大台ヶ原 尾鷲道 地名まとめ その5
(龍辻越、委細谷〜龍辻〜矢所渡瀬)

 龍辻越の内の台高山脈主稜線に関わる部分の地名について考えてみる。

別ページ

龍辻越

 正保大和国絵図付帯の、郡山藩士服部九郎兵衛・高取藩士岡田太郎左衛門らによる「道帳(みちのちょう)」の写しである「里程大和国著聞記」が奈良奉行所与力玉井定時によって残されている。里程大和国著聞記は奈良県立図書情報館で影印を閲覧できる。里程大和国著聞記では栃本(小橡)から風折谷を経てカザヲリ峠を越えて出口に達し、出口からイサイ谷の「谷道」を通って国境に達する細道筋と書く。カザヲリ峠は風折川源頭の現在の荒谷峠付近と思われる。イサイ谷は委細谷だが現行の地形図では谷中に道は記載されていない。また、「栃本村ヨリ尾鷲村ヘ塩調ニ参ル道」とある。

 台高山脈主稜線に関わる、里程大和国著聞記の大和郡山・小瀬から栃本で分岐して尾鷲に抜けるルートである龍辻越の「出口ヨリ國境」を引用する。

 「ガンギ(雁木)に刻む」とはギザギザに刻むこと。出口から国境までの前半は沢沿いで、後半は梯子道もある急斜面の登行と言うことのようである。

 並河誠所は大和志で龍辻越を牟婁郡界から栃本と小瀬への2ルートの間道と書く。元禄大和国絵図では「此処峯通国境 栃本村之内出口ヨリ紀伊国尾鷲南村迄四里弐町 是ヨリはち谷川迄之間国境不相知」と書かれる。はち谷(ハチヤ)川は柳の谷の左岸の支流で現在の県境が走っている谷筋である。天保紀伊国絵図では「此処峯通国境 尾鷲南浦より大和国栃本村の内出口まで四里弐町」とある。 

 天保5(1834)年の仁井田長群は登大台山記に出口から龍辻に登ったことを記している。出口から龍辻への行程には「俊坂桟道或は度索して通ず」と説明があるだけで情報に乏しいが、委細谷の中を登ったと思われる書き方である。松浦武四郎は明治19(1886)年の丙戌前記で出口から木津へ向かう際、伊佐井谷の谷中を歩いたことが明らかな「伊佐井谷廿五丁と云を此方彼方に越」や、「処々に流有ども時(ニ)岩間に入て断続す廿丁。女川木瀧十八丁。」といった書き方をしている。委細谷に伏流が見られることは大阪わらじの会の報告にもある。

 龍辻越は栃本村から尾鷲を結ぶ一連の峠道の名であり、中間の出口から龍辻の間は委細谷の中を通っていたが、出口から出口峠・又口を経由して尾鷲に向かうルートが拓かれて、峻険であった委細谷の中を通る出口-龍辻と稜線上の龍辻-はかの峠は陸地測量部の地形図作りを迎える前に「越」の役割を終えたが、東側の又口辻-地蔵峠は、オチウチ越の木組峠(細又龍辻)-はかの峠が、松浦武四郎などが辿った木組峠から紀州側へ下り、不動谷を渡って、はかの峠へ登り返す古いルートから、土井與八郎の尾鷲道寄進により木組峠から台高主稜上を更に南行し新木組峠・又口辻を経由する現在の尾鷲道に切り替わることで又口辻で連絡し、新しいオチウチ越と重なって生き残ったと言えそうである。尤も、里程大和国著聞記には「是ハ杣道」とあり、慣れない人が簡単に歩けるような道ではなかった。

