ニペソツ山 |
山名考
ニペソツ山
明治27年の北海道実測切図に「ニペソツ山 Nipesotuyama」の名がある。山の名「ニペソツ山」は、ニペソツ川の水源の山といった意味合いと思われる。以下、ニペソツ川の名前について考えてみる。
松浦武四郎の安政5年の聞き書きの記録に「ニベシヨチ」とある。
村上啓司(1963)は「ニペシ・オツ」がニペソツになったと考える。」とする。「ニペシ・オツとはシナノキが多いとの意味であって、ニペシは地名以外では、シナノキの樹皮の線維のことである。」と続ける。
村上啓司(1978)は「ニペソッ(Nipesot)は、ニペシ−オッ(nipes-ot)の連声で、ニペシはシナノキの内皮をいい、オッは多いということである。」とする。「要するに、この川口あるいは流域にシナ皮の資源が多く、それを採取するためによく訪れた川だったのである。」と続ける。更に nipes-ot だけでは動詞で切れるから地名として落ち着かないとし、松浦武四郎の記録は物・者・所などの意味を持つイを語尾に付けたニペソチ(nipes-ot-i)で、明治の地図から見られるニペソツという音はナイとかペッの下略形でニペソッナイなどとも呼ばれたであろうとする。
地名は一目見て了解できるその土地の特徴を言うものが多い。一目見て多いと言えそうなのはシナノキの内皮ではなくシナノキの木(nipesni)であろう。木の皮を採るのに木全体に着目せずに、はじめから木の内皮だけを見る人は居ないのではないか。尤も、シナノキは外見の特徴の乏しい木で、遠目に一目見てそこにシナノキが多いと分かる人もそう居ないのではないかと思われる。また、シナノキはありふれた木でもあり、深く遠い山間のニペソツ川流域まで採取に行くとは考えにくい気がする。ot を用いて、植物の素材があることを言うのによく使われる us で言わなかった理由もよく分からない。
山田秀三(1984)は「ニペソッ(ni-pes-ot 木が・下る・いつもする)と聞こえる。流木がよくある川の意ででもあったか。あるいはニペシ・ソソ・オッ・ナイ(nipes-soso-ot-nai しなの木の皮を・剥ぐ・いつもする・川)のような形から来たのかもしれない。」としている。
ニペシ・ソソ・オッ・ナイは、ニペシ・ソソ・オッ・イ(処)だったとしてもソが二回で少し音が違うのではないかと思う。ni-pes-ot の ot を助動詞のように扱う用法は知里真志保(1956)の地名アイヌ語小辞典にあるが新しいアイヌ語辞典に見られない。ニペソツ川は十勝川の大支流ではあるが、大雨でもないのに流木がいつも下っているのが見えるような川があるのだろうかと思う。
岩内町の当別川(ニベシナイ)の地図 |
後志の岩内町にニベシナイ川があった。現在の当別川とされる。永田地名解はニペシュ・ナイ?(しな)皮ヲ取ル澤 『ニペシュ』ハ木ノ名方言『シナノキ』即今此木ナシ」とし、山田秀三(1984)は「nipesh-nai(しなの木・川)の意であろう。」としているが、アイヌ語の nipes は村上啓司(1978)が言うように「シナノキ」ではなく、「シナノキの皮」である。また、アイヌの人々がシナノキの皮を木が無くなるほどまで取るとは考えられない。当別川を地形図で見ると河口の右岸の尾根は標高60〜80mで250m四方の笹原の台地を為している。ニベシナイとは、この木のない笹原の台地のを指すnup[野]に付く、ヌプシナィ nup us nay[野・につく・河谷]の転訛ではなかったかと考えてみた。この推定 nup の台地を左岸とする幌内川も nup に付いていると言えそうだが、幌内川は一定の約100mの巾で右岸も左岸も急崖を為しており、この幅広の谷になっていることを言う poro nay[大きな・河谷]と言った方が特徴をよりよく言い表せていたものかと考えてみた。
