山名考

雷電山

 山名はライデンという地域の山ということだろう。

・ライデンの範囲

 松浦武四郎の安政3(1856)年の紀行「竹四郎廻浦日記」では聞き書きでイソヤと岩内の境のアブシタからニヘシナイまでの惣名を「ライテン」としている。また、ライテンの番屋ともユウナイの番屋ともいうという一軒の番屋のある所がカムイルヲマナイで、その北東側に並んで「ラヱテン 大岩壁」としているのは雷電温泉の建物のあった谷間がカムイルオマナイで、現在のカスペトンネルと親子別川を通り越して傘岩の辺りが元の「ラヱテン」のように思われる。だが、ラヱテンから先のニベシナイ(当別川)までの地名が4つしか挙げられていないのは、松浦武四郎の記録にしては疎のように思われる。

 文化9-14(1812-17)年の間とみられる間宮林蔵による蝦夷地測量の伊能図では刀掛岩の岬に「ライテン岬」とある。

・先行説など・ラエニ/ライニ

 山田秀三(1984)は地名「雷電」の指したアイヌ語の意味を不明としている。

 文政7(1824)年の上原地名考にライデンは「夷語ライテムなり。即、焼てうなると譯す。」とある。アイヌ語で「焼いてうなる」というと、"i- uhuyka wa nuwap"となりそうである(項が足りないので文法的に完結していない)。雄冬の語源の一つとして挙げられる uhuy[燃える]だが、雄冬が「燃えていること」とは考えにくいので何らか言葉の転で、UHUY(かそれに近い音)という場所の固有名詞になっていると考える。雄冬海岸も雷電海岸も高い断崖絶壁が続く。"ri hur ka wa ru w o p."[高い・山の急坂・の上・に・道・(挿入音)・ある・もの(処)]と考えると、アイヌ語で雷電海岸のことについて説明されたのに「焼いてうなる」とだけ言われたと勘違いすることがありそうである。高い断崖絶壁では雷電と共通する雄冬の UHUY も ri hur だったのでないか。

 明治24(1891)年の永田地名解ではライデン/ライテンの項が無く、雷電岬付近でヌカンライニとライニのアイヌ語地名があり、ヌカンライニは「鳥卵アル枯木」、ライニで「枯木」と和訳されているが、アイヌ語の指した意味がこの和訳の通りとは受け取れない。枯れ木が枯れ木だけで地名になったり枯れ木に鳥の巣ならともかく卵がある様など自然現象として常に見ることは考えにくいからである。だが、ライデンで立項していない永田地名解での「ライニ」の項には「今雷電ノ文字ヲ充テ」とあり、雷電山の「雷電」の部分にあたる元の地名に通じるものということのようである。

 永田地名解と同じ頃の20万分の1地形図の北海道実測切図にはライニが雷電岬の北側に振られているが、ヌカンライニがない。北海道実測切図の測量成果を元に縮尺を大きくして作られた北海道仮製五万分一図にもライニはあるがヌカンライニがない。

 永田地名解のライニからニペシュナイ(当別川)の地名の数は松浦武四郎の安政3年の記録より多い。永田地名解ではこの辺りの地名を海岸線の北側から順に記しているようなので、登場順序よりヌカンライ二を北海道実測切図にあるウェントマリ(雷電国道開通記念碑のある現在の雷電トンネル西口北方の入江)よりは南で、北海道実測切図でライニと振られる傘岩の辺りより北とまずは推定してみる。永田地名解でヌカンライニとライニの間に出てくるチシヤの項にここにキセセリオマイとウカウの岩石があったがキセセリオマイの方は岩石墜落で今はないとされるが、チシヤが cis or[立岩・の所]の転で、岩石の多い所だというウカウが今もある傘岩という岩石でチシヤは傘岩周辺ということのように思われる。傘岩の辺りがライ二とすると、松浦武四郎の安政3年の記録のラヱテンと場所は合いそうである。

 松前からマシケまでと奥尻島が天保4(1833)年測量の今井八九郎の北海道測量原図には地名が指示線で地点として図示されているが、ラエニ、ラエニベツの他にライデンに類する音の地名が雷電海岸一帯に見られない。北海道測量原図では傘岩の南西約350mの辺りにラエニと、現在の親子別川にラエニベツと振られる。永田地名解と北海道実測切図のライニに通じるラエニは傘岩の南方から親子別川河口にかけての辺りということの様で、やはり松浦武四郎の安政3年の記録のラヱテンと場所は合いそうである。北海道測量原図でもラエニから先のニベシナイ(当別川)までの地名が4つしか挙げられておらず、多少表記が異なるものの4つとも松浦武四郎が安政3年に挙げたものと同じ場所を指したものばかりであるのは、或いは松浦武四郎は下調べとして北海道測量原図か類するものを見ていたのか。だが、竹四郎廻浦日記でラエニがなくてラヱテンがあるのは、ライデンを安政3年に多く聞き、弘化3(1846)年の記録である三航蝦夷日誌の西蝦夷地分に引用する蝦夷行程記に重きを置いたということなのか。

