犬牛別山 南16線バス停付近から |
犬牛別山(746.2m)と幌加内坊主山(743m)
犬牛別山も幌加内坊主山ものっぺりした山頂を持つそれほど登高欲をそそらない山。金色の焼き物になるという蛇紋釉の元となる蛇紋粘土を求めて犬牛別山に辿り着く。縁が出来たら登らないと済まないのが山ヤのサガ。5月に沢から山頂を目指すも強烈なネマガリタケのヤブに遮られ断念。冬に登りなおした。士別市温根別から幌加内町に山を横断した。
★犬牛別山北東尾根登山
ダムの1.5kmほど手前に車止めのゲートがあり、夏も冬もここから先は自動車は入れない。冬場はスノーモービルが横から回りこんで進入している跡があった。
ダムまでの道路は法面が岩肌だったの雪崩危険箇所として歩くべきでなかったかもしれない。気温の低い早朝だからと結局通ってしまった。ダムからマムシ沢と五線川の間の尾根を登る。疎林でなだらかだが登り返しが多くあってスキー向きとはいえない。この尾根はスノーモービルの跡も人のトレースも全くなかった。途中でムササビらしき足跡を見つけた。初めて見た。もう冬眠からさめていたのだろうか。
標高500mからの急斜面は、殆ど裸の雪崩斜面のように見えたが、真ん中に一列木が生えた鼻のような部分があるので、それに沿って登った。ウサギやキツネの足跡もこの一列の木に沿うように収斂していた。640mより上は平坦な台地になっており、大きなアカエゾマツの疎林が良い雰囲気だ。このルートは残雪期にウロコ付きのスキーで登ると良さそうな気がする。
山頂は三頭山の展望が良い。山頂一帯は古いモービルの跡があった。幌加内側から登ってくるのだろうか。この山ではモンスターが出来るようだ。冬も終わりに近いこの日は、ニューネッシーのように肉の落ちた雪のモンスターが幾つか立っていた。
5-600m 赤点線の部分を登る |
640mの台地 山頂が見える |
★犬牛別山--幌加内坊主山
幌加内坊主山へは平らな尾根を歩いていく。坊主山の西斜面は木の少ない広い斜面が広がっている。722mのコブを巻くと三頭山の展望は遮るものがなくなり、ますます素晴らしい。坊主山の最後の登りは周りに木が少ない細長い尾根で、天の掛け橋を行く感じである。
★幌加内坊主山和加山尾根下山
坊主山の南斜面はスキーに良さげなスロープであった。そしてそれより下では幌加内側に下りる殆どの尾根がそのままスキーで下りるのに良さそうに見えた。今回は国道に下りる和加山の尾根を下った。
幌加内盆地に下り立つ平野の脇に、地図に「幌加内幹線用水路」の水線が書かれる用水の溝は積雪期は水は流れておらず、雪に埋まっていて簡単に渡れる。
南斜面の西寄りのアカエゾマツの低木林を回り込んで和加山の尾根に入る。若干の起伏はあるが広く疎林なので、上手くトレースすれば下りでも登り返しなしで下りられそうだ。気温が上がってワカンの裏に雪団子が出来る。三角点の和加山は何もないところで通過し国道275号線の新雨煙別橋付近に下山。最後まで疎林で道路に出るまでスキーを楽しめそうに見える尾根だった。最後は気温が上がって雪が腐って沈むので疲れた。幌加内の街まで1時間国道を歩いてバスターミナルで蕎麦を食べてバスに乗って帰宅した。
幌加内坊主山から 幌加内の町を見下ろす |
和加山尾根 |
坊主山 上幌加内バス停付近から |
坊主山から見た三頭山 |
・犬牛別山・犬牛別川
明治30年の「北海道実測切図」では、犬牛別山は「イヌンウシュペッカムイヌプリ」とされた。犬牛別川の霊山と言うことらしい。イヌンウシュペッは犬牛別川のことで、地名アイヌ語小辞典に従えばアイヌ語の inun us pet[漁のために水辺に出向いて滞在する・することを習いとする・川]と思われる。犬牛別川の川の名の看板に「漁人の仮小屋ある川」とあったが、明治時代の永田方正の北海道蝦夷語地名解(以下、永田地名解)の記述そのままで、推測される名づけられた時の状況の説明にはなっているが、アイヌ語の由来として書いたのならば問題があるのでないかと思う。
