山名考
コスマヌプリ・ツリガネ山
コスマヌプリの「コ」は「小」で「小スマヌプリ」である。小スマヌプリは大雪山や十勝岳連峰を山岳界に紹介した小泉秀雄の命名で、1918年に日本山岳会の会誌「山岳」12年2・3合併号に発表された「北海道中央高地の地学的研究」にその名が「新称」として登場する。訛音であったか、「コスマムプリ」と書かれたこともあった。「小」の付かないスマヌプリは現在(2013年)の地形図のツリガネ山(1708m)である。アイヌ語の suma nupuri[岩・山]と思われる。
コスマヌプリの名は現在(2013年)の国土地理院の地形図ではツリガネ山の南西約2.5kmの1626m峰に振られているが、この位置は小泉秀雄が命名した本来の場所ではない。1626mに振られるコスマヌプリの名の位置は、同一の山塊のすぐ西に無名の1668mの最高点があるのに奇妙な位置である。国土地理院の地形図では昭和51年発行のものからこの位置に記載されている(但し「コスマムプリ」。「コスマヌプリ」は平成3年発行の2.5万図から)。小泉秀雄の命名した小スマヌプリの場所は、現在のツリガネ山の北西約250mの、ツリガネ山の肩とでも言うべき登山道と石狩と十勝の国境稜線の走るコブの場所であった。なぜ、その場所であった小スマヌプリが現在の地形図の1626m峰の位置のコスマヌプリになったか。当時の地形図の誤った地形描写に基づいて記された小泉秀雄の前掲論文に問題があったからである。当頁では「コスマヌプリ」は現在の地形図にあるコスマヌプリとして、「小スマヌプリ」を推定した小スマヌプリの位置として用いる。
小泉の前掲論文から小スマヌプリ火山の説明を引用する。
スマヌプリの西方半里の所に小スマヌプリ火山あり(標高1615m、5330尺)。其の北面は欠損し、絶壁を以て硫黄爆裂火口に臨めり。此火口爆裂前は小スマヌプリは一大火山にして現在の山脊は火口を隔てて対岸の鋸歯状をなせる絶壁と連続せしものなるべし。火口内は草木少く赤白色を呈せり。本火山の南側南スマヌプリとの間の圏谷も亦爆裂火口なるべし。
小泉秀雄(1918)の付図 「北海道中央高地地方地形詳図」の スマヌプリ周辺(上が東) |
このほか、トムラウシ火山彙の一覧や大略の中で「新称」ということわりと共に標高や所在地の情報が記されている。20万分の1の地形図である付図にも小スマヌプリは記されている。小スマヌプリの位置、山の特徴の情報を拾ってみる。
〔1〕標高1615m
〔2〕石狩国上川郡美瑛村
〔3〕スマヌプリの西方半里の所
〔4〕其の北面は欠損し、絶壁を以って硫黄爆裂火口に臨めり
〔5〕此火口(硫黄爆裂火口)爆裂前は小スマヌプリは一大火山にして現在の山脊は火口を隔てて対岸の鋸歯状をなせる絶壁と連続せしものなるべし
〔6〕本火山の南側南スマヌプリとの間の圏谷も亦爆裂火口なるべし
〔7〕付図「北海道中央高地地方地形詳図」
〔1〕は標高である。山の標高は近年の北アルプス剣岳の標高の測り直しのニュースにもあるように正確な測定というのは現代でも難しいようで、三角点も標高点も時々変更される。変動もあるものととらえるべきなのか。しかし大きく変わるものでは無いだろう。現在のツリガネ山であるスマヌプリは当時の地形図や、この論文では1696mとなっている。
〔2〕は、この山が石狩十勝の国境稜線上の山ではなく、石狩国内の山であることを言っている。周辺のスマヌプリや同時に新称として挙げられている南スマヌプリや鹿越山が「石狩国上川郡美瑛村・十勝国上川郡屈足村」「石狩国上川郡美瑛村・十勝国上川郡」とされているのと対照的である。