 松浦武四郎の安政3年の記録を聞き書きの体であることに留意しながら中心に据えて相補しつつ考えてみる。ここまで挙げてきたどの資料も重複や誤認や不確かなままらしき所があり、100%の信は置けない。

 北海道測量原図ではチセヽが傘岩の辺りとされる。松浦武四郎の安政3年の記録でラヱテンに続けて「チセヽ」も大岩壁とされているのが cis us -i[立岩・ある・処]の転で傘岩から二ツ岩にかけての岸壁で言い換えて cis or で永田地名解のチシヤ、次の小流とされるチセヽリヲマイは 〔cis us -i〕or oma -i で、北海道測量原図には二ツ岩の東側の雷電国道開通記念碑のある辺りに注いでいた小流。次のクシナフイヲマイは北海道測量原図でグシナブエヲマヘと梯子滝と思しき辺りにあって永田地名解ではクシュナプイとあり、DBアイヌ語地名1(1997)では穴の確認ができなかったような旨があるが、2018年に梯子滝のすぐ西の岩岬の付け根の天然の穴を通ったインターネット記事があり、海岸沿いの通行できる穴のある大岩で kusi -na puy e- oma -i[向こう・の方の・穴・その先・にある・もの(岬)]で穴のある岩の先端の岬ということと思われるkusi は先行詞なしの位置名詞となるので長形と考えたが永田地名解では「シュ」が小文字である。-na が接尾する場合は先行詞なしでも短形となるのか)

 永田地名解の次のペッチョーが梯子滝で、音からそのまま考えると pet so[川・滝]となりそうだが、三航蝦夷日誌にヘシヨシヨツフで「幅壱丈。高三丈斗。」とあるので、pes os o p[水際の崖・の後ろ・にある・もの(沢/滝)]で梯子滝から奥の樺杣内川の沢筋を指し、訛ったのがペッチョーでないだろうか。車滝の谷筋(アイノ川)は三航蝦夷日誌に「ヘツノシケヲマナイ 巾六、七尺。高さ三丈。」とあり、伊能図に「ヘシノシケヲマナイ」とあるので、pes noske oma nay[水際の崖・の真ん中・にある・河谷] だろう。永田地名解の次のピウナイが今のビンノ岬の名の音に通じ雷電川。次のシュマチセは北海道測量原図で今のビンノ岬と当別川河口の中間辺りとされ、鳴神トンネルの西隣の敷島内トンネルのある岩岬で松浦武四郎が安政3年にライデン越の新道になりそうということのアイヌの人の案内で下りてきた所である。そこから鳴神トンネルのある岬と思われる大岩岬を越えてニベシナイ西岸とある。

 尤も、この日の山中の行程は殆ど雲に巻かれていて案内のアイヌの人も自分の位置を見失いニベシナイの源頭らしき細流を渡ってもニベシナイでないかもしれないのでどこに下りてしまうかわからないと沢伝いに下りることを避けて、浜側に寄り過ぎていれば雷電海岸の絶壁の上に出てしまうかもしれないと恐れ、僅かな雲の切れ間でニベシナイの西の岡にいることが分かってから無理やりに急斜面をシュマチセに下りていた。迎えがニベシナイの北東に山の出口ということで来ていた所を見るとニベシナイに直に下りると見られていたようである。

 安政4年の松浦武四郎は前年になかった雷電山道を通り、道がなかった残雪の前年にも急斜面で難渋した区間であった新開の道のアブシタ目当の岳(雷電峠西方)から温泉小屋(朝日温泉)を経てニベシナイ(当別川)源頭までは難渋であり、雷電峠から更に東へ尾根伝いに登って湯内川の源頭を短くトラバースしてニベシナイ源頭に出るのが早道と見立て、温泉小屋からニベシナイ側に登り切って緩やかになった辺りに新道切開に合わせて旅人向けの山小屋を構えた地元の元山稼ぎの老夫婦からこの見立ての同意を得て、温泉小屋を経由する新開道の難渋なルート取りは温泉繁盛を見込んでのものでないかと聞き出している。移動の為に雷電海岸を山中に迂回したアイヌの人たちが今の朝日温泉に寄るルートを取ったとは考えにくい。

