上楠川の入山口の
西岳登山道の看板

登山道から見上げる
本院岳
戸隠山 西岳連峰
(本院岳・爪越峰・西岳・弁慶岳)

 崖や鎖場のある山が好きなので、初めての北アルプスより東の本州の山に戸隠山を選んだ。百名山にもなっている高妻山も行ってきたが、そのまま戸隠山西岳第一峰の弁慶岳まで縦走してから下山した。山の名を受けたトガクシショウマが見たかったが季節が秋で見られなかったのが残念だ。戸隠山八方睨から西岳を経て上楠川集落までだけを記す。戸隠山全体の印象としてはもっと崖が多いのかと思っていたが、稜線を歩いている限りは意外と草木に覆われていてちょっと拍子抜けであった。


戸隠山西岳連峰の地図 八方睨からコルまでは、やや踏まれていない印象だが普通の踏み跡がある。西岳の一番東側の爪越峰(標高不明)の登りにかけてやや不明瞭な所があったが、適当に上を目指した。途中にある「板倉清水」らしき所は土が湿っているだけだった。もしかしたら縦走路からはずれて存在するのかもしれない。爪越峰、続く本院岳とも、八方睨に比べると展望は物足りないものがある。高妻山の姿はずんぐりとしてくる。

 本院岳と西岳の間は「西岳キレット」と呼ばれ注意していたが、それほど危ない感じはしなかった。西岳山頂は標高が最も高いのに本院岳に比べて更に展望が悪くなる。笹薮と雑木ブッシュに囲まれている。西岳第一峰(P1)またの名、弁慶岳まではのんびりした感じで季節がよければお花が咲いていそうだ。第二峰方面へは全く踏み跡はないがヤブ漕ぎなら行けそうな気がした。

 下山に使った西岳登山道はかなり危ない。大概の所に立派な鎖やロープが掛けてあり、跳び移ったりする所はなく、無用に緊張したりしなければ良いのだと思う。ただ、どの鎖も下の方は角度がきつい関係で宙にぶら下がっているような感じであった。登りの方が大変かも知れないと思った。途中、本院岳を仰ぎ見る景色の良いところがあった。紅葉の時期でもあり、聳える本院岳が素晴らしかった。

 他にも注意を要する所として、丸っこい岩の飛び出た、堆積岩の一枚岩斜面があった。奇妙な歩き心地であった。

 尾根が終わると広いブナの緩斜面になる。すぐ上が修羅場になっているのは信じられない穏やかな尾根だった。更に下ると大平の牧草地の端に出て、マイカーで来るならここで登山は終了となりそうだ。自分はバスのある所まで歩かなければならないので上楠川の集落に続く地図上の点線を辿った。大平牧草地の林道最終地点から楠川の沢沿いに下りる部分は国土地理院の地図は間違っているようだ。歩道は林道終点のすぐ先で谷の斜面のトラバースになり、鏡池から沢が合流する少し上流で沢身に下りている。後は気持ちのいい疎林の河原を歩き、上楠川集落に至る。集落はずれには、右上の写真の看板(P1尾根核心部(上部)ルート図)があり、状況がわかる。


八方睨から西岳連峰

 宝光社の「よつかど」という蕎麦屋で新そばをいただいた。何が違うのかよくわからないが、北海道で「おいしい」と言われている蕎麦屋さんと比べても「次元が違う」と言いたいほどおいしかった。単に下山直後で腹が減っていただけだろうか・・・。


★山名考

 岩戸伝説で投げ飛ばされた岩戸が飛んできた所との説があるようだが、戸隠の「戸」にはなるのかも知れないが、「隠」が説明されたことにならない。岩戸に隠れていたのは岩戸が投げ飛ばされる前の話であって飛んで落ちてきた今の戸隠で戸の中に隠れたわけではなく、隠れた戸と言うなら「隠れ戸」であって語順が逆で、「隠」は他動詞の「かくし」ではなく自動詞の「かくり」か「かくれ」である。

 戸を投げ隠したのだとしても、なぜ隠すのかを考えれば地名を付けて隠したことをあからさまにするということは、隠した意味が無いということになる。戸は戸隠に隠されなかったと言うことだ。「戸」だけでは、隠された、或いは隠されるのがどのような戸なのかも分からないが、部外者に対して何度も隠しては出すことがありうる船隠しや、隠さなくても困らない浅間隠しとは訳が違う。

