絹延橋から

長尾橋(伏尾台)から

御社橋から

一の鳥居駅付近から

東多田から

笹部から
舎羅林山 (264.5m)
しゃらりんざん
  • 歩行日・・・2018年、2019年
  • 五万図・・・「広根」

★山名考

 多田神社文書の永享13(1441)年の塩川秀仲田地寄進状に西多田平井名の年貢米を納めた「沙羅林寺」の名がある。沙羅林寺は舎羅林山に存在したと推定されるという。飛鳥寺のように所在地の名に因む寺号ということで、「しゃらりん」という地名の古い記録ということになりそうである。

 元禄14(1701)年刊の摂陽群談は「舎羅林山」が「所伝云、昔この所大伽藍の霊区にて土卒内院を表す。因て舎羅林の号あり。」としている。「土卒」は「兜率」で、兜率天の内院と言う事であろうが、舎羅林が沙羅双樹の沙羅の林なら釈尊が前世にいた兜率天の内院ではなく、この世での入滅の際と思われる。弥勒菩薩のいる兜率天の内院とて沙羅以外の樹もあるだろう。寺院があったという山名の由来でなかった伝に民間の弥勒信仰で肉付けして山名の由来のように聞かれた所伝か。

 享保20(1735)年の摂津志は「沙羅林山」を「昔有寺因名山産水晶」と書く。昔、寺が有ったことによる山名で、山で水晶を産すると言う事のようだが、寺があったらどうして沙羅林となるのか。寺号の語末の「寺」を落としたら寺の事と分からないのだから、沙羅林寺という寺があった山だと言うにしても沙羅林山の山名にはならないだろう。水晶を産するというのは、或いは「シャラ」が水晶の別称である舎利石の「舎利(シャリ)」ということで、「舎利有りぬ(しゃりありぬ)・山」か「舎利有り(しゃりあり)・の(助詞)・山」と解したか。

・しゃらりん

 明治12-13(1879-80)年の東多田の小字に「東舎羅林(ひがししゃらりん)」、「舎羅林(しゃらりん)」、「西舎羅林(にししゃらりん)」があった。舎羅林山の滑らかな南と南東の斜面である。

 明治42年測量、同44年製板の正式二万分一地形図は「舎羅利山」と書く。

 あまり高くない、緩やかでそれほど聳えていない、伏せた皿のように見える山である。鹿児島県の方言で「さら」で、「低い山の頂上」や「丘の頂」を言うという。歌枕の美作の「久米の佐良山」なども「さら」という山と言うことだと思う。「しゃ」は「さ」の訛ったもので、「り」/「れ」までが「さら・ね(嶺)」で、その南と東の広大な緩斜面が「の(野)」で、「さら・ね・の」の「の」が約まって訛ったの「しゃらりん」/「しゃられん」で、広がる緩斜面を含めた「さらね」から緩斜面の上に迫り上がった山頂部分を限って「さらね・の(助詞)・せり」か、「さらねの」という緩斜面の迫り上がった所と言うことの「さらねの・せり」であったのが、寺があったということを合わせて考えられて「しゃらりんさん」また「しゃられんざん」となったと考える。摂津志の「産水晶」は「すいしょう」に近い音に訛った、滑らかな斜面があるということの、「すべ(滑)・そは(岨)」がある、と元は言いたかったのではなかったか。

「ほきとわの」とムクロジ谷の更地の地図 東多田の小字に「テキトウアン」がある。宅地開発されてテキトウアンの元の広がりがはっきりしないが、多田東小学校の北縁から西へ平野までの北は池ノ谷で限る南向きの緩斜面の地の事のようである。古い地形図を見ると、この緩斜面の末端は急斜面になって東多田から平野上津にかけて輪を描いている。この急斜面の輪の上に広がる緩斜面と言う事の「ほき(崖)・と(処)・わ(曲)・の(野)」の転訛が、舎羅林と同じく「の(野)」が「ん」となった「テキトウアン」と考える。但し、緩斜面や野原としての野が考えにくく最後に「ん」の付かない記録のある東成郡の放出(はなてん)の例があるので、「ん」で終わる地名の最後の「ん」が全て「野」の転とは考えるわけではない。テキトウアンの東隣の山地の小字「蓮源寺」もその緩斜面地である。蓮源寺の中ほどに東多田から舎羅林山に登る山道があり、裸地の直下を通る。裸地になった山抜けの所を通る道ということの、「ね(嶺)・ぬけ(抜)・みち(道)」或いは「ね(嶺)・ぬけ(抜)・の(助詞)・ち(道)」の転訛が「れんげんじ」で、「ほきとわの」から分かれたと考える。