 奈良県吉野郡史料下巻によると、明治44(1911)年から大正2(1913)年に掛けて小橡-出口-龍ノ谷間の道が改修されたという。陸地測量部の初版の地形図の発行は改修初年度と同じ明治44年である。地形図には更新の頻度の少ない中で数年の内に完成予定の新ルートで描かれたと言う事で、龍辻は地元の山岳関係者の伝承に残る通り、龍辻越の最高地点であった又口辻西南西約600mの標高1260m強のコブ(龍辻山/天竺納戸)一帯のことだろう。西側の栃本-出口には現行の地形図にも歩道の点線が描かれているが、栃本(小橡)から風折川左岸の尾根伝いに描かれる点線は明治44年の改修で風折川の谷道から変更されたものと思われる。西側の山越えの最高点である荒谷峠には林道も通じているが、地形図(2016年現在)の荒谷峠の位置も明治44年以降の改修で新しく移ってきた位置であり、荒谷峠とはカザオリ峠の別名であったのだろう。松浦武四郎は丙戌前記にこの峠のことを「日向休場」と記して荒谷を下っている。荒谷沿いにあったとされる千尋滝などの名勝が気に掛かる。

龍辻越広域図1龍辻越広域図2
おちうち越と龍辻越の地図
東ノ川以西は粗い推定


委細谷

 伊佐井谷/伊才谷とも書かれた。

 「いし(石)・さへ(障)」谷で伏流箇所の目立つ石がとどまってつっかえた谷か、「いし(石)・あえ(落)」谷で「石の流れ出る」谷の意であったと考える。松浦武四郎や大阪わらじの会の記録に伏流が多い旨が書かれている。


谷の休場

 松浦武四郎の丙戌前記稿本によると、出口村から伊左井谷(委細谷)に入って十二丁の辺りのようである。地形図上では坂本貯水池の湖面から上がった辺りということになる。吉野郡などの方言で「水のある谷」を「たに」と呼ぶという。大阪わらじの会の1966年の記録によると、委細谷に入って700mほどが湖面となっていて、湖面の切れた処で左岸に支流があり、出合の小高い場所に林業小屋があったという。今の地形図での湖面は委細谷に入って1000mほどだが、湖面は当時より土砂の堆積が進んで後退し、500m程度になっている。林業小屋のあった「支流」が「たに」であり、林業小屋が「谷の休場」に建てられていたのではないかと考えてみた。松浦武四郎の感覚が多少長く、大阪わらじの会の感覚が多少短かったのではないかと考えた。坂本貯水池の委細谷南岸には今も小径がある。林業小屋は跡になっているだろうが、まだ跡の確認はできるだろう。

 丙戌前記の刊本では「谷の休場」は登場せず、伊佐井谷(委細谷)から廿五丁と廿丁と里程があって次の女川木滝とされる。稿本での谷の休場と女川木滝の間は十二丁である。稿本でそれぞれ十二丁と書いたが、刊本にするまでに「もう少し長かったかもしれない」と思い直したものと思われる。それにしても12から25とは倍増以上である。大阪わらじの会の記録によると、林業小屋の左岸支流の次のまともな水のある支流は540m二股の左股のようで、出口からの距離は2km弱(約18丁)である。540m二股から以下の女川木滝までは640mほどだが、540m二股の100mほど下手から上は委細谷の勾配が大きく増す。老体の松浦武四郎に勾配は堪えたようで、松浦武四郎の三回の大台紀行の他の所でも、登り勾配のきつい区間の里程は実際より長くなっているようである。540m二股の所を、水のある谷と合わさる「谷の休場」と考えておく。

委細谷広域地図1委細谷広域地図2

女川木滝・女川木滝の休場

 松浦武四郎の丙戌前記に現れる委細谷の中の滝の名である。「めかわきだき」と読む。「此処大崩れ岩、水無し。左りの方に掌を立るが如き岩壁に細き滝有て、是を女川木滝と云なり。」とある。

 「めかわき」と言う音は「み(廻)・かは(側)・おき(澳)」と考える。衛星写真の姿から実際に見るまで「まが(り)(曲)・はげ(剥)」かと考えていたが、現地で見ると880m二股から委細谷右岸は大岩累々の上に絶壁となり、40mで絶壁が左に回り込んだ奥に女川木滝があった。曲がった絶壁ではあるのだが、木々が剥げ落ちた絶壁ではなく、垂直に立った岩壁であった。

谷筋に下りついて上を見る
委細谷の谷筋に
下りついて
谷の上側を見る
女川木滝
推定女川木滝
写りが悪いが
水流は見える

委細谷源頭域・推定女川木滝の地図
(左股の沢筋は衛星写真から起こす)

