大台ヶ原 尾鷲道の地名まとめ その1(オチウチ越序論)

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群山記の本文 まふし峠 中の峠 竜の辻 竜の高塚
大臺山全図  まぶし峠 中ノ峠 龍辻 龍ノ高塚
乙酉掌記本文 まぶし岳 中岳 -
乙酉紀行本文 まぶし岳 中岳 竜辻
乙酉掌記地図 マブシ嶺 中ノ岳
丙戌前記本文 マブシ嶺 中の嶺 竜辻
き坊氏の地名対照表(一部抜粋)

 き坊氏の南大台(紀和国界)の畔田翠山の和州吉野郡群山記と松浦武四郎の紀行文の地名を対照した表を起点に考えてみる。

 天保5(1835)年に紀伊続風土記編纂の為の調査登山を行った仁井田長群による登大台山記は笹谷良造(1935)によって和歌山県立図書館蔵の写本が翻刻されている。平成になって別本も翻刻されている。登大台山記では尾鷲道上と思われる地名が登場し、仁井田長群は大台ヶ原より南の台高主稜を龍辻で横断しているが縦走はしていないようだ。また、登大台山記によると仁井田長群が大台ヶ原に登った際、出口で地元の山に詳しい者を集めて図を作ったと言う。この図は残っていないのだろうか。笹谷良造(1935)は「和歌山図書館に『臺嶽全圖』と題された見取図様のものがあって・・(中略)・・或いはこれではないかと思われるが、確証は何もない」と書いている。和歌山図書館とは、この時に翻刻された登大台山記の写本を蔵し当時和歌山市内で唯一の図書館であった現在の和歌山県立図書館のことかと思われるが、和歌山県立図書館の当時からの蔵書目録や和歌山県立文書館の蔵書目録を探してもこの図の存在を確認できていない。こうした絵図は博物館や美術館に移管されることもあるという。

 国立公文書館蔵の同館ホームページで公開されている元禄大和国国絵図天保紀伊国国絵図を見るとマブシ峠・オチウチ越・細又龍辻は尾根伝いで連絡しているように書かれているが国絵図と言う性格上小縮尺であり、その位置や関係は判然としない。元禄国絵図作成に際して作られた「大和国々境諸峠道図」なるものがあると言う。天理図書館にあると言うこれを見てみたい。

 正保国絵図作成に際して、正保3(1646)年から三年を掛けて大和国内を歩いた郡山藩士服部九郎兵衛・高取藩士岡田太郎左衛門らによる正保大和国絵図に付された道帳(みちのちょう)の写しが「里程大和国著聞記」として奈良奉行所与力玉井定時によって残されている。里程大和国著聞記は奈良県立図書情報館で影印を閲覧できる。里程大和国著聞記の小瀬(小橡)から尾鷲に抜けるルートであるヲチウチ越の「大谷口ヨリ国境迄」を引用する。

 険路とみなされていたことが分かる。「ソハ道」とは「岨道」である。「そは」は山の側面の険しい所の意であるが岨道は一般的に険路を指す。トラバースも含まれていたと言うことだろうか。「大谷口ヨリ五町河原道」の河原とは東ノ川の大谷より下流側の河原であることが元禄大和国絵図・天保大和国絵図から分かる。

 引用した大谷口〜国境の里程を合算する1里5町となるが、端作りでは「一里」となっている。この5町を加えて大和郡山から国境までのヲチウチ越の里程を通算すると24里13町30間となり、ヲチウチ越末尾に書かれた合算里程24里8町30間と、5町食い違う。大和郡山から小瀬までの里程は他の道、オチウチ越の本道筋に当たるフドノトウ越や、やはり小瀬から書かれる龍辻越に書かれた数値と一致している(龍辻越の小瀬〜栃本はフドノトウ越と重複)。大谷口からマブシ峠登り口までの5町の河原道はマブシ峠上り坂の里程に含まれると考えるべきなのか、里程が合わないので敢えて末端部の五町を端作りに書かないことにしたのか。

 読点の無い里程大和国著聞記の奥書の「道法方角絵図等出来」の一節から、里程大和国著聞記の元になった「道法方角絵図」なるものの存在が想定されたこともあったが、この一節は「道法、方角、絵図等出来」と解釈すべきであって、里程大和国著聞記の元は正保国絵図付帯の道帳だという。

