山名考

イソサンヌプリ山

 明治30(1897)年の北海道実測切図「頓別」図幅に「イソサンヌプリ Isosannupuri」とある。明治32(1899)年の日本名勝地誌には伊曽参山と書かれた。但し宗谷郡の章で登場している。北海道実測切図で地形描写に誤りがあり、イソサンヌプリが天塩・宗谷・枝幸の三郡の境の山として描かれていた事によると思われる。猿払川の源にイソサンヌプリが位置する地形描写を誤っていた北海道実測切図だが、一帯の最高地点であり、ト゜イカンペッ(問寒別川)とウッナイ(宇津内川)の源であるが、モウッナイ(茂宇津内川)やシュルクオマナイ(知駒内川)の源ではない同図でのイソサンヌプリは現在のイソサンヌプリ山と同一である。

 更科源蔵(1966)は「イソは狩の獲物のことで、サンは下って来る意味で、獲物の下る山ということ」としている。


雄武川支流イソサム川落ち口付近の地図

 新岡武彦(1986)は iso-san-nupuri と解し、「えものを持って出るる山」と和訳している。

 「下る」意味の san は一項動詞なので、iso san nupuri ではアイヌ語として文法的に破綻する。アイヌ語としてカタカナの音に合わせれば iso o- san nupuri[獲物・そこに・下る・山]か。だが、獲物が下って来る山が名前を付けて呼ぶほどにとりわけこの山であったとは考えにくい。o- は目的語に場所を取るので iso e- san nupuri[獲物・それを・下る・山]と考えても、獲物を「持って人が」という言葉が入らない。山が獲物を下るとは意味が通らない。

 雄武町の雄武川の支流にイソサンに似た音のイソサム川がある。古い地形図でこの川の名をイソサンと書いたものもあったという。廣瀬隆人(1988)、伊藤せいち(2006)は松浦武四郎の聞き書き・川筋図にあるヲム川筋のヘシヨシヤンヘ(辰手控)・ヘシヨチヤンベ(廻浦日記)・ヘショサン(午手控)・ペシヨサン(川筋取調図)・ヘシヨサン(山川図)等を pes o ican[水際の崖・にある・鮭鱒産卵穴]か、イソサムを iso san[獲物(クマ?)・下る]かとしつつ、ペショサン等とイソサムは同じ場所を指している地名ではないかとしている。イソサム川は雄武川の大支流であり、松浦武四郎の川筋と共に記された川の名を見るとペショサン等はイソサム川の名だったように思われる。

 イソサム川の落ち口の雄武川対岸に大きな川縁の崖がある。pes o- san[水際の崖・そこで・前に出ること(川)]とはイソサム川を呼べそうである。pes o- san pe[水際の崖・そこで・前に出る・もの(川)]と考えればペショサンペの音になる。

 山の名は「・・・川(/沢/谷)の水源の山」のように表現される例が多い。イソサンヌプリ山を水源とする川でも本流に落ちる所に水際の崖があるのでないかと地形図を見るが、ないようである。以前、問寒別川支流冷水沢の十四線川への落ち口の対岸の土崖記号が pes でないかと考えたのだが、地元の方に、地形図の土崖記号の所を見てきたが水際の崖と言えるような高さでも斜度でもないとの話と写真と、西側の問寒別川流域の平野部からは山頂の指呼の難しい扁平な山に見えるとの話と、どの方面から見てのイソサンヌプリという山なのかということから考えるのが良さそうだという助言をいただいた。

 イソサンヌプリ山は2コブの山である。地形図で見ると問寒別側の西面より東面の方が斜面が立っているように思われる。松浦武四郎の安政3(1856)年の頓別からのスケッチはトキタイ山から北見神威岬の西方眺望が描かれ、イソサンヌプリ山もその時の松浦武四郎の視野に入っていたと思われる。イソサンヌプリ山に相当する2コブの山のスカイラインの上に「ハンケナイ」とある。スケッチの「ハンケナイ」の山は天塩川右岸支流パンケナイ川水源にあたる現在のパンケ山のことだろうと思っていたのだが、珠文岳や敏音知岳やイソサンヌプリ山より遠くて同じ程度の標高の山にしては描かれ方が大き過ぎるように思われる。数値地図から頓別の眺望のシミュレーションを描かせてみた。頓別の描画ポイントは頓別神社の上空5mとした。


松浦武四郎の安政3年の手控のスケッチ
「カムイトト(浜頓別町海岸)眺望の図」模写

頓別より南南西方眺望カシバード。
国土地理院数値地図10mメッシュ、浜頓別町・中頓別町・猿払村・幌延町分使用、
対地高度5m、レンズ5mm、高さ強調2倍。
「カムイトト眺望の図」に相当。

頓別より南西方眺望カシバード。
国土地理院数値地図10mメッシュ、浜頓別町・中頓別町・猿払村・幌延町分使用、
対地高度5m、レンズ10mm、高さ強調2倍。
上のレンズ5mmから珠文岳からトキタイ山に狭めて少し望遠。「ハンケナイ」をパンケ山と見ることはできない。

 松浦武四郎の安政3(1856)年のスケッチの「ハンケナイ」の山はイソサンヌプリ山である。

 寛政10(1798)年に成ったとされる谷口青山の「自高島至舎利沿岸二十三図」のトンベツの図はデフォルメが強いが、カシバードのシミュレーション画像と松浦武四郎のスケッチと合わせて見ると、「エス井ノホリ」とある山が今のイソサンヌプリ山に相当するようである。エスイヌプリがイソサンヌプリの寛政頃の和人耳での音で、違いは訛りか近い意味で言い換えていると考えられそうである。


