山名考
イヨクウシヌプリ
下佐幌西五線付近広域地図 |
下佐幌西五線付近地図 |
新得町の下佐幌西五線の佐幌川対岸の山。北海道仮製五万分一図に「イヨクウシュヌプリ」とあるが、昔の地形図で精度が粗く、今のどのピークを指しての山なのかはっきりしない。鎌田正信(1995)は365.3mの二等三角点「清水」のある頂としているが、その東約600mの212m標高点のコブの名のようにも見える。渡辺隆(2015)は鎌田正信(1995)の山の位置を追認しているようである。永田地名解はイヨクウシュヌプリを「後背ノ山?」と疑問符をつけて和訳している。永田地名解の十勝国上川郡分は「故老あいぬニ値ハサルヲ以テ調査シ難シ止ムヲ得ズ地図ニ依リテ訳ヲ下セリ」とあり、地元のアイヌ古老からの聞き取りではない。
だが、この時代、内陸の地名を記した、永田地名解と同じ北海道庁による北海道実測切図に先行する普及した地図は松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図くらいしか無かったと思われる。東西蝦夷山川地理取調図にない山名「イヨクウシュヌプリ」が編集中であった北海道実測切図の下図に依っていたのなら、アイヌ語地名は測量に動員された地元のアイヌの人の発音を北海道庁の測量の人たちが聞き取ったとも考えられそうである。北海道仮製五万分一図は北海道実測切図の為の測量結果を元に作られている。新得や人舞の和人入地が始まっていない明治22年の調査で十勝国上川郡の「故老あいぬニ値ハサル」と永田地名解が書いたのはどういうことなのか、疑問が残る。十勝西部のアイヌの人たちは明治維新後の文明開化に和人入地前から適応的であったようなのだが、だからと言って古老の知識が一掃されてしまっていたということはないと思う。
松浦武四郎の安政5年の記録では佐幌川筋の地名として聞き書きで「ヨウコウシ」で、「両岸平(ピラ)にて中に滝有るよし也」とある。
「後背」から思い浮かぶアイヌ語は位置名詞の mak だが、イヨクウシュヌプリの中に mak に相当しそうな音が入っていないのが気になる。永田地名解のイヨクウシュヌプリの一つ前の項はイワシュマケシュペッで「岩下川」と訳される。シュマが suma[石]、ケシュが kes[の下端]、ペッが pet[川]と解したのだろうが、冒頭のイワの部分が訳されてなさそうである。
イワシュマケシュペッは今のイワシマクシュベツ川で、松浦武四郎の記録ではイワヲシマクシベツとあり、「此川に硫黄有るよし。イワヲシュマは硫黄の有る岩也。クシは有る儀也。」とあるが、アイヌ語のクシで「有る」という意味になりそうな語を辞典等に確認できない。
イワシマクシュベツ川は佐幌川落ち口から遡ると北海道仮製五万分一図の言う所のイヨクウシュヌプリの後ろ側に入り込む。イワシマクシュベツ川は iwa osmak us pet[霊山・の後ろ・につく・川]で、佐幌川右岸縁に聳える365.3mの二等三角点「清水」の山が iwa[霊山]で、その後ろについている川ということであり、この霊山の出尾根のコブ(212m標高点)の下の辺りということの iwa-ok ous[霊山のうなじ・の麓]ということがヨウコウシ/イヨクウシであったと考える。明治期の地図等でイヨクウシュと語末がシでなくシュなので長形の ousi ではなく 短形の ous と考えておく。ous の語末は今時のアイヌ語のカタカナの書き方では小文字のシであり、当頁のタイトルでも「シ(シ)」としておく。ポンカムイコタンとも言われる所で、難所であったがゆえにすぐ上の山が霊山とされたかと考えてみる。鎌田正信(1995)は、イヨクウシュヌプリの元は yuk-us-nupuri(鹿が・多くいる・山)としているが、鹿がこの山に殊更多くいるとは考えにくい。
永田地名解の「後背ノ山?」はイワシュマケシュペッに関連してイヨクウシュヌプリを「イマクウシュヌプリ」或いは「イワマクウシュヌプリ」の訛音か誤記と考えたのではないかと疑ってみる。
明治期の地図で今の南新得川らしきヨウコウシ上手の佐幌川右岸支流に振られたイヨクウシュペカヤンナイは iwa-ok ous peka yan nay[霊山のうなじ・の麓・を・上がる・河谷]で、斜面が迫って滝もある難所だが川中を通らざるを得ないヨウコウシを通過した後、佐幌川筋の右岸の平地に上がる河谷のことであったと考える。南新得川の上佐幌川対面付近に落ちる旧河道ではなく、今の根室本線の線路沿いを南下する新河道の落ち口で落ちているように仮製五万図に描かれていた一本下手の地図上で無名扱いであった小流のことがイヨクウシュペカヤンナイだったのではないかと考えてみる。その小流でも今の南新得川でもヨウコウシの所の「山の上」に上がる谷筋とは考えにくいので、イヨクウシュペを山名と捉えて IYOK’USPE ka e- yan nay[イヨクウシュペ・の上・そこに・上がる・河谷]のように考えることは出来ないと思う。
同じく明治期の地図で佐幌川右岸のヨウコウシの下手に振られるイヨクウシュウンプトカムイは iwa-ok ous un put -ke oma -i[霊山のうなじ・の麓・の・出口・の所・にある・もの]で、何らかのヨウコウシの佐幌川右岸下手側の目印になる地形のことだったのではないかと考えてみる。或いは212m標高点のコブのことでないかと考えてみる。
北海道仮製五万分一図のイヨクウシュヌプリは、ヨウコウシの所の山ということで、単に iwa[霊山]であったのが往来する所であるヨウコウシの存在の方が大きくなって忘れられ、ヨウコウシ(イヨクウシュ)に nupuri[山]をつけて呼ばれるようになったのではないかと考えてみる。三角点「清水」の山は西約1qの433m標高点の頂、更に西約2qの547m標高点の頂の方が同じ山塊で高いが、難所のヨウコウシのすぐ上の山ということで、また433mと547mの所ではイワシマクシュベツ川が後ろに入り込んでいるとは言えなくなるので、三角点「清水」の365.3mの山がイヨクウシュヌプリであったと考えておく。
参考文献
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「クッタラウシ」図幅,陸地測量部,1896.
鎌田正信,道東地方のアイヌ語地名,鎌田正信,1995.
渡辺隆,山の履歴簿 第2巻,北海道出版企画センター,2015.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
角川日本地名大辞典編纂委員会,角川日本地名大辞典1 北海道 上巻,角川書店,1987.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
更科源蔵,アイヌ語地名解(アイヌ関係著作集4),みやま書房,1982.
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