 紀州側では木本(相賀)荘司の領分を認める南北朝時代(延元3(1338)年)の古文書「北畠親房加判木本分領際目証文」がある。この文書は江戸時代の藩撰地誌である紀伊続風土記にも古文書として収録されている。送り仮名や助詞、濁点などに異同があるが、惠良宏(1994)から本文のみを引用する。

 尾鷲道に関わるのは西を限る「龍辻」「ほそ又」「中峠」と、北の東大台の正木ヶ原かと思われる「正木かたいら」である。「大なけ山」は現在の橡山のことか。「根限」は「嶺限り」、「ねかたつら」は「嶺片面」である。これらの地名について中田四朗(1976)が紀伊続風土記編纂に関わった本居内遠の江戸時代の検討を踏まえて現行の地名と比定し、図にしているが小縮尺でありこれらの精密な地点は分からない。

 また、元禄13(1700)年の元禄国絵図作成時の大和側との国境の申し合わせが、寛文13(1673)年と元禄15(1702)年の領分争いの後の合意書と共に尾鷲組大庄屋だった仲源十郎・彦助父子のまとめた見聞闕疑集に「元禄十三辰年紀州和州山境絵図被仰付」と収められている。その中で国境付近の地名が幾つか説明を伴って登場する。天理図書館にあるという「大和国々境諸峠道図」は、こうした合意書を集めて作られたと思われる。二度の領分争いに関しては現在の非自然的な県境に連なると思われる地名が記されて興味深いが、龍辻より南方で尾鷲道から離れるので、ここでは触れない。見聞闕疑集の元禄国絵図作成の申し合わせにあげられた七ヶ所の内、二ヶ所の越道と一ヶ所の山境を引用する。残りの四ヶ所は龍辻より南方である。付された二幅の小絵図の模写を合わせて掲げる。

小絵図模写1 小絵図模写2
見聞闕疑集の小絵図模写(合略仮名は平仮名に改めた)

 小絵図はごく簡略なもので、龍辻で紀伊側へは粉本村(相賀)と尾鷲村に分岐していること、龍辻から大和側へは出口へ下りること、南から龍辻、細又龍辻、まふし峠の順に並んでいること、まふし峠から大和側へは大谷口へ下りる事以上の情報は掴みにくい。この絵図の中で、龍辻が○印で示されるのに対し、まふし峠が半円で示されている点には注目すべきである。また、細又龍辻には円や半円が描かれていない。龍辻の円と、まふし峠の半円にそれぞれ「是より国境伝ひ道八丁」と振られている。おちうち越の条と合わせて考えると、まふし峠から細又龍辻、龍辻から細又龍辻までの行程がそれぞれ8丁ということになりそうだが、七ヶ条の後に「右越道の内一ヶ所は国境伝ひ道有之」とあるので、龍辻に振られた「是より国境伝ひ道八丁」も、まふし峠〜細又龍辻を指しているようである。まふし峠〜細又龍辻の8丁は里程大和国著聞記のマブシ峠〜国境の13町30間や、松浦武四郎の丁亥前記に記された木組から登って台高主稜上を「峯まゝ行」く距離である12丁よりかなり短い。大和側との合意書の写しなので大和側にも同様の古文書が残されているのではないかと期待してしまうが、大和側上北山村の学術調査記録である上北山文化叢書の「上北山村の歴史」の巻は「いずれの時代かに国境紛争が起き」と、述べるにとどまっている。いずれの時代かに失われたのかもしれない。二ノ又山は二ノ俣谷源頭の現在の地形図にある堂倉山のことで、大和側では「東の川山」と呼ばれていたことが分かる。音が同じであれば表記の違いにはそれほど意味はない。

