山名考

音江山

 音江の山と言った意味合いであると思われる。音江川及び音江の名の元になった川「オトイポ」の水源にはなっていない。

・七たん山

 新深川市史によると、開拓時代は「七たん山」として親しまれたという。この山に雲がかかると決まって雨になったので、花札でくつろぐことが出来ると言う意味だという。花札の役は「七たん」の他にもあるのでどうも疑わしい感じがする。「ななたん」なのか「しちたん」なのか、深川市のどの辺りから「七たん山」と呼び始めたのかがよく分からないが、「ななたん」なら沖里河から音江に掛けて音江連山の斜面を少し上がった辺りを直線的に走っていた国道12号線の前身の上川道路を、長く続くまっすぐな道や直線計画道路を指す「なわて」と呼ぶ人がいて、現在の深川市の中心地のある石狩川右岸のような音江山から少し離れた所から見て「なわて」の先にある山ということで、「なわての山」と言ったのが訛って「ななたんやま」となったような気がする。


・イチャンイトコ/イチャンヌプリ

 松浦武四郎の安政4年の日誌の挿画に音江山と思しき山が「イシヤンイトコ」とある。松浦武四郎の安政5年の日誌で今の深川市広里町辺りから音江町辺りに向かう道のりで左は石狩川で右の方に原を凡十七八丁隔てて「イシヤンノボリ」とある。永田地名解は明治23年の調査のシュマオナイ(現在の須麻馬内川)の項に「川上ハ『イチヤンヌプリ』ヨリ来ル」と書く。山田秀三(1977)はこれらの山名を音江連山或いは音江山であろうとし、アイヌ語のIcan-etok[イチャンの・水源]、Ican-nupuri[イチャンの・山]としている。また、イチャンイトコという川の名は音江川か待合川の名であっただろうとする。山田秀三が見ていなかったと思しき安政4年の松浦武四郎の手控(フィールドノート)のスケッチには沖里河山と音江山の間の辺りのスカイラインに「イシャンイトコ」とある。「イトコ」は短形の etok より長形の etoko と考えた方が良さそうな気がする。

イチャン地図
イチャン付近地図

 イチャン/イジャンはその音そのものならアイヌ語で ican[鮭鱒の産卵穴]で、山田秀三(1977)は地貌としての ican があったのは北海道実測切図に「イチャン」とある現在の深川市の緑町の辺りの石狩川の分流であり、その地名が一帯の地名に拡充したのでないかとしているが、平隆一(2003)のイシヤンイトコが音江山付近に山名として振られていることと、イチャンが明治期の地形図で今の深川市緑町付近とされることから音江山に発し待合川に落ち深川市緑町付近につながる川があったのではないかとの推定している。今の地形図を見ると待合川が音江川に落ちる地点の少し音江川上流に深川市緑町から深川橋を挟んだ石狩川の対岸の辺りから深川市広里町の市街地を縦断して流れ込む小川がある。広里町の勾配は極めて小さいので昔の流れとして今の音江川下流に向かわずに待合川から北流して深川橋付近で石狩川に落ちた川は考えられそうである。この音江山に発して深川橋付近で石狩川に落ちた川の名がイチャンの発祥と考えた方が蓋然性が高いのでないかと思う。

 安政5年の松浦武四郎は石狩平野を遡るのにトツク(徳富川河口付近)から石狩川左岸を陸行し、ベツバラ(妹背牛橋付近)で右岸に移り、更にイチャンで左岸に移り、石狩川左岸の丘陵地をアップダウンして内大部川に達し、神居古潭も左岸を進んで上川盆地に至っている。アイヌの人たちの上方であるメナシ方の上川盆地から石狩平野に出てくる石狩川左岸の道で初めて石狩川を渡ることになる、プチャput sam[出口・の傍(川)]の転がイチャンで待合川から深川橋付近に落ちる川の名でなかったかという気がするが、ican とはアクセントが異なりそうである。更に考えたい。松浦武四郎の安政5年の日誌にはシユマウシナイ(現在の須麻馬内川)が「イチヤン山より来る」ともある。



音江川・国見山付近
昔の様子の推定地図

・音江

 音江の元となったアイヌ語地名は松浦武四郎の安政4年の記録では「ヲトイホク」とある。安政5年の記録では「ヲトイホク」「ヲトエボケ」とある。永田方正(1891)は、「オ ト゜イェ ポ 川尻ノ潰ル山下」とし、「此川ハ山ヨリ遽ニ流レ下リテ川尻処々ヘ切レル故ニ名ク」と説明している。明治29年の北海道実測切図では現在(2016年)の現在の音江川を指して「オト゜イェポ」とあるように見えるが、山田秀三(1977)によると、昔は音江川が国道12号線の辺りで分流し、分流した東側の流れが音江川の東側を流れる小流と合流してすぐに石狩川に落ちており、この小流か、小流と上流から東側へ分流した音江川を合わせた水系がオト゜イェポク(川)と考えられるという。東側の分流の水流は無かったが、河道跡の凹みは残っていたようである。