だが、ニベシナイは雷電山道に先行するアイヌの人たちの道の北側の登り口であったようである。ru pa us nay[道・の口・についている・河谷]の転がニベシナイ、ru o pet[道・ある・川]の転が「とうべつ」かもしれないとも思う。当別川は雷電山道のあった尾根の内陸側で標高の高い雷電山から流れ出るので、或いは ru pe us nay[道・のかみ・につく・河谷]の転かとも考えてみる。
アイヌ語の nup はよく分からない言葉である。地名アイヌ語小辞典には「1.野。2.【ナヨロ】泥炭の原野。3.【サマニ】山中の野原。あたりに木があってそこだけが草原になっているような所。」とある。アイヌ語千歳方言辞典には「野原。平地。」とある。アイヌ語沙流方言辞典では「野、平原(陸地の中でも山でも川原でもない所)。」とある。山中の平坦地ではあるようだが木々の有無が必要条件なのかどうか、どうもよく分からない。
ニベシナイは、せたな町大成区の南の熊石との境近くにもあり現在は荷菱内川という名で、松浦武四郎が安政3年に「その名義級の木多しと云事也」としているが、海岸線を南下してくるとずっと崖の海岸であったのが、この川から南は緩傾斜地となり、長磯地区が広がる。荷菱内川は nup us nay なのかもしれないと思う。松浦武四郎はやはり大成区の富磯地区にも「ニヘシナイ」を記録しているがどの沢筋なのか地形図上で特定できない。こちらの「ニヘシナイ」も南下してくるに崖の海岸線だったのがこの沢のあったと思われる辺りより南で緩傾斜地の畑地が広がるようになるので nup us nay であったか。
屈斜路湖の仁伏温泉の仁伏(にぶし)について、松浦武四郎は安政5年の記録で「ニベシ ニブシなるべし。」としており、当時はニベシと呼ばれていたことが分かる。仁伏は仁伏川が台地の出崎の間から流れ出ている。小さな台地は現在は森林に覆われているが仁伏川のことをいうヌプシ nup us -i[野・につく・する所]の訛りかと考えてみたが、地形が小さく顕著でないと思う。「並びてセヽキベツ」とあるので屈斜路湖の浜辺で湧出する仁伏温泉(セセキはアイヌ語で温泉のこと)の浜ということの yu pis[温泉・浜]の転がニベシだったのでないかと思う。
日高の二風谷川は地形図で川の落ち口付近の特徴を見るに、山地から沙流川の河谷に出てくると沙流川左岸に広がる河原とは言えない緩傾斜地を流れて沙流川に合流する。後半はよく分からないが nup に関わる地名ではなかったと考えてみる。天塩の仁宇布(にうぷ)は ni o p[木・ある・もの(川)]ではないかとされるが、木ならどこの川辺にもあるのだから疑って良いように思われる。ペンケニウプ川落ち口の智北の辺りが緩傾斜地あり、パンケニウプ川であった美深パンケ川落ち口の班渓の辺りも緩傾斜地であるのが nup[野]ではなかったかと考えてみる。永田地名解にある十勝の士幌川流域の「ニプ ウン ナイ」が長流枝内川支流の現在のセキネザワ川であるなら、長流枝川より細い谷筋で長流枝内川の東に広がる平坦で低い台地の間に入っていく、nup un nay[山でも川原でもない所・につく・河谷]のように見える。
ニペソツ川の十勝川への落ち口の南側には、十勝川上流域にあるにしてはやや広い1km四方弱の緩傾斜地が広がる。その北の端でニペソツ川は十勝川に落ちている。この十勝川に合流する地点である緩傾斜地の根元の名で川の名となったヌピスチ nupi suci(<sut-i)[その山でも川原でもない所・の根もと(裾)]の転訛がニペソツの語源で、ニペソツ川はその緩傾斜地の根元(裾)にある川の意で、それが訛ったものではなかったかと考えてみた。「ニベショチ」の音から nup は所属形、sut は長形になっていると考えたが、nup が所属形になっている理由は考えが付かない。概念形だが響いてヌピのように聞こえたと考えて良いのか。現在伝わっている「ニペソツ」の音が書かれたのは管見で明治27年の北海道実測切図辺りからかと思われるが、北海道実測切図において、ニペソツ川は夕張図幅と足寄図幅に跨がっており、夕張図幅では「ニペソツ」だが、足寄図幅では「ニペソッ」である。sut、suci の両方用いられたのか。地名アイヌ語小辞典では sut の所属形の語尾は -i とされるが、アイヌ語千歳方言辞典・アイヌ語沙流方言辞典では sut の長形接尾辞は -u とされる。或いはヌピストゥ nupi sutu でもあったのか。