 岩戸伝説の力持ちの子孫が来て先祖を祀ったのが戸隠の地名の由来というのも分からない話である。力持ちには戸隠ではない名が伝わっており、岩戸伝説での力持ちの最大の功績は手掛かりが付くや岩戸をこじ開けたことであろう。後で岩戸を投げ隠したとしても、それはこじ開けたことより注目すべき先祖の功績と言えるのだろうか。

 戸隠を「とがくれ」で岩戸伝説の岩戸隠れをした場所だと思って戸隠にやってきた文字から入った人がいて、戸隠に来てから「とがくし」だと知ったが引くに引けなくて岩戸伝説のハイライトから外れた所ででも何とか「とがくし」と結びつけようとしたのではないかという気がする。或いは言葉の音声と文字の順序を取り違えて今は「とがくし」と読んでいるが昔は「とがくれ」で岩戸伝説の所だったのだと主張した人がいたか、「戸」と「隠」の各文字の印象だけで文字の順序や読み方や伝説の内容をよく考えずに岩戸伝説に結びつけた人がいたのではないか。「栂櫛」などと書かれて「戸隠」で無かったら、いずれも思い付かれなかった語源説のように思われる。

 戸が飛んできたり隠されたりしたのではなく、戸で何かを隠した所が戸隠との説もあるようだが、隠した「戸」だけでは場所を識別できない。建造物なら「戸」は建造物の一部という推測で場所や形態が決まるが、自然の中の戸なら材質や所属先や形状などの属性も言わなければそれと分からない。「戸で隠した処」と言うだけでは岩戸伝説を「戸伝説(とでんせつ)」と言うようなものだ。岩戸伝説は岩の戸だから力持ちが登場する。


戸隠の語源推定外ヶ腰の地図

 付近にトガクシの後半に近い音を含む越水ヶ原がある。コシがクシに近い。越水ヶ原には池があり、おそらく湧水もあるのだろうが、逆サ川流域では奥社の辺りから古池の辺りまでのキャンプ場を中心とした一帯でも地形図での地形や水線から見て湧水はあちこちにあるように思われる。戸隠キャンプ場入口に近い念仏池は明確な湧水の池である。その逆サ川源頭の越水ヶ原を「小清水ヶ原」と言うとは考えにくい。中社の方から逆サ川へ越えてくる所の原ではあるが、「越」が越すことだとしても「水」が文字通りでは説明が付かない。

 越水ヶ原は飯縄山の山裾(山腹/麓)が支峰の怪無山を角にして、南西側と北西側に分けられる角の先にある原である。山裾が南西側と北西側に廻る所であると言う事を言った、腰廻処(こしみど)の転訛が「こしみず」と考える。

 越水ヶ原と同じような傾斜の斜面(原)は逆サ川左岸の戸隠奥社の手前一帯にも広がる。飯縄山を中心とした山裾に対して、逆サ川を挟んでその外側にある山裾と言うことで奥社の手前一帯の緩斜面を外ヶ腰(とがこし)と呼び、その転訛が「とがくし」であって、「とがくし」の奥の、飯縄山や黒姫山のように山頂が絞られておらず、目を付けられるのが遅かった山地の名が戸隠山で、更に後に山頂の名となったと考える。

 船隠しや浅間隠しのようなパターンで説明されている「隠し」の地名にも、「ヶ腰」や「ヶ越」のようなものが紛れていることもありうるのではないかと思う。

 九頭龍山の九頭龍(くずりゅう)は「くずれ(崩)・を(峰)」の転訛で、戸隠連山全体の別名であったのが地形図に戸隠山とは別のピークとして振られたと考える。戸隠連山は崩れた崖が至る所にある。戸隠神社奥社並びの九頭龍社が虫歯の神というのは戸隠山から九頭龍山の、前歯の歯並びのように横長で浅いギザギザが連なる戸隠連山の、五十間長屋や百間長屋をはじめとしたそこかしこに見られる崩れた露岩の崖の窪みを虫歯に例えての祟り神ということと思われる。


鏡池から見た
戸隠山

瑪瑙山から見た戸隠連山
左から西岳、戸隠山、高妻山

瑪瑙山から見た戸隠山
頂が絞られていない

参考文献
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.



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(2002年6月22日上梓 2017年9月17日山名考追加 2023年1月22日URL変更)