山頂まであと少し

宮之浦岳から見た黒味岳
黒味岳 (1831m)
くろみだけ

 伝統ある三岳の一つであるものの独立した山として実態のない栗生岳に替わって、近年は誤って「三岳」の一峰として数えられてしまうことが多いようだ。「ミタケ」の韻もふんでいる。しかしあくまで屋久島「三山」ではあっても「三岳」ではない。山頂からの眺めは小楊枝川支流オオニタの谷をはさんで宮之浦岳と永田岳がそびえ、屋久島随一の山岳展望だ。

登頂日・・・1997年10月28日、2003年11月28日
五万図・・・「屋久島東南部」
参考時間・・・黒味別れから登り20分


★登山ルート

 山頂へは宮之浦岳淀川登山道の途中、花之江河を過ぎて1つ目の鞍部「黒味別れ」から西に稜線を辿る。分岐には立派な標識がある。登る人も多い。はじめは樹林内だが山頂が近付くに連れ、低木の偽高山帯になり、山頂は大きな露岩である。左手(南側)からぐるりと回りこんで巨岩の上に立つ。一ヶ所、下の方でロープがある。宮之浦岳日帰り往復でも長丁場になるが、行きしに寄りたい。これから歩く宮之浦岳までの道のりがよくわかる。南西の海側には栗生川河口沖合の「七瀬」が山頂から見える。


★山名考

 海岸線の集落の名前が付けられるのが慣例の奥岳の山にあって、対応する「黒味」集落は見当たらない。「黒味」は栗生集落の村はずれの一角の小字名であり、その南側を流れる「黒味川」は栗生集落の小字黒味の下で小楊枝川と合流し栗生川となって東シナ海に注いでいるが、黒味岳が黒味川の源頭ということはなく、黒味岳は小楊枝川の源流に囲まれていて、黒味川は花之江河にすら達していない。

 中島成久(1998)は「屋久島の環境民俗学」で、黒味岳の由来を修験道で高千穂神社主神の坐す山を「きんなり山」またの名「くろみ山」と称することに因むのではないかと言う説と、明暦の頃の作成とされる屋久島大絵図に黒味岳付近に「黒御岳」と振られていることによると言う説を挙げている。


花之江河から見上げる黒味岳

 確かに屋久島の岳参りの習慣には修験道の影響のように思われるものがあるように思う。だが、山岳信仰として根を同じくするだけのように思われるところもある。

 屋久島大絵図には黒味岳と思しき位置に「黒御嶽」の名が記載されている。描かれる位置も川筋も山容も黒味岳と合致している。この絵図には「黒味川」の記載はなかった。この黒御嶽が黒味岳を指していると考えても、黒味岳が他の奥岳の山と比べてどう黒いかと問われれば何か違う気がする。黒味岳は宮之浦岳や栗生岳、永田岳に比べれば笹で覆われている面が少なく針葉樹や常緑樹が多いような気はするが、だからと言って他の御岳がいずれも山麓の集落の名を戴いているのにこの山だけ色で名付けられるものだろうかとも思う。小字黒味の地名が先ずあり、そこを流れる川の名として黒味川があり、栗生(芋生)からの岳参り道のあった小楊枝川の斜面や栗生岳(芋生御嶽)から見て、地形が複雑な黒味川の水源であろうと目されての、「黒味川の嶽」が、ミタケの韻を偶々踏む事になって「黒御嶽」と記されたのではなかったか。栗生では花之江河の水が栗生川の源流の一つと考えられていたことが、屋久町郷土誌(1993)の栗生の岳参りの記述から窺える。黒味岳山頂に岳参りの祠が見当たらないのも、古い地図で黒御嶽と書かれても御嶽の実態がなかった為ではなかったか。花之江河はそれだけで参るに足る神秘的な場所である。御嶽(みたけ)が「三岳」と書かれたのも単に音が同じというだけではなく、黒御嶽という文字で表される第四の御嶽は無く、宮之浦御嶽と永田御嶽と芋生御嶽(栗生御嶽)の三山が「ミタケ」であったという意識のあらわれでもあったということではなかったか。

参考文献
1)屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第一巻 村落誌 上,屋久町教育委員会,1993.
2)中島成久,屋久島の環境民俗学,明石書店,1998.
3)太田五雄,屋久島の山岳,八重岳書房,1993.



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(2004年2月24日上梓)