山名考
砂原岳
渡島駒ヶ岳の外輪山の北の一峰の名である。山麓の砂原に由来する。
駒ヶ岳はカヤベヌプリ・エパロヌプリとも云ったと言う。渋江長伯の東遊奇勝の八雲町のシラリカ川付近からの挿絵では「シヽノホリ」とある。本文では「セウツペ山」「セウペ山」と言う名で「焼山なり」と説明されているのが砂原岳に相当するのではないかと思う。鹿部町にシシベと言う地名があった。シシベの水源としてのシシノホリであったか。横津岳から流れ出る精進川の名と、横津岳の南斜面の一角に山名が振られる庄司山の名が気にかかる。
新日本山岳誌(2005)は「砂原岳の山名はアイヌ語の「サラキ」(鬼茅)で『弘前蝦夷志』に「『サラ』は尾なり駒ヶ岳噴火の時この沙尾なす」とある」とするが、この説明は砂原岳の山の名ではなく山麓の砂原と言う地名の説明であり、それを明記していないのはいささか省き過ぎのように思われる。これだけではアイヌ語のサラキ(鬼茅)と、弘前蝦夷志のサラ(尾)がどうして結びつくのかも分からない。尾もアイヌ語でサラ/サラなどというが、鬼茅は sar-ki(葦原・カヤ)と分解される。新日本山岳誌のサラキ説と弘前蝦夷志の引用は有名な永田地名解(永田方正による北海道蝦夷語地名解)からと思われる。永田地名解の砂原の説明は以下の通りである。
永田地名解では弘前蝦夷志に「サラ」とあるが、弘前蝦夷志が「サラは尾なり、駒ヶ岳噴火の時この沙尾なす」としているのかどうかは不分明である。新日本山岳誌は弘前蝦夷志にあたって、上の記述となったのか。
山田秀三(1984)は永田地名解のこの記述に対して「と二つの説を紹介したに止まっている。要するに相談相手になるアイヌ古老もいなかったのではなかろうか。」と、やんわりと否定し「もしかしてただサラ(sar 葭原)だったかもしれない。砂地なので日本語で砂原と書かれていたのがもとだったのかもしれない。分からない地名である。」としている。山田秀三(1984)はもう一つの説を挙げる。上原熊次郎によるアイヌ語の sara[あらわれる]に由来すると言うものである。尤もそれも「自信のなさそうな書き方である」と、やんわりと否定している。
サラキは永田地名解によると天明8(1788)年の蝦夷管窺と寛政11(1799)年の蝦夷紀行にあり、永田地名解はこれに従って砂原の語源をサラキ(鬼茅)としたということである。蝦夷管窺は国書総目録にもその名が無く、どういう資料なのかすぐに分からない。蝦夷紀行は国書総目録に複数あるが、Saraki の説明の蝦夷紀行が誰の手による蝦夷紀行なのかが永田地名解には書かれていない。砂原町史(2000)でも永田地名解の砂原の語源がサラキとの解釈に言及しているが、天明8(1788)年の蝦夷管窮(ママ)と寛政11年の蝦夷紀行が誰の手によるものか書いていない。
永田地名解の渡島のサラキの項には「寛政十一年蝦夷紀行」と書かれている。渡島や胆振の他の項では「寛政十一年谷元旦著ス蝦夷紀行」などと少し詳しく書かれているものがある。他にも単に「蝦夷紀行」としか書いてないものがあり、それらも合わせて永田地名解に引用される蝦夷紀行を数えてみると二十八カ所ある。永田方正は北海道庁の仕事として永田地名解をまとめたので北海道庁旧蔵の谷元旦の蝦夷紀行を参照したかと思われるが、活字化されている底本を函館市図書館本とした谷元旦の寛政11年の蝦夷紀行である蝦夷蓋開日記を見ると引用箇所は、二十八ヶ所中二十四ヶ所で殆ど一致する。永田地名解砂原サラキ説の蝦夷紀行は谷元旦の寛政11年の蝦夷紀行を第一に考えて良さそうである。ところが蝦夷蓋開日記で砂原は「サハラ」「サワラ」などとあるがサラキとは書いていない。同じ寛政11年の遠山景晋の未曾有記でも砂原はサハラ/サワラなどとあるが、サラキとは書いていない。やはり寛政11年の鈴木周助の蝦夷地開発記では砂原は「佐原」とあり、現在の砂原岳の名に通じる駒ヶ岳を指しての佐原山と言う山名も記されている。谷元旦の蝦夷紀行だが、谷元旦は画家であり、蝦夷紀行の文章は殆ど同行の渋江長伯によるものを元にしているようである。渋江長泊の自筆本の蝦夷紀行(東遊奇勝)でも砂原はサワラである。永田方正の参照した谷元旦の蝦夷紀行がどこの本か特定出来ておらず諸本を見たわけでもないので推測になるが、サハラのハを「ら」に似た「者」由来の変体仮名の「は」、カタカナのラをキと誤認したのが蝦夷紀行の「サらキ」と言うことはなかったのかと考えてみる。