 山田秀三(1984)は永田方正(1891)の解を「少々変な解である」とし、「o-tui(-ush)-nai『川尻の・切れる(・いつもする)・川』ぐらいの名であったろうか。その川尻は石狩川岸の急斜面を流れ下っていた(今は跡しかない)。その pok-ke(下の・処)だと石狩川で何だか妙である。もしかしたら o-tui がその山名にも使われていて、その下の処の意ででもあったか、どうも分からない名である。」と、まとめている。ここでの「その山」は国見山のことのようである。

 山田秀三(1984)の「少々変」との指摘は、o- tuye pok では tuye が二項動詞なのでアイヌ語として文法的に破綻する事の示唆であろう。だが、オトゥィナィなどのように聞こえる川の名の記録も無い。松浦武四郎の記録では「小川」とある「ヲトイホク」「ヲトエボケ」であり、永田方正の記録も川名「オト゜イェボ」である。山田秀三(1977)は松浦武四郎の十勝日誌で「ヲトイノホリ小川」などとあることから「ヲトゥイェ(ヌプリ)の・下(ポク)・の処(ケ)」と読みたくなる、としているが、十勝日誌には興を添える脚色が入っているとされる。「ヲトイノホリ」の出てこない丁巳日誌や戊午日誌、巳手控、午手控の記述をより重視すべきでは無かろうか。

 国見山をヲトイノホリと考えても、o- tuye nupuri ではアイヌ語として o- tuye pok 同様アイヌ語として文法的に破綻する。破綻しないように一項動詞で近い音の〔o- tuy nupuri〕 pok[その尻・切れる・山・の下]或いは〔o- tuy -i〕 pok[その尻・切れる・処・の下]と考えたとしても、「その末端の切れる山」が石狩河畔の山裾までなだらかに伸びる国見山の称であったとは思えない。

 国見山は永田地名解の言う処の「オトゥイェポ」河口に向けて山の走り根を一筋伸ばしている。沖里河山から延びて国見山を含む山地一帯を、o- tu o -i[その尻・山の走り根・ある・所]と言ったのではなかったかと考えてみる。知里真志保の地名アイヌ語小辞典に tu の項があり、「峰」と訳され「=si-tu」とされている。si-tu の項を見ると「山の走り根」などとある。末端に山の走り根のある山地のすぐ下を流れている川と言うことで、〔o- tu o -i〕 pok[その尻・山の走り根・ある・所・の下]と考えると、山田秀三(1977)の pok の「前に名詞がないので、何だか言葉が繋がらない」という問題は回避されて、地形に合致する。o- tu o -i の u-o の母音の連続でどちらか一つが追い出されることがあると言うことで、カタカナで書けば松浦武四郎の記録の通りの「オトイポ」となる。

 明治の地図では現在の音江川と待合川(オモセウシ)が合わさって「ト゜」という名で石狩川に注いでいる。永田地名解はト゜を音江川の西分流の名とする。山田秀三(1977)はト゜を「あまり見たことがない地名である」としながら tuk pok[小山・の下]と解したが、その「小山」がどこかまでは解かなかった。深川市域を詳細に調査した山田秀三(1977)でも音江川西分流の上手に小山は見つけられなかったのだと思う。明治時代の地形図でも流域に小山は描かれていない。

 トゥのポが共通しているのはオトゥイェポとの比較でないかと考えてみる。松浦武四郎は安政5年にイチヤンの石狩川旧河道左岸から石狩川左岸に沿って上川方面へ向かっている。イチヤンから進みヲトエボケで「是より山の麓えこゆる。大川まで凡三丁計と思わる。」としている。石狩河畔からヲトエボケ(川)を300mほど遡った所で渡ったものと思われる。更に、「また山根廻りて五丁計を過て、シイベヌカルシ」で、「此処川端は平(ビラ)に成るが故に、是より山え上りて」としている。イチヤンから平坦地を南下して、音江川分流点の下手で東分流を渡渉すると共に東に向きを変えて丘陵地に入り、石狩川が山の走り根の末端と接している所から本格的に山に登り始めたと言うことで、当時の道は音江川分流点付近で曲がっていたと考えられる。「大川(石狩川)まで凡三丁」は、東分流の渡渉し易い所が選ばれて道とされていたということだろう。

 この「道の屈曲点」の下手側へ流れる分流であることを言った、ru-ik pok[道の・関節・の下(そば)]が音江川西分流のアイヌ語の名と考える。或いは道の水平面での屈曲だけでなく、平坦地と丘陵地の境という矢状面での屈曲も意識されていたか。アイヌ語では母音が連続するとその一つが追い出されることがある。アイヌ語のラ行音は日本語でもみられるが、破裂の強いダ行音のように発音する人がいるという。ru-ik pok がドゥのようにも発音されることが考えられる。d と t はアイヌ語では区別されないので、「ドゥ」だと思われたら tuk pok と区別しようがない。