 ライニは ru e- un -i[道・その頭・ある・所]で、岩内側から海岸伝いの往来が困難なので山の斜面に入る道があり、その道が先でまた海岸に下りつく辺りということではなかったかと考える。e- ru un -i と、接頭辞の e- を前に出すと「その頭」は -i に所属するようだが、ru e- un -i のような場合は直前の名詞(この場合は ru)に所属することが多いようである。ヌカンライニは、rikun ru e- un -i[高い所の・道・その頭・にある・所]で、山にかかる高い所の道の先の辺りとライ二の特徴を重ねて説明したものだったのではないかと考える。

 伊能図ではライニ川が親子別川の位置にあり、ホンライニという川がビンノ岬のすぐ西にあるが、雷電川に相当するビンノ岬のすぐ東の川が描かれていない。雷電川の位置の誤認で雷電川がニベシナイの道の登り口の先にある pon〔ru e- un -i〕[小さい・道・その先・にある・もの(川)]であったと考える。

 後志の神恵内附近にも、永田地名解はヌカンライニなる地名を挙げており、こちらも「鳥卵アル枯木」と和訳されている。神恵内附近の榊原正文(1997)の推定するヌカンライニの海岸の西側には大森海岸の難所があり、ヌカンライニの辺りから山越えする道の存在が考えられる。

 ライデンには雷電岬を指す「ラエンルム」の転という説があるが、尻別川河口南側(雷電は北側)の海岸のラエルムの誤認に始まるのでないかと思う。地名アイヌ語小辞典に ra-enrum の項があり雅語として「低い出崎」とされるが、雷電山から見れば低い所の雷電岬だとしても、巨大な刀掛岩の辺りの岬が「低い出崎」と捉えられるとは考えにくい。

雷電海岸の地図3雷電海岸の地図2雷電海岸の地図1
雷電海岸北半の地図

・類例から

タンパケの地図1
タンパケの地図2
雄冬岬・タンパケの地図
今井八九郎図の「ヲフイサキの□」の
□は「由」か「間」でないかと思うが
私には解読できない

 雄冬海岸にタンパケ(タパケ)という所がある。タンパケのパケは pake[の上手]として、前半のタンの部分がライデン/ライテムの後半と似た音なのが気になる。アイヌ語ではタ行とダ行は区別しない。両腕を広げた端から端までやその幅や腕をアイヌ語で tem という。松浦武四郎の弘化3年の記録(三航蝦夷日誌)ではタンバケはヲフイ岬に南に並んだ所で前に小島があってしばし上陸して船夫を休ませ酒を与えて勢(精)をつけさせるとあって、岬ではなく小島の後ろになって多少波当たりが弱く、上陸可能な地点の少ない雄冬海岸における良くはないが一応は休める停泊地だったような印象である。

 明治期の地形図では増毛と浜益の境の雄冬市街地の南端にあたる出崎のヱナヲシリヱトと千代志別のちょうど中間辺りの、一帯の中では小ぶりに描かれる出崎にタパケと振られていて、現代の地形図に比べれば不正確な海岸線のその場所にどういう特徴があるのかどうもよく分からない。同じ頃の永田地名解にタパケが「直訳刀頭ナリ岬ノ突出セルニ名ク」とあるので測量では入江の名であったのを、北海道庁内で連絡のあった当時の専門家の意を入れて図化で近傍の出崎に寄せたのかと考えてみる。横に広がった壁のような所も tem と言って、北側から進んできて雄冬海岸の核心となるヲフイ岬から千代志別の高い壁のような海岸の始まりの辺りを tem pake横長の壁(?)・の上手]と言ったのが転じたのがタンパケでないかと考える。萱野茂のアイヌ語辞典に壁が tumam とあり、アイヌ語沙流方言辞典では tumam は胴とある。縦長の壁の様なありようは tumam でないかと考え、tem の訳をイタリックで「横長の壁」とした。

竜飛岬の地図
竜飛岬の地図
天登雁の地図1
天登雁の地図2
天登雁の地図
手宮の地図
手宮の地図

 永田地名解のタパケの項には「陸奥國津軽郡龍飛岬モ同義ナリ而シテ『タパ』ノ訛ナリ」とあり、地形図で竜飛岬を見ると岬の東面に壁の様な一枚の急斜面がある。tam pa[刀・頭]ではなく tem pa横長の壁(?)・の上手]が竜飛の語源で、タンパケと同じということはアイヌの人の間で言われていて、永田方正がアイヌ古老に聞いたのでないかと考えてみる。