天明8年という「蝦夷管窺」も聞きなれぬ資料である。「管窺」に絞って永田地名解をめくってみると松前郡の項で「東西管窺」と書いて引用しているものがある。書名を「東西管」で日本古典籍総合目録データベースで検索してみると松前東西管?(?は門構えに規)という北海道庁旧蔵の天明8年の資料があった。「門構えに規」も、うかがう(窺)意味の漢字である。松前東西管?は北海道庁所蔵旧記目録にもあり、天明8年の松前に来た幕府巡見使に応答する松前藩の家臣への申合書だという。この本は現在は北海道庁から北海道立図書館に移管されている。同様の申合書は函館市図書館蔵の宝暦11(1761)年のものが松前町史史料編第1巻に翻刻されており、天明8年のものより詳しいと言うが、サラキや砂原は登場しない。天明8年のものの写本として北海道大学北方資料室でウェブ公開している「松前巡見使応答控」に合冊される「天明八年御巡見松前江御下向御案内書」を見てみたが、サラキや砂原は見当たらないようだ。年次が一致し名称が似ているからと当たってみたが松前東西管?は蝦夷管窺とは関係ないのかも知れない。
「弘前蝦夷志」は永田地名解の松前の項などでも出てくるが、蝦夷志といえば新井白石の蝦夷志ではなかろうか。弘前蝦夷志も国書総目録にない。弘前で志された蝦夷に関するものと言うことで有名な津軽一統志かとも考えたが永田地名解に弘前蝦夷志の名で引用されていることは書かれていないようである。永田地名解の厚岸郡チカラコタンの項にアツケシカムイが住んだ所で「『弘前蝦夷志』二詳ナリ」とあり、新厚岸町史のアッケシカムィであるアッケシ惣乙名イコトイの項を見ると「山崎半蔵『華夷記抜書』」に拠って詳述されており、永田地名解での弘前蝦夷志とは弘前藩士の山崎半蔵による華夷記抜書(か、その類本)でないかと考えた。華夷記抜書函館図書館本(の複写本)を見てみると永田地名解での八ヶ所(松前と厚岸に関しては二回出てくるので数え方によっては十ヶ所か)の弘前蝦夷志の引用は殆ど一致する。弘前蝦夷志は華夷記抜書か、その類本と考えて良さそうである。華夷記抜書は天保年代(1830-44)の編集と見られるという。抜き書きされる前の「華夷記」もあったか。更科源蔵の「アイヌ語地名解」も山田秀三の「北海道の地名」も弘前蝦夷志の名を出しながらサラ=尾説とは結びつけていないが、華夷記抜書には「サラ村と云 サラとは夷云尾のことく往古焼崩し海へ」云々(前後に更に続くが私には解読できない)とある。尤も、華夷記抜書は駒ヶ岳の説明でサワラとも書いている。また、アイヌ語では出崎は pa や not、rum のような頭の方の部位として捉えるようで、出崎を尻の方の部位(この場合は尾)として捉えた例を知らない。
天明8年の61年前の享保12(1727)年の松前西東在郷並蝦夷地所附には現在の砂原と思われる地名が「志やら地」とある。
天明元(1781)年序の松前広長による松前志には現在の砂原と思われる地名が「シヤラチ」とある。
天明年間の成立と見られる松前国中記では、北見常五郎の知行地が「サワラ」とされ、小名ノホリ崎・カヤベ・ニコリカナ(濁川カ)・井シクラを含んでいる。
寛政3(1791)年に紀行した菅江真澄の「えぞのてぶり」には「サハラ」とある。菅江真澄はサハラが「シヤモのみ家居」していると記し、サハラ(砂原)の語源について、「むかし弱檜の磯山にありし名にや、砂埼のあれば砂原てふ名ありけるにや、サハラちふ夷辞にや」と3つの推測している。弱檜は椹(さわら)だが、椹は北海道に自生していない。椹が砂原の磯山に自生していたとしても地名は「さわらやま」「さわらいそ」「さわらはま」などとなって、樹木の名である椹がそのままそれだけで地名になるとは考えにくい。砂原の音ではなく漢字表記には砂崎の存在が意識されたと言う事が有ったのかもしれない。菅江真澄はサハラを漢字では「沙原」と記している。「沙」もスナである。享和元(1801)年の福居芳麿の紀行文「蝦夷の島踏」には「砂原(サハラ)」とある。
