河内森駅付近から

傍示から

トウヨウヶ岳/トウショウヶ岳

 傍示の南に聳える山。山頂は送電線の鉄塔。トウショウの部分は漢字書きでは「塔上」と書かれた。


★傍示から

傍示からの地図

 傍示から少し上った奈良県境の傍示峠にくろんど園地の入口があり、導入路の少し先に駐車スペースと鼠通に下りる地道の入口がある。地道を少し下りると鼠通の鞍部で、そこから歩道で尾根線に沿って上がる。鼠通の辺りは広尾根だが山頂直下は急坂で階段で登る。くろんど園地導入路はゲートが峠にあり自動車の通行時間が限られる。寺からのかいがけ道が傍示の車道に突き当たる所をそのまま横断しても鼠通に続くが荒れている。荒れているが素直に続くので、おそらくかいがけ道の旧道。鼠通に向かうと中ほどに大峯登山三十五度の碑があって傍示から傍示峠の車道の途中からの道と合流し、左手に休耕田と池を見て鼠通に着く。大峯登山三十五度の碑の年記は江戸時代だが、碑石の西側の平場に人家か庵が以前はあったのか。三十五度登山碑の三叉路から東に進む道は用水路脇の道であったようである。

 鼠通から平坦な尾根を少し進むと階段道になって登りきると鉄塔の山頂。


くろんど園地の
導入路から下りる

鼠通分岐
右に火の用心の看板

平坦な所を進んで
直下へ

直下の
階段

大峯三十五度
登山碑

かいがけ旧道から
傍示集落を見る

★南山弥生時代遺跡標柱から

寺からの地図

 森から傍示へ上がる車道の脇に南山弥生時代遺跡の標柱はあるのだが、見学する雰囲気ではなくどこが遺跡なのかも分からない。遺跡は1959(昭和34)年の発見以降発掘調査はされておらず、保存につとめるという状態だという。弥生時代の遺物が出土したのは標柱の辺りの道の山側の砂地の緩斜面で昔の住宅の壁土用の土砂採取地だったようである。標柱の所から山に入るがしばらくは不法投棄らしきものが目に付く。踏み跡は尾根に上がって左に折れてトウショウヶ岳に向かうが、右へ折れて藪の尾根を下ると車道の手前に鍋塚古墳がある。鍋塚古墳は1995(平成7)年の一部発掘調査後埋め戻されて長いようで草木が茂り、立つだけでは小高い塚であるとは思うのだが古墳とは言われなければ思いつかないような所である。塚の上は前方後円墳の前方部と目されているようで、後円部は未発掘のようである。

 左に折れて尾根線に忠実に登る。最初のコブは南面に巻いた道があったようなのだがはっきりしない。北側は石切場の跡で切れ落ちていて、下の道路を走る車やバイクの音が近いのに驚かされる。標高260mで平坦で広くなり、森から小久保川に入った五差路からの尾根道と合流する。標高300mで送水パイプの敷設された北西の尾根にT字路のように突き当たり、右折してまもなく送電線の鉄塔が見え、鉄塔の足の中に山頂がある。

 送水パイプのある北西の尾根の300mより下にも昔は道があったようで踏み跡は見られるのだがはっきり残ってはおらず、車道近い末端はヤブが深い。露岩や石切り場の搬出路跡らしき石垣がある。


南山弥生時代遺跡標柱

尾根に出るまでは藪っぽい

大岩

森からの道と合流平坦地

パイプ並走

山頂直下

★森から

森からの地図

 交野市の高区配水池の上の中古トラック屋さんの所で右に入ると、すぐ先で砂防ダムが見えて車幅の砂利道は行き止まり。そこで小久保川の源流を渡渉して歩道が沢沿いにくろんど園地方面に続いている。すぐに左手に上がる数段の階段の高台があって、そこからもトウショウヶ岳への尾根道に入れるが、そのすぐ上の小久保川源流の二股の所が五差路となっており、一番左の道が元のトウショウヶ岳尾根道の取り付きだったようである。

 枝沢を渡って尾根に取り付き標高140mの段の所で尾根線に乗って尾根線に忠実に登る。一部は急峻で昔ながらとは考えにくい道だが草の生えない踏み跡の幅は広い。標高200m辺りでは枚方方面の展望がある。標高260mで南山弥生時代遺跡標柱からの道に合流する。

