山名考

オプタテシケ山

 近藤重蔵の文化4(1807)年の石狩川川筋図に遠望された石狩川水源の山として「ヲツタテシケ山」の名がある。

 松浦武四郎は安政3(1856)年に「ヲフタテシケ」、「ヲツタテシケ」と記し、安政5(1858)年に「ヲフラーテシキ」、「ヲヒラテシケノホリ」と記している。

 山名の由来が、山のウワナリ伝説で知られる。嫉妬に狂った女山の投げた槍が逸れた山と言うものである。他にも説がある。

  1. op ta tes -ke[槍・に・([擬態]反ることを表す動詞語根)・(擬音や擬態、中でも主に擬態の語根やその重複形について自動詞をつくる)]
  2. op ta tes -ke[槍・に・([擬態]すべることを表す動詞語根)・(擬音や擬態、中でも主に擬態の語根やその重複形について自動詞をつくる)]
  3. op ta tes -ke[槍・で・(長く(遠くまで)続いているもの/ところ(?)を指す名詞語根)・(名詞や名詞語根に接尾して自動詞をつくる「〜をつくる」)]

 ta は、その前に場所・時間的位置を要求するが、op は場所でも時間的位置でもないので、これらの解釈は文法的に成り立たない。ウワナリ伝説は 2.の解釈である。3.は十勝岳連峰の槍のように鋭い山々が長く続いている様子を指していると言われる。だが、道内の他のオプタテシケの山は単峰であって、連なっていない。1.は、あえて槍を場所と考えれば槍の歪んだ「反れ」を想像してしまう。山の姿を形容している解釈と言えたのかどうか。

 オプタテシケの指している場所にも問題があって、現在は十勝岳連峰の北端に近い一峰に「オプタテシケ山」の名が与えられるが、近藤重蔵の記録では大雪山を、松浦武四郎の記録では十勝岳連峰か東大雪の山を指しているように読める。明治時代には美瑛岳付近を「西ヲプタテシケ山」、トムラウシ山付近を「東ヲプタテシケ山」とされたこともあった。永田地名解の「松浦図ニ石狩岳トアルハ井(ママ)ナリト云フ」より、松浦武四郎が東西蝦夷山川地理取調日誌で「石狩ノタツカウシノポリ」とし、東西蝦夷山川地理取調図で「石狩岳」とした、大雪山旭岳が東オプタテシケであったように思われる。

 永田地名解には「イワウヌプリ」の項に、「高橋図ニ西『オプタテシケ』トアリ」とあり、明治の輯製20万図の「西ヲプタテシケ山」はこれを参考にしたと思われるが、この西ヲプタテシケの載る「高橋図」は見ていない。

 「槍がそれる」と言う解釈と、それに纏わる伝説は音が似ていたゆえに 2.と解釈され、伝説が形作られたもので、元は似た音でその地形の様を指していたのではないかと考える。大雪・十勝連峰以外のオプタテシケの名を受ける山は、屈斜路湖傍のオプタテシケヌプリ(雄武建山)がある。更科源蔵のアイヌ伝説集ではオプタテシケと阿寒の争いの話の一つに十勝教育会報所載だというヌプカウシヌプリを「オプタテシケップ(槍が肩をそれたお方)」とするものがある。また、北見富士と雄阿寒岳が男山で女山の雌阿寒岳を争い、北見富士の投げた槍が鉄でできた雄阿寒に刺さらず妾山に刺さったという伝説があるという。いずれも近世の記録は見ていない。


屈斜路湖のオプタテシケ広域図

オプタテシケとソエナテシケ地図

・屈斜路湖傍のオプタテシケ

 名の発祥の場所が広範囲で絞りにくい大雪十勝連峰のオプタテシケではなく、小さな屈斜路湖傍のオプタテシケから考えてみる。

 明治期の地形図にはオプタテシケの傍にソエナテシケという山がある。後半の「テシケ」の部分が共通するのは何らかの対比であって、テシケの部分に関してもオプタテシケ全体に関しても指していた地形描写を考える糸口となりそうである。

