越後道地図1
越後道地図2
中社〜戸隠キャンプ場入口地図
点線が越後道と思って
歩いたルート
点線は合わせて歩いたルート
戸隠古道 越後道 その1

 越後方面から戸隠に至る道。戸隠山道の裏道という。遊歩道の案内がある戸隠キャンプ場入口から、終点は中社と奥社を結ぶ奥社道に男道が突き当たる公明院脇と女道が合流する女人堂跡なのかもしれないが、中社までを書く。起点は北国街道の柏原で、長くなるので日も分けたので中社から古池を経て種池林道の入口に下りるまでを当頁とし、種池林道口から柏原までと、柏原を経由すると遠回りになり駄賃も発生するというので北国街道の野尻から入る枝線をその2とする。どこを通っていたのかはっきりしない部分があるが一応繋いで歩いた所を書く。また、野尻・柏原の他に古間や牟礼から飯縄山の裾を通って戸隠に向かう下道という越後道もあったようである。関川から野尻を通らずに戸隠に向かうルートもあったようである。


★戸隠キャンプ場前〜女人結界碑

 戸隠キャンプ場入口の県道36号線の対面の広いスペースの南端に歩道の入口がある。ここから入って念仏池を経て公明院脇に出る道が「旧越後道」と見える案内板がある。入ってすぐに小さな流れを渡って枕木のような木の敷かれた道を100mほど行くと地面が窪んだようになっていて念仏池(沸池(わくいけ)とも)がある。逆サ川歩道から分岐して県道を跨いで念仏池に来る道もあり、県道の入口の脇には梵字の彫られた念仏池の入口を示す近世の道標がある。

 念仏池は湧き水の池で底の砂が湧き出しで動いているのが見える。気泡も少ないが時折上がってくる。池の東側に石祠があってその右奥へ道は続く。

 念仏池の辺りは湿原で、地形図に無い川の流れが幾つもあり、念仏池からも北東方向に流れ出ている小川がある。地形図(2023年現在)にある道と川の流れも違っており、達磨石までに戸隠スキー場の方から下ってくる川の本流を二度橋で渡る。二度渡るが地形図(2023年現在)にある道を示す点線のように1250m強まで右岸の山に登ることはなく湿原の平坦地を行く。1250m強まで登る地形図(2023年現在)にある道は昔の測量の際のGPSトラックログのエラーの跡でないかと思う。


入口

念仏池

湧出

県道の方を見る

念仏池石祠

県道横の念仏池道標

 達磨石はボコボコした達磨のような形の自然石で、祀る祠と鳥居がある。祠の裏手から近付く。祠の中は達磨っぽい石が沢山入っている。大きい一番立派な達磨っぽい石が本来の達磨石でないかと思うのだが、他の達磨っぽい石も達磨石には違いないと考えるべきなのか。鳥居の前に橋があり、橋の先はT字路になっていて、右はすぐに県道、左が越後道である。西側にT字路のTの字の上辺に平行する広い道型がある。念仏池入口道標が県道のすぐ横にあったから、戸隠キャンプ場入口対面から達磨石裏までの湿原の道は旧来の越後道ではなく、キャンプ場と越水ヶ原の間を歩道のない県道を歩かないように県道に平行して新設された遊歩道なのだと思う。

 達磨石の橋から左に入ってからは版築の盛り上げた路盤であったり、掘り込み道であったり、なだらかな山の斜面をゆるゆると登っていく二列の道を登ったりする。沢を二つ渡って越水の高妻通りの車道に出る。

 高妻通りを横断して舗装路となり、保養所やペンションのある道を進むと道の右(西)側に男道の分岐を示す標柱がある。男道は歩道幅の地道で車道の路肩から徐々に離れていく。すぐ先で北野美術館戸隠館の車道(女道)からの導入路を横断する所に大きな女人結界碑がある。多分、今の分岐は今の分岐で、元は女人結界碑の所で女道が男道から分岐していたのだと思う。女人結界碑は舗装路の女道からもよく見える位置にある。戸隠表山が木の間越しに見える。

