幌消末峰広域地図山名考

幌消末峰
ぽろけしまっぽう

 松浦武四郎の安政5(1858)年の沙流川筋の記録に「ホロケシヨマ 西岸大岩の平の下に有小川也。よつて号る也。」とある。地形図(2020年現在)を見てもポロケシオマップ川は沙流川右岸の崖のすぐ下(南方約300m)で合流しているのが見て取れる。衛星写真(GoogleMap)で見ると現在のこの崖は植生に覆われているが、国土地理院の1970年代の航空写真では土の崖になっているのが見てとれる。

 明治24(1891)年の永田地名解は「Poro kes omap ポロ ケ オマ 夥多ノ茅ノ端ナル処」としている。日高国内の地名はアイヌ古老に聞いたとされるが、今の幌去のポロサラが「夥多ノ茅」と訳されているので「サラ(sar[葦原])」の入っていないポロケオマが夥多ノ茅ノ端ナル処となるのは無理がある。

 明治26(1893)年の北海道実測切図にはポロケシオマップ川が「ポロケシュオマ」とある。

 大正4(1915)年の山頂に置かれる三角点の名は、点の記で「幌消末峰」で「ポロケシマップ」とフリガナがあった。「ポロケシマッポウ」の山名は三角点名が記載される林相図から幌消末峰を意図的かどうかは分からないが、山名らしく読み替えたものだろう。

 松浦武四郎の聞き取りで最後に「プ」がないことと、崖の下から奥深く入り込みながら相応の活動域となる広い河谷を持つ長い川であることから、アイヌ語の 〔pira okesi〕 mak[崖・の裾・のうしろ]が、ポロケシオマップ川の元の名であったと考える。今の地形図と1970年代の航空写真からポロケシオマップ川落ち口北方約300mの崖を pira と推定するが、国道のすぐ脇の所で、落ち口から沙流川本流の河谷が広がるので、アンテナなどを設置する為の削平地を設けたことに伴う近代以降に出来た崖の可能性が捨てきれない気はする。


ポロケシオマップ川落ち口付近の地図

 ポロケシオマップ川落ち口の向かいに落ちるピラチンナイ(ピラチナイ川)は「其名義平(ピラ)の傍に川口有りと云義のよし也」と松浦武四郎の安政5年の記録にあり、上記の崖に基づく地名のようにも思われる。pira ca un nay[崖・の傍・にある・河谷]と考えると記録の通りとなりそうだが、上記の崖の対岸である。ピラチナイ川左岸の上記とは別の崖(上の地図で「ピラチ」の地形図の元の字がある辺り)の傍らにある河谷ということか。

参考文献
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
北海道庁地理課,北海道実測切り図「沙流」図幅,北海道庁,1893.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.



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(2020年8月2日上梓)