 路盤が谷筋に下りついた所が龍辻越の最終水場となるので女川木滝の休場なのかと思ったのだが、880m二股の左股の滝の下に整地された四畳半ほどの平場があり、陶器製の古い酒瓶らしき破片が落ちていた。丙戌前記では女川木滝の休場が出て「此処大崩岩、水なし」で、続けて女川木滝が出てくる。880m二股左股の滝壺なら水が無いわけではないのだが、委細谷の本谷には水が無いということで、880m二股の四畳半ほどの平場の所が女川木滝の休場だったのかもしれない。大崩岩は880m二股の辺りからその通りで、巨岩累々たる一帯である。880m二股より下は路盤がはっきりせず下っていないのだが、見下ろす限りでは880m二股より上ほど大岩は無いようであった。


龍辻/竜峠・天竺納戸

 龍辻は龍の谷(柳ノ谷)の名に基づく龍辻越の最高点附近の名である。1260m強の龍辻山の南約100〜140mの委細谷を上がってきて現在の県境に達した所である。松浦武四郎は明治19年の丙戌前記で「竜峠」ともしている。龍の谷/柳の谷は表記上の違いである。登大台山記に「(ここ)を紀州東西の界とす」とあり、丙戌前記に「此処国界なれども標注もなし」とあるので、委細谷の左岸尾根(出口峠のある尾根)が標高1210mの主曲線で台高山脈の主稜線に合流する地点付近である。

 この地方では、そこ(何々)へ下りる道の分岐点として「何々辻」と名づけられることが多い。龍辻から今の県境の尾根を南下して北山索道の稜線越えの支柱跡まで、掘り込まれた路盤を中核とした近世道の跡を確認している。この近世道は索道跡上手で尾鷲道と直角に交差しており、下側で掘り込まれた路盤ははっきりしなくなるが、谷筋を北山索道古和谷駅跡方面に下りていたように見える。柳ノ谷沿いには駒ノ滝銚子口の上まで石垣の道が有り、更に上に石垣道が続いていることを確認している。大規模な石垣の道は明治大正頃の建造と思われるが、以前から道は有り、龍辻から柳ノ谷出合/又口へ下りることも出来、そのことを龍辻越の「龍(柳)」へ下りる分岐点として「龍辻」と言っていたものと思われる。大阪わらじの会の「台高山脈の谷」によると、柳ノ谷の駒ノ滝より上に難場は無いようなのだが、駒ノ滝より上の源頭はどこも瓶底から上がるような急斜面の植林地で、駒ノ滝銚子口より上の石垣道がどこまで続いているのかは確認していない。掘り込み道と石垣道は築かれた時期が違うので一繋がりにはならないかもしれないが、探すなら1915(大正4)年の土井家寄進の尾鷲道以前の北山索道稜線越え支柱跡以南を探したい。

 紀伊続風土記は、龍辻とは「両辻」で尾鷲と相賀の両方から向かう峠(辻)だからこの名前であるように説明しているが、「柳(龍)の谷」と言う地名が近傍にありその水源の位置にある以上、この「両辻」説は怪しい。

 柳田国男は「分類山村語彙」で「リウ」について、ユウの音訛ではないかとしている。ユウについては「岩窟」としている。日本国語大辞典では方言としてユウの「岩・洞穴」の意味が載せられている。都丸十九一の「地名研究入門」ではリュウのつく地名について帰納的に検討され、リュウはユウとほぼ同じで「大きな岩穴」又は「奥深い洞穴」を指す地形用語であると結論されている。日本語で本来 r の音は語頭に立たず、r の音と y の音には相通がある。リウ/リュウ/ユウは、編み目や編み目と編み目の間を指すフ(節)で凹みのような起伏を指したと考えて、奥まで入り込んでいる凹みであることを言う「いり(入)・ふ(節) irifu」の訛ったものか、「ゑり(彫) weri」で「うぇり(彫)・ふ(節) werifu」か、「くり(刳)・ふ(節)」の語頭の「うぇ」や「く」が落ちて訛ったものかと考えてみる。

 柳ノ谷の、出合から約2.2kmほど遡った標高400m付近に深く抉れた滝壺を持つ立派な滝がある。この滝壷を指して「りゅう」のある谷ということで、柳ノ谷を「りゅうのたに」と呼び、その水源の龍辻・龍の高塚などであったと考えてみた。