 越後道から直に奥社へ向かう道がなさそうな雰囲気だが、奥社入口バス停の奥社と反対側(東側)の丘は午王ノ峰といい、女人結界碑の所から男道に入らず西へわずかに登って午王ノ峰を越えると奥社入口となる。だが、折角上がった標高を下らなければならない。或いは達磨石のすぐ下の辺りで越後道から分岐して今の県道の路盤か逆サ川歩道が越後方面からの奥社道だったのか。


橋を渡る

達磨石

達磨石前にも橋

版築ぽい

掘り込み道

二列の掘り込み

★女人結界碑〜公明院脇(男道)〜女人堂跡

 男道は保養所やペンションの庭のような所の間を抜けて公明院の脇で奥社と中社を結ぶ車道の奥社道に出る。T字路の突き当りのように車道に出るので男道の旧道は車道の奥社道を横断して続いていたのでないかと考えたくなるが、横断しても先に道はない。地形図上で見ると90°左折しても飯綱山の裾を回り込んで全体として中社の方へ向かっており、再び女道と合流するまでに女人禁制だったことを象徴する比丘尼石のような道の脇にあってこその名所があるので、車道の奥社道が男道の続きで間違いないのか。公明院の脇で車道に出てからすぐに逆サ川の源流を渡るが、渡ってすぐの所に西側に入る木道の歩道がある。これが男道の延長の跡でないのかと現地で見て入ってみたのだが、先は不明瞭になっており、この木道に入ると中社からも奥社からも遠ざかってしまう。

 奥社道は広いが静かな車道である。比丘尼石は道の北側にある、見た目はどうということのない岩である。三叉路に出ると中社と戸隠スキー場を結ぶ越水通りで直進する。すぐ先で車道が右に逸れていくところから林道のような道が直進しているのが奥社道の続きで、入るとすぐに女人堂跡の駒板のある地道の三叉路で女道と合流する。女人堂跡地は駒板の車道寄りの高い所の、戸隠山を遥拝できる見通しのある所で、車道で半分削られているという。


男道分岐

女人結界碑

掘り込み男道

戸隠表山

公明院脇から橋を渡ると
男道の延長のような木道が

木道

比丘尼石

女人堂跡

★女人結界碑〜中社(女道)

 女人結界碑から中社方面への女道はペンションなどが点在する林間の舗装道路で自動車も通る。南下していると道が不連続に西にずれる所があり、東側の路肩の上に古い路盤らしき段がある。戸隠スキー場から中社に下る越水通りに合流して更にペンションや保養所の間を進み、左手に車道から逸れて丘を越えると女人堂跡の駒板の所で奥社道と合流する。女人堂跡から中社までは幅広の未舗装路で、右手に中社の駐車場を見て中社の西口の前に出る。


女道車道

防火水槽にも雪覆い

西側に古い路盤

また車道を離れ
地道で丘を越え

掘り込みの坂を
下りる

★戸隠キャンプ場入口〜唐沢


大橋〜唐沢地図
点線が越後道と思って歩いたルート
点線は合わせて歩いたルート
点線は歩かなかった越後道推定

 戸隠キャンプ場入口から県道を柏原方面に僅かに入った東側にある戸隠イースタンキャンプ場の入口の向かって左の脇に「右やまみち 左ゑちご道」と彫られた道標石がある。戸隠側から柏原/野尻方面に下っていく人に向けて立てられているようである。樹林の中の県道を進む。鳥居川にかかる大橋は上流側に電力用の堰があって、護岸で固められていて川辺に下りられない。大橋北詰は黒姫山の登山口で駐車スペースがある。更に県道を進み黒姫山種池登山口から黒姫山の登山道に入る。大橋からここまでに渡る小沢は鉄分が沈着している。