 松浦武四郎は明治19(1886)年に出口から龍辻を越えて木津へ下りた記録を丙戌前記に残している。また、翌年には木組から木津へ抜けて丁亥前記を残している。明治前期の貴重な実踏の記録である。丙戌前記・丁亥前記は刊本が知られていたが、東京の松浦家に残されていた稿本の解読が孫の孫太氏によって進められており、明治18(1887)年の大台登山の記録である乙酉掌記の稿本である乙酉紀行と共に平成15(2003)年に松浦武四郎記念館から松浦武四郎大台紀行集として出版された。松浦武四郎の書き物には事前に資料を集め、案内の人たちに尋ねてメモを残し、旅が終わって第一稿を書き上げてから何稿かの手直しを行い、最終稿を日誌的な紀行として出版する一定の様式があり、その過程の中で事実についても資料についても取捨選択・整序が行われ、多少の文飾が加えられるという。松浦武四郎大台紀行集は稿本段階のものであり、最終稿であった刊本をまとめた昭和50(1975)年の吉田武三による松浦武四郎紀行集(冨山房)よりストレートな情報が得られると考えられる。松浦武四郎の記録は自身が実踏時に地元の人に聞き取って調べた部分と、事前調査による資料に基づく部分が渾然としていることに注意を要する。

 便宜上、地形図上の堂倉山と木組峠のほぼ中間に位置する1450m強のコブを「マブシ岳(仮)」と呼ぶ。まぶし岳の名は松浦武四郎の明治18(1885)年の大台ヶ原の紀行文である乙酉掌記に見られるが、先行する文献での「まぶし岳」にかわる「マブシ峠」言う記録と、乙酉掌記本文でマブシ峠に相当する地名が登場しないことを考えると、まぶし岳は松浦武四郎の新造と思われる。また、松浦武四郎がどのピークを以って「まぶし岳」としたかについては乙酉掌記の絵図はデフォルメされており判然としない。絵図の中では「マブシ嶺」であり、これは江戸時代の通例で「まぶしとうげ」と読むと考えられる。当頁のマブシ岳(仮)の位置と名はマブシ峠に近接する最高点であることによる。松浦武四郎の「まぶし岳」は平仮名だが、文中で固有名詞と分かりやすいように表記をカタカナに改めて用いる。享保3(1718)年の粉本村諸色大控帳に「光る山」があるという。山崎瀧之助による南北牟婁郡図(1889)では「光ル山」が光谷の源頭に付される。江戸時代や明治前期の感覚では山頂ではなく山地としての地名ではなかったかと思うが、現代の山岳観に合わせて捉え直すとこのマブシ岳(仮)のピークが「光る山」にあたるのではないかと言う気がする。三重国体登山競技での地図では「光山」は三角点「雷峠1(約1411m)」に振られたというが、現代の感覚なら最高点と三角点とでは、山頂に相応しいのは最高点とされるのではなかろうか。マブシ岳(仮)の位置を畔田翠山の書く「地くら山」に基づくかと思われる地倉山とされることもあったが、それは地池山の誤りではないかとする、き坊氏を支持したい。畔田翠山は「三津河落の東に、堂倉山あり。これ、勢州大杉村の奥なり。その南に、地くら山有り。皆大杉より見ゆ。」と記すが、マブシ岳(仮)は堂倉山の南方だが加茂助谷の頭や地池高の山並みに遮られて大杉からは見えない。畔田翠山の「堂倉山」が現在の堂倉山ではなく堂ー(戸倉)を指していたことも考えられる。堂倉山も堂ーもその位置は三津河落山の真東ではないが堂ーの方が東に近い。「堂倉山の南」とは、「堂ーの(広く)南の方」と捉えるべきで地くら山/地池山は地池谷源頭の現在の地池高(1398.5m)付近であり、少なくともマブシ岳(仮)の位置ではない。現状では最高点には地形図にも登山地図にも山名は付されず、登山地図の三角点「雷峠1」に付された誤称としか言い様の無い「コブシ嶺」/「コブシ峰」の名が広がる。光山の名は日地出版の登山地図や三重国体登山競技地図の三角点「雷峠1」の位置の前例が近い過去に認められるので、便宜的にマブシ岳を(仮)として最高点に用いることにした。

細目
その2
  • おちうち越(落牛越)
  • マブシ峠
  • 雷峠
その3
  • 一本木(未勘)
  • 中ノ峠
  • 細又・細又龍辻
  • 新木組峠
  • 光山(未勘)
その4
  • 木組
  • 水無峠
  • から谷・くり峠・滝の戸

元禄大和国国絵図より

松浦武四郎「乙酉掌記」より

参考文献
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(2011年4月24日上梓 2012年1月22日分割 5月7日改訂)