音江連山
音江連山
深川経済センターから

山名考

イルムケップ山

 明治29(1896)年の北海道実測切図では今の音江連山の、沖里河山からイルムケップ山にかけての稜線に沿って斜めに山名が「イルムケップ」と振られる。

・エルンケッペ

 松浦武四郎の安政4年の記録で山のスケッチに振られる「エルンテ(/ケ)ツヘ」/「エルンケツヘ」が今のイルムケップという音に連なる山名であるようである。翻刻活字化された函館図書館蔵の写本の日誌の挿画での「エルンテ(/ケ)ツヘ」は四文字目がテなのかケなのか判別に苦しむが、本文では今の沼田町共成か沼田町東予の辺りの雨竜川から見て「エルンケツペ」であり、日誌の挿画の元になった手控(フィールドノート)のスケッチの中の文字は明らかに「エルンケツヘ」である。

 手控の「イチャンより南南東眺望」のスケッチで三峰に割れた音江連山の最も高く描かれる中央の峰の上に最初のエの字があり、最も低い左の峰のすぐ右の上にかけて山名が振られる。このスケッチの主題は明らかに音江連山で、右の峰に山名はなく、中央の峰と右の峰の間の低くなっている所にイシャンイトコとある。函館図書館蔵写本の日誌の挿画では右の峰と中央の峰がほぼ同じ高さで、左の峰は一段低く扁平とも言いたい姿で、左と中の峰の間の左寄りに「エルンテ(ケ)ツヘ」とあり、右の峰の右側に「イシヤンイトコ」とある。また、日誌中の他の図版に比べて余白が多く、手控の「イチャンより南南東眺望」で描かれている山麓が描かれていないことから写本の挿画として描きかけ(未完成或いは省略)のようにも思われる。函館図書館蔵写本の日誌の挿画のスカイラインは単純で、手控の方が写実的のように思われる。平隆一(2003)がカシミール3Dでの数値地図からの描画と実見で比較して函館図書館蔵写本の日誌のエルンテツヘを現在の沖里河山とし、描画地は山田秀三(1977)で石狩川に掛かる深川橋付近でないかとされているということで、深川橋付近で実見して日誌の絵のように見えたのは深川橋より少し下流であったとしている。安政4年の報文日誌の挿画は安政4年の手控のスケッチを元にしていると考えるのが自然で、函館図書館蔵写本の日誌挿画と手控のスケッチの構図は同じと考えたいがスカイラインの形が違い余白が多いこともあって描かれる山の高度感が異なる。

 山田秀三(1977)に松浦家蔵の安政4年の日誌稿本の挿画の模写があり、函館図書館蔵写本の挿画より手控のスケッチに近い山容で描かれている。また、函館図書館蔵写本の挿画に無い近景の茂みや樹木が描かれており、手控での左の峰は中の峰のスカイラインに半ば埋もれて目立たず、中の峰と右の峰はほぼ同じ高さで全体が双耳峰のようになっており、双耳の右脇に「イシヤンイトコ」と、左脇に「エルンケツフ」とありエルンケツフの語尾は「ヘ」とも見えるとされる。函館図書館蔵写本の挿画は、写本にする際にうまく描けずにこれ以上手を入れない方が良いと判断されて途中までとした模写だったのかもしれないと思う。平隆一(2003)の比較対象は函館図書館蔵写本の挿画で、挙げられたカシミール3Dの描画の画像は白黒で小さくされているので、私もカシミール3Dで数値地図から深川橋付近からの眺望を描かせて、平隆一(2003)の時点では公刊されていなかった手控(の翻刻)のスケッチと比較してみた。

イチャンより南南東眺望模写
松浦武四郎 巳手控
「イチャンより南南東眺望」模写
フシコベツ川縁から音江連山眺望
カシミール3Dによる
イチャンコタン推定地南方の
推定フシコベツ川縁から音江連山眺望
平たい三角は識別用で、左から沖里河山、
イルムケップ山、音江山の上空海抜1500m。
イルムケップ山の頂は見えていない。
沖里河山の左側の見え方が合わない。
ペッパラコタンから音江連山眺望
カシミール3Dによる
ペッパラコタン推定地から音江連山眺望
平たい三角は識別用で、左から沖里河山、
音江山、イルムケップ山の上空海抜1500m。
イルムケップ山の頂は見えていない。
沖里河山の左側の見え方は合うが
音江山が大きく高くなってしまう。
共成東予境から音江連山眺望
カシミール3Dによる
沼田町共成と東予の境の
雨竜川縁から音江連山眺望
イルムケップ山の頭も見える。
イチャンコタン推定地付近地図
推定イチャンコタン付近
描画地の地図
カシミール3Dの描画は国土地理院基盤地図情報数値標高モデル
10mメッシュ(標高)利用、高さ強調2倍、対地高度2m。
推定描画地広域地図1
推定描画地広域地図2
推定描画地等広域地図

