嬰児山/龍王山 龍王社参道から

 寺の旧市街(寺2丁目)から、かいがけ道を経て登るメインルートに、いばり石でないかと考える石を通るルートと傍示からのルートを合わせる。いばり石でないかと考える石からは車道で傍示へ向かう。

  • 五万図・・・「大阪東北部」
  • 歩行日・・・2019-21年
地図1地図2

★かいがけ道〜龍王社参道

 最寄り駅は京阪交野線の河内森駅か、JR学研都市線の河内磐船駅。お屋敷の集まる森の集落の古風な大門酒造の建物など見て寺の集落へ。寺の集落の中心部で灯籠の辻を見る。


寺の集落内の灯籠の辻

住吉神社

 登山口は寺集落の上端の住吉神社である。住吉神社の脇から山道に入る。山道は「かいがけ(峡崖)」と呼ばれた河内と大和を結ぶ山の斜面を登る道で、所々大阪平野の展望があるが、暗い深く抉れた部分が多い。龍王社の鳥居で、かいがけ道から分かれる。

 住吉神社の脇に入ってすぐにT字路を右折する。右折してすぐに車止めゲートを通る。住吉神社向かいの公衆便所の方の車道も山に登っていくように見えるが、山裾の道を右に分けた先の砂防ダムより先はヤブに覆われ道型も流れて辿るのは難しい。

 右折してからしばらく消防用水のパイプが平行する。すぐに尾根の西側に出て大阪平野方面の展望の良いベンチや「交野八景」の案内板のある辺りのコブが西斜面下で壁土を採ったという「赤山」のようである。道の北側(下手)のコブが「赤山」なのか。この先は深い樹林の暗く深い谷間の道となり、どこを通っているのかと言う感じだが、地形図上では尾根線に乗っていて尾根線上の深く抉れた筋の底を歩いている。コブを下手に見てコブに向かって踏み跡がある所があり、踏み跡に入ってみると寺古墳群の6号墳の石組みがある。

 6号墳の名を「いわなし古墳」や「岩梨古墳」とするものがあるが、昭和48年春の古墳調査の記録では「かいがけ古墳(いわなし美しい)」とあって、かいがけ道近くの6号墳の石周りにイワナシが生えていて花が美しく咲いていたということで、寺古墳群の塚穴古墳や鍋塚古墳が塚穴や鍋塚と呼ばれていたように、それまで地元で6号墳が「いわなし」と呼ばれていたというわけではなさそうである。当頁では「6号墳」としておく。


登山口

右は公衆便所の先に車道

すぐに右折

パイプ平行の道

深く抉れた道

6号墳

 伏拝の辻は谷底から出た感じのする所で、柳谷伏拝(柳谷観音)と愛宕山大権現と石清水八幡宮の三本の石柱がある。いずれも京都の方なので、北に視界が開けるここが伏拝なのだろう。石柱の面前に大岩があり、石仏が彫られており花立てなどがある。以前は道の路盤に使われていたが石仏(阿弥陀仏だという)が彫られているのが見つかって扱いが変わったらしい。

 伏拝の辻の先の道の右側に石垣がある。その上が石切場の跡のように見えるので、石切場から切石を下ろすスロープの石垣かと思ったのだが、交野市古文化同好会の機関紙「石鏃」の12号(昭和51年1月)の地元の方からの聞き取りに「石清水八幡宮、愛宕山、柳谷の伏拝の建っている道路をへだてた南側に昔、六六 と刻み込んだ石(六六石)があったがどうなったのか不明、六六とはどんな意味があったのだろう、教えてほしい。」とあった。このスロープの石垣の辺りが伏拝の道路対面の南側となりそうである。第六天信仰の第六天を指す「大六」と刻まれていたのを「六六」と読んだもので大六碑の拝所に上がる為の石垣だったのか。中世から近世にかけて全国的な流行を見たという第六天信仰の碑石がそのまま残っていたのだとしたら珍しいのだろうと思うのだが、六六石は見ていない。第六天信仰は本義が忘れられたり国学の影響で形を変えたが、石清水も愛宕も柳谷も木村博(1980)に挙げられた第六天信仰の変化の例から遠いように思われる。

 また谷底のような道となり、右手の岩の上に二月堂の伏拝の石柱がある。二月堂の伏拝の石柱は折れたのを修復した跡がある。住吉神社から登ってすぐの所にある「交野八景」の看板には「野崎観音と二月堂の伏拝」とあって石塔が二本並んで描かれており、二月堂の伏拝の柱の左(道の上手)に野崎観音の伏拝の柱があるように描かれているが、野崎観音の伏拝の石柱は見ていない。かいがけ道は昔より木が大きくなっても用材や薪に伐られることが無くなって台風の後などは大きな倒木が多く発生するようで、二月堂の伏拝の石柱は倒木に当たって折れたが修復出来たけれど、野崎観音の伏拝の石柱は修復出来なかったのかもしれない。或いは倒木で倒れて倒木の落ち葉に埋まってそのまま行方不明なのか。野崎観音は南西で二月堂は奈良の東大寺の二月堂のことなら南東。山の中腹とは言え野崎観音も二月堂も見通すのは無理だ。伏拝は見通せなくてもありなのか。なぜ、東大寺でなくて二月堂の伏拝なのか。いろいろよく分からない。伏拝は明治30年代に盛行した習俗だという。寺の集落内の灯籠の辻にも二月堂や愛宕の伏拝がある。

