御岳山
西野 下ノ原から

継子岳
日和田 池之原から

御岳山
西野 大屋から

御岳山
オケジッタスキー場跡から

日和田富士
日和田 開拓から

御嶽山
白草山から
御嶽山
おんたけさん

 昔は小郷から拝殿山・三国山を経て国境稜線伝いに琴坂峠・継母岳を経て登るルートがあったようである。戦前に下呂温泉から尾根伝いに剣ヶ峰に達したらしい下呂道というのは国境稜線部分はこの古い道を再整備したのだろうが、長大さが嫌われて早い内に廃道化したようである。1984年の長野県西部地震の伝上崩れで崩壊、廃道となったという松原新道はいつ頃開かれたのだろうか。


★山名考

 昔は「おのたけ」と呼ばれていたようである。「王の御嶽(おうのみたけ)」が「おんたけ」の語源ではないかとする説があるが疑わしい。御嶽の王とされるまでは「おのたけ」や「おんたけ」や、その元となりそうな音では呼ばれておらず、御嶽山ほどの大きな山の本来の名が現在に伝わっていないということになる。全国を回った修行者なら他の御岳と比較も出来ようが、他の御岳をよく知らない地元の人が呼ぶ名前ではない。王の「おう」は字音であって、訓ではない。

 非常に大きな山なので、形容詞「大し(オホ・シ)」の語幹用法で、大きいことを名詞化して言った「大の岳(おほのたけ)」の転訛が「おのだけ」で、「大の御岳(おほのみたけ)」が「王の御嶽」と異分析されたと当初は考えていた。富士山や吉野山があるので岳の王であるかどうかは微妙だが、大きな山であるのは間違いない。「山は富士、岳は御岳」と言われるが、富士山も「ふじのたけ」とされ、吉野山も「金の御岳」であった。

 だが、室町時代の祝詞の記録に「王御嶽」が見られるという。王(わう)は開音となり、大(おほ)は合音となる。開合音の混同が見られるようになるのは中央で室町時代末頃からとされ、「王御嶽」と書かれた頃の木曽地方では、開合音は区別されていたと思われる。

 川の名が、その源頭であるということで山の名になることが多い。山より交通路である川の方が重要だからである。「王」の字を用いた王滝川が御嶽山を源頭としている。王滝川の源頭の岳と考えると「王滝(の)岳」となりそうだが、上代は「滝」といえば崖から流れ落ちる水ではなく、早瀬や急流や激流のことだったという。方言で山間の尾根には挟まれた沢のことを「たき」と呼ぶ地方がある。王滝川は幾つも発電所が作られるそれなりの急流である。「王滝」の名が古いものならば、「王滝川」の名は川の流れを指す「滝」と「川」が二重についているということで、元は「王滝」だけで川の名であったとも考えられそうである。「王」(字義は無視して発音も字が宛てられた頃のものはとりあえず不明とする)と言う名の川(滝)の水源の岳ということが、「王の岳」「王の御岳」で、「王の岳」の音の約まったものが「おのたけ」や「おんたけ」でなかったか。王滝川ほどの木曽川本流に匹敵する大きな支流が、幾ら大きな山とは言っても御嶽山の名前に由来するとは考えにくい。

 吉野の金峯山の「きん」も、「吉野」が使われる頻度でも指す領域でも拡がる前の、吉野川が一般的でなかった頃の「紀(ノ川の源頭)の(ん)」峯(みね)という山ということだろう。「金の御岳」とされるのは、或いは「紀ノ(川の源頭)の御岳」ということで、助詞のように表記される紀ノ川の「ノ」が助詞ではないと云う事もありうるのではないかと考えてみる。金を産出した記録のない金峰山を「金(かね)の御岳」とするのは字義にとらわれて後から出てきたものと思われる。

 「王」の文字が担当している音の部分について考える。室町時代の祭文の記録では王滝地区を「大滝」と記しているという。村誌王滝ではこの「大滝」の読み方を不明としているが、普通は「おほたき」か「おほだき」ではないか。

 「大滝」川の命名点が木曽川への落ち口なら、大きな急流ということで、王滝川の有様に合致している。御嶽山の名は「大(おほ)(という急な川の水源の)岳」ということで、祝詞の記録では文字を使える知識人であった大滝の神主が、字義から宗教的な権威を高めることが見込めそうだと「大」の部分を、区別しにくくなりつつあった近い音の「王」に置き換えたものと考えてみる。