 だが、2.2kmも遡るのは名前を付けるには多少奥に過ぎるのではないかという気もする。又口川本流の柳ノ谷落ち口のすぐ上流は短いながら函になっている。クチスボ貯水池の下は分からないが、木津から又口川を遡って道路を歩いて見て最初の函らしい函である。「りゅう」は2.2km先の滝壷ではなく又口川本流の函を指しており、又口地区の辺りを「りゅう」と呼んでいたことがあり、「りゅう」にある谷と言うことの「りゅうのたに」と考える。又口川の函が「りゅう」だとすれば、ここの「りゅう」は「入り節」ではなく洞穴でもないので「彫り・ふ(節)」か「刳り・ふ(節)」か。或いは「彫り・いは(岩)」か「刳り・いは(岩)」か。或いは又口川本流のこの函場のすぐ横の支谷ということで、柳ノ谷下流域そのものが「りゅう」の「彫り・は(端)」か「彫り・へ(辺)」か、「刳り・は(端)」か「刳り・へ(辺)」の語頭の音節が落ちて訛ったのが「りゅう」かとも考えてみる。


柳ノ谷出合上手の
又口川本流の函

出合から見た
柳ノ谷は河原

出合より下手の
又口川も河原

又口橋より上手の
又口川はまた河原

 登大台山記は龍辻で「龍辻の右を天竺納戸といふ深山なるをいふなり」としている。自動的に自分の向きの決まる川の右股や左股なら兎も角、自由に向きを変えられる龍辻に居ながら自分の居る龍辻を中心とした「左右」で天竺納戸という場所を指せると仁井田長群が思っていたとは考えにくい。「右」は「右に出るもの無し」などと言う時の「右」で、龍辻の道の「上の方」と言うことで、龍辻山のことと考える。松浦武四郎も竜辻で「上なる山は中ノ嶺と云なるべし」としており、稜線上の最高点(龍辻山)を通っていない南東斜面をトラバースする道の跡が残っているのは2016年5月に確認した。出口から古津(木津)への行程なので、中ほどの龍辻で木津に向かって右側となる南方に天竺納戸があるかと考えてみるも、「紀州東西の界」たる主稜線上の龍辻の南方には同じ程の高さの山並みが300mほど続くのであまり展望が無く、その向こうは顕著なピークやルートなどのランドマークも無く又口川に向かっている。龍ノ高塚は、出口から登って龍辻に出たら、ほぼ「後ろ」と意識されるだろう。天竺納戸に続けて「又雷峠といふあり」なのは、標高が高く上手と意識される大台山の方角である。

 「天竺納戸」の「天竺」は兵庫県氷上郡の方言での「てんずく」、和歌山県日高郡の方言での「てんそこ」などと同じで「山頂」を指すと考える。「てん」も「ずく」も山頂などを指すが、語源は「りう」「ゆう」同様に分かっていないようである。「納戸」は「なる(断定の助動詞「なり」)(ど)」で「〜であるところ」のような気がしたが、それなら単に「てんじく」とだけ言えば済むような気がする。山頂の辺りの傾斜の緩い処である、「平処(なるど/ならど)」か。龍辻山山頂は北の三角点西原のピークなどと比べると比較的広く、平らである。「深山なるをいふ」とは「深山であることを言う」のではなく、「奥(上)の方が、なるい(ゆるやかだ)ことを言う」と言うことではなかったか。

龍辻付近の地図釈仙水附近の地図

中小屋/中小屋休場

 松浦武四郎の丙戌前記稿本によると、はかの峠と龍辻の中間附近にあったようである。現在の古和谷栃山分岐の150m程北東の少し尾根が広くなっている辺りに小屋があったか。


地蔵峠

 栃山林道造成時に新しくできた峠で、附近で地蔵が発見されたが故に地蔵峠と名づけられたという。発見されたのは明治九年の年記のある、はかの峠の「道しるべ地蔵尊」のことだろう。