〔3〕は文字では最も端的な情報と言えるかもしれないが、スマヌプリも現在の地形図にその名がないので、小スマヌプリの位置を考えるにはスマヌプリの位置を特定する必要がある。スマヌプリは北海道実測切図に記載されていて、その位置はトムラウシ(現在のトムラウシ山)とオプタテシケ(現在のオプタテシケ山)を結ぶ国境稜線上に三ヶ所ある1700m級の山の最もトムラウシ寄りの山の名として振られている。標高は1696mである。美瑛川とユートムラウシ川右岸支流が突き上げるその位置は現在のツリガネ山(1708m)である。三川台の位置も考えたくなるが、小泉は三川台と思しき位置には「奥硫黄山」の名を与え、スマヌプリを「奥硫黄山の東南方に隣し、トムラウシ火山の西南に聳立する火山」としているので、現在のツリガネ山がスマヌプリに相当する。ツリガネ山南西の1558m標高点の高まりはスマヌプリと考えるには一段低く、北海道仮製5万図でもスマヌプリ南西の無名の高まりとして等高線で別に表現されている。ツリガネ山は三川台のほぼ真南だが、当時の地形図ではスマヌプリは奥硫黄山の東南〜東南東であった。ツリガネ山の名は昭和50年発行の国土地理院の1/2.5万地形図から記載されるが、ツリガネ山の北東約480mの国境稜線上の標高1590m強のコブがツリガネのように見える形をしていることに由来するのではないかと言う。小泉や当時の地形図はスマヌプリを国境稜線上の山としているが、ツリガネ山はやや十勝側に入った位置に最高点がある。「スマヌプリの西方半里」とは現在のツリガネ山の西約2kmということである。
〔4〕の「硫黄爆裂火口」とはこの時の小泉秀雄の命名で美瑛川最上流の、ツリガネ山・三川台・兜岩などに囲まれた馬蹄形の窪地である。現代の地質図を見てもこの窪地が火口跡とはされていないが、小泉は火口跡と捉えていた様である。
〔5〕の「対岸の鋸歯状をなせる絶壁」とは美瑛川右岸の兜岩(1675m)のことと思われる。鋸歯状の切り立った岩山である。
〔6〕の圏谷とは氷河地形としての圏谷ではなく、単に懸かっている谷といった意味合いであろうか。
現在の地形図上で多少の標高の変動を考慮しても〔1〕〜〔6〕の全てを満たす地点はない。当時の地形図がスマヌプリから西の美瑛川に張り出す尾根を約二倍の長さに大きく捉えて誤っていたのが原因である。
〔7〕の付図は大正6年の作で明治20年代の北海道実測切図(道庁20万図とも呼ばれる)を元に小泉が訂正・増補した「北海道中央高地地方地形詳図」という名の20万分の1の地形図である。スマヌプリの石狩側の美瑛川へ突き出した西の尾根が北海道実測切図同様約二倍の長さに描かれており、その尾根の中ほどに小スマヌプリの名が振られる山がある。スマヌプリは国境稜線上で、スマヌプリと小スマヌプリの地図上での距離は約2kmである。実際に踏査したはずの小泉秀雄もこの誤った尾根の大きさを訂正できなかったようだ。
小泉秀雄はスマヌプリの西南に連なる現在の双子池の鞍部(小泉秀雄は「十勝越 一名 鹿越峠」と命名している)までの国境稜線の山に南スマヌプリ(約1700m)と鹿越山(1550m)を命名している。当時の地形図ではスマヌプリの西南方の双子池の鞍部までに1680m強、1700m強とそのすぐ西の1780m強、1620m強、その西で南行して1580m強の高まりが認められる。当時の北海道実測切図や仮製五万分一地形図でも、国境稜線はほぼ現在の国境稜線の波打ち具合と揃っている。現在の地形図でのコスマヌプリ(1626m)の北東約670mの1691m標高点の高まりが1680m強、現在のコスマヌプリ(1626m)が1780m強のスマヌプリと十勝越の間の当時の最高点で南スマヌプリ、その西の1668mの現在の最高点が低く見積もられて1620m強、、その南方の1560m強のコブが1580m強の鹿越山に相当すると思われる。