 小平町の鬼鹿秀浦の蛇ノ目沢は昔の天登雁(てんとかり)村の名の元になったアイヌ語の沢の名がテムトカリのようである。250mほど北方に並流する小川がポンテムトカリ/モテムトカリのようである。鬼鹿秀浦から小平蘂川河口まで、高さこそ100mもないが小椴子川・大椴子川・鬼泊川を挟んでほぼ一直線に急峻な海岸段丘崖が続く。tem tukari横長の壁(?)・の手前]が蛇ノ目沢のアイヌ語の名でなかったと考える。天登雁の辺りは全体的には雷電海岸ほど急峻ではないが、海岸伝いの移動の難所とは見られていたようで、天登雁は南方で海岸段丘崖が続いているヲ子トマリ(鬼泊川)の北のホントヱラツケからホロトヽコ(大椴子川)の間で干潮で風の弱い時限定の浜道と山道の二条があることと、昔は山道がテムツカリ(蛇ノ目沢)の北方のトウシナイ・ニヨトマリ(旧花田家番屋付近)に出ていたことが三航蝦夷日誌に記されており、蛇ノ目沢から南へ大椴子川までの海岸段丘崖の下にも避けたいものがあったと思われる。

 小樽市の手宮も手宮洞窟のある崖が壁のように広がっており、tem or横長の壁(?)・の所]の転がテムヤ/テミヤでないかと考える。伊能図にはテミヤとタカシマの間に海岸線と山間の二筋の測線があって、手宮も雷電海岸ほど急峻でないが昔から高島との間に山道があったことがわかる。手宮洞窟の壁の下に広がる平地は殆ど明治期の埋め立てによる鉄道用地の跡である。

 弘化3年の松浦武四郎はタカシマ(高島)で昼食していたら風が出てきたので舟行を諦めて「九折をのぼりて壱り斗の峠を越て」テミヤに下っている。安政3年もタカシマとテミヤの間は一行一同山道経由の移動で、浜道は「海岸岩石の上を飛越刎越して行」とか「海岸岩原」とあって山道の方が主であることが窺える。「テミヤ 本名テムヤン」とあるテムヤンは tem o- yan横長の壁(?)・そこで・上がること]で、色内や勝納の方から来て、手宮洞窟の壁の所で手宮川の谷筋から上がって海岸線を離れて高島や赤岩山の裏の海岸に行くということを言っていたと考える。

・ライテム・ライデン

 改めて雷電海岸の地形図を見直すと、一面の横長の壁のようなのはラエニとされた親子別川から傘岩より、より東側の pes[水際の崖]という言葉で捉えられていた梯子滝からビンノ岬である。岩内町蘭越町境のアブシタの尾根のすぐ北から刀掛岩に掛けても壁の様だが、北側に尾根の高さが上がるにつれて壁としての形が崩れている。親子別川から傘岩も一枚の断崖絶壁だが、幅と立ち上がりの壁具合は梯子滝からビンノ岬に及ばない。竜飛や天登雁や手宮が一枚の壁の様な地形なので、ライテムの発祥は梯子滝からビンノ岬で、壁のような崖の上を越える道がある所ということの ru o tem[道・ある・横長の壁(?)]の転がライテムであり、それが道のある全体となるアブシタ以北全てに拡充され、幅が小さいが壁のような断崖絶壁ではあり、似た音のラエニ/ライニと呼ばれた拡充されたライデン地域のほぼ中央の傘岩南方の断崖の所がライデンの発祥と誤解釈されたのではないかと考えてみた。

 ライトコロのようなライの接頭したアイヌ語地名は各地にあり、例えば川ならば流れがなく淀んでいて ray[死んでいる]などと説明されてきたが、分流として流れが弱く通行しやすいので ru o[道・ある]ということの転がライという修飾になっていることも考えられると思う。ライパのような支流名でなくても少し遡行すれば普通に流れているライから始まる名の川が ray[死んでいる]というのもおかしな気がする。

 だが、松浦武四郎が安政3年に下ったニベシナイから山に掛かるルートの尾根は、梯子滝からビンノ岬の壁状地形より内陸側に位置するので、壁状地形の直上に道があるということではない。

 梯子滝からビンノ岬の壁の規模は手宮や天登雁より大きいので、ray- tem[ものすごい・横長の壁(?)]の方がライテムの音に近く地形も十分表すと思う。雄冬のタンパケの南側は急斜面だが一枚の壁面というには荒れており、アブシタから刀掛岩の急斜面のあり方に近い。だが、「焼いてうなる」が実は断崖の上に道があるという説明であったと考えられそうなことや、永田方正の聞いたライニやヌカンライニも道がある説明であったと考えられそうなのは、道があるということが雷電海岸の特徴として強く意識されていたということでないかと思う。