 「さら・ぢ(方)」も考えてみたが、「沙羅連山(しゃられんさん)」の記録を考えると、「さら・ね」の方がありうるかと思われる。「の(野)」が入らなかった舎羅利(しゃらり)山の名も明治まで並立していたと言うことではなかったか。


多田東小学校北東の
推定「ねぬけ」

五社神社の
大岩

井戸横の石柱
「御供水 神乃井水」とある

五社神社の井戸

井戸を
覗き込む

ムクロジ谷右股
奥ノ院滝

奥ノ院滝滝壺の
石仏

寺ヶ谷左股奥の
真っ平らな緩斜面

 沙羅林寺の位置を、史跡多田院発掘調査報告書(2011)の地図(第3図)では舎羅林山山頂の南方約360mの標高200m未満の所に丸い点線で「沙羅林寺跡?」としているがこの点線内ということではなく、あくまで舎羅林山のどこか、という意図だろう。点線丸枠の北東約250mの五社神社(五社神社はどう呼ばれていたのかよく分からないが「五社大神」と書かれた石柱があったので当頁では五社神社としておく)の巨岩の所には今は小祠と石仏しかないが井戸がある。この井戸の地上部分はコンクリが使われ、地下も大きな岩が使われているが、地下水位は高い。横の「神乃井水」などと書かれた石柱は近代のものであり、隣接する伏尾ゴルフ場内にもよく似たデザインの地上部分の井戸が見られるが、神の井水などと書いたと言うことは石柱以前にも水の気があり、近代以降に全く新しく掘った井戸では無いのではないかと考えてみる。また、舎羅林山南側のムクロジ谷右股には滝行場跡とされる奥ノ院滝がある。目立つ巨岩と井戸のある五社神社の所か、滝行場跡の下手のムクロジ池(山ノ谷池)の辺りが沙羅林寺の場所だったのではないかと考えてみる。ムクロジ谷の南東隣の寺ヶ谷の名は、谷奥の平滑な広々とした地形を「平ら」と呼んだのが訛ったのが「てら」と思われ、寺の存在を示すものとは考えない。

・八広山

五社神社の石柱
「八廣山 五社大神鎮座」
とある

 五社神社の所の石柱には「八廣山 五社大神鎮座」とある。「八廣山」は舎羅林山の別名と思われる。五社神社の巨岩は、正面から見ると独立して屹立しているように見えるが裏側は舎羅林山の山体に埋もれていて、岩の表側が山の斜面の一部でしかない。この巨岩の嵌っている、そそり立つ一枚の斜面ということの「いは(岩)・ひら(枚)」の転が「やひろ」でないかと考える。或いはこの岩の嵌った斜面の山ということの「いはひら(岩枚)・を(峰)」か。

・名所図会など

 安永9(1780)年の多田温泉記(安永8年序)の多田図には「砂羅林山 古へ千坊有し所なり」とある。多田温泉記本文で温泉と効能についてのみ記す著者の馬淵医圭の手に掛かった絵図ではなさそうだが、低山の舎羅林山に千坊とはずいぶん盛ったものだ。「昔、千の坊があった」のではなく、「昔、せり(山の頭)に坊があった」と言うことではなかったのか。せり(山の頭)に坊があったと伝えられていたのなら、沙羅林寺があったのは五社神社の所なのか。