 「イチャンより南南東眺望」には描画地と見られる近景の水面にフシコへツとあり、安政4年の日誌ではイジヤンの後ろにフシコへツがあって好漁場とある。安政5年の日誌ではイチヤンに「小川一すじあり」というのがフシコベツに相当するようである。山田秀三(1977)は明治7年「高畑図」にイチヤンの石狩川の左岸にフシコベツが描かれているのを、現在の深川市緑町の市街地を流れていた石狩川の分流のフシコベツとは別の、松浦武四郎がイチャンの後ろに見たフシコへツと見ているようである。石狩川左岸から広里町を縦断して南側に流れる小川のことでないかと示唆している。また、平隆一(2003)は、「イシヤンイトコ」が音江山であり、明治期の地形図でイチャンが現在の深川市緑町付近とされることから、深川市緑町付近と音江山〜待合川をつなぐ川がかつて存在していたと推定している。

 地形図を見ると広里町北側から広里町を縦断して音江川右岸に注ぐ小流があり、山田秀三(1977)のイチャンコタン推定地の後ろに回り込んでいると言えそうで、一帯の勾配は極めて小さいので音江川の下流が無ければ北流して石狩川に注いでいたことも考えられそうである。広里町を縦断するこの小川をフシコへツと見て、山田秀三(1977)の推定イチャンコタンの地からすぐ後ろの川縁にあたる辺りから「イチャンより南南東眺望」と比較する眺望をカシミール3Dに描かせてみた。日誌の稿本である松浦家蔵本には図に「ホンヒタラより眺望」とあり、平隆一(2003)は絵のように見えたという深川橋の少し下流に小石河原が確認できたのでそれをポンピタと推定したとしているが、深川橋の下手約500mに1960年代から花園頭首工が設置されているので、深川橋下手の今の小石河原をそのまま松浦武四郎の頃からあるポンピタと考えるのは難しい気がする。「ホンヒタラより眺望」とあるのは第五巻14-15丁の挿画である。第四巻30-31丁には函館図書館本で「ホンヒタラより見る処」とあり「カハト山」が描かれる。第四巻30-31丁の本文では「ホンベタラ」が出てくるがイチャンコタン付近の第五巻14-15丁辺りの日誌本文でホンヒタラと思しき地名は出てこないので、稿本で場所を書き間違えた注が取り消し線を引くまでもないとそのままになっていたのでないかと思う。

 比較してみた所、手控のスケッチの中の峰は沖里河山ということで、平隆一(2003)の日誌の挿画の中の峰と同様であると見た。だが、沖里河山の左側の見え方が広里の音江川右岸を少しずつ移動させて描かせてみても、スケッチの左の峰のように手前の尾根の頭がスカイラインに飛び出て見える所がなかった。安政4年の松浦武四郎のイジャンコタン止宿日の行程は短くイジャンに着いてからの時間は長くあったようなので、移動して広里より音江連山に近づいて描いていたなら左の手前の尾根がコブのようにスカイラインに飛び出そうだと考えて音江川左岸の、音江連山の山裾ギリギリまで南下しても手前のコブはスカイラインに飛び出なかった。スケッチは旧暦4月24日の午後のようで天候は快晴、融雪期で河川の激しい増水が記されている。強い直射日光で地表付近の気温が上がった上空と地表付近の気圧差の小さい時に描かれたのか。また、中の峰を沖里河山と見るが、右の峰の音江山とのスパンが近過ぎるスケッチのようにも思われる。

