栗生岳
くりおだけ

 国土地理院の地形図では山名は宮之浦岳の一角に振られる。独立したピークとしてではない。その場所に栗生集落の岳参りの祠がある。独立したピークではないが宮之浦岳、永田岳と共に屋久島三岳の一峰とされる。登山者には淀川登山口などから宮之浦岳を目指す際に途中で踏まれる。

 海岸線に栗生地区の名に基づく山名である。江戸時代の明暦(西暦1655-57年)頃の作成と見られている屋久島大絵図では現在の栗生岳と思しき位置に「芋生御嶽」と山名が振られている。栗生は昔は芋生(いもお)と言った。

 現在の栗生が藩庁の命によって芋生から変わったのは宝永6(1709)年で明暦より半世紀以上後のことである。栗生岳や栗生御岳といった呼称が生まれるのは芋生が栗生に変わった宝永以後のことであろう。或いは「くりお」と「くろ」の音の類似に基づくものであったか、Wikipediaの「栗生岳」のページ(2013年2月現在)にある三国名勝図会の栗生嶽とは現在の黒味岳ではないかとの説は、宝永より前の屋久島大絵図に現在の黒味岳であろう「黒御嶽」と「芋生御嶽」が別個に、現在の地形図の黒味岳と栗生岳とほぼ同じ位置関係で描かれているのであるから時系列として成り立たない。現在の栗生歩道の位置から黒味岳を栗生の岳参りの終点だったかとみなしたくもなるが、栗生の岳参り道は古くは現在の栗生歩道だけではなく大洞杉付近で北へ分岐して小楊枝川の斜面から栗生岳を目指すものもあった。栗生での岳参りは三組に分かれ、花之江河、三岳、七五岳へとそれぞれ登ったという。黒味岳が栗生での三岳(御嶽)にあたるのなら小楊枝川の斜面の岳参り道は必要が無く、花之江河と三岳の組を分ける必要も無い。三岳の組が小楊枝川から栗生岳・宮之浦岳・永田岳を往復し、花之江河組はまず花之江河に登り、次いで栗生岳・宮之浦岳に登り、天気が良ければ更に永田岳に足を延ばして小楊枝川に下る周回コースをとったという。

 屋久町郷土誌に一説として挙げられている、文字通り芋(カライモ)が自生していたから芋生(イモ・フ)と言ったとは考えにくい。唐芋は文字通り移入種であり、自生していたはずは無い。里芋も移入種である。山芋は移入種の大薯の栽培物が屋久島の名産となっているが、山芋は山野を歩いているとまとまって生えるタイプの植物では無い気がする。クワズイモは生えていても地名を付けて呼ぶ意義が見出されないだろう。屋久町郷土誌では「くりお」の語源についても幾つか説が挙げられているが、漢字表記での芋生の変わった栗生は、芋と栗の食感の類似と藩命という上から指示であったことを考えると、藩命の変更事由の情報は持ち合わせていないが、元々「くりお」という地名があったわけでは無かったのではないかと言う気がする。栗生川の名は村の名が芋生から栗生に改められた後もしばらくは芋生川のままだったという。

 芋生の語源について屋久町郷土誌は「埋生(うも・ふ)」説も挙げ、河川による堆積を指しているとする。栗生川河口の栗生地区の広がる洲を指したものか。屋久町郷土誌の説は永里岡(1988)を参考にしているようである。永里岡(1988)は芋生(いもお)を「埋生(うもふ)」の方言と解し浸食による地すべりか、山崩れで埋まった場所に因んだ字名としているが、そうした地形が栗生周辺にあるかどうかについては言及していない。栗生を囲む山地は屋久島の例に漏れず急峻で有史以前も含めれば山崩れや地すべりがあったこともありそうではあるが、山の斜面に馬蹄形の窪みが見られるわけではない。ホルンフェルスで地すべりや山崩れの起こりにくい地質だから山の斜面が斯くも急峻に立っているのかとも思う。「生(ふ)」は「芝生(しばふ)」のように植物などが生えていることや、その土地が何かを産することを指し、植物の名などの名詞の後ろにつくようだが、何らかの植物名などに名詞化していない動詞の語幹(「うも」)の後ろにも付くのだろうか(芋(いも/うも)は「埋もる(うもる)」の語幹が名詞化したものという説がある)。

 屋久島には芋生(栗生)の他にも麦生(むぎお)や原(はろお)といった語尾がオで終わる地区名があり、そうした流れの中での芋生の語源を考えてみる必要もある気がする。一湊や安房も「お」で終わっているのではないかと考えてみる。屋久島の集落毎に目に付きやすく、よくある地形を言ったのが「お」の部分で、「お」を修飾する言葉で場所が示されているのではないかと考えてみる。

 栗生はカマゼノ鼻による湾の口を浜堤が塞ぎ、その後ろに栗生川の運んだ土砂からなる小平野にある。栗生の芋生とは栗生川が浜堤の後ろを埋め立てていた堆積地を指した「埋め・丘(を)」という村の名だったのではないかと考えてみたが、栗生の浜堤やごく低い河岸段丘を「丘(を)」と呼べたのか、まだ考える必要がある。

 カマゼノ鼻は顕著なランドマークある。細長く延びた尾根の末端であり「尾」と表現されそうな気はする。だが、細長く延びていることの他に特徴は無かったように思う。珊瑚の石が多かったが、珊瑚の石で白かったりすることをイモとなりそうな音で表現したとは思いつかない。

 栗生の浜は少し輪になっている。直線的な永田浜とは違う。昔の航空写真を見ると、栗生川の河口は浜の隅でかなり口が小さかったようである。この小さく割れている部分のある浜であることを言った、「いもお」とは「ゑみ(笑)・わ(曲/廻)」か「ゑまひ(笑)・わ(曲/廻)」で、「ほころんでいる(こと)・入り曲がっている所」の訛って約まったものではないかと考えてみた。特に「わ」の母音が落ちて w となり最後がオのように聞こえていると考えた。或いは屋久町郷土誌の通り、河川による土砂の堆積が「わ」の後背を埋めている「うめ(埋)・わ(曲/廻)」か。わ(船着き地)は栗生浜でなく外波を受けない栗生川の中で、メヒルギのマングローブのある泥干潟を「うめ(埋)」と見たか、柔らかい「うみ(熟)・わ(曲/廻)」か。

 集落間の陸上交通が発達しなかったという屋久島で、船を着けるに良い「わ(曲/廻)」の所に集落が発生したと考えると、芋生だけでなく麦生も原も一湊も安房も当てはまるような気がするが、更に考えたい。「楠川」という川が見当たらない楠川と、ワ行音と相通するマ行音で終わる中間と小島も、「お」にならなかった船を着ける海岸の「わ」の集落名ではないかと考えてみる。或いは半山もか。

参考文献
1)屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第1巻 村落誌 上,屋久町教育委員会,1993.
2)太田五雄,屋久島の山岳,八重岳書房,1993.
3)永里岡,屋久島の地名考,永里岡,1988.
4)中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.



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(2013年2月24日上梓 2017年7月7日改訂)