 寛政10(1798)年頃の摂津名所図会では「沙羅林山」として、摂津志などに比べてかなり記述が多い。麓の多田に縁の深い源満仲が天徳2(958)年にこの山に建てた寺が「沙羅林山石峰寺」であり、文永(1264-74)の頃の兵火で諸堂は燃えて失われ、この時に僧が本尊の薬師如来像を石函に収めて埋めたが、慶長元(1596)年春に夜に沙羅林山から光があり、地元の人がこれを掘ってみると石函が発見されて堂が建てられ、慶長8(1603)年に本尊を都に近いところに移せと庵主宗玄に夢のお告げがあり、都に運ばれてまず因幡堂に安置、続いて五条橋の東の若宮八幡宮社内に堂を建て石峰寺とし、宝永の頃に黄檗山の千呆和尚が詣でて日本に来て黄檗山で仕事出来るのはこの霊尊のおかげだと深く敬って言ったので、すぐに公命で大和大路稲荷の南(伏見稲荷の南側、深草の南部)に寺地を賜って百丈山石峰寺の本尊になったとする。「委しきは都名所図会に見えたり」ともあり、安永9(1780)年の都名所図会を見ると百丈山石峰禅寺の項に同様のことが書かれているが、山の名は「沙羅連山(しゃられんざん)」/「沙羅山(しゃらさん)」となっている。また、本尊薬師仏が「恵心僧都の作にして多田満仲公の念持仏なり」とあり、都の最初の石峰寺が若宮八幡宮社内ではなく若宮八幡の辺(ほとり)とされる。都名所図会と摂津名所図会では山としての紹介というより百丈山石峰寺の縁起として書かれているように思われる。長文だが、都名所図会も摂津名所図会も、なぜその元の寺の山号が「沙羅連山」/「沙羅林山」だったのかについては触れられていない。

 元木泰雄(2004)は満仲が史料に初登場するのは天徳4(960)年とし、猪名川町史(1987)でも「満仲が歴史に登場するのは村上天皇代の天徳四年」とされ、満仲が多田に入ったのは安和の変(969年)前後でないかとしている。前後の「前」は多田院縁起にある安和元(968)年の満仲の多田到達で、幅を持たせているのは後世の縁起なのであまり信はおけないということなのだろうが、都名所図会にある沙羅連山石峰寺起立の10年も後である。

 寛政(1789-1801)期に編纂が開始されたという江戸名所図会の多田薬師堂の項に、都名所図会の沙羅連山石峰禅寺の項と殆ど同じ話があって沙羅連山(しゃらりんさん)/沙羅山が出てくるが、やはり沙羅連山/沙羅山の山名の由来は書かれていない。但し、都名所図会より短く書かれている。天徳2年造営の沙羅連山石峰寺の源満仲の念持仏だったと言う本尊が、宝永の頃に石峰寺が若宮八幡宮の辺りから深草(伏見)に千呆和尚によって移された時に故あって多田薬師堂(江戸)に安置したとあるが、宝永(1704-11)より後の都名所図会は安永9(1780)年の初刻本も天明6(1786)年の再刻本も百丈山石峰禅寺の本尊を「多田満仲公の念持仏なり」として、昭和54(1979)年の火事で伝来の薬師仏は焼失したとされるが百丈山石峰寺は今も伏見にある。都名所図会より後に、都名所図会の百丈山石峰禅寺の話と宝永以降の満仲念持仏の行き先だけが「故ありて本尊薬師仏を当寺に安置」と多田薬師堂に絡めて食い違う、抜き写しに見える江戸の人が書いた江戸名所図会の多田薬師堂の話は、都名所図会か全く同じ資料が参考にされたという以外は信ずべきものがない。後に見られる江戸の多田薬師の縁起は江戸名所図会のものとは実態に合わせたかのように異なる箇所があり、江戸名所図会の方が都名所図会の方より簡潔に書かれているとはいえ、時期の前後を別にしても百丈山石峰禅寺の縁起(都名所図会の方)が多田薬師堂の縁起(江戸名所図会の方)を参考にしたとは考えにくい。

 官選地誌の御府内備考の史料とされた文政11(1829)年の提出の寺社書上の多田薬師堂である玉嶋山東江寺の項には沙羅蓮山石峰寺之縁起の写しがある。「沙羅蓮山」である。縁起は大筋で都名所図会と同じだが、満仲念持仏の行き先は因幡堂に着いた時からが違う。薬師仏を背負ってきた宗玄が因幡堂で立ち止まって一つ収める坊があればと思った時に偶々僧が五人いて話を聞いてくれたという。その中の一人の比丘の聖珊に譲るから供奉してくれということになり、聖珊が東山で安置することにしたというが東山から東江寺に来た過程は書かれていない。また、沙羅蓮山で石函に薬師仏が隠されたのは文永2(1265)年だという。

 近藤義休の寛政年間の江戸志の多田薬師の項に「略縁起云」で最後に「夫より京都東山辺に安座の所程なく東武に下り今の所に安置ナリ」とある。三島政行の文政4(1821)年の葛西志の東江寺の項に「縁起の略に云」で「夫より京都東山辺に安座の所、いくほともなく東武に下りて、今の所に安座し奉ると」とある。恐らく同一の略縁起からの引用なのだろう。江戸志・葛西志の引用している多田薬師略縁起での山名は「砂羅蓮山」である。