 手控のスケッチでは、沖里河山左手のコブは二段に渡って描かれている。手前のコブが二段で沖里河山の左手に現れ、その内の下方のものがスカイラインにコブのように飛び出るようにならないかと、描画地を西方に移動させていくと、山田秀三(1977)のイチャンコタン推定地の西南西約8.5qの、今の石狩川の妹背牛橋の北側の辺りでコブと沖里河山が手控のように見えることが分かった。安政4年の日誌で「ベツバラ」とある山田秀三(1977)が推定したペッパコタンの辺りで、ベツバラのコタンで松浦武四郎はイチャンコタン訪問の前日に止宿しており天候はこの日も快晴であった。但し、右の峰である音江山は手控のスケッチより大きくなる。また、山田秀三(1977)がペッパコタンの推定で示した明治30年図では推定ペッパコタンの南側の石狩川の河道が二本に分流して北側の流れが細くなっているが、松浦武四郎の日誌では当地で石狩川が分流して北側の流れがフシコ(古い)というようなことは書かれていない。

・エルンケッペンケ

 松浦武四郎の安政3年の、現在の新十津川付近からとされる自筆報文日誌「竹四郎廻浦日記」の挿図に「エルシケツヘンケ」とある盾状に描かれる巳五分の方角で山の描かれる眺望図があり、エルシケツヘンケの左(北側)の山の肩に「ヲモセウシの上」とある。但し、このスケッチはエルシケツヘンケが主題ではなく、エルシケツヘンケは画面の隅に描かれている。日誌の挿図の元になった手控のスケッチ「新十津川付近より大雪連峰眺望」では巳の方角で「エルンゲツヘシケ」とあり、鈍頂の山容で描かれる。また、松浦武四郎が安政3年と4年に使っていた方位磁針は30°ほど時計回りにずれていたことが平隆一(2003)で示唆されており、巳/巳五分というのは凡そ東南東となりそうである。ヲモセウシは現在の待合川で音江山と沖里河山の間に突き上げる。

 安政3年の手控のスケッチの下方には描画地と見られるヲタヤウシという地名がある。手控の実踏記録に「ヲタヤウシ 左」とあって石狩川右岸の地名であり、日誌ではヲヤタウシ(ママ)の小沢にウグイが多いので舟を入れて20尾ほどウグイを釣って「少しの川原の有るに」上陸してウグイを焼いて昼飯にしたとある。スケッチに「極遠山」とあって頂きのあるアシヘツベナケは芦別川(の)penake[の川上]ということで芦別岳と考えて、ヲタヤウシは石狩川の大きな支流であるヲシラルカ(尾白利加川)とウリウ(雨竜川)の間で登場しているのでカシミール3Dで石狩川の明治時代の地形図に描かれる旧河道の右岸を移動しながら展望を描かせて手控のスケッチと比較したところ、雨竜町役場の真南約1.6kmの河岸からの展望が手控のスケッチの右半の美唄山地と芦別岳のスカイラインと、中ほどの十勝連峰に二つの峰が見えるということでほぼ一致することが分かった。この描画推定地の北東約500mに河跡湖である丹羽の沼からの堤防の出口がある。丹羽の沼の出口の流れがヲタヤウシであったと考える。だが、美唄山地と十勝連峰の間隔と、音江連山の近さゆえの大きさが合わない。当初の美唄山地と芦別岳の眺望を中心としたスケッチの構想より描きながら拡大して、手控の紙幅と時間の制限から後半となった左半分が詰まったかと考えてみる。

 ヲタヤウシは安政4年と5年の記録に、現在の奈井江町市街地の北東辺りの石狩川左岸支流としても記録されるが、同名異所でありその辺りから大雪十勝連峰や芦別岳は見通せない。

