羊蹄山
羊蹄山
銀山から

山名考

羊蹄山

 羊蹄山の省略されない山名として深田久弥が日本百名山で日本書紀にあるからと強く推す「後方羊蹄山(しりべしやま)」であるが、「羊蹄山」も決して否定されるものではない。そもそも日本書紀に「後方羊蹄山」などと言う山名は記されていない。あるのは政所の置かれる場所としての後方羊蹄のみである。最初に日本書紀の斉明紀にある後方羊蹄(しりべし)を羊蹄山周辺のシリベツということにしたのは新井白石(蝦夷志・享保5(1720)年自序)と言われ、新井白石の蝦夷志には斉明紀の引用に割注で「後方羊蹄読云シリベシ。即今西部シリベチ地也」とあるが、斉明紀にある後方羊蹄の位置は現代においても諸説があり、後方羊蹄が尻別と言う確証はない。後志という国名が決められたのは松浦武四郎の建白による明治2(1869)年のことで、その建白書の中で後方羊蹄の登場する斉明紀を引用しているが、蝦夷通で知られた勉強家の松浦武四郎は新井白石の蝦夷志には当然目を通していた。

 寛政3(1791)年に蝦夷地を紀行した菅江真澄は羊蹄山を「後方羊蹄山(日本語の振り仮名はシリベシ、アイヌ語の振り仮名はシリベツ)」と書きながら、後方羊蹄山は現在の青森県の岩木山だろうと書いていた。また、「マカルベツノノボリ」と山麓に住むアイヌからの呼称を記している。菅江真澄がどこから後方羊蹄山という5文字を拾って来たのかが分からない。新井白石の蝦夷志や、蝦夷志の引用する斉明紀には「後方羊蹄」の四文字はあっても「後方羊蹄山」という五文字の山名は出てこない。松前広長の松前志(1781)の中に「後方羊蹄山」の五文字があるが、それを見たのだろうか。菅江真澄は松前藩上層と懇意にしていた。

 松前藩の重臣で、松前藩きっての碩学といわれる松前広長は松前志の中の愚考新図大略で今の羊蹄山を「羊蹄山(シリヘシ)」と振り、松前志の本文では「本名羊蹄」と書き、他の山の説明で「是は羊蹄山より小嶽なり」などと書いて、江戸時代後半には既に羊蹄山と言う呼称が通用していたことが分かる。また、「人皆羊蹄山と云ふは誤りなりと云ふ。実否未詳。」ともあり、「ようていざん」或いは「ようていさん」と呼びながら、それは本来の名ではないと言う議論が当時からあったことが窺える。松前志には「日本紀に後方羊蹄山と出たるは是なりと云」ともある。日本紀とは斉明紀を含む日本書紀の別称である。この松前志の記述と日本百名山に「斉明朝五年にすでに後方羊蹄山と記された歴史的な名前である」とあるのは引用として正しくない。日本百名山が内容を引く松浦武四郎の興を添える脚色が入るとされる後方羊蹄日誌も、後方羊蹄に登ったとは書いているが、後方羊蹄山の五文字は本文に出てこない。松浦武四郎の記録で羊蹄山を「後方羊蹄山」の五文字で書いているのは全てではなく、「羊蹄山」の三文字でも記している。弘化2(1845)年の初航蝦夷日誌では虻田の山手から「臼沼(洞爺湖)をこへて羊蹄山よく見え」とし、弘化3(1846)年の再航蝦夷日誌では尻別川を「此川恐らくは東部より見ゆる羊蹄山より落るが故に此名有るかと思わる」とし、尻別河口から北へ船で向かい「海中半り斗乗出セしが、彼羊蹄山波濤の如き連山越して白を頂きて突出」としている。安政3,4,5(1856,57,58)年の報文日誌では和名を「後方羊蹄山」で統一したらしい松浦武四郎は、一度は本来の名だという後方羊蹄山としておこうと考えたのだろうが、内陸の案内はアイヌの人々しかし得なかった弘化の頃に船乗りや海岸沿いなどに住む和人は普段使いで「羊蹄山」と呼んでいたのは間違いない。更に松浦武四郎は万延元(1860)年跋の東西蝦夷山川地理取調図でも「後方羊蹄山(シリベシ)」としたが、安政6(1859)年の後方羊蹄日誌では羊蹄山を「後方羊蹄」としかしなかったのは、斉明紀に絡めてシリベシ山とするのを安政までに見聞きしていたが、斉明紀に「後方羊蹄山」という地名が無いのを自身で確認して、「後方羊蹄山」とすることに躊躇があったのではなかったかと考えてみる。

