美ヶ原行程地図
行程図
美ヶ原

 日本百名山を読んで牧場の山と知ったが、地形図で最高点の王ヶ頭にホテルや電波アンテナが林立する姿を見て、行ってみようという気持ちがなくなっていたが、古本屋で岡茂雄の炉辺山話を見つけて美ヶ原史話の節を読んで、行ってみようと思った。


・自然保護センター〜王ヶ鼻〜王ヶ頭

 松本駅から季節運行の直行バスにて終点の美ヶ原自然保護センターバス停へ。美ヶ原は大観光地だと思っていたのに意外と細くクネクネと曲がったバスには走りにくそうな通行量の少ない道路を登ってきたのに驚いたが、美ヶ原自然保護センターへの道は、言ってみれば美ヶ原の裏口であり、道の駅や美ヶ原高原美術館や山本小屋に至る道が表口で広い道であり通行量も多いとの話。

 王ヶ頭ホテルへの砂利道をまずは王ヶ鼻へ。天気は晴れ予報で自然保護センターに着く直前まで晴れていたのだけどガスのかかった道をマルバタケブキが笹地の間に咲いているのを見ながら歩く。クサボタンとカワラナデシコも少し笹の間に咲いているのを見る。

 アンテナ保守車道から歩道に入ってすぐに王ヶ鼻に着くと西方にガスがなく、松本市街と常念岳は見えたが槍穂は雲の中。富士山や八ヶ岳も見えるはずなどという声を聞くも本日は見えず。だけど朝に出てきた松本の市街地と安曇野の平野と常念岳までは高度感をもって見えたから来て良かった。王ヶ鼻の大きな露岩の上の御嶽神社は笠を乗せた二段の石碑群。風が強く、石切場から八丁ダルミコースを自分の足で登ってきた人達が風通しが良くて気持ちよく登ってこれたなどと話しているのを聞いて、真夏で暑いから麓から登ると水不足になってしまうかもと思って直行バスに乗ったけれど、真夏でも風があるなら早立ちで日差しの少ないうちに麓から登るのも悪くなかったかもと思った。だけど松本駅から石切場の最寄りの三城荘前バス停までは、直行バスの美ヶ原自然保護センターバス停までより運賃が倍からして、ダイヤが日帰り登山に使いにくいのだ。岩場にマツムシソウを見る。

 歩道を引き返して最高点の王ヶ頭へ。車道の途中から南斜面トラバースの歩道に入って草地の中を進む。ヤナギランが群生するネットで囲われた所があったが花は終わり気味。山頂直下で上の岩場から歓声の聞こえる分岐に入り急斜面ということもなく王ヶ頭に着く。王ヶ頭の名は昭和初期頃に観光向けに地元の村長と後に美ヶ原高原荘の主となる人が新しく付けて戦後から使われるようになったのだという。

 岩場の後ろのアンテナとホテルの建物に囲まれた最高点に御嶽神社が小さくある。王ヶ頭ホテルの前に出ると東方にテーブル状の平原が広がる。夕張市の鳩ノ巣山に登った時の、鳩ノ巣山のテーブル状の山上台地を思い出す。


王ヶ鼻到着

王ヶ鼻御嶽神社

松本平の展望

マツムシソウ

マルバタケブキ

ヤナギラン 王ヶ頭を見上げる

王ヶ頭到着

王ヶ頭御嶽神社

王ヶ頭から美ヶ原を見る

・王ヶ頭〜牛伏山〜道の駅


牛伏山付近地図拡大
赤色実線はトラックログ

 緩やかに牧場の間に下る。若い牛ばかりだ。塩くれ場で牧夫が石に塩を置くのと、若い牛達が石に置かれた塩の山をベロンと舌で舐めとっているのを見る。昼時でベンチの埋まっている美しの塔は写真だけ撮る。山本小屋ふるさと館は美ヶ原の表口の最奥にあたるようで駐車場に車がいっぱいなのに驚く。

 ふるさと館前から牛伏山に登る歩道に入る。牧場の中の道で牧場とは柵で仕切られているが途中で牧場内の牛の道と交差する。緩い石敷きの道である。地形図に1990mの標高点のある最高点だと思っていたところはすぐ手前に三叉路があり、左に入ると石積みの多い広場になっているが、更に北西に90mほど入った突き出しのような、やはり石積みが多い所の方が高く見える。美ヶ原高原美術館のお城の城壁のような大きな壁がすぐ東に見えるのに違和感。西側は牧場で木が無いので風当たりが強い。北東側は霞があるものの晴れており上田の盆地と、千曲川の北側の上信越の山は登ったことがないので一つ一つの山はよく分からないのだけど丸い煙の上がっているのが浅間山であることは見えて分かる。牛伏山の名は石の山であることを言った「いし(石)・をせ(峰背)」の転が「うしぶせ」でないかと思う。

