旗振山(左)と
嬰児山(右)
交野市体育館付近から
嬰児山 / 龍王山 (321m)
みどりこやま

 かいがけ道の脇に聳える山。

  • 五万図・・・「大阪東北部」
  • 歩行日・・・2019-21年

山頂付近地図

★山名考

 享保頃の五畿内志に「嬰児(ミドリコ)山 寺村ノ東ニ在リ 名区也 乳母(ヲチ)谷 溺(ユハリ)谷等ノ名有リ 峯ニ龍王ノ祠有リ 歳旱ハ雨ヲ祷ル 此ニ因テ龍王山ト曰フ」とある(擬漢文を送り仮名を補って書き下し文に改めた。括弧書き小文字は振り仮名。)

・嬰児山

 五畿内志に恵慶の夫木集(夫木抄)にある歌が挙げられている。擬漢文の、その歌の中では「緑濃山」とあり、緑濃の部分に「ミトリコ」とフリガナがある。恵慶法師のこの歌を夫木抄は出典を家集としており、旧尊経閣文庫蔵本の恵慶集(第2類下巻)を見ると「みとりこ山」(濁点不使用)とある。恵慶は平安中期の人で出自も経歴も不明で、この歌に家集の恵慶集(恵慶法師集)で詞書もないが、恵慶集には詞書に「交野に狩するところ」とある別の歌があり、そうあちこちにある山名とは思えないので、遊猟地であった交野地方に馴染みがあって詠ったもので、平安中期から今まで同じ音の山名として伝わっていると考えられるか。天徳末(961)年以降と考えられる恵慶集の恵慶百首の夏の歌は「わかひくや うひねはなくと ほとときす みとりこ山に いりてこそきけ」である。托卵の巣を見つけたか巣から落ちていたかホトトギスの幼鳥を拾って自分の携帯用の籠(びく)に入れてもホトトギスらしく鳴き始めることは無く、ホトトギスの鳴き声は嬰児山に自分が入って聞こうということか。或いは、自分の耳朶(びく)に初めて鳴くホトトギスの若鳥の声はまだ無いが嬰児山に入れば聞けるだろうということか。耳朶の意の「びく」の用例が見られるのは室町時代、携帯籠の意の「びく」の例が見られるのは江戸時代からのようだが、平安時代で「みとりこ山」の歌を含む恵慶百首は従来、和歌に用いられなかった語句を積極的に用い、用法の試行錯誤がなされていたのではないかという。


嬰児山から寺二丁目、交野高校付近の地図

 ずき、ずく、ずこう、ずっこ、ずっこう、と言った方言が山の頂上や絶壁の頂点を指す。「つか(塚)」は土が盛り上がって高くなった所である。紀州方言で「つか(塚)」は「つく」という。「ずっこ」などは元は「づか」か、「つか」の後ろに「を(峰)」が付くなどしたものでないかと思う。

 山麓の寺地区は大阪平野の一部である緩傾斜地が生駒山地の一角に丸く食い込んでいるような所にある。「寺(てら)」は「たいら」の転で丸く広がって山地に食い込んである緩傾斜地を指し、その緩傾斜地の丸みの上に聳える嬰児山を廻り目の処の高まりということで言った「み(廻)・ど(処)・づか(塚)」、或いは「み(廻)・ど(処)・づか(塚)・を(峰)」の転が「みどりこ」と考える。「づか」は "dzuka" ではなく、"duka" から "riko" に訛ったと考える。

 寺会館の南側から交野高校の北側辺りだったという寺(てら)地区の名の元だという「てるは」は、「たいら(平)・は(端)」で平らに広がっている所の端の意であったと考える。尤も、「てるは」は古代に土砂災害で今の寺地区旧市街(寺二丁目)の所に移ったというが、引用の地名がひらがなであり、古い記録ではなさそうである(「てるは」の出典は内閣文庫蔵の「河内国」だと言うが未見。)。明治前期頃の口碑によるものか。 