 手控のスケッチの大雪連峰に「チユクベツの上」とあるのは、忠別川源頭に当たる旭岳かトムラウシ山のことかと考えたくなるが、カシミール3Dで可視マップを計算させると、尾白利加川河口から深川市域にかけての石狩川本流筋から大雪山とトムラウシ山は見通せるところがないことが分かる。忠別川の支流となる美瑛川の源頭ということの十勝岳ということであったと考える。この頃の松浦武四郎の行程で旭岳かトムラウシ山辺りの「チユクベツの上」が見通せそうな所ということで翻刻のこの図版のタイトルは「新十津川付近より大雪連峰眺望」とされたのだろうが、新十津川付近となる徳富川落ち口から七八丁、石狩川本流を遡った右岸にあったというトツクのコタンを、平隆一(2003)に従って安政3年の記録でほぼ同時に現れるアハタンナイを滝川市有明町の金川・銀川付近と見、明治期の地形図での石狩川本流が銀川にあたるようなので、金川の落ち口の南方を当時の石狩川の対岸の辺りと推定して、大雪連峰方面の眺望をカシミール3Dで描かせてみると、旭岳とトムラウシ山は幌内山地の山並みの上に頭だけがほんの僅かに出るか出ないかで、十勝連峰の各峰も頭だけが幌内山地の上に跳び跳びに分かれて見え、芦別岳をはじめとした夕張山地主稜線は見えず、近い低山の石山が大きくなって目立つ神威岳と並び、美唄山地の描かれ方と異なって見えることがわかる。「石カリ岳も相見え候哉」というトツクでの松浦武四郎の問いに「石カリ岳は中々不見」とのアイヌの人達の回答の通りであった。

新十津川付近より大雪連峰眺望模写
松浦武四郎 辰手控
新十津川付近より大雪連峰眺望模写
竹四郎廻浦日記巻十より模写
松浦武四郎 竹四郎廻浦日記巻の十より模写
推定ヲタヤウシから音江連山・十勝連峰・美唄山地眺望
カシミール3Dによる推定ヲタヤウシから音江連山・十勝連峰・美唄山地眺望
国土地理院基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ(標高)利用(但し南側は三笠市域まで)、
高さ強調4倍、対地高度2m。平たい三角は識別用で左から沖里河山、音江山、イルムケップ山、
神威岳、辺毛山、美唄山の上空海抜1500m、赤い三角も識別用で左から十勝岳、富良野岳、
芦別岳の上空海抜3000m。
推定ヲタヤウシから美唄山地眺望
カシミール3Dによる推定ヲタヤウシから美唄山地眺望(上の右半分拡大)
国土地理院基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ(標高)利用(但し南側は三笠市域まで)、
高さ強調2倍、対地高度2m。平たい三角は識別用で左から神威岳、辺毛山、美唄山の
上空海抜1500m、赤い三角も識別用で芦別岳の上空海抜3000m。
「ソラチ岳」は日誌本文でソラチの源頭とされるので美唄山のことではなく、美唄山の
方向の奥に位置するとのアイヌの人のスケッチを見ての教示だったのでないかと思う。
推定トツクコタンから美唄山地眺望
カシミール3Dによる推定トツクコタンから音江連山・大雪連峰・美唄山地眺望
国土地理院基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ(標高)利用(但し南側は三笠市域まで)、
高さ強調5倍、対地高度2m。平たい三角は識別用で左から音江山、沖里河山、イルムケップ山、
神威岳、辺毛山、美唄山の上空海抜1500m、赤い三角も識別用で左から旭岳、トムラウシ山、
十勝岳、富良野岳、芦別岳の上空海抜3000m。旭岳とトムラウシ山は頭だけが幌内山地の上に
僅かに見えるか見えないか。十勝連峰は別々に頭だけ見える。沖里河山と芦別岳は見えない。
推定ヲタヤウシ地図
推定ヲタヤウシ地図
トツクコタン推定地地図
明治期河道とトツクコタン推定地図

 推定ヲタヤウシからは、音江山が中の峰となって最も高く見え、イルムケップ山が少し低く右の峰として頭を出し、沖里河山が左の峰というか、肩となって中の峰の左側斜面とほぼ重なる。安政3年の日誌の挿画に右のコブは描かれていないので、音江山がエルシケツヘンケのように捉えたくなるが、鈍頂で幅があるエルンゲツヘシケの描かれ方と安政4年のスケッチでは沖里河山の位置にエルンケツヘとあることを合わせて考えると、松浦武四郎の記録からは音江連山全体の名がエルンケツペシケ/エルンケッペンケ/エルンケッぺと考えるのが妥当な気がする。安政4年の記録だけからならエルンケッペを平隆一(2003)のように音江連山の中の沖里河山という一峰と見るのもありうるだろうが、安政3年の記録を合わせて見たら、音江連山のどれか一峰とは断定できないと思う。北海道実測切図上での音江連山でイルムケップとする山名の振り方は適切であったと考える。北海道実測切図の作成の際の調査でイルムケップは音江連山全体の名だという情報が測量を支援したアイヌの人から得られていたのでないか。