 牛伏山の山頂で引き返しても良かったのだけど、帰りのバスに時間があるので道の駅まで下りてみることにした。左手に美術館の柵を見ながら草原の木道を緩やかに下りていく。往来する人は多くて細い木道はちと細い。美術館の跨道橋をくぐる辺りは少し草丈が高い。道の駅の裏口のような所の前に下りる。横断歩道を渡って道の駅の前に出ると、ふるさと館より更に多い車と人に驚く。駐車場にも道の駅の建物の入口にも注意書きが沢山あって何か気分が潰れるものがあって、すぐ牛伏山に戻ることにする。牛伏山の山頂で昼食。道の駅から登ってきた人に「美しの塔というのはどこですか?」と聞かれて見えている美しの塔を指さすと遠くてとても行けないと思われたよう。牧場がだだっ広くて何も比べるものがなくて塔がそんなに高いわけでもないから遠く見えるけど歩いて30分もかからないとも言ってみたのだけど。

 炉辺山話に美ヶ原の頂上(王ヶ頭)を「幼い頃の母の乳房をいつも懐い浮かべた。ふっくらと盛り上がり、御嶽の小祠は乳首のように思えた。」とあったのを思いだすと、真っ平な牧場の真ん中に塔というにはずんぐりに見える美しの塔が男の胸板にある乳首のように見えてしまう。王ヶ頭の御嶽神社は王ヶ頭ホテルに遮られて牛伏山からは今は見えない。


牧場の道

塩くれ場

牛伏山へ石敷きの道

牛伏山

王ヶ頭遠望

道の駅へ下る木道

・牛伏山〜烏帽子岩〜王ヶ頭〜自然保護センター

 牛伏山から下りて、ふるさと館前から美しの塔の方に入ると行きしと全然違って人が少ないのに驚く。美しの塔の周りのベンチも、行きしは殆どのベンチが埋まって休憩している人が沢山いたのに誰も座っていない。お昼を過ぎてしまうだけでこんなに人がいなくなるものなのか。塩くれ場から行きしに通らなかった台地の南縁を通って烏帽子岩に寄って王ヶ頭に上がることにする。

 烏帽子岩はスレートの積み重ねのような岩場の突き出しで、美ヶ原の上から見る分には何が烏帽子なのか見当がつかないが、麓の三城の方から見たら烏帽子のように尖がって見えるのか。

 王ヶ頭も人が少ない。王ヶ頭ホテルの前から自然保護センターの前に直接下る歩道は牧場の一角を横断するが、ふるさと館前から牛伏山のように道が柵で牧場と仕切られていない。若牛の群れが斜面の下方を自分に平行するように移動している。牛が何か楽しそうで歩くだけでなく笹の斜面を駆け足で跳ねたりしているのが見える。牧場の下端の柵に入ってからゆっくり牛を観察すると牧草だけでなく笹の葉も舌で巻き取って食べている。

 緩やかな道を下って天狗の露地の看板の車道に出る。天狗の露地は看板の辺りから自然保護センターの辺りの尾根の段を指すようなのだけど、王ヶ頭の天辺を越えていく緩やかな登りやすい尾根道ということの「てん(頂)・ごえ(越)・なる(平)・ぢ(路)」の転が「てんぐのろじ」でないかと思う。戸隠山や蓼科山の天狗の露地は分からないけれど。


人気のない美しの塔

茶臼山

鉢伏山と三城

烏帽子岩へ

烏帽子岩から王ヶ頭を見る

烏帽子岩を振り返る

天狗の露地へ下る 柵なし

笹の葉も食うのね

緩やかで静かな道

★山名考

 炉辺山話は享保9年の信府統記第七巻筑摩郡境記山家組の部の「うつくしが原」を美ヶ原の名の最も古そうな記録として引用して、その66年後の東山十六景の「美ヶ原臨眺」と絡めてその命名が「それにしても観光宣伝の意図が含まれていることは認めないわけにはいかない。」としているが、信府統記の当該箇所である第7巻筑摩郡境記山家組の部を読んでも私には観光宣伝の意図あって「うつくしが原」としたようには読めない。「うつくしがはら」という発音が先にあったのなら観光宣伝の意図がなくても「美ヶ原」の用字になると思う。