日本語の東北方言で、井上ひさしが「吉里吉里人」に「ちりちりずん」と振り仮名したようにキの音は chi と発音される事がある。砂原の和人の多くは室町時代末からの北東北からの移住者であった。シヤラチは東北方言の和人の口でアイヌ語のシヤラキを写したものかとも考えてみたが、室町時代末から松前志の江戸時代中頃までの東北方言でもキが chi と発音されていたのかどうかよく分からない。上方の商人とも折衝する松前藩政を担ってきた松前広長が東北方言を差し引いて考える事が出来なかったとは考えにくい(アイヌ語ではシャ行音とサ行音は区別されない)。しかし、享保の「志やら地」の記録があるので松前志のシヤラチは松前広長が引き継がれた記録に従っていただけのような気もする。
砂原と同じ渡島に語尾にチを持つ地名「戸切地(へきりち)」がある。戸切地は昔からアイヌ語の peker pet[清澄な・川]と解されてきたと言う。「ペケレの地」と言うことだったのだろうか。だとすれば「シヤラチ」も「シャラの地」という山田秀三の推測も成り立つのか。松前西東在郷並蝦夷地所附での戸切地は「辺化礼地村」であった。戸切地では山田秀三は河口の戸切地川と近い泥で濁る久根別川との対比で「清い」の peker とするが、語末の「チ」の音についての言及がない。アイヌ語では p と c に相通があるようである。peker pet の訛った「ペケレチェッ」で最後が「ち」となったと思われる。
アイヌ語で sarki は日本語の鬼茅を指すが植物の名がそのままそれだけで地名となるとは考えにくい。日本語なら茅の生えている場所をカヤト(茅処)、カヤバ(茅場)、カヤカリバ(茅刈場)などという。アイヌ語にも sarki us -i[鬼茅・生える・する所]といった同様の表現があるようである。更科源蔵(1966)は砂原を「本来はサリキ・ウシ(鬼茅のあるところ)であったのではないかと思われる」としているが、サリキウシと言う音に準ずる記録を砂原に関して旧記に見ない。母音の連続を避けるアイヌ語や日本語の傾向で sarki us -i がサラキシなどに変わる事は考えられるが、シヤラチ/サラチとはまだ音に違いがある。天明8年の蝦夷管窺、寛政11年の蝦夷紀行にあったという砂原を指したサラキとは、sarki[鬼茅]そのものや記録の見られない sarki us -i の下略ではなく、サラケ sar -ke[湿原・の所]で、砂原の街のすぐ横の砂崎の根元の湿地帯を指したものではなかったかと考えてみるが、カタカナのチとキは似ているのでサラチの誤写・誤読の疑いも残る。私の見ていない天明8年蝦夷管窺や寛政11年蝦夷紀行が誤写・誤読ではなく、華夷記抜書のサラのようにシヤラチなどの語源としてサラキを記していたとしたら考慮すべき伝承ということになる。寛政11年の紀行文は谷元旦のものだけではなく、田沼意次の失脚の後ではあるが天明8年に砂原を通った和人は他にもいたのではなかろうか。後の人が確認しやすいような典拠の記し方を他山の石として天明8年の蝦夷管窺と寛政11年の砂原を「サラキ」と書いている蝦夷紀行を探したい。
確認できなかった「サラキ」の記録が永田地名解の言う蝦夷管窺と蝦夷紀行にあったとしても年代は「志やら地」の方が古い。その蝦夷管窺と蝦夷紀行の頃のサハラ/サワラと言った記録は多く見られる。山田秀三(1984)の「もしかしてただサラ(sar 葭原)だったかもしれない。砂地なので日本語で砂原と書かれていたのがもとだったのかもしれない。」というのは「志やら地」「シヤラチ」の記録を見ていなかった故に出た感慨のように思われる。シヤラチの最後の「チ」を考えなくてはならないと思う。砂原の元のシヤラチをアイヌ語の湿原の云いを取り込んだ日本語「sar 地」と考えるのは不自然のように思われる。sar oci(<-ot -i)[葭原・についている・所]かとも考えてみたが、「〜についている」の -ot は、戸口や窓のすだれに関して使われるようである。
砂原漁港や渡島砂原駅の辺りは葭原が広がる砂崎の西の傍らである。sar ca[湿原・の縁](サラチャ)か、アイヌの人たちの方角思考でメナシ方を上方と見て sar pe[湿原・の上の方]の c/p 交替の「サラチェ」がシャラチになったのでないかと思う。サラチャ転じてシャラチが砂原地区の名の発祥と考えるが「さわら」という音のことだけなら山田秀三(1984)の「もしかしてただサラ(sar 葭原)だったかもしれない。」ということになるのか。或いは sar uci[湿原・の肋](サルチ)かとも考えてみたが、ut は肋骨でそのまま脇ということではないようである。
参考文献
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