松浦武四郎の安政4年の日誌(報文日誌)を見ると、シヘツ(士別)とナヨロ(名寄)のアイヌの人の案内で犬牛別川が「ウブヌシヘ」とある。フィールドノートである手控には「ウフヌシヘ」、「ウブヌンベ」などとある。日誌のウブヌシヘでは、前年の海岸沿い(テシホか)での事前調査によってか「本名イウヌシベツなるべし」と書き(安政3年の手控の「天塩川小名」に「イウヌシヘツ」とあるが、どういう調査に因るのか分からない。翻刻の注は「聞き書き」としている。)、著名な東西蝦夷山川地理取調図(以下、取調図)の安政3,4年の調査による原図と見られる川々取調帳でもイウヌシベツと書いたが、取調図ではウとヌが逆転して、川の名ではなく河口の地名として「イヌウシヘツブト」とした。また、文久2年の一般向けの天塩日誌には天塩川の川筋を示す図の中に犬牛別川らしき「イヌウシヘツフト」の文字がある。「ブト」/「フト」はその河口を示すアイヌ語の putu であろう。
また、文化年代の間宮林蔵などの調査に基づいて作られたという高橋蝦夷図には犬牛別川を指して「イウブヌシペ」とあるという。
或いは取調図と天塩日誌の版を彫った画工のミスでウとヌが逆転したかとも考えてみたが、二つの違う図で同じミスをするだろうかという気もする。理由は分からないが、松浦武四郎が自ら地元のアイヌの人に聞いたのと報文日誌に記したのとは異なる川の名を、一般向けの取調図と天塩日誌には記したとしか、今の所は考えられない。北海道実測切図のイヌンウシュペッとイヌンウシュペッカムイヌプリは、本当に明治期にそう呼ばれていたのだろうか。事前に取調図を見ていた測量担当者によるのではないかと疑ってみる。測量に協力したアイヌの人は、犬牛別山のことはカムイヌプリと言ったのではないかと思うが、「犬牛別」相当部分は古い地図にそうあるならとイヌウシペッに合わせてしまい、更に製図の段階で永田地名解に合わせてイヌンウシュペッということにされたのではないか。
次に、アイヌ語 inun の名詞としての、「漁人の仮小屋」等の意味を、地名アイヌ語小辞典以外のアイヌ語辞典等に確認できない。us は名詞を受ける場合は日本語の「ある」に似たニュアンスになるが、動詞を受ける場合は「そのことをいつもする」といった助動詞的な意味となる。
地名アイヌ語小辞典の inun の項では2番目の意味として名詞で「=inun-chise」とあり、inun-cise の項を見ると「川或は海の岸に立てて漁季だけ寝泊まりする小屋。」とある。
永田地名解の2年前に発行されたバチラーのアイヌ語辞典では INUN-CHISEI(注:inun-cise)が名詞として日本語で「猟小屋」と、英語で「A fisherman's hut.」と訳がある。
永田地名解には「イヌン ウシュ ペッ 漁人ノ仮小屋アル川」とあるが、永田地名解の例言には、天塩国上川郡について「地図ニ拠リ測量者ニ質シテ訳ヲ下ス」とあり、「漁人ノ仮小屋アル川」は永田方正が地元のアイヌの古老に尋ねて記した音や訳ではない。英語の fisherman's は日本語にすれば「漁人ノ」で、hut は「仮小屋」である。「漁人ノ仮小屋」が「A fisherman's hut.」の単語毎の直訳と完全に一致するのは永田方正がバチラー辞典を参考にして、CHISEI の部分を無視してINUNだけを切り取って「A fisherman's hut.」と同一表現の日本語に訳したと言うことではないのか。地名アイヌ語小辞典は永田地名解を受けて inun の名詞としての意味を記したのではないのか。
バチラーの辞典で「A fisherman's hut.」とあるのは INUN-CHISEI であって、INUN ではない。同辞典に INUN の項は無く、INUN-CHISEI 以外の INUN で始まる合成語の項も無く、INUN-CHISEI の項を見ているだけでは INUN の品詞は分からず、INUN だけの意味も分かりにくい。だが、CHISEI で「家」とする項はある。
アイヌ語沙流方言辞典では自動詞 inun を、「i-nun ものを・吸いとる」と分解し、「魚とりをする」を訳として滞在する意味が無い。萱野茂のアイヌ語辞典でも動詞の「食べ物を探す」と、名詞の「村で食べ物が足りなくなり、他の地方へ探しに行くこと。魚を獲りに行く場合が多い。」とされ、漁人になるとは限らず、また、滞在までは含まれていないようである。バチラーの辞典でも後の版では INUN が「猟ノタメ野宿スル」とされ、INUN-CHISEI が「山小屋」、「夏ノ住居」とされる。
