安瀬山・濃昼山道周辺アイヌ語地名考 その1
(太島内・チャララセナィ・ルエラン・チカプセトゥシナィ・滝ノ沢)
太島内・チャララセナィ・ルエラン・チカプセトゥシナィ・滝ノ沢
安瀬山登山の際に遡行した沢の名は「チカプセトゥシナィ」ではないかと思う。松浦武四郎の丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌(以下、丁巳日誌)巻14にあるチカフセトシナイ、永田地名解のチカプセト゜シュナイを現代風に表記しなおしたものである。意味は cikap-set us nay で「鳥(鷹)の・巣・付いている・川」。矢羽根に用いる鷹の尾羽根の供給先としての鷹の営巣地のある河川を示していると言う。この川の河口付近は草の生えた高く細い崖になっており鷹の営巣地としては適当と思えた(ドスコイ山?)。松浦武四郎も鷹の羽に触れている。
この沢をチカプセトウシナィとするのは、「データベースアイヌ語地名2 石狩T」(以下、DBアイヌ語地名)とは異なっている(チカプセトゥシナィの和訳は同著による)。チカプセトウシナイが安瀬集落北方の「北部落沢川?」とされているが、参考文献である「北海道河川一覧」などをあたってみた所、この辺り一帯に資料中の情報の取り違えがあるように思われた。厚田村史などを合わせて下に表にしてみた。
イ | ロ | ハ | ニ | ホ | ||
DBアイヌ語地名を 読んで受ける印象 |
アイヌ名 | ルエラニ | チャラセナィ | チカプセトゥシナィ | ||
現行名 | ルーラン川 | 滝の沢川 | 北部落沢川 | |||
厚田村史 | チャララセナイ /チャラチナイ |
大沢 (チカプセトゥシナイ) |
滝の沢 (馬鹿くさい沢) |
|||
自分で資料を見た結果 | アイヌ名 | チャラセナイ | チカプセトゥシナイ | ペセパケ 少しの沢 (チカプチャラツナイ) |
不明 | 不明 |
現行名 | ルーラン川 (空沢) |
大沢 | 滝の沢 | 北部落沢 | ヤソスケ川 | |
西蝦夷地アツタ場所略図 (江差町史) |
チャラツナ井 | チカフチャラツナ井 | 瀧ノ澤 | |||
松浦武四郎 巳手控 | チヤラセナイ | チカフセトシナイ |
チカプセトゥシナィ河口 右岸の崖山 (推定ドスコイ山) |
安瀬山付近の川 |
DBアイヌ語地名の本文ではこの辺りで最も大きな「ロ」の、「北海道河川一覧」にある「大沢川」の名が出てこないのがよく分からない。巻末の地図では「ロ」が「チャラセナイ 滝の沢川」となっている。「ロ」はアイヌ語のチャラセの「ザーッと流れ落ちている」ような姿でない。「ロ」は「北海道河川一覧」で「大沢川」だが、トンネルが「滝の沢トンネル」で滝の沢と大沢を合わせて抜けるので、最も大きな「ロ」を滝の沢川と早合点されたのではあるまいか。
チャラセナィとされる「大沢川」は河口で滝となっておらず、チャラセナイが「滝に成て落る也」とした松浦武四郎が海路で南下した丁巳日誌巻14と合わない。
「ルエラニ」は丁巳日誌巻14に「ルエラン」として「岳に成居て崩岸に少し歩行致し候道有るなり」より、現行のルーラン川の名ではなく、小さな歩ける(そして下りられる)場所のある、山地の地名と考える。ルーランが類例では川の名をさすことが多い旨はDBアイヌ語地名に指摘があるが、坂の名前としての例もある。濃昼山道太島内支線のある尾根が、この辺りでは崖の切れ目の山側から海岸に容易に下りられる数少ない地点であるのでルエラニではないかと考える。文献での登場順序は一致する。
滝の沢トンネル南詰付近の 海岸にある建造物跡 |