 乳母(オチゴ)谷の名は、下の寺の緩傾斜地から谷筋が山が迫って一旦狭く急峻になり、上で傍示の盆地が広がる段になっている、「を(峰)・ちぐ(違)・たに(谷)」の転と考える。地獄谷とも言ったというのは「ちぐ(違)・が(助詞)・たに(谷)」の転が「じごくだに」と考える。

・龍王山

 風化した花崗岩で砂の多い山である。明治18(1885)年の「ほら」と言われる龍王山からの土石流は地元で記憶されているようである。山麓の寺地区の水田は砂地が多いので苦労があったようである。

 西面の山裾に「古龍王(ふるじゅお/ふるじお)」と呼ばれる場所があり、八大龍王を祀った祠があったと言われる。かいがけ道のある尾根の一本北側の「茶が瀬」という尾根の末端である。古龍王の精密な場所が分からないが、現在の「茶が瀬」尾根の末端(かいがけ道入口の住吉神社の北東約180m)は急斜面で関西創価学園の野球場の南東縁で高く法面工事されている。この急斜面の辺りでも嘗て「ホラ」が発生し、山が崩れた「ホラ・ヅエ(潰)」の転が「ふるじゅお/ふるじお」と考える。あったという祠は、鎮まって崩れてくれるな、水田に入る砂を下してくれるなとの祈りであったのが、降水に起因し聞き方によっては「ふるりゅうおう」とも聞こえ、水田を守りたいと言うことで水の八大龍王ということになったのでなかったか。「茶が瀬」は「つえ(潰)・が(助詞)・せ(背)」の転で山崩れの所の尾根という事ではなかったと考えてみる。

 古龍王に限らず、よく見える西面に急斜面が広く規模の大きな山崩れがしばしば、地質学的には短いが人生には同程度かより長い間隔で発生し、山崩れの跡が目に付く山であるということの「つえ(潰)・を(峰)」の転が「りゅうおう」と考える。「つえを」の「つ」は、今の "tsu" ではなく、鎌倉時代以前の "tu" から "ryu" に訛ったと考える。

附 交野山

 山頂の垂直に切り立った大きな観音岩(かんのんいわ)は「かね(矩)・の(助詞)・いわ(岩)」の転で、「甲の尾」ともされたという交野山(こうのさん)は「かね(矩)・を(峰)・せり(山)」の転と考える。


交野山山頂の観音岩
交野市体育館から

観音岩
近景

参考文献
片山長三,改訂増補 交野町史 1,交野町,1970.
蘆田伊人,五畿内志・泉州志 第1巻(大日本地誌大系34),雄山閣,1977.
勝田長清,夫木和歌抄 本編,国書刊行会,1906.
恵慶集(尊経閣叢刊),育徳財団,1935.
川村晃生・松本真奈美,恵慶集注釈(私家集注釈叢刊16),日本古典文学会,貴重本刊行会,2006.
福田智子,恵慶百首と『古今和歌六帖』に共通する特殊語句について,恵慶百首全釈(歌合・定数歌全釈叢書11),筑紫平安文学会,風間書房,2008.
黒木香,恵慶と源順の和歌 ―恵慶百首と順百首の類似歌句を中心に―,恵慶百首全釈(歌合・定数歌全釈叢書11),筑紫平安文学会,風間書房,2008.
日本国語大辞典第二版編集委員会,日本国語大辞典 第2版 第11巻 はん-ほうへ,小学館,2001.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫33-151-1),岩波書店,2007.
山添義政さんと地名について,(pp2-3),12,石鏃,交野市古文化同好会,1976.
交野市史編纂委員会,交野市史 民俗編,交野市,1981.
寺の地名について,(p1),15,石鏃,交野市古文化同好会,1976.
交野市史編纂室,交野市史 自然編1,交野市,1986.



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(2021年3月7日上梓)