現在の地形図でのコスマヌプリ(1626m)はツリガネ山の西南約2.5kmで北側に崖がある。〔3〕と、〔4〕の前半だけに拠れば、現在のコスマヌプリが小泉の小スマヌプリとなりそうだが、小泉の記した硫黄爆裂火口は美瑛川最上流の、現在のツリガネ山・三川台・兜岩で囲まれた窪地であり、現在のコスマヌプリの位置では硫黄爆裂火口に臨む事は出来ない。コスマヌプリの山塊でコスマヌプリ(1626m)の西の無名の最高点である1668m標高点も北西側が崖になっているが、ここまで西に進むとツリガネ山との距離は3kmを超えるので「西方半里」とは言えなくなる。コスマヌプリはツリガネ山同様に国境稜線からやや十勝側に張り出した位置に最高点があるが、この事はスマヌプリ(ツリガネ山)より早く無名であった大正11年発行の地形図から等高線では正確に描写されていた。
北海道仮製五万分一地形図と現在の地形図を重ね合わせると小スマヌプリに相当しそうなのはツリガネ山の西の尾根の、ツリガネ山から西へ約1.3kmの1495mのコブである。だが、ここも硫黄爆裂火口に臨まない。北側も欠損していない。標高も小泉が書くより100m以上低い。ツリガネ山の北西の尾根の先端の、ツリガネ山の西北西約1.6kmの1430m強のコブなら鋸歯状の兜岩の正面となるがやはり標高が低く、仮製図の地形描写での小スマヌプリの位置に合わず、標高も低い。
北面が欠損し、硫黄爆裂火口に面し、スマヌプリの西方で、スマヌプリとの標高差が100m弱程度なのは現在の地形図で国境稜線と登山道の通るツリガネ山最高点から北西約270mの標高1700m強のツリガネ山の肩のコブである。このコブを小スマヌプリと考えると、小泉が国境稜線上の山と捉えていたスマヌプリである最高点のツリガネ山が十勝側の山と言うことになる。スマヌプリの西方半里と言う条件は満たせないが、これは当時の地形図に定規をあてて小泉が算出した距離と考えれば説明が付く。南スマヌプリの間に爆裂火口かもしれないと思われる谷があると言う条件も満たせないが、当時の地形図での小スマヌプリと南スマヌプリの間の谷は顕著な馬蹄形に描かれ、ツリガネ山からコスマヌプリの稜線の北西斜面もほどほどに荒れたものであり、小泉が爆裂火口かもしれないと考えたとしても無理はない。小スマヌプリの北面の欠損や火口内は草木少なく赤白色を呈するといった他の地貌の表現は小泉が実際に見た記憶に基づくものである。スマヌプリのすぐ横のコブを小スマヌプリと命名するのも自然である。現在のコスマヌプリは標高こそツリガネ山より80m程低いが山体は1668m標高点の無名峰と一体でむしろツリガネ山より大きい。
小スマヌプリとスマヌプリが近くて細か過ぎるという見方もあるかもしれないが、小泉秀雄は小スマヌプリを硫黄爆裂火口が開く前は兜岩と連続する「一大火山」であったとしている。そうした視点から名付けられた山名と捉えれば、細か過ぎると言うことはない。尤も小泉秀雄は現在の三川台を奥硫黄山としているのは先に記したが、硫黄沼の北方の高まりを中硫黄山、西方の高まりを硫黄山とするなど当時の地形図上の高まりに細かく山名を付している。鹿越山なども細かい山名と言うことになるだろう。小スマヌプリ火山の小泉の説明の中にある「火口内は草木少なく赤白色を呈せり」の火口を十勝岳などの火口の姿と比較して考えるとコスマヌプリの北側のカール状の窪地がその火口と捉えられたかとも考えたくなるが、直前で「此火口(硫黄爆裂火口)爆裂前は小スマヌプリは一大火山」とされ、後に続く「南スマヌプリ山との間の圏谷も亦爆裂火口なるべし」とされる文脈から考えるに、この草木の少ない赤白色の火口とは美瑛川源頭の「硫黄爆裂火口」である。
小泉秀雄当時の地形図 北海道実測切図より縮尺の大きい 北海道仮製五万分一図を用いた。 地形の描写と地名は1/20万の 北海道実測切図と相似である。 |