DBアイヌ語地名では安瀬集落を現在の安瀬集落の広がりと同一視し、現在の安瀬集落中心から約1km北のブッシュの茂った海食崖地形南端をペセパケ(ペシ・エ・パキ=崖・その・頭=崖の始まるところ)として、そのすぐ先の北部落沢川をチカプセトウシナイではないかとしているが、安瀬在住の老漁師によるとトンネル開通前の最盛期の安瀬集落の人家は滝の沢トンネル南詰付近までゴロタ石の狭い浜辺に沿って続いていたと言い、トンネル南詰付近まで建造物の跡が見られる。また、滝の沢トンネル南詰(安瀬集落中心から約2.2km)から北は海食崖にブッシュが付かなくなって岩が露出し、ゴロタ石の歩ける浜辺が全く無くなって崖が直接海に沈む様になり、それより南とは様相を異にする。
また、ヤソスケの地名発祥の地をバス停のある標高30mほどの高台の奥に見える岩盤の露出した崖ではないかとしているが、丁巳日誌巻10は北行でヤソスケの前に「リイヒラ 高き平崖也。リイは高し、ヒラは平(斜面の土砂くずれ)也。」を記している。この安瀬バス停裏の崖は ri pira[高い・崖]ではなかったか。
濃昼山道保存会のパンフレットでは開削当時の濃昼山道を、現在の安瀬集落中心(バス停そば)からすぐに海岸段丘に上がり、「ニ」や「ホ」を横断して平成17年に整備された部分につながるように描かれているが、このルートだと、松浦武四郎が新道に取り付くのに「山の端、九折に切附有る処を七ツ曲上る」の記述に意味がなくなる。現在の安瀬集落中心から海岸段丘に上がるには7回もジグザグを切る必要はなく、傾斜が緩く切り付けると言う表現も適切ではなくなる。現在の濃昼山道取り付きのジグは8回と記憶しており、切り付けるような急登である。
滝の沢トンネル南詰裏手の崖 これが「ペセパケ pes pake」と 考える。DBアイヌ語地名では pes-e-pake となっているが 文法的に怪しい。 |
安瀬バス停から見た崖 DBアイヌ語地名では これをペセパケとする。 この崖は 「リピラ ri pira」だと思う、 |
滝の沢トンネル南詰裏手より 南側の海岸 ゴロタの浜で 歩ける場所は広い。 |
滝の沢トンネル南詰裏手より 北側の海岸 崖足がそのまま海中に沈み 歩行できない。 |
現在の小さくなった安瀬集落中心からすぐに海岸段丘に上がってしまっていたとしたら「ペセパケ少しの沢」は「ニ」の北部落沢(キタブラクサワ)でないと話が合わないが、松浦武四郎の通った頃の道は、この南方海岸段丘上にまではなく、現在と古と濃昼山道がほぼ一致していたと考えると「ペセパケ少しの沢」が「滝の沢」とする方が辻褄の合う面が多くなる。ペセパケはアイヌ語の pes pake[水際の崖・の頭]と考える。
現在の濃昼山道の南方延長の海岸段丘上には路盤らしき地形や石垣と踏み跡のようなものが残っているが、すぐ南側の法面工事で先が失われている。また、九十九折の踏み跡や屋敷跡、鰊干場・畑地らしき跡は現在の濃昼山道入口とヤソスケ川・北部落沢との間にかけて点在しているが、北部落沢と北部落沢から滝の沢にある小沢はいずれも深い谷を作っていて、そう馬鹿臭い沢のように何度も迂回できるものではない。それならばゴロタに続く浜を家並みに沿って歩いて現在の入口から入る方が道のあり方として理に叶っている。
明治29年の北海道仮製五万分一図では、濃昼山道は現在の地形図よりは南の、滝の沢の一本南手の沢の落ち口から山に登るように描かれている。現在の地形図と比較すると現在の安瀬中心から滝の沢に掛けての描かれる谷の数が一本少ないが、北部落沢(ニ)より少なくとも一本は北の沢を越えてから上っているということになる。大正8年測図の旧版地形図では現在の上り口より100mほど南から上り始めている。これは現在の濃昼山道登り口より谷一つ南側である。少なくとも明治29年以降はバス停まで海食崖の上の道は続いていなかったということになる。大正8年の地形図の箇所には現在の山道入口と同じような九十九折が斜面に残っている。法面工事で破壊されたとは言え、今より一本南に谷を挟んだ所が入口だった時代はあったのかもしれない。また、濃昼山道としてではなかったとしても、漁民が畑地として利用した平坦な段丘上に上がる切り付け道は他にもあっただろう。
「ハ」の河口は滝になっていることが滝の沢トンネル南詰から僅かに海岸を歩くことで確認できた。丁巳日誌巻10で「チカフチヤラツナイ」で大沢川(旧濃昼山道のあった沢)の南隣の沢として「此末滝に成浜え落るとかや」と矛盾しない。