イースタンキャンプ場入口の
道標石

大橋
左は取水施設

 善光寺道名所図会の越後道の説明に今の公明院脇の「中院より八丁目に右へ越後道の分れ道有。夫を一里半行て又左へ御裏山への分道にて登口也。越後道を直にゆけば大池二ツ有、右を涌池、左を種が池と云。大岩境の宮等あり。」とあって、種池を左に見る位置を越後道は通っていたのかと考えたのだが、涌池(念仏池)はどう考えても大池でなく小池であり、公明院脇から一里半(約6km)は大洞沢の高妻山登山道を通り越して古池の辺りである。善光寺道名所図会は詳細で地に足着いた信頼できる記述が多い印象だが、越後道に関しては著者の豊田利忠は実踏しておらず聞き書きであり、越後道に入って一里半の所にある二つの大池までの距離を涌池(念仏池)と裏山道分岐までの距離と誤認し、大池の一つの古池を聞き落として涌池(念仏池)を大池の名として記してしまったように思われる。

 古池まで緩やかな坂道である。種池に寄ると池端を東へ少し進んだ所に雨乞いのお水取りの場所の長い注連縄があり、注連縄の山側は濃い笹薮が押し寄せていて立つスペースもない。種池を右に見る位置から分岐してお水取りの所に直に下りてきて、その入り口に注連縄が張られているのかと思ったのだが、藪が深くて山側に上っていける気がしない。旧版地形図だと種池の南側の尾根筋から東側の古池端からの尾根乗越に続いている道が描かれているが、そういう道があったとして、こんなに痕跡も見つけられないような状態になってしまうものなのか。登山道を左を見ながら登山口まで戻って古い路盤が左に入っているところがないか見直したのだが、深く濃い笹薮が続くばかりであった。

 古池は堤が築かれており、道のつながりとしては不自然な感じで最後に堤に上がると、堤の内側はコンクリ護岸で名とは裏腹に善光寺道名所図会の頃は無かった新しい池なのかという気がしたのだが、堤を設けて貯水量を増やして水力発電に使うというのが今の姿のようである。堤の上を東に進むと堤は山の斜面に吸収されるが、その手前に堤下の小沢を挟んで石積みの橋台があり橋台の向こうに路盤があるのが見えた。戸隠側からの越後道はこの橋台の所で古池端に出ていたと思われる。登山道を少し戻って堤の下手から橋台の所に繋がるような路盤の跡がないか見直しに行ったが、ここも深く濃い笹薮だらけで路盤の跡が分かれていたところは見つけられず。


種池

古池手前堰堤下

古池

古池内側はコンクリ

橋台があった

橋台の堰堤側向かい

 今の凡そ五角形の古池を一周してみると、北西角に水芭蕉群落への分岐と祠がある。北角に黒姫山への登山道の分岐がある。南東角の少し西に池端から離れて山の斜面に入っていく広い路盤があり、橋台の所から古池を左に見て池の南岸の道を進むとこの広い路盤に繋がりそうである。古池の東側の池端の道は細い。古池から離れて東へ入っていく広い路盤を登っていくと、道端に大岩が並べられているところがある。この路盤は5万図に点線で描かれているが、古池の堤を築いたり補修したりする工事車両を通した道だったのでないかと思う。大岩は路盤を広げるのに除けたものと思われる。だが、古池下の橋台は一間以上に見える幅があったので元からあった道を拡幅して車も通れるようにしたのだと思う。旧版地形図だと種池と古池の間の尾根筋と種池の南側の尾根筋に道が描かれているものがあるが、越後道が古池端を通る時代もあったと考えておく。緩やかに登って尾根を乗り越す。乗り越す辺りのカーブはきつく、大型トラックの通行は無理そうである。尾根の東側を横手で更に北上し、一つジグを切って斜面を下りて種池林道に出る。すぐ先の唐沢の水は少ない。