 王滝村の中心部の辺りが「大滝」の命名点かとも考えてみたが、王滝集落は王滝川を木曽川落ち口から相当遡った先にあり、途中に合戸(黒沢中心部)のような大きな集落がある。王滝村の村名を「おのたけ村」などとするものがあるのは、「大滝(川)」は主に助詞の「の」を挟んだ「おほのたき(川)」と呼ばれていたが、「おほたき」とされることもあり、訛って御嶽山と同音の「おのたけ」などとなったと考える。「滝」と書かれることを「たけ」と呼んでいたことは王滝村の辺りにあったようである。王滝村の語源を、御嶽山そのものの「王嶽」であるとするものを見たり、滝越集落下手の王滝川本流にかかる「王滝」という滝(崖から落ちるタイプだが発電用の取水で空滝状態だという)によるというものをどこかで読んだ気がしたりしているが、奥地に新たに地区を作るにあたって、「大の滝(川)」/「大滝(川)」の流域と言うことで大滝としたのを、後に大滝の神主の祈祷等で御嶽山を「王御嶽」と表記する例が知られるようになって、王御嶽の「王」も大滝の「大」も本来は一つの川の名「大滝」の音だからと言うことで、「大滝」を「王滝」と表記する人が現れたと言うことではなかったかと考える。


木曽採薬記の岩郷地図
王滝川落ち口付近模写

 王滝川は王滝村内では「百間ダル」とも呼ばれた。王滝川支流白川に100間(≒182m)もの高さのない百間滝がある。白川百間滝と王滝川は共に東向きであり、「ひゃっけ」の部分が東向きであることを指す何らかの言葉、例えば「ひ(日)・うけ(受)」で、「ん」は「の(助詞)」の約まったもの、「たる」が何らかの急流を指す方言だったのではないか考えてみるが、王滝川本流源頭とシン谷の百間滝は北向き、北西向きである。王滝川本流源頭の百間滝は継母岳と上俵山の間の、王滝川筋と濁河川筋をつなぐ鞍部を「ひよげ(撓)」と呼び、そこに隣接する「ひよげのたき」の転が「ひゃっけんだき」でないかと思う。シン谷の本流にあたる兵衛谷の名もその鞍部に向かう谷と言うことの「ひよげ(撓)・たに(谷)」でないかと思う。シン谷の百間滝は幅広の崖のところにあるので「ほき/はけ(崖)・の(助詞)・たき(滝)」かもしれないと考えてみるが、「ほき/はけ(崖)」の滝なら王滝川源頭の百間滝も白川の百間滝も当てはまりそうである。シン谷、新滝の「しん」は奥と言うことの「すみ(隅)」の転でないかと思う。シン谷は兵衛谷の最奥で、新滝は清滝の奥にある。


木曽ダム堰堤

木曽ダム
鉄管橋袂から

 江戸時代の木曽採薬記の岩郷村の地図を見ると、王滝川の落ち口から少し上がった右岸に「カナトコ」という岩壁が描かれている。落ち口すぐの所に「川合カナトコ筏越」と川合と和合の間の木曽川本流右岸の筏渡しの道が描かれており、カナトコは渡し場の名となる王滝川落ち口付近のランドマークであったようである。西日本の方言で崖や絶壁を「たき」とか「だき」と言う所がある。木曽ダムの堰堤の辺りの王滝川右岸にあった垂直のように見える切り立った断崖である「かね(矩)・たき(崖)」或いは「かね(矩)・とけ(解)」の訛ったカナトコが木曽川本流から見え、その岩壁を指して「ほき/はけ(崖)・の(助詞)・タル」と言ったのが百間ダルの元、カナトコを昔は「おほ(大)・たき(崖)」と呼んでいたことがあり、カナトコのある川ということで「おほたきがわ」と言ったのが王滝川の元かも知れないとも考えてみる。単に「大きい枝川」というよりは「『おほたき』と言う大岩壁の所の川」ということで呼ぶ方が分かりやすいので、王滝川落ち口付近右岸のカナトコを指した「おほたき」が王滝の語源と第一に考えておく。

 とすると、御嶽山の名は王滝川の源頭の岳ということではなく、「大きい山」ということの「おほ(大)・の(助詞)・たけ(岳)」なのか。或いは、「『おほたき(大崖)』の所の川」と言うことが「『おほたき(大滝)』と言う川」と異分析されて水流を指す「たき(滝)」を落としてその水源の山である「おほ(大)・の(助詞)・たけ(岳)」の御嶽(おんたけ)と、「『おほたき(大滝)』・せり(山)」の御嶽山(おんたけさん)が並立しているのか。

参考文献
水谷豊文,木曽採藥記 2巻,国立国会図書館蔵写本(特7-89)デジタル資料.
生駒勘七,御嶽の信仰と登山の歴史,第一法規,1988.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫33-151-1),岩波書店,2007.
大和大峯研究グループ,大峰山・大台ヶ原山 自然のおいたちと人々のいとなみ,築地書店,2009.
王滝村,村誌王滝 上,王滝村,1961.



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(2012年9月17日上梓 2017年7月14日山名考追加 2020年11月28日改訂 2023年1月22日URL変更)