東遊奇勝と日本名山図会の半田山

 寛政11(1799)年の東遊奇勝の本文でヱリモ(襟裳)の「インサルシ山形半田の沼山の形に似て甚高く」とある「半田の沼山」は「伴田銀山 又名於志山」の題で奥州街道の行程中に挿絵がある。インサルシ山も挿絵がある。

 東遊奇勝に収める伴田銀山の挿絵は同行の若い画家の谷元旦の手による行きしのもので、谷元旦は文化9(1809)年の日本名山図会で知られる谷文晁の弟である。帰路の半田山のスケッチはないようである。日本名山図会と先行する文化元(1804)年の名山図譜に収める玳瑁陟(たいまいのぼり/樽前山)など蝦夷地分の山の原画は寛政11年の渋江長伯同行の谷元旦の手に依ると言われており、この絵も名山図譜/日本名山図会の半田山之図の原画になったかと思ったのだが、日本名山図会の半田山之図を改めて見て、東遊奇勝の伴田銀山図と見比べてみると描き方の違いを差し引いても構図が違う。



東遊奇勝 伴田銀山 模写

日本名山図会 半田山之図 模写
但し、図中央の家並みと手前の山の樹木は省く
カシバード描画地地図

・名山図譜/日本名山図会の半田山之図

 安田初雄(1996)は半田山之図の半田山大滑落崖の直下に凹没地の内部を示すことから阿武隈川の東方からの遠景として天明8(1788)年の永慕編に収める伊達郡高子村一帯の高子二十境の図を描いた頃に高子辺りからの遠景を元に心眼で描いたものでないかとするが、鳩胸のスカイラインが現れるのは南東方から奥州街道よりもかなり半田山に近づかなければそう見えず、高子付近からは黒山の尾が凹没地手前に掛かって見え、構図が異なるように見える。また、谷文晁は高子二十景を高子に来ることなく先行する図版と漢詩のイメージと自らの技術で再構成して描いたようである。谷元旦の伴田銀山の挿絵も南東方から見たことを示唆する近景が描かれるが、それが奥州街道上の桑折宿から羽州街道追分の間と思われる構図である。

 名山図譜/日本名山図会は南部出身で江戸本石町で町医者をしていた川村寿庵の蔵する山の絵を谷文晁が享和2年に縮写したものが元になっており、幼い頃から30代に入るまでに訪れてないのは四五箇国とされ幼い頃から山水を好み四方を漫遊して名山大川に遇えば必ず図にして収めたとした、天明7(1787)年に奥州街道を通って松島真景図巻を制作した谷文晁が描いて贈り川村寿庵のものとなっていた原画も多かったようだが、半田山之図の原画が谷文晁によるとは言い切れないようである。名山図譜/日本名山図会での描き方に川村寿庵の指示が谷文晁にあったようである。

 日本名山図会の半田山之図は半田山東面の馬蹄形の急斜面が正面に見える高子付近から距離を詰めて、桑折町の中心街の北町の東縁で国道4号線を越えた辺りから桑折ふれあい公園北西縁と桑折町立醸芳中学校のグラウンドの南西縁にかけてからの半田山の眺望が半田山と黒山と輪王寺山の形において凡そ一致する。鳩胸のスカイラインは現れないが、このエリアの西寄りの国道4号線に近い部分では鳩胸の南東の標高約640mの尾根の段がスカイラインに突き出る。この鳩胸南東の尾根の段と、輪王寺山(輪王寺跡とされる塔場の上のコブではなく、麓から見えるその南東約370mのほぼ同じ高さのコブで輪王寺山とは別の山としての名があったかもしれないが分からないので仮称として輪王寺山南東峰としておく)と、半田山之図の図中で輪王寺山の左斜め上に鋭角なピークのように描かれる半田沼尻の南東約380mの尾根の鼻の位置関係が半田山之図と一致するが、半田山之図に描かれない桑折西山城正面の角張った急斜面が黒山最高点の下の眺望に入る。

 ふれあい公園や醸芳中グラウンド寄りでは桑折西山城正面の急斜面は黒山最高点の下から外れるが、鳩胸南東の尾根の段と輪王寺山と尾根の鼻の位置関係が半田山之図と合わず、鳩胸南東の尾根の段のスカイラインへの突き出しが小さく目立たなくなる。

 高子付近からの心眼では黒山の尾の掛かり方だけでなく5km以上離れた麓近くの低い山並みまで一致し得ない。上郡交差点より南は阿武隈川の段丘崖に向かって下り傾斜が加わり山裾の桐ヶ窪から輪王寺山が立ち上がる麓と近景の樹木畑が見通せない。上郡交差点〜醸芳中学校グラウンドより北だと近景の樹木畑の代わりに桑折宿の家並みが一部入ってしまう。鋭角な小ピークのように描かれる尾根の鼻は明治の地変でも辷らなかったようである。桑折西山城正面の描かれ方が一致しない点、明治の地変で崩れ去ったという半田山自然公園南駐車場の南東300m、尾根の鼻の西南西400m程の所にあったらしい「茗荷森(/茗荷山)」という小山が尾根の鼻より目立っていた可能性で検討の余地はまだあると思うが、尾根の鼻の図中の位置にシミュレーションが合う国道4号線の上郡交差点の東約70mの辺りより、桑折西山城が図幅に入らなくなり鳩胸南東の尾根の段がスカイライン上に飛び出たままのその更に東150mほどにかけてのどこかから、桑畑を近景にして描かれたスケッチを元に半田山之図は描かれたと考える。伝承の半田銀山の「上の山千軒」が実在して今の半田沼の南側の、明治の地変で崩れの大きかった字宮沢に広がっていれば、半田山南東面の馬蹄形の窪みの前面に半田山之図の通りに見えたはずである。

