余別岳の位置の地図 余別岳(1297.8m)

 積丹半島の最高峰であるが道がない。2002年に山頂にある一等三角点の測量のために積丹岳から刈り分けられた道もほぼヤブに戻り、刈り分け直後は2時間掛からないと言われた縦走路も2008年には3時間は掛かるようになってしまった(山頂で会った比較的体力があると思われる積丹岳から往復の人たち談)。余別岳の北側や西側の沢は泳ぎが必要とされることが多いが、美国川我呂の沢は長さは他の沢と変わらないが比較的容易でヘツリで落ちなければ泳ぐ必要はない。

 当ページで使用する地名は基本的に小樽GCCによる「日本登山大系1北海道・東北の山」の中の記事に基づく。この記事ではF3の記述がなかった。また、上二股の位置はもう一つ上流の二股の方が適切のような気がした。


★舗装路終点〜重田美国鉱山跡(テン場)

我呂の沢下流の地図1我呂の沢下流の地図2

 美国の町から山側へ6kmほど入り、舗装道路の終点に橋があり橋の先にバリケードがあり、ここまで車で入れる。ここから600mほどで北大山岳部OBの小屋があり、更に橋を渡ると林道はかなりヤブがかぶって放置されている状況である。しかし歩く分にはヤブゆえに時間が掛かるというほどではなかった。橋からヤブをかき分けながら1kmほどで林道の路盤は終わり、我呂の沢出合まであと少し(20m程度か)の地点であるが、我呂の沢に出るには少しだけ濃いヤブ漕ぎしなければならない。途中の地形図上の林道の終点には鉱泉が湧いていて小さなバスタブに受けられ、溢れた鉱泉から鉄錆色の湯垢が一面に広がっていた。

 地形図上の「我呂ノ沢」の文字のある標高300mの水門跡から標高400mの3段25m滝の上の二ノ俣までが核心部である。


鉱泉
冷たくて甘酸っぱ
塩辛い味だった

入渓すぐ

淵がある

 水門跡までは基本的に河原だが、滑床や大きな釜を持つごく低い岩間小滝はいくつかある。そうした釜は簡単なヘツリで通過できる。次第に両岸が切り立ってきて水門跡の手前には岩肌に直径2mほどのトンネルがあった。水門跡が何の水門だったのかよく分からないが、これに関連する施設だったのだろうか。水門跡は鉄筋コンクリートの残骸が散乱している。

 水門跡から急速に谷が狭まりゴルジュとなるが棚上をへつりながら歩ける。50mほどで最初のゴルジュは終り、最後に扇状のF1(1.5m)がある。簡単に通過できる。ゴルジュを抜けると空が開けるが谷は切り立って狭い。360m二股(一ノ俣)までの滑床とヘツリ場の合間にF2(釜持ち2.5m)があるが左岸をへつって簡単に越えられる。360m二股の左は一ノ俣沢で、きれいなナメ滝となって落ちている。一ノ俣を右に入るとすぐCSの淵があるが、ここのへつりが一番しょっぱかった。ヘツリはここが最後である。しかしここまでに現れるヘツリは、全てしょっぱいのは一手のみで、落ちてもすぐ下の緩やかな流れの深みに落ちるだけなので気温が低くなければ危険は殆どないと言っていいだろう。また、ボコボコとした集塊岩で、時々抜けることがある。積丹半島の沢の岩は滑りやすいとよく言われるが、ここの場合、滑りやすいと言うようなものではなかった。フェルト底なら十分である。スパイクでも結構いけるのではないか。


沢の様子
引き続き

水門跡下の
謎のトンネル

水門のコンクリ

水門の上流

はじめのゴルジュ

F1

 CSのすぐ上に10mのきれいな直瀑があり瀑風が涼しい。左岸を巻く。続いて3段25m滝。これも左岸を巻く。巻く途中から上段と中段の間に下りることも出来る。巻き終わった滝の落口が二ノ俣になっていて、ここで滝場は終り。左の本流の河原をしばらく進むと2.5m棚状滝があるが簡単に登れる。まもなく右岸に鉱山ガラを堆積したような斜面が見え、左岸から鉄錆色の鉱泉が流れ込んでいるところが重田美国鉱山跡で右岸上がテン場としてGood。鉄錆色の鉱泉は古い坑道からの水だったのかもしれない。