 ソエナテシケはまっすぐに連なるカルデラの外輪山と思しき痩せた尾根の山である。カルデラは鍋様だが、鍋の内側にあたるカルデラ壁が直線状に屈斜路湖の反対側に続いている。川で魚を採るのに連ねるトメやヤナ(tes)と同じ形態である。このことをアイヌ語でいう soy -na teske[外・の方に・続くこと]がソエナテシケという山名であったと考える。-na は連用的用法として訳した。teske は上で挙げた 3.のパターンの tes + -ke で、自動詞の名詞的用法として訳したが、単語として辞典等に見ていないのでイタリックとする(1.と2.のパターンの teske は自動詞の単語として辞典に見る)。

 隣のオプタテシケで続いている地形を探すと北面の崖がある。摩周岳と藻琴山の伝説で藻琴山の投げた槍が肩にかすってそれた傷といわれる崖である。

 積丹半島の神威岬は永田地名解がカムイオカルシとしているが、カムィが槍を作った所など説話を超えてはありえない。和名ミヅナシというひょろ長く危険な尾根を回り込んで往来するところということの kamuy ok kari us -i[非常に危険な・うなじ・を通っていく・いつもする・所]と考える 。破裂音の p と k の相通例は山田秀三のアイヌ語地名研究にもあり、オプタテシケのプもクのような音であったこともありうると考える。

 kamuy ok kari us -i[非常に危険な・うなじ・を通っていく・いつもする・所]の中で、kari の「を通っていく」をイタリックとしたのはアイヌ語辞典等に見たわけではないからである。kari はアイヌ語千歳方言辞典で格助詞の「〜を通って」などとされ、アイヌ語沙流方言辞典では後置副詞の「を通って」などとされ、他動詞としてはアイヌ語沙流方言辞典で「を回す」の意しかない。同様に pes も格助詞で「〜に沿って下方に」、後置副詞で「に沿って下の方に」とされるが、地名アイヌ語小辞典には不完動詞(他動詞)として「それに沿うて下る」とあり、道内の各所に見られるルベシベといったアイヌ語地名は ru pes pe[道・それに沿うて下る・もの]で、pes を二項動詞/他動詞と考えるしかないように思われる。pes からの類推で kari も二項動詞/他動詞として使われることがあったと考え、kamuy ok kari us -i とあてはめた。

 オプタテシケの続く北面の崖は中腹より下で岩場の崖なので、o- kut o- teske[その尻・崖・そこに・続くこと]がオプタテシケということではなかったかと考える。但し、kuto- で受けられる場所名詞かどうかが分からない。場所名詞でなかったとしたら、二つ目の o-e- とする。大津波にオプタテシケヌプリの上に避難した人は助かったという更科源蔵のアイヌ伝説集所収のオプタテシケヌプリの伝説は、上に行くことで危険を避けられる山ということが形を変えたものと考える。


西ヌプカウシ山付近地図

・ヌプカウシヌプリ

 十勝のヌプカウシヌプリは東西の二峰だが、西ヌプカウシヌプリは北面の然別川が山裾を侵食し崖となって落ち込んでいる。このことを言ったのが屈斜路湖傍のオプタテシケとほぼ同じの o- kut o-(/e-) teske p[その尻・崖・そこに・続く・もの]ではなかったかと考える。

 更科源蔵のアイヌ伝説集所収のヌプカウシヌプリの伝説で幌尻岳の投げた槍にヌプカウシヌプリの片方の耳がとばされたというのは、片方の kisara[その耳]が切れたのではなく、片方のヌプカウシヌプリの kese oro[その下端・の所]が切れ落ちているということではなかったか。

 また、同書の伝説でヌプカウシヌプリが偉い山だと尊敬されるというのは、東西のヌプカウシヌプリの鞍部(白樺峠)を通行することで危険な然別川の山間の谷筋を通行しなくても済むということではなかったか。