陸地の名前がそのまま川の名になっているようなのは疑問が残る。旧三石町の長く延びるごく低い広尾根の先端付近に落ち口のある延出川の名としてのヌブシユツと言った松浦武四郎の安政5年の記録もあるが、松浦武四郎の聞いたニベシヨチはヌピスチ nupi sut(-u) o -i[その陸地の山でも川原でもない所・の根もと・にある・もの(川)]の転訛で、母音が連続することで u や o が追い出されてニベショチとなり、ニペソツ川を指していたが、その後に下略されてニペソッやニペソツとなって明治時代の地形図に記されたものかとも考えてみた。或いはそれが「場所」を示していれば、その場所にある川などもその場所の名で呼べるのか。
だが、ニペソツ川落ち口の十勝川上流側にも下流側にも両岸に nup のように見える地形が続く。ニペソツ川沿いも又然りである。また、近傍のポンニペソツ川は、昔からある名前なのか、単にニペソツ川近傍の小川として名づけられたのか、よく分からないが、nup の根もとというよりは nup そのものの所を流れている。多少広いとはいえ、ニペソツ川落ち口付近の nup らしき地形を殊更に nup と捉えたと言う考えは間違っているような気がしてきた。
ニペと子音が共通する「ヌビ」で始まるヌビナイ川が十勝南部にある。大樹町尾田で歴舟川と中ノ川と三俣を成す川である。山田秀三(1984)が「ヌビナイの語義がはっきりしない。ヌピ・ナイ(nupi-nai その野原の・川)だったのであろうか。」としていて、ヌビナイ川には上流側にしばらく nup らしき地形が多々見られるが、それはヌビナイ川を分けた中ノ川や歴舟川も同じである。歴舟川と中ノ川の股の間には nup と呼べそうなごく低い鼻があるが、中ノ川とヌビナイ川の間ではない。ヌビナイ川も、nup に関わる川の名でその所属形が使われているとは考えられない。
中ノ川のアイヌ語の名は ru utur oma p[道・の間・にある・もの(川)]とされ、それを挟んだ歴舟川本流とヌビナイ川が道(ru)であったことが考えられる。歴舟川本流は山間部で遡行の難しい区間が長く続くので途中で横にそれたと考えるが、ヌビナイ川は右股なら日高山脈主稜線の近くまで河原が続き、遡行がそれほど難しくない。日高山脈主稜線を越えたソエマツ沢も困難な区間が続くがピリカヌプリの南尾根か南西尾根を下り、日高幌別川ピリカヌプリ南面沢の核心部を避けて日高幌別川に下り付くと後は比較的容易に日高方面へ出られる。このことを言った、ru-par ne -i[道の・口・である・もの(川)]がヌビナイ川の本来の名ではなかったかと考える。r が n の前で n に転化するのでルパンネイとなる。同種子音が続くと一つになることがあるので、ルパネイとなりうる。r は位置の近似から n と相通が考えられる。ヌパネイとなって意味が忘れられていれば、ヌビナイまで訛るのはあと一歩である。但し、帰りはピリカヌプリの長いヤブ尾根登りが面倒なので別ルートであったかと思われ、それゆえ、ヌビナイの名は道の「出口(put)」では考えにくいのではと考えてみる。
ニペソツ川の支流にユウニペソツ川がある。yu はアイヌ語で温泉だが、温泉はなさそうである。源頭に低くなっている鞍部があり、イシカリベツ川(これは本来のシイシカリベツ川本流で、現在のウペペサンケ山南面へ向かうシイシカリベツ川は旧図のユウヤンベツ川の名が適当と思われる)と連絡している。また、イシカリベツ川の少し下のシイシカリベツ川右岸にニペソツシントシベツ川と言う名(2017年現在)の支流が流れ込んでいるが、ニペソツシントシベツとは北海道実測切図でニペソッルト゜ラシペッと言う名で同じ位置で記されている川のことで、中程のシントとはルト゜ラの誤りと思われる。