谷口青山「自高島至舎利沿岸二十三図」のトンベツの図模写(樹林の描写は省いた)

頓別より南南西方眺望カシバード、珠文岳からイソサンヌプリ山を望遠。
国土地理院数値地図10mメッシュ、浜頓別町・中頓別町・猿払村・幌延町分使用、
対地高度5m、レンズ16mm、高さ強調2倍。珠文岳からイソサンヌプリ山に狭めて更に望遠。

頓別から西南西方眺望カシバード
イソサンヌプリ山を望遠
双耳峰として見える。
国土地理院数値地図10mメッシュ、
浜頓別町・中頓別町・猿払村・幌延町分使用、
対地高度5m、レンズ50mm、高さ強調2倍。

 絵鞆半島の測量山のアイヌ語の名は hoske san pe[先に・出る・もの(山)]である。測量山の隣の鍋島山は i- osi san pe[それ・を追って・出る・もの(山)]である。白老沖から見て室蘭市と登別市の境の鷲別岬の山の後ろから出てくることで自分の位置を把握する山当てに用いられた命名であった。

 双耳峰のイソサンヌプリ山も頓別や頓別沖やクッチャロ湖上から山当てで、見え方で自分の位置を決めるのに用いられたのでないかと考えてみる。

 鷲別岬の山とは別個の山として出てくる鍋島山の出方とは異なり、文脈が違うことになるがほぼ同義の、i- os san nupuri[それ・の後ろから・出る・山]の転がイソサンヌプリでないかと考える。os の閉音節末の s が続く san の頭の s と同化せず、冒頭の連続する母音が「イ」にまるめられ、os の語頭の母音の o が響いて通常は「シ」の子音のように聞こえる語末の s が「ソ」のように聞こえたと考える。

 エス井ノホリは i- os san nupuri[それ・の後ろから・出る・山]の連続する同種子音が一つにまるめられ、方言によって差があったという音韻転訛で、san の n が y に転訛し、冒頭の連続する母音が「イ」に丸められた ISAYNUPURI の転と考える。トンベツの図で「ビン子シリ」であった敏音知岳がカムイトト眺望の図で「フウ子シリ」なのも n の前の n の転訛と考える。

 或いはエス井ノホリは i- os o -i[それ・の後ろ・にある・所]が nupuri[山]ということの転かとも考えてみる。 i- os o- san nupuri[それ・の後ろから・その尻・出る・山]と考えるとイソサンヌプリという音に i- os san nupuri より近くなりそうだが、南峰の出るのは尻だけではないので、i- os o- san nupuri とは考えない。

 鷲別岬の山はアイヌ叙事詩に登場するウカオップ岳で、ウカオップは地名アイヌ語小辞典で「岩石が重畳している所。[<u(互)ka(の上)o(に群在する)-p(もの)]」とされたが、岩同士が物理的に積みあがっているということではなく視界の中の互いの上であることが池田実(2003)で示された。安政4年の罕有日記などに鷲別岬の付け根辺りにヲカヌカルヘという標柱があったなどとあり、ヲカヌカルヘが u- ka nukar pe[互い・の上・に見る・もの(山)]で山当て上の特徴を言っており、発祥が標柱のすぐ海側の鷲別岬の山のウカオップ岳の別称であったとすれば、ウカオップでもオカヌカルベでも重なり合う山影の中の一番手前の山影が u- で言われていることになる。

 イソサンヌプリ山が双耳峰としてほぼ同格の高さと形の二つの峰を重ねて並べて見えるのは北方〜北東方の頓別平野に限られる。問寒別川中上流域からは近過ぎて双耳峰であることが目立たず、問寒別川下流や頓別川上流からは知駒岳の尾の後ろになり、枝幸方面からはポロヌプリ山の後ろになる。サロベツ原野からも手前の山の蔭になる。頓別平野からはどこでも北峰(本峰)が前に見えるので最初の「イ」或いは「エ」の音を「互い」の u- の転ではないと考えたくなるが、ウカオップ岳の例を見るとイソサンヌプリも u- os san nupuri[互い・の後ろから・前に出る・山]の転ということがありうるか。エス井ノホリも u- os san nupuri[互い・の後ろから・前に出る・山]の連続する同種子音が一つにまるめられ、方言によって差があったという音韻転訛で san の n が y に転訛した USAYNUPURI の転、或いは u- os o -i[互い・の後ろ・にある・所]が nupuri[山]ということの転かとも考えられるか。

参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「頓別」図幅,北海道庁,1897.
松原岩五郎,日本名勝地誌 第九編 北海道の部,博文館,1899.
更科源蔵,アイヌ語地名解,北書房,1966.
新岡武彦,枝幸郡アイヌ語地名考,北海道出版企画センター,1986.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
廣瀬隆人,雄武町のアイヌ語地名解,みやま書房,1988.
伊藤せいち,雄武町のアイヌ語地名,雄武町百年史,雄武町史編纂委員会,雄武町,2006.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
谷口青山,自高島至斜里沿岸二十三図,近世絵図地図資料集成 ; 第1期 第4巻 蝦夷R,科学書院,2002.
浜頓別町史編集委員会,浜頓別町史,北海道出版企画センター,1995.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
池田実,漁労と地名 ―「胆振の山立て」から―,pp25-44,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2003.
森春成・高井英一,罕有日記 巻7,1857.(函館市中央図書館蔵写本)
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.



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(2024年4月21日上梓)