「ハ」=滝の沢河口の滝 |
明治24年頃の輯製20万図では「ヤソスケ」と「安瀬」が2kmほど離れて別の地名として記されている。「安瀬」が北側であり、この頃既にアイヌ語地名としての「ヤソスケ」と和人漁師集落としての「安瀬」が別の場所であったことを思わせる。輯製20万図ではチカプセトゥシナィと思しき川が「茶羅志内」と書かれている。松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図(以下、取調図)に「チヤラセナイ」とあるのを漢字にしてそのまま記したもののように思われるが取調図の地名はフィールドノートである手控や、報文である日誌と相違しており、鵜呑みには出来ないように思われる。
江差町史付録の西蝦夷地アツタ場所略図では大沢がチカフチャラツナ井と、ルーラン川がチャラツナ井となっている。チカフチャラツナ井はアイヌ語として意味がよく分からないのと、チカプセトゥシナィと似ているのとでどうも怪しい気がする。茶羅志内も、大沢は滑り落ちているような流れではないので怪しい気がする。チカプセトゥシナィとチャララセナィとの混同ではなかったか。
実踏の記録であるはずの丁巳日誌巻10には、どうもよく分からない部分がある。そのまま読むと濃昼山道は大沢に沿って登り、稜線に上がって濃昼に下るように読めるが、沿って登った沢は「フトシマナイと云よし也」とされる。松浦武四郎は、手控(野帳)にはチカフチャラツナイを記録していないようなので、濃昼山道付近の地名について後に和人に更に聞いたか、同じ安政の頃の江差沖の口番所付けの絵図のようなものを参考にしたのではないかとも考えてみる。取調図が手控や日誌と異なるのも何か別の資料に依ったのではないか。
松浦武四郎の丁巳日誌巻10に忠実に考えると、大沢川がフトシマナイであり、現在の太島内川とは異なるということになる。大沢河口のドスコイ山が目立つ岩山なので putu suma o nay[その河口・石・ある・川]で言い表せそうな気もしたが、丁巳日誌巻14で「ブトシマナイ 大岩に穴有によつて号る也」とされ、大穴の開いた岩(アモイの洞門)と言う顕著なランドマークのすぐそばにある太島内川の名の説明が付かなくなる。
安瀬山付近の アイヌ語の川等の名比定 |
ルーランは、この断崖絶壁の連なるほぼ中央で唯一沢伝いに(地形図上で崖記号や急な傾斜がなく)沢通しで下りられそうな現在の太島内川の本来の名ではなかったかと考えられないこともない気もするが、丁巳日誌巻14でブトシマナイとルエランが別に挙げられていることから、ルーランは濃昼山道太島内支線のある尾根の名と考えておく。
厚田村史では現ルーラン川(イ)の場所にあった集落をトンネル開通前夜の頃の地名としてチャララセナイとしている。現在は人家はないが、1960年代にはあった番屋は「チャララセナイの番屋」で、脇を流れる滝の小沢がチャララセナイであったという。現在のルーラン川である。その前浜での和人の漁自体は江戸時代から続いており、松浦武四郎が通った頃から地名が保存されていてもおかしくはないと考える。
滝ノ沢(ハ)は深い谷を長い距離で迂回するのが「馬鹿くさい沢」と言われる。丁巳日誌巻10のチカフチヤラツナイがどうも怪しく、これを除くとアイヌ語の名は伝わっていないということになる。「馬鹿くさい沢」は和名として文字通りに解釈されているようだが、「馬鹿くさい」と感じる個人の内面は必ずしも他者との合意が出来るものではないので、地名としては多少怪しい解釈のように思われる。どれほど古くからある地名なのか辿れていないが、pes pake の少し先にある川と言うことで、「ばかくさい」とはアイヌ語のパケクソイ pake kus o -i[そ(水際の崖)の頭・の向こう・にある・もの(川)]の聞き誤りではなかったかと考える。