年表
上方 江戸
伝沙羅連山石峰寺起立
(都名所図会)
天徳2(958)年
扶桑略記
天徳4年10月2日条
源満仲史料上の初見
天徳4(960)年
安和の変 安和2(969)年
伝多田院建立
(帝王編年記)
満仲と多田の関係の初見
天禄元(970)年
源満仲没 長徳3(997)年
伝石函埋蔵(寺社書上) 文永2(1265)年
塩川秀仲田地寄進状 永享13(1441)年
天正11(1583)年 伝東江寺起立
(江戸志・葛西志)
伝石函掘り出し
(都名所図会)
文禄5(1596)年?
伝満仲念持仏因幡堂安置
(都名所図会)、
五条橋東若宮八幡辺りの
京都東山多田薬師
略縁起の年記(葛西志)
慶長8(1603)年
慶安元(1648)年 天海僧正諡号参詣覚
(東叡山日記)
東江寺の古い確実な記録
貞享元(1684)年 東江寺薬師堂棟札
(寺社書上)
摂陽群談 元禄14(1701)年
伝千呆若宮八幡辺りの
石峰寺薬師仏尊信と
石峰寺現寺地下賜の公命
(都名所図会)
宝永(1704-11) 伝満仲念持仏
多田薬師安置
(江戸名所図会)
千呆没 宝永2(1705)年
山州名跡志 正徳元(1712)年
百丈山石峰寺開創 正徳3(1714)年
聖珊女王生 享保6(1721)年
享保17(1732)年 江戸砂子
摂津志 享保20(1735)年
延享末寺帳 延享2(1745)年
寛延4(1751)年 再板増補
江戸惣鹿子名所大全
聖珊女王没 宝暦9(1759)年
多田温泉記
都名所図会初刻本
安永9(1780)年
寛政(1789-1801) 江戸名所図会の編纂、
江戸志
文政3(1820)年 編脩地誌備用典籍解題
文政4(1821)年 葛西志
文政11(1829)年 寺社書上
大正12(1923)年 関東大震災
伝満仲念持仏焼失 昭和54(1979)年

 日本人名大辞典で「聖珊」を探すと江戸時代中期の聖珊女王が挙がるが、聖珊女王は慶長8年には生まれてもいない。同名の性別も違う別人ということなのかもしれないが、辞典にある方が亡くなったのは都名所図会の出版より21年前である。天台宗の東江寺への説明が「故ありて」だけの江戸名所図会の穴を埋めるべく少し昔の天台座主の姉の名を使って話を加え、宝永の頃の移転では貞享元(1684)年の薬師堂の棟札や延宝8(1680)年の石灯籠などより後になってしまうということで慶長8年から幾程もない内に移転してきたことに変更したのではないかと疑う。葛飾区史上巻(1970)は東江寺について「天正十一年(一五三八)聖珊(驫C)によって創立された」としているが、寺社書上にない「天正十一年」に「(驫C)」が創立というのはどこから出て来たのか。東江寺の中興が諄海によるとは寺社書上にある。

 寺社書上には東江寺に、念持仏や経典の入っていた石之宝函之蓋の存在も書かれているが、川西市史を読む限り、多田地方の文永2年の大きな争乱の示す史料は無さそうである。縁起の文永2年の争乱というのは寛政年間の江戸志も「略縁起云・・(中略)・・文永二年春国中大乱」と引用した上で「篁?云今石櫃ありて蓋ノ裏ニ沙羅蓮山名峯寺(ママ)トナル由文永二年春ノ乱何ノ乱ル追テ糺スヘシ」と、吉田篁?(よしだこうとん)の説を挙げて疑問視している。私も学校教育の日本史で文永2年頃に国中大乱であったなどと習った覚えはない。大体、沙羅蓮山にあったとされる「中堂十二間」という今の比叡山根本中堂より大きな伽藍が存在を忘れられるほど荒れてしまう争乱なら、直ぐ近く(約2.5km)の鎌倉時代以降の数多くの文書が伝わる多田院も無傷では済まなかっただろう。2年後に都で平将門の子の捜索という実行部隊で、安和の変で時流に乗る前の満仲にそのような大きな堂を建てる余力や発心があったとは思えない。蓋には「文永二年 三月吉辰」とあったとされるが、吉辰などと書ける事態だったのか。文永9年には多田院の修造が始まっているが、修造の文書に7年前に修理が必要となる原因があったなどと言うことは書かれていない。修造は捗らなかったようだが修造の為に鎌倉から使者が来て高僧も関わっているのに、7年前まであった多田院からすぐの舎羅林山の伽藍の、本当にそんなものがあったとして満仲念持仏が行方不明の焼け跡について何も調査されなかったと言うことも無いだろう。満仲の亡くなった長徳から文永の270年弱、満仲念持仏を有する沙羅蓮山石峰寺と多田院が並立していたのなら多田神社文書にも石峰寺の名が登場し、川西市史が文書に絡めて言及しているはずだが、川西市史に沙羅蓮山石峰寺は出てこない。