 後に「音江法華」とも書かれた「ヲトエボケ」の最後のケは、山田秀三(1977)は -ke[の処]としているが、pok の長形の poki で言われることもあったかと考える。松浦武四郎のフィールドノートである手控を見ると自身の記録では安政4年も安政5年も「ヲトイホク」であるが、安政4年に筆写した松田市太郎の記録の中で「トヱボケ」となっている。松浦武四郎の安政5年の日誌にある「ヲトエボケ」は松田市太郎の記録に合わせたものかと思われる。音江法華の宛て字は、維新政府に持ち込まれた松浦武四郎の日誌中の二つの表記から、字を宛てやすかった「ヲトエボケ」を採用したものかと思われる。音江法華を短くしたのが、現在の「音江」なのだろう。

 o- tu o -i の名がそのまま音江山の名に連なっていると考えるのは、松浦武四郎の報文日誌・手控の文中やスケッチで音江連山の山の名が「ヲトイ」などとされていないので、難があるように思われる。松浦武四郎は「ヲトイ」の部分が山地を指していると考えていたから十勝日誌で「ヲトイノホリ」を記したのだろうが、ヲトイノホリは「小川」とされているので、興を添える十勝日誌でもヲトイノホリが広大な音江連山全体を指すとしたわけではなかったと思う。想定した tu は国見山の山頂すぐから延びており、「国見山の尻」というよりは、もう少し上の方から「の尻」のように思われるが、沖里河山のような音江連山の一番高い辺りまで指していたわけでは無かったと思う。

 国見山の一帯を o- tu o -i と考えてきたが、ト゜ru-ik pok と考えると、松浦武四郎も通った、昔から末端に道(国見峠)のある尾根の所という意味での、o- ru o -i[その尻・道・ある・所]の転訛と考える方が、tu より ru の方が有用性が高いのでランドマークとしての存在が大きいのではないかという気がする。o- ru o -i と考えると、その場所は国見山のある尾根だけではなく、国見山より2kmほど東の、沖里河山の北の尾根が石狩川に迫っている出会沢の辺りまで広がっていたかも知れないと思う。安政5年の松浦武四郎は、シイベヌカルシの東へ、何度も山と小沢を上り下りし、石狩川の流れを見下ろしていることを記している。

 松浦武四郎の記したヲトイホクが、音江川の中上流と東分流か、その東の小流か、両方か山田秀三(1977)は決めかねていた。山田秀三(1984)は音江川ではなく東の小流のようだとしている。ヲトイホクから丘陵地に入るとした松浦武四郎は、この二つの両方を渡ったはずである。二つ渡ったのに一つの渡渉しか記していない。石狩川の流路が今より北にあって、二つが合流したものを渡ったと考えると、「山根廻りて五丁計を過て、シイベヌカルシ」とならない。音江川東分流は平坦地の縁だが、小流は丘陵地の中である。小支流の名が伝わって、主川の名が伝わらないと言うのも考えにくい。小流から西に更に国見山の斜面は下り続けているので、音江川まで退いても国見山「の下」である。永田地名解の通りの音江川本流の中上流と下流の東分流がヲトイホク(オトゥイェポ)川であったと考える。

 山田秀三(1977)は、明治29年の北海道実測切図でのオト゜イェポの音江川とも東の小流とも取れる文字の位置から、両方を合わせた「水系の名」ではないかということを一つの案としている。同図では音江川東分流の落ち口が描かれていない。だが、同図で他に「水系」のように川の名が記されているのを見た覚えがないので、普通にどちらか一方の川の名ではないかと思う。東分流と小流の落ち口を書き漏らし、小流と音江川中流のどっちつかずの位置にオト゜イェポと振った北海道実測切図に対して、同図の測量成果を利用して小流の方に名を振った後の仮製5万図等は、北海道実測切図が音江川本流のつもりでどっちつかずの位置に振ってしまったのを、西分流にあるト゜の名や新たに書き加えた川の落ち口の位置からオト゜イェポと言う川を小流の方と判断したものではなかったかと考えてみる。最初に地形図上にオト゜イェポを記した北海道実測切図は明治19年からの測量だが、オトゥイェポクを現在の音江川のように記している永田方正の明治23年の空知郡の調査もアイヌの古老を訪ねたもののようである。

 上で国見山に限っては o- tuy -i とは考えにくいとしたが、更に上方(南方)からヲトイだったとすると、地形図上では国見山の北方で尾根がストンと石狩川と河原に切れ落ちているように見える。しかし、衛星写真(GoogleEarth)等で見ても樹林に覆われていて崖が露出していることもなく、25度程度の斜面が一様に切れ落ちているというわけでもなく、遠方から見て目立つ尾根の終わり方というわけでも無さそうなので、やはり o- tuy -i では無いと考える。シイベヌカルシが「川端は平(ビラ)に成」っていても、国見山の尻としては捉えるには崩れている部分は小さすぎるのでないかと思う。

参考文献
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(2016年1月24日上梓 2017年7月30日改訂 2021年7月11日改訂)