実踏中の聞き書きの丁巳日誌巻10で出てきたフトシマナイは旧道の大沢源頭の「ルベシベ峠」の西側に広がる谷の名を大沢の名と誤認して記したと考えておく。太島内はDBアイヌ語地名で putu-suma-nay(河口に・岩(ある)・川)で、putu-(puy-)suma-nay の puy[穴](アモイの洞門)の脱落したものかも知れないとされているが、名詞だけ三つ以上並ぶのと puy のような大事な言葉が落ちるのかについて疑問が残る。puy or osma nay[穴・の所・に行ってしまう・河谷]の転訛でなかったかと考える。puy osma nay と考えると、puy[穴]が osma の取る場所名詞なのかと言うことと、ヨがトに訛るのかと言うことに疑問が残る。アイヌ語の r は d のように発音されることがあり、d と受け取られれば t と通音である。日高の幌満川の例から場所名詞かと思われる poru[岩窟]を用いて、ポロシマナィ poru osma nay[岩窟・に行ってしまう・河谷]と考えると、ヨが入らない分フトシマナイの音に近い気がするが、辞典によっては「土の中へはいっていく穴」ともする poru が海上で貫通しているアモイの洞門を指しうるのか、どうも難しいような気がする。永田地名解にあるプヨシュマが先行する地名としてあって〔puy o suma〕o nay かとも考えてみたが、やはりヨがトになるのかという点で疑問が残る。
太島内についてはヨという伝わっていない音が入るので疑問が残るが、以下のように結論しておきたい。
現行地名 | 太島内川 | 太島内川左岸尾根 | ルーラン川 | 大沢 | 滝の沢 |
アイヌ語地名 | puy or osma nay [穴・の所・に行ってしまう・河谷] プヨロシマナィ |
ru e- ran [道・そこに・下る] ルエラン |
cararse nay [すべり降りている・河谷] チャララセナィ |
cikap-set us nay [鳥の・巣・つく・河谷] チカプセトゥシナィ |
pake kus o -i [そ(水際の崖)の頭・の向こう・にある・もの(川)] パケクソイ |
取調図では大沢が「チカフタンナイ」とある。天保4年測量の今井八九郎による地図か、安政3年の松浦武四郎の上司の向山誠斎が写した西地里程分間帳(か、その類本)の「チカフタシナイ」の誤写か誤刻で、アクセントの無いセの音が聞き落とされ、トゥがタと聞かれた ckap-set us nay のことと考える。
参考文献
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
西蝦夷地アツタ場所略図,西蝦夷地御場所絵図,江差町史 第1巻 資料1,江差町史編集室,江差町,1977.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
榊原正文,データベースアイヌ語地名2 石狩T,北海道出版企画センター,2002.
北海道土木協会,北海道河川一覧 河川図編,北海道土木協会,1984.
北海道土木協会,北海道河川一覧 河川番号編,北海道土木協会,1984.
厚田村,厚田村史,厚田村,1969.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「厚田」図幅,陸地測量部,1896.
幕末・明治日本国勢地図 輯製二十万分一図集成,柏書房,1983.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
向山誠斎,針谷武志,向山誠斎雑記 嘉永・安政篇 第16巻,大口勇次郎,ゆまに書房,2002.
今井八九郎,測量図取年記,東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ.
今井八九郎,北海道測量原図(西蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ.
トップページへ |
資料室へ |
安瀬山へ |
濃昼山道へ |