・東遊奇勝の伴田銀山

 東遊奇勝の図は右半に桑折宿はずれの追分が描かれているので追分の南で描かれたように当初は考えていたのだが、足を延ばした藤田駅付近から半田山を見て東遊奇勝の図に似ていると思った。中景の山並みが右半の追分に迫っているのと鳩胸の北面が見えているようなのは桑折宿からはそう見えず北隣の藤田宿辺りから描かれているように思われる。だが、藤田宿から半田山を見ると十分一村は半田山最高点とほぼ同じ方向となり、十分一村が東遊奇勝の図のように右に寄らない。鳩胸の北面が見え且つ銀山村が鳩胸より右に見える地点は桑折〜藤田の奥州街道上にありえない。

 銀山村と十分一村と、そのほぼ真上に描かれる遠いピークとして馬頭山の南西約350mの707mの標高点のある峰(以下、仮に「馬頭山南峰」としておく)が同一方向に描かれる得る奥州街道上の地点は佐久間川に架かる今の第二高津橋付近となる。しかし第二高津橋付近からは、遠い馬頭山南峰が低まり右手に中景となる山地が見えない。

 東遊奇勝の図は藤田宿の北方の大字山崎字館の、山崎城跡付近から描かれたと考える。或いは4mほどの土塁の高まりのあった山崎城跡そのものからか。図中右手の大字山崎字後山の山並みが小坂峠の山並みと揃って見えるのは山崎城跡付近である。銀山村と十分一村の位置は館から見た場合に合わないのだが、図上の相当する位置に国見町の大字内谷字西堂と大字小坂字北畠と大字小坂字川原の連続する集落と大字小坂字小坂の集落が該当する。描かれたのは下手が西堂と北畠と川原の集落、上手が小坂の集落で、主題が銀山ということで銀山に最も近い銀山村と十分一村ということにしたと考える。


館から西北西方カシバード
レンズ16mm 対地高度1m。
東遊奇勝の伴田銀山図と構図が全体として似るが、
銀山村と十分一村は図左方外となり合わない。
上空のピンは馬頭山南峰上空高度800mで、
その下のピンは小坂集落下端の岩代小坂簡易郵便局と字西堂。

国道4号線上郡交差点東70mより北西方カシバード
レンズ28mm 対地高度2m。
西山城正面以外は半田山之図にほぼ一致。
スカイラインのピンは左から鳩胸と鳩胸南東の尾根の段。
中ほどのピンは字宮沢の半田山自然公園多目的広場と
尾根の鼻。その下のピンは輪王寺山南東峰。

旧奥州街道第二高津橋より北北西方カシバード
レンズ16mm 対地高度3m。
近接する麓の二つのピンが下から銀山地区益子神社と字十分一。
上空のピンは馬頭山南峰上空高度800m。
馬頭山南峰と銀山地区を同一方向に見ても東遊奇勝の図と合わない。

醸芳中学校グラウンド南西端より北西方カシバード
レンズ28mm 対地高度2m。
ピンは麓が追分で他は上と同じ。
桑折西山城が現れないが、輪王寺山南東峰と
鳩胸南東の段と尾根の鼻の位置が半田山之図に合わない。
上四枚の画像はいずれも国土地理院数値地図10mメッシュ、桑折町・国見町分使用、高さ強調2倍

源宗山(藤田城址北側空堀跡西隅)から半田山
西堂・北畠・川原は新幹線高架の後ろ、右手前の後山は小坂峠より下となる

上郡交差点北東240mから半田山
交差点東70mは建物や嵩上げ駐車場で見通しが悪い

山崎城址北縁付近から小坂峠方面を見る
右手前の山崎後山の山と
小坂峠から馬頭山のスカイラインが揃う

高子岡城址丹露盤より半田山を見る
黒山の尾が凹没地を遮り
鳩胸付近のスカイラインへの突出はほぼない

旧奥州街道北半田から半田山

参考文献
渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 中 蝦夷編,山崎栄作,2003.
安田初雄,明治20〜30年台における半田山地変〔半田山の塊体移動 Mass movement)について,pp19-38,60,福島大学教育学部論集 社会科学部門,福島大学教育学部,1996.
渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 上 日光・奥州街道編,山崎栄作,2003.
谷文晁,日本名山図会,国書刊行会,1970.
渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 下 帰路編,山崎栄作,2003.
磯崎康彦,谷文晁論 2 ―谷文晁、高子二十境図を描く―,pp94-82,21,人間発達文化学類論集,福島大学人間発達文化学類,2015.
森銑三,谷文晁伝の研究,森銑三著作集 第3巻 人物篇3,中央公論社,1973.
森銑三,新橋の狸先生 私の近世畸人伝,二見書房,1942.
日本城郭大系3 山形・福島・宮城,新人物往来社,1981.



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