アイヌ語の自動詞は名詞的用法があるが、魚獲りの為等で滞在すること/行くことが仮小屋まで繋がるのか疑問である。例えは悪いかも知れないが、inun を「(何らかの)仮小屋」とするのは出張に際して出張先の宿舎を「出張」と呼んだり、海水浴に際して海の家や民宿を「海水浴」と呼ぶような感覚ではないかと思う。
inun を名詞の何らかの「仮小屋」とするのも宜しくないが、バチラー辞典の後の版と萱野辞典と合わせると、「漁人ノ」と限るのも適切ではないように思われる。
もう一つ、犬牛別川のような大きな川が、他にも魚獲りが出来る川は幾らでもありそうな天塩川流域で、魚獲りに滞在するなどと言ったランドマークに基づかない名というのには疑問である。
犬牛別川の流路 |
犬牛別川は流れる向きを何度も変える川である。上流側へ剣淵川と分かれて、まず西に向かい、北西に進み、また西に向かい、温根別川を分けて南へ向かう。
この下流側から見て、一旦本流である剣淵川・天塩川から分かれて後戻りするように流れながら、上流で向きをぐるりと変えて剣淵川・天塩川と流れる方向が揃うことを言った、ウブヌシベとは e- pena us pe(/pet)[その頭・その土地の上手・についている・もの(/川)]ではなかったかと考える。上流が上手に向かっているのは当たり前のようだが、入るとしばらくは本流である剣淵川や、南を上手として延びる名寄盆地の下手の方向や真横に向かっている感じがする流れ方をしているので、敢えてそう言ったと考える。犬牛別川の一番下流の支流で剣淵川・天塩川とは反対向きに流れるイパノマップ川は、e- pana oma p[その頭・その土地の下手・にある・もの(川)]と考える。
高橋蝦夷図の「イウブヌシペ」と、松浦武四郎の安政3年の手控の「イウヌシヘツ」を比べてみる。イウヌシヘツの最後の「ツ」は、pe[もの(形式名詞)]か pet[川]の違いとして、イウブヌシやウブヌシがイウヌシとなるとする方が、イウヌシがイウブヌシやウブヌシになるとするより、口の動きが少なくて済むようになるので、訛り方として考えやすい。
松浦武四郎は安政3年に昆布川支流の名として「イヌヌシ」(安政4年の日誌では「イヌヌシナイ」で現在のイヌフレベツ川らしい)と鬼志別川支流の名として「イヌヽシナイ」を記し、安政4年には国縫川と長万部川の支流の名として「イヌヽシナイ」を記しており、「漁や食料探しに行きつけていたり滞在する事を習いとする某」といった地名がランドマークに基づかないという意味では考えにくいが、有り得ないとまでは言わない。が、魚獲りに限らないで食料を求める所は榊原正文(2004)に指摘された河谷(nay)であって、川の水流(pet)ということは無いように思われる。天塩川支流にイヌンウシュペッもイヌウシペッも実在しなかったのではないか。
明治の北海道庁の測量の人々や永田方正が、刊行されていた取調図や天塩日誌から地名を拾い上げたのは当然であったと思う。手控は見ていないし、報文日誌の存在にも気づいていたかどうか。だが、いつまでもそのままではなく、犬牛別川や犬牛別山や犬牛別峠の名は「犬牛別」の部分を「ウブヌシベ」や、現在の犬牛別川流域の住所に使われている伊文(いぶん)の音を使って「イブヌシベ」、「イブヌシベッ」などに置き換えるのもありなのではないかと思う。
・坊主山
坊主山は北海道実測切図にクン子ヌプリとある。kunne nupuri[黒い・山]かとまずは考えてみた。下山して幌加内側から見たら、山頂付近の木が少ないので白い山に見えた。「黒い山」というのは違う気がする。
五線川落ち口付近の地図 |
松浦武四郎の記録に、犬牛別川上流にバンケクヲナイとベンケクヲナイが挙げられているのが気に掛かる。山の名は谷や沢の源頭と言うことで、犬牛別山のように谷や沢の名前で呼ばれる例が多い。その際に語尾の pet や nay などが省かれることがある。北海道実測切図は同じ音を含むクオーペッを摺鉢川の位置で描いているが、より上流で現在は温根別ダム湖の底の犬牛別川本流が60度ほど明確に曲がる所で、角の内側で合流していた五線川が上下どちらかのクヲナイと訛った、イカゥネイ ik-aw ne -i[関節の・内・である・もの(川)]であり、五線川の水源の山と言うことで ik-aw ne nupuri[関節の・内・である・(川の源頭の)山]の訛ったのがクンネヌプリではなかったかと考えてみたが、「関節の内側」のような言い方をするのかどうか、分からない。また、五線川が ik-aw ne -i で、上下どちらかのクヲナイであったとすると、近接してもう一つ同じような地形があったことになるが、本流の角の内側に合流している支流は他に無さそうである。更に、五線沢をクヲナイと考えると九線川や摺鉢川といったほどほどに大きな犬牛別川の下手の支流のアイヌ語の名が伝わっていないと言うことになりそうである。