 善光寺道名所図会の越後道の説明で出てくる「大岩」、「境の宮」は分からず。大岩と境の宮は本文だけでなく図版にもあり、大岩が種池(古池)より東の越後道の黒姫山側、境の宮が瑪瑙山側に描かれるのだが、聞き書きで涌池と種池と古池を混同していると考えられるくらいだから、図版上の位置も図像も参考にならないのかもしれない。古池北西角の石祠は、その場所を考えると水神で境の宮であったということはない気がする。特別大きな岩も見なかった。

 天保十二年本坊並三院衆徒分限帳の戸隠山顕光寺の山林境内の北限が「黒姫境宮」とあるので境の宮は確かにあったようである。また、戸隠十三谷之内覚で「黒姫境宮 本尊山王御剣 橋立寺」というのがあり、黒姫山麓の境の宮に神宮寺の橋立寺があったとの記憶があったようである。「戸隠山開山」の地図の唐沢の左岸の県道の山側に橋立寺の記載があるが、「戸隠山開山」の本文では「汗馬坂境宮に、橋立寺」、裏参道が「仁之倉・鳥居川溯行・境宮と来て」と、明治時代開通の今の県道を越後道と見なしていて、橋立寺の地図上の位置の推定は鵜呑みにできない。


古池北西角の石祠

古池東側の道は細い

古池南側の道は広い

古池南東から
山の斜面へ

広い路盤の脇に
大きな岩が並べられ

草の少ない
部分もある

東斜面横掛け

種池林道に下りる

★唐沢〜種池林道

 唐沢を渡ると種池林道は地形図上で標高1200m前後の緩斜面を歪んだU字を描いた遠回りをしているように見え、旧道はU字にならず直線で結んでいたのでは?と事前に地形図を見て考えたのだが、行ってみるとU字の東側は急な斜面を横掛けで下降しており、街道とするならU字の遠回りも必然であったようである。標高1170mの等高線と林道が交差する所の谷側は湧水帯で山側にも少し冷水が湧いている。


唐沢〜種池林道口地図
点線が越後道と思って歩いたルート
点線は合わせて歩いたルート
点線は歩かなかった越後道推定

 次の沢は名が分からないのだが、水量は乏しい。深く険しい谷の沢である。深い谷からまた緩斜面に上がると、尾根筋の所で古い路盤らしきものが分岐しているので入ってみる。すぐ下で丸太の敷かれた作業道が横から突き当たって、古い路盤はその作業道の突き当りの下で東に曲がって作業道に平行しているようなのだが、どうもはっきりしないので作業道に折れて東へ進む。作業道突き当りの対面(尾根筋の西斜面)に人幅の細い路盤が続いているように見えるので、入ってみると尾根筋西側を横掛けで続いているようなのだが藪が深く、先は林道の路盤に埋まって消えているようである。

 歴史の道調査報告書の戸隠山道(越後道)の調査で長野地方法務局信濃出張所の明治25年制作の土地台帳附属地図黒姫山切図が参照されており、これによって戸隠山道が凡そ種池林道と同じ位置と推定されているのだが、この図中の湯ノ入川から古池と種池の間までに道が「薬研沢」、「大沢」、「唐沢」を渡る記載があるようである。「二ツ沢」に相当しそうな名が出ていないのが気になる。柏原町区誌(1988)の「黒姫山にかゝわって」の記事の地図では国土地理院の五万図の薬研沢の位置に「ヤゲン沢」、国土地理院の五万図の二ツ沢の位置に「二ツ沢」、二ツ沢右股の上方の谷筋に「西弓沢」、古池から東側に尾根を乗り越した位置の谷に「カラ沢」とある。山田節三(1933)の黒姫山の小縮尺の地形図では歴史の道調査報告書での唐沢の位置に大沢とあり、二ツ沢かその西隣の谷と思しき位置に「二沢」とある。また、薬研沢と思しき位置に「空沢」とある。空沢=唐沢=からさわ、とも思われ、どう考えれば良いのかわからないのだが、当頁では唐沢(カラ沢)の位置を柏原町区誌と歴史の道調査報告書に従い、薬研沢と二ツ沢の位置を最近の国土地理院の五万図に従っておくことにする。「黒姫山にかゝわって」の地図の西弓沢は二ツ沢と唐沢の間にある名前の分からなかった沢筋の標高1030mより上の左股の名でなかったかと疑う。また、二ツ沢右股の東隣の谷筋の上方の位置に「弓沢」とあるのが二ツ沢と唐沢の間にある名前の分からなかった沢筋の名ではないかと疑う。大沢は或いは二ツ沢の別名なのか。