 五差路の所で左から二つ目の左股沿いの道は森から鼠通に上がる道だったようである。山仕事の道として使われており整備されているが、標高260mで谷筋から南に離れてくろんど園地の一角に上がる。鼠通からこの谷へ下りようとすると谷の中はヌタ場になっており、落ち口は滝になっていて虎ロープが下がっているが通行が憚られる。落ち口周りの谷の右岸は斜面が立っていて取り付きにくいが少し下手の標高250mの谷の二俣の所から斜面に取り付く古い道型があり鼠通の谷の出合の滝の落ち口に続いている。落ち口で左岸に渡るように踏み跡があり、渡った先で道が二つに分かれているがその先は両方とも踏み跡らしきものが見当たらない。左で鼠通の谷左岸沿いに鼠通に上がる道が続いていたのだが、流れて谷筋がヌタ場と倒木ばかりになって通れなくなったのだと思う。鼠通の南側には炭釜の跡のような地面の窪みがある。鼠通の南すぐには鼠通に入らず更に西へ小字田渕の方に入っていく路盤がある。田渕の方は竹林だが、竹林の中に段々畑の跡のような地面の段がある。また、炭釜の跡のような窪みより上の小平地を経て鼠通に直に小久保川源流の谷底の方から上がってくる道型があり、この道型を辿って下ってみると標高270m辺りまで斜面トラバースから尾根上に続いているが、その先は尾根線上で歩くには急な尾根となって道型が見当たらない。急だが歩けないほどではないので下りてみると小久保川源流の標高230mの少し谷間の広い所で、尾根に取り付くことを考えそうな所である。尾根線の急な所は北側の涸れた枝谷に入ったりジグザグに折り返すなどしてこの場所で分岐して鼠通に上がる道があったのでないかと考えてみる。鼠通の南西の小平地が交野市史民俗編付図の交野市全図にあるコゴセ原であったと思うが、今は暗い樹林下である。

 五差路の所から鼠通まで上がる小久保川源流の谷の名を知りたいと思って交野市史民俗編の付図の、小字名の記された交野市全図を見たのだが、谷の名が分からない。五差路の辺りの右岸斜面の小字が左ヶ谷で、私部の奥山(くろんど園地となった私部の飛び地)の境となる分水嶺直下の左岸斜面の小字に右ヶ谷があるのはどう考えればよいのか。鼠通の西側斜面に烏ヶ谷があり、右ヶ谷の西側に烏頭ヶ谷があり、烏ヶ谷も烏頭ヶ谷も「からすがたに」と読むようなので、「からすがたに」というのがこの谷の元の名で、谷の中の他の小字は「からすがたに」の字から区分されていったものなのか。交野市全図の小字の区分は鼠通のような小久保川源頭の最奥域で昔の字限図から今の地形図に落とし込むのが完全ではなかったようで、最奥部の小字区分をそのままには受け取れないものがある。


車道終点
最初の渡渉

五差路手前の
入口段

五差路
尾根道取付は左手奥

下半は急坂

枚方方面の展望

南山からの道と合流手前

★山名考

 1884(明治17)年の大阪府立中之島図書館蔵の大阪府地誌の傍示村の山の項に「トフヨフガ嶽」とある。

 傍示村の疆域の項でも西の寺村森村との境として「トフヨフガ嶽」とある。トウショウヶ岳は傍示地区の広がりのほぼ南にあたるが、大阪府地誌の傍示村の山の項では安明寺山が「村ノ南部ニ蟠根ス 東南和州添下郡高山村ニ属」とあるので、元にした資料で方位が反時計回りに90°ずれていたか、元にした資料の地図で上が北と言うわけでなかったのに上が北との固定観念で反時計回りに90°誤認したと考えられそうである。傍示村の山の項で挙げられる山は3つで、トフヨフガ嶽と安明寺山と、もう一つは村の中部に孤立だという寺ノ堂山である。傍示と高山の境をなす2.5万地形図で320mの等高線の囲む山もトウショウヶ岳の北東にあたる。或いは測量に依らない村絵図などから起こした説明文なのか。寺の南山はトウショウヶ岳の西方なので北から90°反時計回りである。森の田伏山は、交野市史民俗編の付図の交野市全図の小字を見るとトウショウヶ岳の鼠通を挟んで東方の2.5万地形図で300mの等高線の囲む辺りに相当しそうな森の小字が「田渕」とあるので、その丘が似た音の田伏山と考える。西から90°反時計回りは南となるが、傍示から高山方面へ凡そ南南東に続くかいがけ道を先に描き、北側へ回り込んでいる小さな田伏山をかいがけ道の西南西側に描くことで、村絵図などで傍示集落の南と捉えられたかと考えてみる。