・雄阿寒岳

 北見富士と雄阿寒岳が男山で女山の雌阿寒岳を争った伝説では明示的にオプタテシケという山名が出てこないようなのだが、ウワナリ伝説で投げつけられた槍が刺さらなかったなどとあるのはオプタテシケという音を意識していたと思われる。紋別市史(1960)の紋別の伝説の章に阿寒地方の伝説として全文と思しき引用があるのを読んだが、原典は見ていない。北海道に北見富士と呼ばれる山は二つあり、この伝説に関連して滝上町史(1962)は無加川筋温根湯の奥の北見富士ではなく滝上町境上の「北見富士がオプタテシケといった山と思われる」としているが、北見富士の槍が投げつけられたのに身体が鉄なので刺さらなかった雄阿寒岳の方が槍がそれたということだと思う。紋別市史の引用とほぼ同じ話が更科源蔵のアイヌ伝説集の「阿寒岳の争い」の話の一つにあって、北見富士は「大雪国道のわきの」とあるから温根湯の奥の北見富士である。最後に「北見富士のことをオプタテシケ(槍が肩をそれた)というのだ。」という紋別市史の引用にない一文は、滝上町史の地名の北見富士の項が更科源蔵の調査報告の引用で、紋別市史のアイヌ関係の部分の担当が更科源蔵であったことを考えると元の伝説にあったものとは考えにくい。アイヌ伝説集では出典(この伝説の場合は話者)も最後に加えられており美幌町のアイヌ女性から聞き取られた話のようである。


雄阿寒岳の山裾急斜面と中腹緩斜面の境の地図

雌阿寒岳の山裾急斜面と中腹緩斜面の境の地図

 雄阿寒岳はよく聳えた山らしい山だが、天に絞られる頂上付近の標高950mより上と、山裾に厚い溶岩流の末端崖と側端崖の急斜面が山頂から四方八方にある。中でも北面から東面のイベシベツ川左岸〜パンケトー南岸に落ちる急斜面は長く続いており、急斜面の上の中腹の緩斜面が広い。雌阿寒岳にも末端崖と側端崖のある溶岩流地形はあるが少ない。

 溶岩流の末端崖と側端崖は通行に不適な急斜面だが凡そ植生に覆われており、「ひどい岩崖」とか「岩層があらわれた崖」とされる kut ではなさそうである。

 ここまで k と p の相通から kut で考えてきたが、松浦武四郎の大雪十勝連峰のヲフラーテシキやヲヒラテシケノホリの記録は、kut ではなく pira[崖] で、オプタテシケは o- pira o- teske[その尻・崖・そこに・続くこと]ということもありうるのではないかと考えてみる。pirao- で受けられる場所名詞かどうか分からないので、場所名詞でなかったとしたら二つ目の o-e- に置き換える。アイヌ語のラ行音は破裂を強くダ行音のように発音されることがあるという。アイヌ語ではダ行音とタ行音を区別しないので、オピダテシケからオプタテシケに転じることも、オクトテシケから転じるのと同じくらいありうると思う。「ヲフラーテシキ」と、ラの後ろに長音符が入っているのは、ラの後にアに近いオかエの音が入っていたことを支持すると思う。

 アクセントの位置は、o- pira o-(/e-) teske なら三音節目のラに来そうだが、o- kut o-(/e-) teske では、二音節目のクに来そうである。アクセントのあるオクのクの母音が落ちて op と異分析されるとは考えにくいが、ラにアクセントのあるオピラで二音節目のアクセントのないピの母音は訛る過程で落ちうると思う。

 雄阿寒岳を明示的にオプタテシケと呼ぶ伝説の話を読んだわけではないが、雄阿寒岳の植生の薄い溶岩流末端崖と側端崖の急斜面の山裾を o- pira o-(/e-) teske[その尻・崖・そこに・続くこと]と捉えていたのでないかと考える。