ニペソツシントシベツ川を遡って稜線を越えると、ユウニペソツ川支流のミズナシ沢に出る。十勝川の北側の十勝平野の各地からトムラウシなどの十勝川上流域、或いは石狩上川方面へ向かうには大河であり、南西側に迂回することになる十勝川に沿って移動するよりは、支流で水量がそれほど多くなく、短絡している然別川から北上し、ニペソツ川の辺りからある程度細くなっている十勝川に沿って上がる方が早かったと思われる。ニペソッルト゜ラシペッとはニベショチ/ニペソッの元の意味が忘れられてから新しく支流の名として付けられた地名で、NIPESOT-ru turasi pet[ニペソツ川の・道・に沿って上(かみ)の方へ行く・川]で、然別川から山越えして短い距離のニペソツ川を下り、更に十勝川の上流域へ向かう川である事を言ったものと考える。
ユウニペソツ川の名は、r と y は音感の近似から相通が考えられるので、ru o NIPESOT[道・ある・ニペソツ川]の転訛であったと考える。或いはミズナシ沢の方が本流の扱いであったかとも考えてみるが、但し、山越え地点の標高がニペソツシントシベツでは1190mだが、ユウニペソツ川本流の山越え地点の標高が約950mと200mも低い。ニペソツシントシベツ川を通り過ぎてユウニペソツ川本流の源頭まで回る方が距離は長くなるが、或いは北海道実測切図のニペソッルト゜ラシペッの記載された場所は十分に正確でないのかも知れないとも考えてみる。また、ニペソッルト゜ラシペッの位置は正しくて、ユウニペソッの本流はミズナシ沢であったかも知れないとも考えてみる。また、ニペソツシントシベツ川の更に下流の三の沢川からニペソツ川支流オオタ川に抜けると鞍部の標高は約1050mで、更に短い距離で行けそうである。三の沢川やオオタ川の中に通行困難な所があるのかも知れないが、或いはこれらが本来のニペソッルト゜ラシペッとユウニペソッであったのかも知れないとも考えてみる。
ニペソツシントシベツ川或いは三の沢川から山越えするにしても、ユウニペソツ川本流へ山越えするにしても、十勝川上流域或いは更に石狩上川方面へ向かうにはニペソツ川本流の短い距離を十勝川本流まで下ることは変わらない。その下ってくる場所であることをいう ru pes -ci[道・それに沿って下る・(動詞について群在・継起・継続などの意を表す)]がニペソツ川の元の名であったのではないかと考えてみる。或いは十勝川に直角的に注いでいる ru pes uci[道・それに沿って下る・その肋骨川]かとも考えてみたが、ut が山間部で使われている例を知らず、ニペソツ川は肋骨というにはグネグネに曲がっている。松浦武四郎の「ニベシヨチ」と北海道実測切図の「ニペソッ」・「ニペソツ」を合わせて考えると、後半は sut/suci/sutu[の根元]と考えるのが自然な気はするが、ニペソツ川が何の根元か説明できない。
ウペペサンケ山南面に入る、現在のシイシカリベツ川上流が旧図でユウヤンベツ川とあったのは河畔の鹿の湯などを yu[温泉]と呼んだ yu or un pet[温泉・の所・にある・川]の転訛で、この川沿いに特別の道があったというわけでは無かったと考える。
参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「足寄」図幅,北海道庁,1894.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
村上啓司,北海道の山の名〔続〕石狩岳連峯,pp84-88,132,林,北海道造林振興協会,1963.
村上啓司,北海道の山の名(五),pp84-87,30,北の山脈,北海道撮影社,1978.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
北海道庁地理課,北海道実測切図「夕張」図幅,北海道庁,1894.
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