 大阪府地誌の森村の山の項の「西ヶ谷山」を見るとトウショウヶ岳と思しき山が「塔上ヶ嶽」とある。

大阪府地誌の山名位置推定図
大阪府地誌の山名の位置推定
但し傍示地区の広がりは
楕円での粗い近似

 傍示村ではトフヨフガ嶽と呼んでいて、森村では傍示村で塔上ヶ岳と呼んでいると聞いているということだったのか。交野市史民俗編付図交野市全図の小字を見ると小久保川源流の鼠通に上がる源頭の谷と思しき小字に西ヶ谷とある。また、田渕の南側と思しき位置に大谷とある。本谷である大谷に対して枝谷の西ヶ谷、その奥の山が西ヶ谷山ということなのか。田伏山は大阪府地誌の森村の山の項に出てこない。当頁では歴史的仮名遣いの「トフヨフ」を現代仮名遣いで「トウヨウ」とした「トウヨウヶ岳」を「トウショウヶ岳」の別名としてタイトルに合わせる。西ヶ谷山の「山脈東北傍示村塔上ヶ岳に連」とあるが、一つの山の南西側を森村で西ヶ谷山と呼んで、北東側を傍示村で塔上ヶ岳と呼んでいたということでないかと思う。寺村の南山は寺の山地を凡そ三分して北山・中山・南山という地籍にまとめ直した字名のようで、頂のある山名ではないようである。

 私は「トウショウヶ岳」の「トウショウ」を1992年の交野市史考古編と、ネット上の2004年の交野市内の小学校の課外授業の報告記事とそれ以降のネットの記事でしか見ていない。交野市史考古編では南山遺跡の位置の説明で「トウショウガ岳」とある。私が最初にこの山の名が「トウショウヶ岳」だと思って見たのはネットの YAMAP に上げられた2013年に撮られたという鼠通にある火の用心の看板にマジックペンで書き込まれた図の写真であった。2022年に自分の目で火の用心の看板を見た時には「トウショウヶ岳」の文字は経年で擦れて読み取れず、「東照山」と上書きされていた。森の古文書か大阪府地誌の為の調書の控かに「トウショウ」の文字があって地元の小学校の課外授業につながったのか。

 鼠通(ねずみどおり)の鞍部の所の尾根の山ということの、「たわ(撓)・せ(背)・を(峰)」の転がトウショウでないかと考える。「たわ(撓)・を(峰)」とも言ったのが転じてトウヨウという音がトフヨフと書かれたのでないかと考える。鼠通は森から見てトウショウヶ岳の嶺の奥(隅)に位置する「ね(嶺)・ずみ(隅)」を通る「たわ(撓)・ぢ(路)」ということだったのが転じてネズミドオリとなったと考える。

 「ち(路)」の連濁した「ぢ」は今の音なら「じ」と同じだが南北朝時代頃以前は今の「でぃ」の音で、ダ行音とラ行音は位置の近似から日本語で相通が見られる。傍示から傍示峠を越えて生駒市の東傍示に抜ける道は古道なのだろうが、傍示から鼠通の脇を通って大和側の高山・郡山方面に直行する道もあった。森からも小久保川源流に沿って鼠通に上がり、東傍示方面に向かうことがあったと考える。森から傍示へは雷塚古墳の脇を通る卵塔道が使われたようである。

通り峠地図
通り峠の地図

 傍示もまた山の鞍部の道ということの「ひよ(撓)・を(峰)・ぢ(路)」の転が「ほうじ」で、傍示峠の河内側と大和側のそれぞれに「ほうじ」の集落が成ったと考える。

 紀州入鹿の「通り峠」の名は鼠通の「どおり」の類例なのかと思い当たったが、以前通り峠を越えた時に「たわ」というほど尾根が撓んでいる所を越えた記憶がなかった。風伝峠と山腹にある丸山地区の間を板屋川縁の下まで間に横たわる長尾根を回り込む長さを厭うて、高さのある長尾根をあえて登って越えてしまう峠であった。鼠通の「どおり」の類例ではなく「つる(蔓)・ね(嶺)」か「つる(蔓)・へ(辺)」の転が「とおり」でないかと考えてみる。トウショウヶ岳と鼠通の一帯に「つるね」と言えそうな尾根はない。

参考文献
桜井敬夫,遺跡と遺物,交野町史,片山長三,交野町役場,1963.
交野市教育委員会,交野市埋蔵文化財発掘調査概要 平成7年度,交野市教育委員会,1996.
大阪府地誌 河内國 第16編 交野郡2,川江直種 et al.,1884.
交野市全図,交野市史 民俗編,
交野市史編纂委員会,交野市,1981.
交野市教育委員会,交野市史 考古編,交野市,1992.
M,小学校の特別授業星のまち交野.(2023年1月15日閲覧)
walkin,嬰児山磐座探索と久しぶりのトウショウヶ岳YAMAP.(2023年1月15日閲覧)
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫青151-1),岩波書店,2007.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
森で古い話を聞いた,pp5-6,45,石鏃,交野市古文化同好会,1981.



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(2023年1月15日上梓)