太尾越・王あ越推定地図

 地形図にある武石川筋から焼山沢詰めで美ヶ原を横断し百曲で三城へ下りる山越えの細道が昔からあり、美ヶ原の幅広な台地状の尾根を越えると言うことの「ふとを(太尾)・こし(越)」の転が「うつくし」で、そこの原ということが美ヶ原と考える。武石から松本平へは武石峠越えが早道で、和田から松本平なら扉峠や陣ヶ坂、武石と和田なら中山道があるので、越え道であったとしても武石川筋の奥の方や入山辺や和田の杣人くらいしか使わない道であったか。王ヶ鼻にも王ヶ頭にも御嶽山信仰の宗教施設はあるが、御嶽山の遥拝なら山を越えて向こう側には行かないだろう。だが、武石峠や陣ヶ坂の道以外にも美ヶ原一帯の古い道はあったようである。信濃史料叢書中巻所収の信府統記第31巻の「松本ヨリ中山道和田迄ノ小道」の内の「中入村ヨリ扉石ヘ二里」の割注を引用する。

 この説明のあり方は正保国絵図付帯の道帳の類を参照しているように思われるが、信府統記の凡例に「元禄年中國絵図」を一部で参考にした旨はあるが正保国絵図の言及はない。陣ヶ坂に相当する、信府統記第7巻の筑摩郡境記山家組の部では登場する「しいが坂/じいが坂」と、今の三城(さんしろ)の音につながりそうな音の地名が出てこないのは注目すべきだと思う。「かやの峠」の「かやの」は同部に「かやのハ茶臼山ノ前」とある。また、大門沢は同部に「大門沢ハじいが坂ノ路筋ニアリ」とある。扉石は今の扉峠で、「石(いし)」は「峰背(をせ)」の転で越える尾根ということなのだろう。「扉(とびら)」は尾根が撓んでいる「たわみ(撓)・ど(処)」の転か、或いは道が茶臼山の南西斜面を横駈けで回り込む「たみ(廻)・ら(等)」の転か。

 「左ニたて山路アリ かまがひなたト云所也」と「中入ノ先ヨリ王あこへノ道アリ」とあるのが美ヶ原へ上がる道の存在を示している。王ヶ頭・王ヶ鼻の「おう」は美ヶ原の山全体を指す「おほ(大)・を(峰)」の転で、一時は「おうあ」と呼ばれ後に「おう」となり、王ヶ鼻はその鼻先のような端である「おほを(大峰)・が(助詞)・はな(端)」と考える。中入から王ヶ鼻の御嶽神社に直接登りつく尾根筋で分かりやすい今の八丁ダルミコースが「王あこへ」だったと考える。炉辺山話は王ヶ鼻の名を麓からの大きな天狗の鼻のように見える山容から「大きな鼻の形をした山というのが原義なのではないか」としているが、助詞の「が」は前の語に意味上の重点を置いて後ろの語へ続けて後ろの語の意味を修飾限定するので、「おう(王)」が「おほ(大)」の転だとしても「おほ(大)・が・はな(鼻)」では「大きな鼻」の意にはならない。

 「大門澤アリ 左ニおい平山路アリ」とあるのは三城の盆地の大門沢左岸の追平を上る道で和田方面に続く陣ヶ坂だが、焼山沢を詰めて美ヶ原を越えて下りるなら今の百曲コースとなるので、百曲を経て美ヶ原に続く道も陣ヶ坂道から分岐していたと考える。

 信府統記第31巻の松本からの「武石通」には途上に「船ガ澤ヘノ別レ道」が登場する。中入の北沢の支流の船ヶ沢の源頭は武石峰南面から焼山西面なので、武石峰か焼山南西側の台地の入山辺側での呼称が「船ガ澤」と思われる。武石峠の道から美ヶ原までは起伏の小さい緩やかな山並みで、今も稜線上に歩道がある。右図では武石通の道は炉辺山話に「武石峠は明治初期の図に、茶屋の峯となっているものが幾つもあり」とあるので、頂のニュアンスでの茶屋の峯と考え、今の美ヶ原林道に近い横駈道ではなく尾根筋に忠実に1935m標高点の峰を武石峠/茶屋の峯として越えたと考え推定路を描いた。この道が王ヶ鼻方面に続くと「王あこへ」の一部となり、美ヶ原の最高点である王ヶ頭を越えて百曲に下りるのが「てん(頂)・ごえ(越)・なる(平)・ぢ(路)」、訛って「てんぐのろじ(天狗の露地)」だったのではなかったかと考える。或いはダテ河原コースか木舟コースで下りたかとも考えてみる。「かまがひなた」という所で左に分岐する「たて山路」が今のダテ河原コースに相当すると考える。