 雄阿寒岳の身体が鉄というのは、アイヌ語の kani [鉄]ではなく日本語の「かね(矩)」で山体に立った斜面があるということが話の中にあったのをアイヌの人同士の間の伝承中か、和人に伝える時か特定しがたいが、聞き手が誤解したということではなかったかと考えてみる。

・大雪十勝連峰のオプタテシケの発祥はどこか

 上記三例よりオプタテシケは山上に上がると、裾に崖が続いているので無闇に下りるのは危険で注意を要するという意味での山名であったと考える。


表大雪から十勝連峰の山裾急斜面と
中腹緩斜面の境の地図

 大雪十勝連峰で、そういう地形になっている所を探してみると、大雪では表大雪の南西面と凡忠別岳の北面とトムラウシ山の北東面がある。なだらかな溶岩流斜面が河川侵食谷壁で高く切れ落ちている所である。トムラウシ山南東面山裾のユウトムラウシ川源頭域も崖が続く。十勝ではコスマヌプリの南面がある。また、大雪山に住む偉い神様が魔神を抑えていて、魔神は美瑛川上流地域に隠れているから美瑛川上に行ってはならないという旭川の伝説があるという。表大雪の北面も層雲峡の崖が裾で落ち込んでいるが、稜線間近も崖で落ち込んでいるので外しておく。

 美瑛川上流地域も源頭に崖が続いているが、その崖の上はすぐに稜線である。

 近藤重蔵の見たとしたら、その天塩川筋から塩狩峠付近を越えて石狩川筋を下った踏査ルートからヲツタテシケ山は旭川付近から大きく見える表大雪の山であったと考える。

 ヲフラーテシキはトンラウシではなくシイトカフチの水源として松浦武四郎の記録に登場し「石狩岳のつゞきにして、ソラチの水源も此山の西より落る」とあるから十勝岳付近の様に読める。この場合の石狩岳は今の石狩岳でなく表大雪と考える。

 ヲヒラテシケノホリはシカリベツ(然別川)筋でシイシカリヘツ(然別川本流)の最上流の水源がウヘヽサンケノホリで「また一川左りの方より来るもの、其源はトカチ岳のつゞきなる」として松浦武四郎の記録に登場する。然別川上流の右岸支流のイシカリベツ川水源で東丸山の辺りのようにも読めるが、十勝岳に山続きの位置とは言い難い。東丸山より奥の東大雪からトムラウシ山の辺りまでの2000m級の高山が漠然とオピラテシケヌプリと呼ばれていたと考えたくなる。本流のシイシカリヘツの水源がウヘヽサンケノホリとされるので、然別川左岸の西ヌプカウシヌプリを指してのヲヒラテシケノホリとは考えられない。

 表大雪と凡忠別岳から忠別川に落ち込む崖と、トムラウシ山北東面の黄金ヶ原の北側のクワウンナイに落ち込む崖とトムラウシ山南東面のユウトムラウシ川に落ち込む崖、コスマヌプリ南面がトノカリウシュベツ川に落ち込む崖の、下れなくなる袋状に連なっている所のどれか或いは全部を含む同様の地形がオプタテシケの発祥であったと考える。そういう場所があちこちにある山域として意識されて大雪十勝連峰全体がオプタテシケの名で呼ばれていたのでないかと考える。

 近藤重蔵よりはアイヌ語になじんでいたであろう松浦武四郎の記録や雄阿寒岳の例から、大雪十勝連峰のオプタテシケという言葉の元に含まれたのは kut でなく pira の方がありうるかと思う。op に異分析されたアクセントの面からも pirakut よりありうると思う。だが pira は日本語では崖と言わない低いものも言うというので、危険を確実に伝えるならひどい岩崖の kut だと思う。表大雪やトムラウシ山の山裾の高い崖は pira というよりは kut だと思う。

参考文献
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(2016年9月28日上梓 2022年6月19日URL変更・改訂)