて渡るのを躊躇ってしまう。草のすぐ向こうは植林地で林床が濃い笹薮になっているのが見えて、渡って登るのは諦めた。「のうけんさん」とか「のうけんやま」という山は知らないとのこと。

 落ちた橋のすぐ上の屋敷ヶ洞のバス停の奥にも石仏があってそちらは刈り分けてあるから行けると教えていただいたので、そちらを訪ねることにする。屋敷ヶ洞のバス停の奥の二軒のお宅はもう住まわれていないようでバス停のすぐ先の道路に入るなと鎖が掛けてあった。鎖の手前から刈り分けが左に入っている。刈り分けは始めは緩い谷筋だがすぐに右手の丘に上がる。この丘の上に二体の石仏がある。ちょうど奥のお宅の屋根の上くらいの高さである。地形図を改めてみると、この緩い小尾根を更に登り大尾根に乗って右折すれば切通しの所まで緩い尾根伝いだけで登れる。二体の石仏は屋敷ヶ洞の村の入口に置かれたということでないかと思う。だが、二体の石仏の上の小尾根は濃い草むらで、登って辿るのは諦めた。この推定ルートで長峰峠の小日和田からの道に合流するまで約800m、長峰峠まで約1200mである。


屋敷ヶ洞への道の崖の下
土嚢が積まれている

小日和田御嶽様山頂の
石仏の駒板

橋は落ちている
先は草

屋敷ヶ洞の石仏への
刈り分け

屋敷ヶ洞の石仏
二体

石仏の前から
1375m峰を望む

★四訪新長峰峠信州側旧道


新長峰峠信州側旧道地図

 新長峰峠の登り口にあたる関谷の奥の、中ノ又橋から新長峰峠までの地形図にある旧道を歩いた。

 中ノ又橋のすぐ上で林道跡のようになっている旧道が国道361号の車道から分かれる。道の又には馬頭観音の文字碑が二基ある。入口辺りは草と笹が多いが樹林下に入ると林道然である。わりと短い距離で車幅の道は終わり、掘り込まれた沢床のような路盤に突き当たる。この掘り込み道の左(下手)は関谷から西又川の右岸を上ってきた道の跡で馬里橋の南から今の国道に切り替えられているのだが、西又川は今の国道に沿う部分は全部近代的に護岸工事で川岸が作り替えられており、馬里橋の南詰から中の又橋までの西又川右岸に道の跡は殆ど残っていない。掘り込み道の左の先の橋はなく、川向こうに路盤らしきものはあるのだが笹薮である。

 掘り込み道を右に入るとすぐに左岸の岩場が川に迫り出しており道型が消える。岩場は小さなもので岩を伝ってそのまま左岸を進めるが、馬産地で馬が往来した道なら岩場を避けるべくこの部分だけ右岸に渡っていたような気もする。だが、古い地形図で見ると道はずっと左岸である。どうもよくわからない。この岩場の前も掘り込み道の左の先も、川は飛び石で渡れる。


馬里橋南詰の
石仏

馬里橋から西又川右岸の
護岸を見る

入口の馬頭観音文字碑
二基

はじめは林道跡

掘り込み道に突き当たる

岩場に突き当たる

 岩場を越えて笹の生えた幅広の路盤を進むと斜面が立ってきて、路盤が流れて細くなっている所にかかる。細くなっている一番奥は完全に路盤が流れてなくなっていて、小さな岩場になっている。ここも岩を伝って通過する。この岩場に馬頭観音像らしき石仏が一体ある。1993年の「開田村の石造文化財」に記載のない石造物で、廃道同然の旧道脇ゆえに調査から漏れていたのか。馬里橋南詰道路南西側の石仏も、彫りが風化して何の像か見当がつかないのだが記載がない。

 馬頭観音らしき石仏の岩場を過ぎるとまた幅広となる。水流で路盤が抉れた枝沢を一つ渡り、次の新長峰峠に突き上げる枝沢の手前でジグを切って尾根に取り付く。ジグザグに登って緩い尾根上に出ると笹が深くなる。尾根線の西寄りに路盤があるのだが、国道の8号カーブと9号カーブの境の下に埋もれるまでの一部で二筋になっており、東側の筋から東側の浅い谷に入っていく分岐があるように見える。国道の8号カーブの所の谷側は深い笹原だが広く平坦で旧路盤が同じ高さで合流しているようにも見え、古い地形図から今(2023年現在)の地形図まで、道の点線が尾根線の東側の浅い谷に入っているのを見ると、尾根線の西寄りの路盤がより古い道で、今の国道になる前に浅い谷に入る付け替えがあったのか。浅い谷の中は幅広の路盤が入る広さがあるが、深い笹薮で道があったのかどうかどうもよく分からない。

 はっきりした路盤は二筋の上も尾根線の西寄りで続き、今の国道の下に埋もれて消える。古い道は9号カーブをそのままなぞるように上がっていたようで、9号カーブの山側の法面で切られた上に続きがあって、上がる刈り分けがある。新長峰峠御嶽山遥拝所のすぐ下手で二筋に分かれ、右が古い長峰峠の道で旧長峰峠へ上がっていく。左は緩やかに新長峰峠へ下る。左の道が今の新長峰峠から旧長峰峠への登り口の道で、この分岐の手前の新しい刈り分けで右の道に上がる。この刈り分けからもう一段、尾根線まで上がって少し南に入った処が祠のある新長峰峠の御嶽山遥拝所である。


斜面が立って路盤が細くなる

石仏の岩場

馬頭観音らしき石仏アップ

尾根の上は
笹深い

車道の下に
埋もれる

9号カーブの上
笹が薄い所もある

参考文献
Junji Kondo,木曽街道(飛騨街道)旧道を自転車で辿る(2/2)自転車 峠と山の旅.(2015年3月27日閲覧)
生駒勘七,御嶽の信仰と登山の歴史,第一法規出版,1988.
桜井正信,山国の街道と秘境文化,有峰書店,1971.
高根村史編集委員会,高根村史,高根村,1984.
開田村石造文化財調査委員会,開田村の石造文化財,開田村教育委員会,1993.
長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会,開田村誌 上巻,長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会,1980.
長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会,開田村誌 下巻,長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会,1980.
陸地測量部,明治大正日本五万分の一地図集成3,古地図研究会・学生社(発売),1983.
長野県,長野県町村誌 第3巻 中南信篇,郷土出版社,1985.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第5巻 けんえ-さこい,小学館,2001.



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(2015年3月27日上梓 8月1日再訪記追加 2022年8月6日三訪記追加 2023年1月22日URL変更 2023年8月9日四訪記追加)