 中入から王ヶ鼻を越えて「王あ越」が武石方面に抜けるにしても、武石峰や武石峠まで尾根道を辿るとルートがS字になって遠回りとなる。焼山に登り返して北へ下っていたのでないかと考える。

 「かまがひなた」は三城地区の大門沢右岸辺りの旧名と考える。中入から一里の「かやの峠」が中山沢筋から大門沢筋に出峰の尾根を越える所と考える。「かや小屋」は「かやごえ」の転で、追平の南で大門沢筋からコナコ沢支流檜沢筋に観峰の尾根を越える所と考える。「かまがひなた」の「かま」と、「かやの峠」と「かや小屋」の「かや」は同じことを指していたの別の訛り方をしたもので、三城と追平の広く広がる緩斜面を指した「けら」であったと考える。「けら」の内の南向きのダテ河原コース登山口の辺りが「かまがひなた」であったと考える。「こなこう山」はコナコ沢と右股の小滝沢に挟まれた1658mの標高点のコブの事ではなかったかと考える。信府統記の道程記が道帳の類を参照していたとしたら江戸時代初期の、参照していなかったとしたら江戸時代中期の中入から扉峠の道は、よもぎこば林道と三城を通る今のルートとほぼ同じであったと言えそうである。そして恐らく信府統記は「中入村ヨリ扉石ヘ二里」で「じいが坂」が分岐することを書いていないことから、郡境記の元にした資料と調査と、道程記の元にした資料と調査の擦り合わせを、郡境記に「道程記武石通ノ所ニ見ユ」などとあるので、した方が良いとは考えていただろうがしていない。

 信府統記第7巻筑摩郡境記山家組の部に「此組内ナル山或ハ澤山ヲ挙グレバ大平かやのハ茶臼山ノ前ニテ大門澤ハじいが坂ノ路筋ニアリ」とある中の「大平」は、「大平かやの」ということで今の追平のことなのか、「かやの」とは別の説明のない「大平」を挙げているのか判断がつかないが、或いは後者で「うつくしが原」の別名で、単に大きな平らな所ということで今の表記で書くなら「おをだいら」のような音で美ヶ原を言っていた人もいたということではなかったかと考えてみた。だが前者で、道程記の「おひ平」、今の「追平」を「かやの」とも「大平」とも聞いたことあったと考える方が自然だと思う。続けて「其西ニ王ガ鼻ト云ヘル山アリ」と王ヶ鼻の名も信府統記に登場する。

 信府統記第7巻筑摩郡境記山家組の部で「うつくしが原」の説明に続けて「此南ニ舟ヶ澤たての峰ナドアリ」とある。舟ヶ澤を今の船ヶ沢と考えると美ヶ原の南にはならないのだが、「たての峰」が第31巻松本ヨリ中山道和田迄ノ小道の「たて山路」の「たて山」と同一で、今のダテ河原コースがその名を受けているとすると、美ヶ原の南ではないがダテ河原コースから直に上がる今の王ヶ頭の名と考えられそうである。「たて」は方言で岩壁や急傾斜地を指し、かまがひなた/三城から直に見上げる王ヶ頭南面に連なる断崖を言ったもので、その最高点の王ヶ頭が「たての峰」/「たて山」であったと考える。ダテ河原コースの名はダテ沢の河原ではなく、タテの訛ったダテのグラ(ー)か、砂防ダムの所がダテから落ちてくる岩の堆積したゴラ(岩のごろごろしている所)の所を行く道ということではなかったか。

 以上を松本側の信府統記と炉辺山話だけから見てきた。武石側や和田側の道帳の類か信府統記道程記に相当するようなものがあるなら見てみたい。

参考文献
深田久弥,日本百名山(新潮文庫ふ-1-2),新潮社,1978.
岡茂雄,炉辺山話,実業之日本社,1975.
信濃史料叢書編纂会,信濃史料叢書 上,歴史図書社,1969.
信濃史料叢書編纂会,信濃史料叢書 中,歴史図書社,1969.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫青151-1),岩波書店,2007.



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(2022年10月16日上梓 2023年1月22日URL変更)