 都名所図会の百丈山石峰寺の、宝永より前の話の出所が知りたい。都名所図会の凡例には文章の種本として宮古歳時記(都歳時記/山城四季物語)と山城名所紀行(京師巡覧集)が挙げられているが、いずれも延宝年間の本で宝永より古く、百丈山石峰禅寺については書かれていない。都名所図会の凡例に「旧記に委しきはその大意をしるし」ともあるので、沙羅連山と石峰寺の話も何らかの所伝に基づいていると思われるが、何の所伝だったのか。

 葛西志の東江寺の項に江戸の多田薬師の略縁起にある由来について「按に此縁起慶長八年櫻井通厚と云人の女の記せし、京都東山多田薬師略縁起に全く同し、然れば當社のはかしこの(当社のは、彼処の)写などにや、後年京都より當所へ引移せしと云は、他にきこえざる説なれば、いかゞはあらん。」と言う指摘がある。文政3(1820)年の編脩地誌備用典籍解題では多田薬師略縁起一巻についてもう少し詳しく説明があり、「宝永のころ黄檗山僧千呆、官に請、寺を大和小路稲荷の南に建」とあるので若宮八幡辺りの石峰寺ではなく深草の百丈山石峰寺の略縁起のようである。「是書巻末に大樹家侍女櫻井氏通厚女縫としるす、此書の撰者にや、詳ならす」とある。絵巻物で、「繪と題せる下にはその繪のさまを私云と分注せり、このほん書写せしときしるしたるものにや」と終わっている。実物を見ての説明なので撰者・分注については恐らくその通りなのだろうが、縫女史が書写者・分注者ということも考えられそうな気がする。江戸幕府絡みの解題で宝永より後の将軍家の侍女なら大奥に問い合わせれば何か分かりそうな気もするが「詳ならす」ということは分からなかったのか。この絵巻物の多田薬師略縁起を見てみたいが、どこにあるのか、今もあるのか分からない。葛西志の「慶長八年櫻井通厚と云人の女の記せし」は、慶長八年という年記が署名に合わせてあるということではなく、慶長八年に若宮八幡辺りに興ったとされる多田薬師について記したものと考えるのが良さそうである。

 編脩地誌備用典籍解題では「山を沙羅蓮」の下に割注で「摂津古蹟記に蓮を林に作る」とある。摂津古蹟記の項を見ると写本とあるが、年記や作者は書かれていない。摂津古蹟記が摂陽群談より古いなら、摂陽群談より前にも「しゃらりん山」とする本があったということになるのだろうが、摂津古蹟記と言う本は見ておらず、いつの本なのかも分からない。

 葛西志には続けて「今當寺より夢想の目薬を出す、是は即かの尊像を納めし、石の唐櫃を抹せしなりと云、最うけがひがたき事なり。」とある。文政11(1828)年の寺社書上で蓋があるのに石函が挙げられていなかったのは、石函は擂り潰したからと言う事のようだ。偽物にしても本当に擂り潰していたのなら三島政行に同感でひどい話だったと思う。偽物としての出来が悪かったから先に潰して信者獲得に再利用したのか。享保20(1735)年の続江戸砂子には浅草の薬王山東光院の項に「夢想の目薬出ル」とあるから、そういうものが江戸時代にはいろいろあったのか。葛飾区寺院調査報告(1980)では寺宝に、満仲念持仏と合わせて埋められたとされたらしい法華経は挙げられているが、寺社書上にある蓋が挙がっていない。蓋は関東大震災など後の火災で焼けたのか。