沢の様子

F2

一ノ俣の左

一ノ俣の上のへつり場
ここが一番しょっぱかった

10m滝(F3)
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3段25m滝(F4)の
中下段
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沢の様子

3段25m滝(F4)の
上段

★重田美国鉱山跡(テン場)〜余別岳山頂

我呂の沢上流の地図1我呂の沢上流の地図2

 テン場からすぐに両方が低いナメ滝になった二股に着く。三ノ俣である。余別岳へは左に入る。ずっと河原であるが、時折岩が大きくて巻くのに手間取ることがある。増水気味の2007年秋に通った時には巻いた570mのスラブの下の巨岩帯(右岸に巻き道あり)は、今年の平水では中を通過することが出来た。川岸には硫黄の影響を受けて漂白されたような土の崖や、火山灰が降り積もったような粘土の崖が多く見られる。粘土の土砂崩れの跡も沢中にしばしばある。積丹半島そのものが火山であったことを改めて感じる。また巨岩帯の存在は、この山地で大規模な地すべりが起こったことを示している。715mの二股(粘土二股と仮称)は左に入り、次の750mの二股が「上二股」である。この辺りまで魚影が見られた。


粘土の崖が多い

スラブの岩間滝を上から
前年は増水していた

 2007年にはポンネアンチシ山から左を経由して上二股に下りてきたが、右に入るのは初めてである。右の方が少し小さい。沢の中は平坦であるが寝木が多くて歩きにくい。次第に谷が狭まってきて小滝がいくつか現れるが簡単に登れる。920mあたりで傾斜のきつい湿原の花畑状になり、このまま山頂までお花畑なら楽だななどと考えていたが甘かった。

 1000mで水が涸れ、すぐにネマガリタケの下の沢地形のトンネルをくぐるようになる。次第にネマガリタケがきつくなる。1050mあたりで草原に出て、1100mから再び濃いネマガリタケ。1160mあたりに段があって、段を越えるとネマガリタケの下に踏み跡のようなものがあった。これは後でわかったが2002年の刈り分けの跡だった。この刈り分け跡を左に辿っていけばそのまま山頂までかなりヤブに還っているとは言え楽が出来たのに、段の上が水平だったので左が山頂に続いているとは思えず、刈り分け跡の続きも上を見渡しても見えず、一旦右に入ってお花畑が広がっているように見えた北東の稜から登ることにした。

 北東の稜を登ると見えていた部分は確かに高茎のお花畑であったが、見えてない上の部分はハイマツとネマガリタケのミックスだった。これを苦労して漕いで、何とか回りこんで来た先ほどの踏み跡に合流し、今度は大人しく踏み跡を辿ることにした。

 踏み跡はかなりヤブに返っているものの、広く刈り分けられておりハイマツの海に比べれば格段に楽であった。ここまでのヤブ漕ぎでかなり体力を消耗していて、楽に感じているわりには歩みが遅かった。トタンや木材の三角点測量の際の廃材と思われるものの上を踏んで、ハイマツの海の真ん中にちょこっと開けた小さなお花畑の山頂に到着。展望は非常に良い。北方は同じくらいの高さの台地が延びているので海岸まで見下ろせないが、神威岬の先端と神威岩がハイマツの向こうに突き出しているのが印象的である。


山頂まであと少し

ポンネアンチシ山

積丹岳

★余別岳山頂〜上二股

 下山は南斜面に草原が山頂からすぐに広がっているのが見えたので、登ってきた沢より一本南側の沢を下りることにした。草原は下りてみると半分ほどは立派なお花畑でたくさんの花が見られた。その草原も標高1150mほどで終り、ここから沢地形が見つけられず、下りとはいえ1100mの沢地形までかなりきついヤブ漕ぎだった。1020mから水が現れ、水の少ない沢を下りていく。傾斜が緩み850mでポンネアンチシ山と分ける二股。ここは余別岳方面が苔のない沢で、ポンネアンチシ山から来る沢は上流の池塘と湧き水の影響で水温が冷たく一定しているのか、岩が殆ど苔生していて対照的な二股である。左へ登り返すと300mほどで逆さ積丹岳が映る池塘がある。820mに一回り大きな巨岩が沢の真ん中に一つだけあるのが面白いが、それ以外は平凡な流れの中を少し進むと上二股に着く。