 日本百名山で内容を引く牧野富太郎の植物随筆(植物随想/植物記)には「後方羊蹄山」の五文字があるが、これは東西蝦夷山川地理取調図などから引き継がれた当時の地形図に書かれていたものを引いたのであって、牧野富太郎は斉明紀と後方羊蹄日誌からは「後方羊蹄」の四文字だけを引いている。正確な引用である。江戸時代から現代に掛けて刊本があって比較的入手しやすかった日本書紀を引用するに、松前志と日本百名山は文芸としてならともかく引用に問題があり、考証になっていない。「羊蹄山」が「後方羊蹄」の訓を知らずに前の二文字を略した山名であることは間違いないのだろうが、松前志には既に山上に羊の蹄の跡があるという語源俗解も記されている。新井白石の蝦夷志を意識して、期せずして「後方羊蹄山」の名に力を与えたのは松前広長だったのかも知れない。蝦夷志より28年ほど後の日本書紀通証も後方羊蹄を「疑此今、蝦夷島志利邊知也 有山曰尻別嶽」と、更に40年ほど後の書紀集觧でも「検蝦夷地図、第一高山曰斯梨蔽都山、又曰斯利邊之、蓋此地」とあり、新井白石より前にも斉明紀に拠って後方羊蹄は尻別川周辺にあったと主張していた人がいたのかもしれない。更に後方羊蹄の代表的な山だから羊蹄山を後方羊蹄山と呼ぶべしと主張していた人がいたのかもしれないが、そうした不確かな情報を地元の人が噛み砕き、現代まで使われてきた歴史のある「羊蹄山(ようていざん)」の呼称である。

 シリベシが解明されていないアイヌ語地名だとしても、船で訪れた和人が異民族の地に一時的な政所を置いたのだから、その発祥は深い内陸の羊蹄山の麓のような所ではなく河口での川の名か海岸近くの地名であっただろうと考える方が自然な気がする。その40年ほど後までに述作された斉明紀が「蓋蝦夷郡乎」として約1000年後の蝦夷志が何の根拠も示さずに音の違うシリベチだとしても説得力はない。斉明紀の後方羊蹄がどこを指しているのかは明らかでない。1600年代に蝦夷に渡った新井白石の説を知る筈のない僧・円空の書いた「しりべつのたけごんげん」は権現と言う言葉自体が和人の視点だから、蝦夷地内陸に殆ど入っていなかった和人が海上からでも大きく目立って望めた羊蹄山の権現だろうが、ここでもシリベシではなくシリベツである。後方羊蹄の比定が判然としない内から、羊蹄山の「正式名称」が後方羊蹄山と主張するのはどうなのだろうか。国土地理院の地形図への記載をもって正式とするならば、正式名称は地元の声を受けた「羊蹄山」である。「しりべつだけ」と「しりべしやま」が生活圏に並存する紛らわしさは想像に難くない。現代の地元の人は羊蹄山(ようていざん)と呼んでいるのだから少なくとも日本語名は「羊蹄山(ようていざん)」である。