 作業道は網の目のように分岐や交差をしているが一応まっすぐ進む。二ツ沢の左股は汲める程度の水が流れている。二ツ沢の左股と右股の間の尾根を作業道は回り込んでいるが、回り込みの上手に細い切通しがある。この細い切通しは古道の跡と考える。二ツ沢の右股を作業道が渡る所は水がないのだが、すぐ下に取水設備が見え、丸太の敷かれてない道が分岐して取水設備の方に下りているので下りてみると、二ツ沢右股の下の方から大きな沢音がする。湧水帯のようである。右股沿いに道があり、一旦行き止まりになっている取水設備を見て右股左岸の道を緩やかに下りていくと、地下水路の竪穴の蓋が続き、この道は地下水路の保守の道のようである。標高1080m辺りで種池林道に突き当たる。地下水路はこれより下で種池林道に平行しており、種池林道を下ると所々で水音が右から聞こえ、右に分岐が入っているとすぐ先に竪穴の蓋がある。地下水路の上にも路盤が続いているがすぐ脇の種池林道から保守に入ることを前提としているからか1080mより上と違い、藪が深い。帰宅して種池林道の脇に立っていた営林事業計画を示す林相図の写しらしき地図を写してきた写真を見ると、古い道は地下水路の保守道ではなく、取水設備の所から地下水路保守道に少し離れて平行して尾根線を下り、標高1090mのカーブのところで種池林道に出ていたようである。


尾根筋の旧路盤

作業道が網の目のように

切通し

 種池林道標高1050mのカーブで今度は地下水路保守道が林道の北側に分岐して林道をショートカットしているように見えたので地下水路保守道を下る。幾つか竪穴の蓋を見てはっきりした道を下ると標高1000mの種池林道と黒姫林道の分岐に出た。歴史の道調査報告書は推定ルートをこの分岐から黒姫林道を北上して薬研沢を越えた所から長原湿原に下りる地形図にある点線としているが、このルートは黒姫山の山頂方向に大きく撓んでおり遠回りで不自然に思ったので、この日は黒姫林道を横断して更に地下水路保守道を下りた。ほぼ直線で黒姫地区の上水場に向かう地下水路保守道の途中から薬研沢の方に下りる道がないかと注意していたが、そうした路盤は見つけられず、黒姫地区の上水場の上の車道に出てしまった。


水道道

水道道 蓋

水道道 石垣もある

水道道 1080m付近

続く

参考文献
長野県教育委員会,歴史の道調査報告書 16-22,長野県文化財保護協会,1987.(16(1986)が戸隠道)
長野県,長野県町村誌 第1巻 北信篇,郷土出版社,1985.
戸隠村石造文化財調査委員会,戸隠村の石造文化財,戸隠村教育委員会,2004.
豊田利忠,善光寺道名所図会,名著出版,1972.
信濃毎日新聞社,戸隠の総合学術調査研究資料,信濃毎日新聞社,1964.
佐藤貢,戸隠山開山,和広出版,1981.
柏原町区,柏原町区誌,柏原町区,1988.
山田節三,飯綱黒姫火山,pp96-149,12(1),東京帝国大学地震研究所彙報,東京帝国大学地震研究所,1933.



トップページへ

 資料室へ 
(2023年4月16日上梓 8月30日改訂 9月24日改訂)