 安政3年の手控のエルンゲツヘシケと、安政3年の日誌のエルシケツヘンケの後ろから二文字目は、文字のある図版を見てもいずれの翻刻の解読も適切であるように思われる。だが、恐らくどちらかが松浦武四郎の癖字故の誤解読で、音はエルンケツヘンケかエルンケツヘシケのどちらかひとつだっただろう。明治以降のイルムケップの音と安政3年の日誌でのエルシケツヘンケの三文字目より、松浦武四郎のンの字はシに見誤りやすくなることがあると考えると、エルンゲツヘシケもエルンゲツヘンケでなかったかと考える。

 安政3年の手控でエルンゲツヘシケの横に「ヲモセウシの上〜シユマナイ川口也」とあるのは、エルンゲツヘシケがヲモセウシ(待合川)の川上であり、また、須麻馬内川の河口ではなく口(水源)であるとのアイヌの人の説明の聞き取りであったと考える。音江山は待合川と須麻馬内川の水源にあたる。

・イルムケップ

 山田秀三(1977)は「イルムケップの意味はよくわからない」としている。赤平市史(2001)は「イルムケップの語源については、今後の研究課題の一つである」としている。

二股の地図
音江連山は二股の上手、
平野の間に位置する。

 エルンケツヘンケの最後のヘンケが、penke[の上(かみ)]と思われるので、エルンケツペの最後のペは、アイヌ語の pe と考える。イルムケップの最後のプは pe の訛ったものと考える。地名アイヌ語小辞典の pe の項に二つ目の意味として「川のかみ。」とあり、アイヌ語沙流方言辞典の pen- の項に和訳が「上の」とあり、「学術的な研究成果ではなく、仮に推測しただけ」とされるが「<pe-un 上の方・の」と語構成の推測があるので、川に限らず「の上(かみ)」と考えたが、辞典等で見た和訳ではないのでイタリックとしておく。

 何の上(かみ)か。明治29年の北海道地形図ではイルムケップ山の位置にシルツルヌプリとあり、赤平市史は「sir-utur-nupuri(大地・中間・山)の意で、石狩川流域と空知川流域の二つの大地を分ける中間にある山」としており、私も凡そそう考える。但し、utur はシルツンヌプリでないので長形の uturu としたい。音江連山は石狩川と空知川の二股の上手に位置してそれぞれの川の平野に挟まれる。イルムケップ山は明治24年頃の編輯製20万図では「エリモケツプ山」と書かれる。アイヌ語の、peteukopi pe[川の二股・の上(かみ)]がエルンケッペ/イルムケップの元の音であったと考える。アイヌ語地名では、イソサム(pes o- san pe)、ヱシヨハケ(pes pake)、ヲントキタイ(pon to kitay)、イタラ(pitar)、エトワン(pe tuwar)、ヲンネシリ(pinne sir)といった、語頭の p の落ちる例がある。アイヌ語のタ行音とダ行音は意味的に区別されず、ラ行音は破裂を強くダ行音のように発音する人がいるという。ダ行音をラ行音と聞き誤ることもあり得るわけで、口を窄めるウを窄め極めればムに近くなる。PEDEUKOPIPA が、長い単語のアクセントのない語末の音節の母音が落ちて訛ったのが ERUMKEPPE/IRUMKEPPU と考える。

 手控での山名がエルンゲツヘンケでなくエルンゲツヘシケであったなら、peteukopi pe us pe[川の二股・の上(かみ)・についている・もの(山)]の転が ERUMKEPPESKE でなかったかと考える。

参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「上川」図幅,北海道庁,1896.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
平隆一,松浦武四郎描画記録における空知のアイヌ語山名,pp7-24,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2003.
山田秀三,深川のアイヌ地名を尋ねて,アイヌ語地名の研究(山田秀三著作集)4,草風館,1995.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
北海道庁地理課,北海道実測切図「増毛」図幅,北海道庁,1893.
赤平市史編纂委員会,赤平市史 上巻,赤平市,2001.
北海道内務部地理課,北海道地形図,自治堂,1896.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
幕末・明治日本国勢地図 輯製二十万分一図集成,柏書房,1983.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.



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(2021年7月11日上梓)