 マツカリヘツノホリ・マチ子シリ・ホロノホリと、近世までのアイヌ語の羊蹄山の名の記録は幾つかある。どの呼び方がアイヌの人々の間で最も膾炙していたのかはよく分からないが、菅江真澄が書いた呼称にも近いマツカリヘツノホリやマッカリヌプリがそうなのかもしれない。先住民の名づけた地名が分かっているならばそれを優先するのは世界的潮流である。私自身がアイヌ民族では無いので口を出すのはおこがましいが、マッカリベツヌプリやマッカリヌプリと言う山名には、羊蹄山を北から回り込む尻別川本流の流路に対して裏手の南側から回り込む処であることをアイヌ語で言った、mak kari -i[後ろ・を通っていく・もの(川)]、或いは mak kari[後ろ・を通っていくこと]、また、mak kari pet[後ろ・を通っていく・川]と考えたい、真狩川の名が先にあり、羊蹄山のある処の川のあり方を言った「マッカリ」を用いるのではなく、山の姿をシンプルに表現したポロヌプリ poro nupuri[大きい・山]を自然地名として第一に、人文地名としてマチネシリ matne sir[女の・山]を第二に推したい。

 kari の訳語をイタリックとしたのはアイヌ語辞典等に見ていないからである。見たのは後置副詞や格助詞とされる kari と、同じく後置副詞や格助詞とされる pes の地名アイヌ語小辞典での他動詞としての意味と ru pes pe のような pes を他動詞として考えざるを得ない例で、kari にも pes と同様に他動詞としての用法があったと推定した。mak kari pet[その後ろ・回る・川]と考えると、真狩川の後ろと言う真狩川とは別の所が回っている川と言うことになりそうな気がするが(回る意の kari は自動詞なので mak pet に所属する)、真狩川の後ろと言えそうな所は地図で見る限り回っているようには見えない。語末がアイヌ語の pet を指す「ヘツ」の地名が多くある中で真狩川と思しき地名を「ワツカリベ」や「マツカリヘ」とするものがある。kari は開音節で終わるので、閉音節に付く「もの」の pe の mak kari pe はありえない。真狩川下手の尻別川左岸支流で屈曲の少ないルベシベ川筋が夏場の後ろを通っていくルートで、その上手(pe)が真狩川のマッカリペなのか。ワッカリベ/マツカリヘについては更に考えたい。

 また、日本百名山に書かれる松浦武四郎の江戸時代の羊蹄山冬季登頂の件も史実ではない。深田氏の頃は松浦武四郎の後方羊蹄日誌の凡例に「其密を閲玉ハんと欲するの人は、原稿八冊を読玉へ」とある、箱館奉行所に納められた報文日誌や松浦武四郎の自宅に残されたその稿本の翻刻は行われておらず、後方羊蹄日誌に明確な脚色が入っていることがそれほど知られていなかったので、後方羊蹄日誌の「後方羊蹄登頂」の記事と合わせて彼の記述につながった背景はまだ理解できる。羊蹄山を後方羊蹄山とする登山者はまま見られるが、そろそろ古典となる本の記述の文学的持ち味を史実と区別せず、地元の生活者の視点を考えずに墨守するのは日本百名山に込められた後記にある「山の歴史を尊重する」精神とは違うのではないかという気がする。

参考文献
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菅江真澄,内田武志・宮本常一,蝦夷迺天布利,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1971.
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋,日本書紀 下(日本古典文学大系68),岩波書店,1965.
松前広長,松前志,蝦夷・千島古文書集成 第1巻,寺沢一 他,教育出版センター,1985.
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松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,冨山房,1970.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
牧野富太郎,結網植物漫筆 その六,pp898-902(82-86),4(8),科学知識,科学知識普及会,1924.(後方羊蹄日誌には言及無し)
牧野富太郎,植物記,桜井書店,1943.
山崎美成,海録 ―江戸考証百科ー,ゆまに書房,1999.
谷川士清,日本書紀通証 3,臨川書店,1988.
河村秀根,書紀集觧 下巻(国民精神文化文献5),国民精神文化研究所,1937.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
森博達,日本書紀の謎を解く 述作者は誰か(中公新書1502),中央公論社,2000.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.



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(2011年5月15日リニューアル 2018年3月1日改訂 2023年6月15日改訂)