 江戸志には多田薬師が「開山 天正十一癸未」と、葛西志には東江寺が「天正十一年の起立といへり」とあるが、天正11(1583)年は沙羅林山から薬師が掘り出されたとされる慶長元(1596)年より13年も前である。葛西志の凡例には「凡神社寺院の、草創の年歴を伝へざるは享保年中の、寺社帳に拠て、是をしるせり」とあるが、天正11年の起立というのが当時の東江寺が言っていたのか。享保の寺社帳というのは見ていない。

 黄檗宗の延享末寺帳に深草の百丈山石峰寺は「年貢地」とある。千呆のような高僧の口添えで寺地を公命で賜って、その寺地が約40年後に年貢地とされていることはあるのか。「賜る」と聞くと「拝領地」を考えたくなるのだが、年貢地として賜ることもあるのか。延享末寺帳で拝領地があるのは三ヶ寺に止まるので、或いは除地で年貢地に変更されることはあるのか。書き入れで年貢地に除地と、またその逆の例も延享末寺帳にはある。百丈山石峰寺の開創を日本名刹大事典(1992)は千呆の死から8年後の正徳3(1713)年としている。千呆が薬師仏を尊崇したにしても鴨川の対岸に著名な因幡薬師のある若宮八幡辺りの薬師仏に口添えをするものだろうか。都名所図会の縁起の通りとして慶長から宝永までの100年以上の間、若宮八幡辺りに収まっていたというのは、満仲念持仏と言われ出したのが千呆の声かけとされた時より後だったということでないのか。

 都名所図会の百丈山石峰禅寺の項は一読すると、宝永の頃に千呆が若宮八幡辺りの石峰寺薬師仏を尊信・恭敬して発言し、すぐに寺地を公命で賜って現在地の百丈山石峰寺となったとあるような気がするが、日本名刹大事典を踏まえて読み直すと寺地を賜るまでが宝永の頃ということで、実際に建築され完成して寺の開創成ったのはもっと後だが言及されていないようにも読める。

 摂陽群談の平野上津村の善源寺の項に「開闢天徳四年庚申年、源満仲公草創」とある。平野上津村は舎羅林山の南西の麓の岡本寺の辺りだが、今は善源寺という寺はない。善源寺の項の最後に「大昌寺末院に属す」とあるので、篠部村(今の川西市笹部)の大昌寺の項を見ると草創は宝徳二庚午(1450)年とされているが都名所図会の石峰寺の話に似た事が書かれている。本尊の地蔵尊はそう遠くない昔は民家にあったが「夜々光明を懼れて」大昌寺に移したという。寄附の観音は「矢代氏之人」が銀山(多田銀銅山)で岩の上に立つ救世観音を見て「恭敬合掌し、暫く眼を閉て、観念の窓を開けば、忽ち失玉ひぬ」のでそこの岩を掘ると鉱脈を見つけて財宝家に充ちて栄え、「是皆薩?(さった)の冥助也と、菩提心を発し、剃髪して得岩浄金と法号して、尊容を写造せり」という。「恭敬」、「忽ち」の語が文脈は違えど短い文中に共通し、「冥助」を「応現」に、得たものを鉱脈から寺地に置き換えれば矢代氏の人と千呆の行状はほぼ重なる。摂津志では善源寺が「在篠部村 寺記曰応永二十年開基」とあり、大昌寺の項がない。大昌寺と善源寺は今の笹部で近所にあるので、善源寺は摂陽群談以降に笹部に移転して一時的に本寺に取って代わっていたのか。摂陽群談の善源寺の経歴は天徳4年以降元亀元(1570)年まで詳細だが、応永20(1413)年は出てこない。摂陽群談から摂津志までの間に胡散臭い話は止めようということになったのだろう。

