山名考

恵山・海向山

 宝永元(1704)年の空念の納経記に「ゑさんが嶽」とあるのが古いようである。

 寛政12(1800)年頃完成の蝦夷島奇観ではエシャニノボリとある(縦書きでエシヤニノボリ/エシヤニノボリとあり、傍線はシャであることを表す秦檍麿の工夫らしい)

 休明光記附録別巻にある文化4(1807)年の東蝦夷地の船懸かり澗について記した書類に「エサン山東下」とある。「えさんやま」と呼ばれていたか。

 山田秀三(1984)は「『esani-nupuri 恵山岬の(上の)・山』と解すべきではなかろうか」とし、恵山岬は「エシャニ(e-san-i)は『頭が・浜の方に出ている・処→岬』か、エサンを名詞として『その岬』と呼んだか」とし、エサンもエシャニも恵山岬のことであるとする。

 だが、恵山岬は「頭が浜の方ヘに出ている」と言えるのだろうか。岬が海の沖の方に向かって出ているのはある意味当たり前だが、まだ陸上の「浜」の方ヘ出ていると言えるのか。恵山岬は大きな北海道本島の中で見れば小さな局所だが、恵山岬という岬が近くの海岸線に立って沖の方に突き出していると見えるほどは小さくない、大きな半島の丸まった先端である。但し、恵山岬灯台の先の150mほどの恵山岬でなく椴法華元村町から御崎町の亀田半島先端を恵山岬として捉えた。

 永田地名解は山の恵山について「Ye san イェサン 噴火(山) 『イエ』ハ浮石又ハ膿汁ナリ『サン』ハ下ル火ヲ噴キ浮石等ヲ飛バシタルニヨリ名ク和人恵山ト云フ」とする。岬については「Esan エサン 岬 元来岬ニ附シタル名ナリ和人称スル処ノ恵山ハ噴火山ニシテ『イエサン』ナリ」とする。永田地名解では山のイェサンも岬のエサンも亀田郡に挙げられ、著者の永田方正は亀田郡内のアイヌ語地名については地元のアイヌの古老に会えず、古地図と他の地方のアイヌの人の発音を参考にして訳したとしている。イェサンは、他地のアイヌの人の恵山の発音の語頭に、何か子音がついていたことを思わせる。しかし、山のイェサンと岬のエサンが別物というのは、あまりに音が似ているので信じ難い。

 稚内市の野寒布岬の先端付近の西側に恵山泊がある。今の呼び方は「えさんどまり」だが、安政5年の松浦武四郎の記録では「ルイサントマリ」と「レイサントマリ/レウサントマリ」があり、これらは同じことであろうとされている。〔ru e- san〕tomari[道・そこで・山から浜に出る(こと)(の)・舟のかかる澗]であろう。アイヌの人が道北の内陸から積雪期に稚内半島の稜線を辿って恵山泊付近で浜に下りて、浜での作業をしたと言うことでは無かったか。稚内半島の山地は側壁が立っており、下降に適した地点は恵山泊付近に限られる。だが、半島の根元のクサンルの辺りから浜に下りて、浜伝いに恵山泊付近に向かっても、アップダウンがない分、移動には良さそうである。更に考えたい。

恵山付近の地図 幕末頃に「ルイサントマリ」等だった音が今は「えさんどまり」となっている。恵山の「えさん」も、ルエサンのような音からの転訛ではないかと考える。恵山岬(亀田半島東端)は北側の椴法華元村町と南側の御崎町より東側の海岸で山の急斜面が海岸まで迫り、海岸通しで移動するのが困難である。koy ka[波・の上手]の椴法華元村町側からやって来たアイヌの人が椴法華港の東端の辺りから山を登り、恵山山頂の東方約700mか900mの、標高250mほどの鞍部を通って御崎町に下りる所が、ru e- san (-i)[道・そこで・山から浜に出る(こと)(・所)]でなかったかと考える。

椴法華付近の地図 椴法華は永田地名解に「ト゜ ーポケ 岬蔭」とあり、山田秀三(1984)が「恵山の山裾が高い岬になって突き出している処の西側にある。・・・正確に書けばトゥー・ポ・ケ『tu-pok-ke 山の走り根の・下の・処』であったろう。」としているが、元村町のすぐ東側の高い岬も含めて「走り根」と言えるほど延びた尾根の見当たらない、「唐法華」とも書かれたという椴法華は椴法華元村町付近が発祥の ru poki[道・の下]、または〔ru oro〕poki[道・の所・の下]の転訛と考える。アイヌ語で母音が連続すると前後のどちらかが落ちることがある。また、アイヌ語のラ行音は破裂の強いダ行音のように発音されることがあり、ダ行音と捉えられればタ行音と区別されないので、「ロロ」が「ドド」を経て「トド」になることが考えられる。

 亀田半島北側から南側へ移動するだけなら恵山の東方の鞍部より、今の国道278号線が走る海向山の西側の鞍部の追分を越えた方が標高も約130mと低く、無雪期でもヤブ漕ぎの必要な区間も短く、適当のように思われる。現在の恵山市街地付近にあったネタナイコタンの辺りに用のあるアイヌの人々が、海向山の西側を通ると戻るようになって距離が延びるので、夏場は恵山の東側を最低限のヤブ漕ぎで通ったと考える。1890(明治23)年の北海道実測切図には海向山が「椴山」とあり、恵山の東鞍部を通る道などと共に、八幡川左岸の海向山北西の尾根上から恵山火口原の平坦地を通って根田内に真北の尾根から下りる道が描かれている。この道はヤブ漕ぎの必要の無い冬のネタナイへの最短のアイヌの人々の道を継承したものではなかったか。衛星写真(GoogleMap)で見ても椴松などの針葉樹の卓越している様子が見られない海向山の「椴山」は椴法華とは別の、ru oro[道・の所]が和人に聞かれて「トド」山となったものではなかったか。北広島の椴山地区も標高の低い野幌丘陵の一角で椴松と関係があったとは考えにくい気がする。国道274号線とJR千歳線が野幌丘陵の椴山地区を通っているのは、アイヌの人々が通っていた山(丘)越えの、冬道の ru oro[道・の所]と言うことを継承しているのではないかと考えてみる。

 海向山の名は1909(明治42)年選点の三角点の名としてが早いようである。今、山名として「海向山」となっているのは、三角点が点名まで書かれる林相図によって地元の山林で働く人の間で「海向山」と知られたことによるか。三角点の名は自由に付けられるようで、地名を考える上であまり参考にならないが、三角点設置で案内や人足を務めたアイヌの人が恵山(えさん)の意味を第二言語としての日本語で「海に向かう(浜の方ヘ出る)」と選点者に伝えたのを、漢字に置き換えて点名としたのが「海向山」ではなかったかと考えてみる。但し、アイヌ語の e- san[その頭・浜の方ヘ出る]でも ru e- san[道・そこで・浜の方ヘ出る]でも、どちらでも「海に向かう」の意味を含んでいるので恵山の語源を判断する材料にはならない。

参考文献
國東利行,廻国僧正光空念師 宝永元年(1704) 松前・蝦夷地納経記 付 アイヌ語集,北海道出版企画センター,2010.
秦檍麿,蝦夷島奇観,雄峰社,1982.
羽太正養,休明光記附録別巻,新撰 北海道史 第5巻 史料1,北海道庁,北海道庁,1936.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
北海道庁地理課,北海道実測切図「恵山」図福,北海道庁,1890.



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(2018年11月18日上梓)