犬飼哲夫(1965)は、小泉秀雄の小スマヌプリを、コスマヌプリの西2.5kmの1470m標高点のコブと比定しているが、このコブは尾根の分岐がスマヌプリではなく南スマヌプリの西の峰(1668m)で北海道中央高地地方地形詳図の小スマヌプリの位置よりかなり西に偏っており、標高も1615mより100m以上低く、このコブを小スマヌプリとするのには肯んじ得ない。
小泉秀雄の手を離れた小スマヌプリは短期間で現在のコスマヌプリの方に移ってしまったようである。昭和6年の「北海道の山岳」(晴林堂)には「オプタテシケ山・・・其の東北には小スマヌプリ(1671米)スマヌプリ(1710米)が連なり・・・」とある。小スマヌプリとスマヌプリは国境稜線に対して横に張り出す関係にあるので、小スマヌプリをツリガネ山の西の尾根上のコブと捉えていればこのような記述になるはずはない。「1671m」は大正11年発行・昭和22年発行の地形図での現在のコスマヌプリ西方の無名峰(1668m)の標高である。「北海道の山岳」には南スマヌプリや鹿越山の名が登場せず、既に小スマヌプリは1668mの小泉の南スマヌプリの更に西の位置と考えられていた。昭和52年発行の地形図からの現在のコスマヌプリ(1626m)の位置は「西方半里」によってこうした見方が修正された位置と思われる。小泉秀雄が小スマヌプリの名を発表した3年後の大正10年測図で、6年後の大正13年発行の陸地測量部の地形図ではスマヌプリの大き過ぎる西尾根・北西尾根は現在の地形図とほぼ同じ大きさとなっていたが、道庁20万図・北海道仮製五万図にあったスマヌプリの名は消えていた。この大正13年発行の地形図にはまだ誤りがあり、後にツリガネ山となるスマヌプリであった1710m峰の最高点を狩勝国境が通り、小スマヌプリに相当するコブは描かれていなかった。最新の地形図にその名も関連する地名も無く、相当する地形も描かれていなくては小スマヌプリの場所が不明になってしまうはずである。現在の地形図のように1710m峰(=ツリガネ山)の山頂が国境から外れて十勝側に入るように描かれるようになったのは昭和36年発行の地形図からであった。
「ツリガネ山」を括弧書きにしてツリガネ山の名を「スマヌプリ(ツリガネ山)」に、コスマヌプリを小スマヌプリとして元の位置に国土地理院の地形図に記して欲しい気もするが、小スマヌプリ(コスマヌプリ)の位置が移動してからの方が元の位置であった期間より遥かに長くなってしまっているので、今更変更するのも野暮のような気もする。が、犬飼哲夫(1965)の「最初の銘名者(ママ)小泉氏の意見を尊重するのが合理的」であるというのも尤もである。南スマヌプリは現在のコスマヌプリの位置に相当したが、小泉秀雄の「スマヌプリ山の西南に連続して聳立する二三の小火山の如きものあり。スマヌプリに隣するを南スマヌプリ山(約1700m)と称し、その西北(ママ)に接するを鹿越山(1550m)と云ふ。」という命名の文脈を考えると、二三の小火山の如きものの最高点と言う意味で、犬飼哲夫(1965)がするように、山塊の最高点であるコスマヌプリの西の1668mに移された方が良いような気もする。
実際に歩き回っているはずの小泉秀雄が、道庁20万図の大きく誤った地形描写をどう捉えていたのか、「北海道中央高地の地学的研究」の小スマヌプリの項を書きながら何を思っていたのか気になるところではある。北海道実測切図・北海道仮製五万分一地形図の小泉秀雄が小スマヌプリとした1615(1614.7)mのスマヌプリの西の尾根のコブには、スマヌプリにも無い岩峰の表示がされているが、兜岩に相当する箇所は緩やかな稜線としてのみ描かれている。現在の地形図でのツリガネ山・コスマヌプリ・三川台の一帯で顕著な岩峰は、小泉秀雄が「鋸歯状」と記した兜岩しかない。測量した北海道庁としては兜岩を美瑛川左岸のスマヌプリの西の尾根上と誤認していたのではなかったか。鋸歯状の絶壁が美瑛川の右岸であると分かっていた小泉秀雄はその誤認に気付かぬまま兜岩ほどには岩山でない小スマヌプリを地図上の美瑛川左岸の岩場マークの1614.7m峰とみなし、命名して説明していたのではなかったか。大正13年発行の地形図では1710m峰(スマヌプリ/ツリガネ山)の美瑛川への西尾根に岩場のマークは無く、兜岩に相当する岩場は美瑛川の右岸に正確に描かれていた。