現在の地形図には、摺鉢川下手の犬牛別川右岸支流から山を越えたパンケペオッペ川支流にクオウベツ川とある。山を越える所は低い鞍部(287m)で道路が通っていて剣淵方面と連絡する。この鞍部の両側が ru o nay/pet[道・ある・谷/川]で、訛ったのがクヲナイ/クオーペッで、犬牛別川の支流としては287mの鞍部へ向かうのがパンケクヲナイ、摺鉢峠に向かうのがペンケクヲナイであったかと考え直す。
五線川を、イコンネ ik or ne -i[関節・の所・である・もの]などと考えると、よりクンネの音に近い気がする。温根別ダムの出来る前の航空写真を見ても、五線川下流域は開けた谷筋であり、衛星写真(GoogleEarth)で見ても川砂利が黒いと言うことも無く、kunne[黒い/暗い]などと言ったとは考えにくい。上下クヲナイとクオーペッはクンネヌプリの名とは無関係で、五線沢が ik or ne -i などで、その源頭のクンネヌプリと考えるが、アクセントのある第一音節の「イ」が落ちるのか、語が繋がることでアクセントの位置が変わることはあるというが、疑問は残る。或いは utor-ehotke の語構成のように第二音節にアクセントのある ikor(ik-or)[関節の所]のような単語があったかとも考えてみる。
坊主山の西側には雨竜川が流れている。用水路の設置や河川改修が行われる前と思われる明治30年の北海道実測切図によると、坊主山の南に突き上げる雨竜川支流は、雨竜川が大きくカーブする所(清月橋の北側)に注いでいるが「キトタウシュナイ」とある。西に突き上げる支流は和加山の元になったと思われる「ワッカウェンナイ」である。北に突き上げる支流に名前は書かれていないが、雨竜川が真っ直ぐ流れている所に落ちている。幌加内側の川の名がクンネヌプリの名になったとは考えにくい。
・和加山
和加山の名の元になったと思われるワッカウェンナイは wakka wen nay[その水・悪い・河谷]と取れそうだが、鉱泉も知られていない、地形図に人工らしき池が描かれるような谷筋の水が特別悪いとは思えない。雨竜川の対岸に、wen らしき音を含む雨煙別川がある。雨煙別川は雨竜川にほぼ直角に注ぐ支流で、1.3kmほど扇状地を流れ、扇央から約400m遡った所で90度曲がり、幌加内川と同じ向きとなる。この扇状地の奥での山間の流れ方を指す aun pet[入り込んでいる・川]の転訛が雨煙別であり、その対岸で遡ると和加山の方に戻るように入り込むワッカウェンナイは mak ko- aun nay[後ろ・に/に向かって・入り込んでいる・河谷]の転訛と考える(或いは aun でなく awen<aw-e-n[内・(挿入音)・の方向に移動する]を想定する)。
参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「名寄」図幅,北海道庁,1897.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,吉田武三,松浦武四郎紀行集 下,冨山房,1977.
ジヨン・バチエラ,蝦和英三対辞典,北海道庁,1889.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
ジョン・バチラー,アイヌ・英・和辞典,岩波書店,1995.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
榊原正文,データベースアイヌ語地名4 日高1 静内町,北海道出版企画センター,2004.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
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