 ラエニ/ライニがライデン発祥の地と意識されていたのはその通りで、ラエニ/ライニと同じような意味となる別の言葉の転がライデンだったのではないだろうかと考え直す。ライデンには弁慶が源義経と別れる時に「来年」(また会いましょう)と言ったからだという、今となってはそれはないとしか言えない説が上原地名考にあった。だが、ライネンという音の記録自体は上原地名考よりかなり前からあったようで永田地名解のライニの項に「正徳地図既ニ来年ノ文字アリ」とあり、正徳2(1712)年の和漢三才図会の「蝦夷之図」を見ると雷電岬と思しき所に「来年ノ鼻」とある。ライデンとも聞こえ、ライネンとも聞こえそうな言葉として ru e- ran[道・そこで・下る]が親子別川の旧名でライデンの発祥であり、後に ru e- un -i となり、更に親子別川に変わったと考える。

 ru e- ran はアイヌ語地名としては頻出である。アイヌ語のラ行音は破裂を強くダ行音のように聞こえそうな発音をする人がいるという。親子別は親子別川を登り口として用いる磯谷側からの呼び方で、ru ika pet[道・を越えて近道して行く・川]の日本語耳での聞きなしが「おやこべつ」ではなかったかと考えてみる。戦前の旧版地形図では朝日温泉に向かう道が海岸から親子別川左岸支流に沿って登り小さく山越えしている。湯治人はユウナイまで船で来て温泉まで道を登ってくるが渓流沿いは甚だ難所と聞いたと竹四郎廻浦日記にある。湯内川の河口付近は滝が連続しているので、河口横のエクシュアントマリで上陸して親子別川筋に出て親子別川左岸支流沿いを登る道が険路だが、湯治場として知られる前のアイヌの人たちにとっては親子別川左岸支流伝いの登降はさほど難しくなく低標高地の積雪が消える頃には親子別川に沿って登降していたと考える。当別川の名も雷電山道或いはその前身の道のある ru o pet[道・ある・川]の転が「トウベツ」だろう。カスペノ鼻が北海道測量原図でカムエルウマヘとあるのは kamuy ru oma -i[非常に危険な・道・ある・もの(尾根/岬)]で、山越え道がついている尾根筋とその岬であったことを言っていたと考える。竹四郎廻浦日記のエクシュアントマリの東のカムイルヲマナイは今井八九郎図かその類本を松浦武四郎が見て「ナ」を補ったかとも思われるが、ラエニやラエニベツがないので親子別川を kamuy ru oma nay[非常に危険な・道・ある・河谷]と言っていたアイヌの人もいたということかと考えてみる。

 ru e- ran がライデンに転じて、ライデンなら ray- tem で山の急斜面の上に道がある所だといつの時代かのアイヌの先達が若かりしアイヌに教え、伝わる内に変化したのを聞いたアイヌの長は上原熊次郎にライテムで「焼いてうなる」だと教え、ray- tem ならアブシタからニベシナイまで全部そうだということで親子別川河口付近から雷電海岸全体にルエラン訛ってライデンが拡充されたのではなかったか。

雷電海岸の地図5雷電海岸の地図4
雷電海岸南半の地図

附 ウェントマリ

  ウェントマリは北海道実測切図以降、雷電国道開通記念碑の辺りに文字があるが、伊能図では同じ辺りにタンテシナイとありウェントマリは無く、刀掛岩の「ライテン岬」のすぐ北の、岬の鼻の先端付近にウヱンモイとある。雷電国道開通記念碑の辺りの入江は嵌入が浅く、浜からすぐに急斜面が立ち上がっており、どこか内陸に行く為に上陸したい入江とも考えにくく、疑問の残る位置である。船を入れたいのに波風が避けられるなどの利点がないというなら永田地名解にある「悪泊 wen tomari」ということかとも考えたくなるが、船を入れたい場所とも考えにくいのは実はその場所がウェントマリではなく別の場所の地名が誤って振られているのでないかと思う。伊能図にはエクシュアントマリに類する文字と相当する所の地名がないので、伊能図のウヱンモイも位置の誤記載で、陸路では横目になって通常は通ることのないエクシュアントマリを aw un tomari[中・にある・港]と呼んでいた転がウェントマリではなかったかと考える。朝日温泉の和人の湯治人が集まりだす前も、舟行のアイヌの人は休息地や温泉への入口となる舟を入れるに適した場所ということで利用していて、aw un moy[中・にある・入江]とも呼んでいたのではなかったか。

参考文献
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(2021年8月22日上梓)