はかの峠
道しるべ地蔵尊

栃山林道から見上げた
釈仙水の谷筋

はかの峠/辻/辻休場/追分

 松浦武四郎の明治19年の丙戌前記稿本にあるはかの峠/辻休場/追分、丁亥前記稿本にある辻/墓の峠は、現在地蔵峠と呼ばれている峠の東方約230mの、栃山林道が乗り越している地点の僅かに東側に入った明治9年の年記と「右きくみ 左出口」との道しるべのある「道しるべ地蔵尊」のある場所と思われる。木組・マブシ峠からのオチウチ越と、出口・竜辻からの龍辻越の合流点である。「辻」は道の分岐点としての意味と思われる。

 はかの峠の名の由来は文字通り「墓の峠」であろうか。地蔵尊が祀られるのは行き倒れなど死者のあった場合が考えられる。はかの峠でも行き倒れがあり、墓が設けられたことがあったか。丁亥前記稿本にある「道分石」は、この地蔵尊のことかと思われる。

 おちうち越の、台高主稜線の木組峠の辺りから一旦不動谷に下りて、登り返した処の峠である事を言った、はかの峠とは「凹(へこ/ぼこ)の峠」の転訛と考える。不動谷に沿っている部分が「凹」と考える。「へこ」も「ぼこ」も「へこみ」と同じ意味で大きな国語辞典に載っている。


釈仙水

 栃山尾根の唯一の水場である。水量は少ない。栃山林道から釈仙水の沢筋を見ても一筋の大きな細長い岩場があるだけで水は流れていない。水があるのは龍辻越の道の通っていた、林道より少し高度を上げた地点のみである。

 岩盤がずっと露出している谷筋の水場であることから、「ジャ(土砂)・コソゲ(刮)・水」の転・約かと考えてみる。「こそぐ」は古くは「きさぐ」で、南島方言では「くさぐ」と言う音がある。コソゲの代わりにキサゲ/クサゲもあり得る。g は ng と位置の近似から相通がある。或いは土砂が砕け崩れ落ちた所の「ジャ(土砂)・クサレ(腐)・水」の転・約か。r にも n と位置の近似から相通がある。「シャクセンスイ」と読みたくなるが、シャクセンのンが鼻音逆行同化の訛音であったと考えると「シャクセンミズ」かもしれない。


ぬの休場・橡山付近の地図
ぬの休場と
橡山から矢所の地図

ぬの休場

 現在の橡山山頂の西方約620mの橡山尾根上の苔むした杉の大木のある広い平坦地のことかと思われる。苔むした杉の存在から水気が多い「沼(ぬ)の休場」だったのではないかと考えてみる。2013年4月に尾根通しに歩いたが、一帯は植林されていて沼はなかった。


木津峠/南峠

 現在の橡山最高点付近のことと思われる。橡山山頂はユリ道で巻かれている。木津峠は木津(こつ)の峠という意味だろうが、南峠はどこの南にあたる意なのかよく分からない。南峠は「みなみとうげ」で、「みなみ」は「ミネ(嶺)・ミ(廻)」の転で、栃山尾根が上手の東西の走向から、下手の北西-南東の走向へ屈曲する地点の峠であるということを言ったものかと考えてみる。竜辻越の古道も峰通りになっていて、橡山山頂附近で向きを尾根に揃えて変える。北畠親房加判木本分領際目証文での「大なけ山」も、この辺りのことかと思われる。


矢所・渡瀬

矢所渡瀬付近の地図 北畠親房加判木本分領際目証文に登場する地名であることから、矢所橋の東約400mほどの、尾鷲市と紀北町の境が又口川を渡っている辺りが「渡瀬」と思われる。広い川原が広がっている。現在はすぐ上のクチスボダムで取水されているので殆ど水が無いが、元々も浅瀬で渡りやすい地点であったと思われる。「渡瀬」の読みは「ワタリゼ」か

 矢所は「八処」とも書かれた。矢所(やどころ)は又口川の河谷が下流から見て南から西にはっきりと向きを変える所である。その河谷の曲がる所で坂下トンネルからの川(尾鷲市史下巻によるとこの川の中ほどが「祖父木屋(じやごや)」と言うらしいので当頁では祖父木屋川(仮)としておく。)が又口川に合流している。祖父木屋川(仮)の落ち口には国道の山手から200mほどの緩斜面の山の鼻が又口川との間に延びている。この祖父木屋川(仮)と又口川を仕切る緩い山の鼻が、水田の畦(あぜ)の別名と同じ小高くなった「畔(くろ)」であり、尾鷲方から祖父小屋川(仮)筋を下りてきて又口川を渡渉するのに下りやすい所で、「ワダ(曲)・クロ(畔)」が矢所の語源と考える。ワダは湾曲した地形を指す。日本語ではw と y 、o と u 、a と o の相通は知られている。ワダクロの訛ったものがヤドコロと考える。