 夜に光を発するのを取り寄せるとか、もっと多くの人を救いたいから人の多い所に移せと夢のお告げがある話は他の社寺にもある。都名所図会の石峰寺の話では因幡堂が出てくるが、石峰寺の話は因幡堂の縁起と似ている。因幡堂の本尊は元の場所が破壊された時に飛んで来て因幡国の海底に沈んで夜に光を発していたので網を入れて引き揚げて、因幡で祀っていたのがまた引き揚げを命じた人物の京都の住まいに飛んで来たので今の因幡堂としたという。正徳元(1712)年の山州名跡志の因幡堂の「縁起ノ意」ではもう少し詳しくて、二度目の飛来の後、別の処に移していたのがまた飛んで戻り、夢のお告げで此処で苦の衆生を度すべしというので宅地を因幡堂の寺にしたという。都名所図会も山州名跡志も光朝禅師が出てくるので、後世様々な情報が付加された成熟期の因幡堂縁起に基づくようである。都名所図会の石峰寺の元の所在地が荒れたと言う事と、夜の光と、夢のお告げでこの場所にしたいと、話の構造は殆ど同じである。縁起の因幡における始まりが石峰寺の多田の里の天徳2年と一年違いの天徳3年と近いのは気になる。江戸の多田薬師の北東約500mの牛島太子堂は寛文2(1662)年の江戸名所記に、文禄年中にお堂の近くに夜な夜な光があり、光る場所を見極めて掘ってみたら文明2(1470)年の年記のある石塔が出て来て夜の光はなくなったとある(この石塔が傍で掘り出されたお堂というのが多田薬師の北東約500mの辺りか旧地だという更に北方の墨田川左岸の隅田公園の辺りか不明との葛西志の指摘がある)。同じ牛島の、多田薬師の150mほど北東にあった江戸名所記の本所太神宮(今の船江神社の旧社地)の飛んで来て空から声というのも、夢の中か外かの違いはあれど、因幡堂縁起と共通する。

 都名所図会と摂津名所図会の天徳2年の満仲による沙羅林山石峰寺建立と文永2年の焼亡の件は裏付けが無く、信ずるに足りない。慶長元年春の夜に沙羅林山から光が出ていたというのも真に受けるべきものではない。正徳3年開創の比較的新しかった百丈山石峰寺が開帳に際して、本尊薬師仏の権威付けを行うべく二世住持の師であった高僧千呆と引き受けて本尊とした若宮八幡と関わりのあったかもしれない薬師仏を千呆存命中の宝永の頃の話として結びつけ、更に薬師仏の由緒として因幡堂の縁起に摂陽群談のような所伝を合わせて徳川家の祖先とされた源満仲の念持仏と言うことにして江戸幕府の時代に受ける略縁起を作っていたのではないかと考えてみる。沙羅連山が石峰寺略縁起に出て来たのは、種本の推定としては安直な気はするが徳川の時代に受ける縁起をという観点で、刊本で数の出ていた摂陽群談から多田にあって昔大伽藍の寺があったという山の名を拾って近くの寺の伝承も合わせて膨らましただけではなかったか。慶長頃の庵主で念持仏を京へ運んだとされる宗玄の名が、摂陽群談の舎羅林山の西麓の平野湯(現在の平野鉱泉)の項に割注で「宗玄開之。」とあるが、いつ開いたのかは書かれていない。配布用の略縁起が刷られたかどうか、実際に開帳が行われたかどうかは分からないが配布用略縁起の元とする絵巻物の略縁起(本縁起?)は完成し、配布用か絵巻物のどちらかが都名所図会の百丈山石峰禅寺項の種本になったのではないかと考える。

 その略縁起が江戸にも回って(江戸での出開帳も考えられるか)、配布用か絵巻物か分からぬがほぼ丸写しで江戸名所図会の多田薬師の項の種本となり、絵巻物の写本が幕府に納められ、黄檗の千呆の名を削り天台宗の寺だから天台座主の公遵法親王から腹違いの早くに亡くなった姉の名を入れて、天徳2年時点の伽藍の大きさなどを肉付けして、山名を多田温泉記を参考に一文字目を「砂」に変えてみたりもして、東江寺縁起として転用されたのではなかったか。因幡堂と石峰寺も関わりがありそうだが分からない。葛西志に挙げられた桜井通厚の女(縫)或いは桜井通厚氏がどういう人物か分かれば因幡堂と百丈山石峰寺の関係が分かるかも知れないとも思ったが、将軍家侍女の実家が全てを網羅しているわけではないとは言え近世人名録集成や江戸幕府旗本人名事典などに見当たらないと縁起創作の為の架空の人物かも知れないとも思う。慶長は10月の改元なので沙羅林山から光が出たという「慶長元年の春」はない。若宮八幡の現社地への遷座は慶長10(1605)年で、慶長8年から「程なく」が2年以内なら若宮八幡の社地は五条橋の東ではない方広寺の辺りである。慶長8年は江戸幕府の始まりと揃えられただけではなかったのか。若宮八幡の辺り或いは社内というのも徳川将軍家も属するとされた源氏の氏神に託けたのではないかという気もする。文永の頃の大乱というのも何かしら参考にした物語的な資料があったのではないかという気がするが、分からない。