南方の草原
お花畑

源頭の様子

820mの巨岩
5mはあった

★山名考

 余別川の水源の岳の意であろう。

 余別川は永田地名解にレポナイとある。余別川の西側の積丹半島沿岸は通行が難しいので余別川筋を少し遡って山側を迂回して珊内方面へ抜けた ru pa ne -i[道・の口・である・もの(所/川)]或いは ru-par ne -i[道の入口・である・もの(所/川)]、或いは ru pa un nay[道・の口・にある・河谷]の転がレポナイと考える。

 川としての用途は同様に見て、ru o pet[道・ある・川]とも呼んだのが転じたのが「よべつ」と考える。

丸山・466m峰の地図

・ポロエプイ?

 永田地名解の積丹郡の部にポロエプイの項があり、「大尖山 積丹郡第一ノ高山ナリ 和人積丹岳ト呼ブハ是レナリ」とある。また、エプイの項もあり、「尖山 西川村ニアリ 『エプイ』ハ蕾ナリ 取テ尖山ニ名ク」とある。

 積丹郡第一の高山は積丹岳ではなく余別岳である。

 松浦武四郎の安政3年の手控(フィールドノート)にホロナイフ(幌内府川)筋の聞き書きで「此沢平野 南方の山ホロイブイと云、ウタスツの川と対す」とある。ウタスツの川は西河町転多で海に注ぐゴロタ川で、ゴロタ川と幌内府川に挟まれている山で幌内府川河口付近から南に見える466m峰が、この記述に限ればホロイブイであったと考えられそうである。また、続けて「ウタスツの川 トプトシナイ 小沢のよし」とあり、更に続けて「此の川皆シヤコタン岳より来る」とあり、幌内府川やゴロタ川の水源となる余別岳が当時「シャコタン岳」と呼ばれていたことが窺える。尤も、更に続くシヤコタン川すじについての聞き書きで「岳は此川南を巻し由」とあるから、積丹岳と余別岳を合わせて「シャコタン岳」であったのだろう。

 同氏同年の報文日誌ではヲタシュツ(ゴロタ川)について「川すじ少し上りて ホロイツイと云小川一すじ有るよし也。」とあり、ホロイブイらしきホロイツイが川の名となっている。川の名でその水源にあたる山を呼ぶことがあることから、手控に聞いて記したことからホロイツイという川の存在を類推したのか、或いは聞いたことは手控に記したことが全てではなく合わせて川の名としてもホロイブイを聞いたのか。

 エプイ/イブイをアイヌ語の epuy[蕾]と考えて蕾のような形の小山と考えられる例があることは山田秀三の研究にあり、466m峰は蕾のような山容である。

 積丹町史は「エプイ アイヌ語、『エプイ』は蕾といった山で。幌内府流域にある山で、丸山でないかと思う。」としている。572.0mの三角点が山頂にある幌内府川左岸の丸山も蕾のような山容で幌内府川河口から見れば南方の一角である。丸山がエプイより一回り大きなホロイブイ/ポロエプイで、ゴロタ川源頭で西河町の山と見なせそうな466m峰がエプイだったのだと思う。永田地名解のポロエプイが積丹郡第一の高山で和人積丹岳と呼ぶとあるのは更に考えたいが、余別岳は山田秀三の研究でエプイとされた蕾のような小山のイメージから離れると思う。

参考文献
小樽GCC,積丹山塊,日本登山大系1 北海道・東北の山,柏瀬祐之・岩崎元郎・小泉弘,白水社,1997.
北海道の山と谷再刊委員会,北海道の山と谷 上,北海道撮影社,1998.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
山田秀三,アイヌ語地名の研究(山田秀三著作集)4,草風館,1983.
榊原正文,データベースアイヌ語地名1 後志,北海道出版企画センター,1997.
積丹町史編さん委員会,積丹町史,積丹町,1985.



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(2008年8月15日上梓 2022年4月26日山名考追加)