北海道中央高地地方地形詳図では、縦走路である「通行シ得ベキ所」の点線がトムラウシからスマヌプリに掛けて、奥硫黄山(三川台)に寄るなど、当時の等高線の地形描写の誤りを無視して比較的正確な位置に描かれている。登山道は当時とそう変わっていないであろうから、「通行シ得ベキ所」の点線が小スマヌプリの山頂を通っていないのは、小泉秀雄が小スマヌプリを現在のツリガネ山の国境線上のコブとは考えていなかった故のようにも思われる。しかし、縦走路はスマヌプリの山頂を通っていないのに同図では「通行シ得ベキ所」の点線が実際には通っていないスマヌプリ(ツリガネ山)山頂を通っている。南スマヌプリの南側を通っているのも実際はコスマヌプリの北側を掠めているのだから実際と異なる。この図に小泉秀雄がどこまで「正確を期せた」と満足できたのか、後から考察してもその程度がよく分からない点である。
ツリガネ山のアイヌ語の名のスマヌプリから考えられるアイヌ語 suma nupuri の suma[岩]が、どこを指しての「岩」か考えてみる。ツリガネ山は全体的にはやや鈍重な山容で表面は岩礫帯とハイマツ帯のミックスだが、suma を岩礫帯の岩と考えるには、周辺のオプタテシケ山やトムラウシ山、コスマヌプリにも岩礫帯は同様に広がる。北側が欠損し岩肌が露出して、兜岩ほどではないがツリガネ山の角のように横に尖る小スマヌプリがスマヌプリのスマ(suma)かとも考えてみたが、ツリガネ山の一角に過ぎずランドマークとは言い難い。この辺りで最も目立つ岩山である兜岩が本来のスマヌプリではなかったかと考えてみる。兜岩が本来のスマヌプリであったとすると、明治の地図でのスマヌプリの場所も、小泉秀雄の小スマヌプリという新称の提案も不適当だったと言うことになる。コスマヌプリもまた然りである。「銘名者」の意図に沿いたい所ではあるが、命名に依拠した資料が精度不十分なだけでなく不正確であった疑いがある。ツリガネ山の名を「スマヌプリ(ツリガネ山)」としたり、ツリガネ山のコブを「小スマヌプリ」としたり、1668m峰を新たに「南スマヌプリ」としたりせず、更に馴染みのある山名で残念な気はするが今の位置のコスマヌプリという山名は無かったことにした方が良いのでないかと思う。兜岩が本来のスマヌプリであるとするにも根拠がまだ足りない。北海道庁の明治時代の測量記録の、スマヌプリの名と岩場の位置情報を見直すことは出来ないものかと思う。
参考文献
小泉秀雄,北海道中央高地の地学的研究,pp205-452,12(2・3),山岳,日本山岳会,1918.
北海道庁地理課,北海道実測切図「上川」図幅,北海道庁,1896.
北海道庁地理課,北海道実測切図「夕張」図幅,北海道庁,1894.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「トムラウシ」図幅,陸地測量部,1898.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「十勝川上流」図幅,陸地測量部,1896.
犬飼哲夫,北海道中央山系 中部連峯の名称,pp53-55,162,林,北海道造林振興協会,1965.
田中三晴,北海道の山岳,晴林堂,1931.
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