 摂津名所図会では今の豊能町の七宝山高代寺について「寺説に曰く、此寺は摂津守源満仲公の本願にして・・・落慶は村上帝天徳二年の冬なり」とある。満仲の摂津守補任の時期が天徳2年だったという伝承が北摂にあって、高代寺が石峰寺とは独立に天徳2年落慶と言っていたなら、石峰寺が若宮八幡辺りに興った時も北摂に関連する人物が薬師仏を持ってきたのだろうかとも考えてみるが、摂津名所図会の8年前には同じ秋里籬島の都名所図会が出ており、高代寺が都名所図会の影響を受けているとも考えられる。多田より奥地の能勢の高代寺が満仲によって天徳2(958)年落慶であったら、多田院縁起が満仲の多田到達を安和元(968)年と書いているはずがない。摂津名所図会で多田院建立を天禄元(970)年と、満仲が「九頭の毒蛇を平げ、天禄元年三月十五日多田庄に入城」と記している秋里籬島が「寺説に曰く」の高代寺はともかく、種本不明の都名所図会の百丈山石峰禅寺項から引き写した沙羅林山石峰寺の天徳2(958)年をどういうつもりで記していたのかが気になる。

 江戸時代の人が天正と慶長の前後を間違えると言うことはありえない気がする。先に挙げた本所太神宮は江戸名所記で寿永年中(1182-84)に夢の中で飛んで来たから勧請ということになっていたのが、100年以上後の江戸名所図会では牛島神明宮として貞観年間(859-877)の鎮座なりと伝わっていると、寺社書上では朝日神明社として元慶元(877)年の鎮座とする。続江戸砂子に、麻生の毘沙門堂(天現寺)の尊像が「多田満仲公の持尊也」とある。多田満仲が徳川将軍家の先祖とされたことにあやかった寺社の由緒作りが流行しており、宝永より後で多田薬師の本尊が「多田満仲の守本尊」と書く江戸砂子の出た享保17(1732)年より前に満仲念持仏の伝が東江寺でも導入され、江戸名所図会の取材後の寛政より後に棟札などと整合を取る為に満仲念持仏が持ち込まれたのが慶長ということにされたが、その後、慶長は深草の石峰寺との単純な被りの回避か薬師仏の由来というだけに限局して、より古い方が由緒として良かろうと言うことで、寛延4(1751)年の再板増補江戸惣鹿子名所大全に「鎮守七渡稲荷大明神、当所の地主神にして、往昔より鎮座、・・・当社の棟札一枚あり。天正三年二月廿五日とあり。」ということで、地主神の社より少し後と、他にも理由は付けられただろうが寺の起立は天正11年と言い出したが、徳川家の祖先とされた源満仲の念持仏とされる多田薬師と江戸名所図会の影響力の前にあまり支持されず、宝永と慶長と天正が並立していたのではなかったか。江戸砂子には沙羅蓮山が出てこないのが気になる。再板増補江戸惣鹿子名所大全では出てくるが満仲念持仏が東江寺に来た時期が書かれていない。寺社書上の東江寺の稲荷社が間口と奥行しか書かれていないのは、再版増補江戸惣鹿子名所大全以降の江戸の火事で棟札ごと焼けたのか。


附 鼓が滝・多田

 「つづみがたき」の格助詞「が」は前の語に意義上の重点を置いて後の語へ続ける。「つづみ」だけで鼓が滝の辺りを指し、そこの急流ということの「たき(滝)」だろう。「滝」は現在は垂直近い方向に落差をもって落ちる水が意識されるが古語では早瀬や急流や激流であった。水路が開かれて通りやすくされたという能勢電鉄の猪名川橋梁から銀橋(道路橋)までの、両側から山地の迫った猪名川の瀬の所が「つづみがたき」と考える。「つづみ」は岩の多い急流になっていて川音が響く辺りということの「どど(轟)・み(水)」の転と考える。「つづみ」は dodomi から今の tsudsumi ではなく、tudumi に変化したと考える。鼓が滝より上に広がる多田盆地の「多田(ただ)」も同所を指す「どど(轟)」の転が発祥でないかと思う。


鼓ヶ滝と
能勢電鉄猪名川橋梁

鼓ヶ滝の
開削水路

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(2020年1月19日上梓)