 矢所がワダクロと考えると、渡瀬が渡渉点ということの名というのは怪しい気がしてくる。渡瀬が「ワタリゼ」と発音するなら、ワダクロとほぼ同義の「ワダ(曲)・アゼ(畦)」か「ワダ(曲)・ノ(の)・アゼ(畦)」の訛ったり約まったりしたのがワタリゼでワダクロと同じ場所を指し、ワダクロから矢所に変わった地名を使っていたのとは別の集団が使っており、ほぼ同じ場所を指す広さの異なる二つの地名になったのではないかと考えてみる。木本領分境目証文の「矢所ハ渡瀬」より、矢所の方が渡瀬より広いエリアを指すと考える。

参考文献
磯永和貴,江戸幕府撰大和国絵図の現存状況と管見した図の性格について,pp1-14,16,奈良県立民俗博物館研究紀要,奈良県立民俗博物館,1999.
玉井定時,奈良市教育委員会文化財課,里程大和国著聞記(玉井家文書庁中漫録20),奈良県立図書情報館.
並河誠所,大和志,大和名所和歌集・大和志・日本惣国風土記:大和国,奈良県史料刊行会,豊住書店,1978.
笹谷良造,天保五年の大台登山記,pp106-118(106-118),30(1),山岳,日本山岳会,1935.
笹谷良造,天保五年の大台登山記,pp397-407(29-39),2(9),大和志,大和国史会,1935.
寺西貞弘,仁井田長群撰『登大台山記』について,pp1-4,31,和歌山市史研究,和歌山市役所,2003.
布居義弘,史料翻刻 仁井田長群撰『登大台山記』,pp5-11,31,和歌山市史研究,和歌山市役所,2003.
松浦武四郎,吉田武三,松浦武四郎紀行集(中),冨山房,1975.
松浦武四郎,松浦孫太,佐藤貞夫,松浦武四郎大台紀行集,松浦武四郎記念館,2003.
大阪わらじの会,台高山脈の谷(上),大阪わらじの会,1976.
奈良県吉野郡役所,奈良県吉野郡史料 下巻,名著出版,1971.
田村義彦,再びの山 尾鷲道,pp40-43,56,自然保護ニュース,大台ヶ原・大峰の自然を守る会,2004.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第8巻 せりか-ちゆうは,小学館,2001.
気象庁,気象庁 | 過去の梅雨入りと梅雨明け(近畿)<<気象庁 Japan Meteorological Agency,気象庁(2017年11月4日閲覧).
仁井田好古,和歌山県神職取締所,紀伊続風土記 第3輯 牟婁 物産 古文書 神社考定,帝国地方行政学会出版部,1910.
柳田国男・倉田一郎,分類山村語彙,国書刊行会,1975.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第13巻 もんこ-ん,小学館,2002.
都丸十九一,地名研究入門(日本地名研究所編「地名と風土」叢書1),三一書房,1995.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
橋本進吉,国語音韻の変遷,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫33-151-1),橋本進吉,岩波書店,1980.
金田一京助,増補 国語音韻論,刀江書院,1935.
惠良宏,志摩国木本御厨関係史料 ―荘司家文書の紹介を中心に―(下),pp6-14,131,史料,皇學館大学史料編纂所,1994.
魚飛渓特集<<紀北の旅(2016年2月7日閲覧).
濱口禎也,「魚飛」 ―地名の由来―,3,封【コウ】,海山郷土史研究会,1981.
三重県尾鷲市役所,尾鷲市史 下巻,三重県尾鷲市役所,1971.



トップページへ

 資料室へ 

尾鷲道メインへ
(2016年2月7日上梓 2017年7月25日改訂 11月4日改訂 2020年5月1日改訂 6月12日改訂 2020年12月6日URL変更 2021年10月10日改訂 10月24日改訂)