 次第にまた谷底から抜ける感じがして明るくなって道脇に草が増えてくると能勢妙見の伏拝の石柱が道の右手にある。今は樹林に覆われて見通せないが、木が無かったら能勢妙見は見通せそうな位置である。第六天信仰は子ノ神信仰に変わることがあったようで、北極星の妙見信仰なら第六天信仰から変わることも考えられるかなどと考えてみる。


伏拝の辻

像は薄い

石垣

二月堂の伏拝は岩の右上
'21年1月に石柱が倒れたのを見た

二月堂の伏拝の
石柱

能勢妙見の伏拝
(道を振り返って)

 能勢妙見の伏拝のあるカーブの所から北西に緩い尾根を50mほど下ると、先で少し高まった標高200mの処に古墳の天井石のように積み上がった石組みがあり、石舞台古墳のように覆土がなくなった古墳のように見える。改訂増補交野町史2(1971)で寺古墳群9号墳とされるところだが、交野市史考古編(1992)の寺古墳群の章では言及が無く、寺古墳群の9号墳は鍋塚古墳の名となっている。改訂増補交野町史2では鍋塚は寺古墳群10号墳である。


能勢妙見の伏拝下手の
尾根上の石組

北側から見ると
天井のように見える

 能勢妙見の伏拝から擬木の車止めゲートを通ると先に赤い消防のホース入れが目に入り、左手の石段を登るとかいがけ地蔵の台地である。正面にお堂の基礎だけが残って、基礎の真ん中に立つのが「かいがけ地蔵」で、右手には役行者像の新しいお堂、左に三界万霊塔がある。三界万霊塔の奥に弘法大師堂だった基礎があるが、かいがけ地蔵の基礎より小さい。更に西側に不動立像があり、ここも何かの基礎らしき石組みがある。かいがけ地蔵の周りなどにこれらのお堂で使われていたと思しき瓦が積まれている。

 かいがけ地蔵の所で寺の春祭りで芝居があったという。文化6(1809)年の地図に、かいがけ地蔵の向かいに嶮桟菴というお堂があったことが書かれているという。かいがけ地蔵の、かいがけ道の向かいには昔は茶所があって阿弥陀仏を祀る尼さんがいて、休み場として茶を施したという。その茶所の名が嶮桟菴なのか。


ゲート

かいがけ地蔵入口

台地の上

かいがけ地蔵
アップ

三界万霊塔

不動立像(右)
左の岩は据えられている

 消防ホース入れのすぐ先で石の鳥居が左に道を分けている。嬰児山山頂の龍王社の鳥居である。かいがけ道から分かれて左の鳥居をくぐる。鳥居の右手の、「従是嬰児山龍王社三」と読める石柱がある。「三」の次に「町」か「丁」の字があるらしく、ここから嬰児山の山頂の龍王社まで約327mということだが、「三」の下の文字は土に埋もれており、石柱が傾いているので字を見ようと掘ると倒れてしまいそうである。石柱の上端には後ろが広がっている四角い穴が開いている。後ろの広い部分は火袋でないかという。

 鳥居の前後は急な階段で歩きにくいが、すぐになだらかとなる。右手の昭和一桁頃の大きな題目塔を過ぎると南に延びる稜線に上がり左折する。稜線に上がった所は十字路になっており、稜線の向こう側は傍示からの古い道のようだが荒れてすぐ下で行き止まり状態である。右折して稜線の下方へ少し下ると分岐があり、左に下る方がはっきりしていて傍示へ、右に下ると荒れた道型で、かいがけ道のくぼみ石に下りる。稜線に出てから右は竹林となって急登となる。


龍王社鳥居

鳥居脇の石柱アップ

石柱上部背面

題目塔
'20年に倒木にあたって倒れた

南に延びる
尾根に上がる

竹林脇
急に急坂

 一登りで左に折れると道の左手が明るくなって分岐があり、左に入るとすぐに弁慶石の巨岩がある。弁慶石の上からは大阪平野北部の展望が良い。弁慶石の先にも道型が続いており、弁慶石を回り込んで下っていく。傍示からの古い道が合流した先で急登になっているのは弁慶石の下を回り込んで登ってきた道から付け替えたようで、急登の下まで道型がある。弁慶石の下に窟状の所があって一人くらいなら雨宿り出来そうである。岩の上に交野市史民俗編にこれと指さす写真の図版のある弁慶の足跡だとも、弁慶の馬の蹄跡ともいう窪みがあるが、苦しい感じがする。頂上台地の緩斜面から急な西斜面が落ち始める所にある弁慶石は、多分「へり(縁)・きは(際)・いし(石)」の転が「べんけいいし」なのだと思う。弁慶石の北側の斜面は巨岩が多くあり、ちょっとした庭園のようである。


弁慶石分岐

弁慶石

大阪方面の展望

岩の下に窟

弁慶石下側に路盤

足跡と見るには苦しい

 弁慶石の分岐を後に緩やかな左脇に岩の並ぶ坂を上ると城跡の曲輪を思わせる広場に出る。モミジの木が多く紅葉の季節は美しい。樹林に囲まれて展望は殆ど無い。祠が二つと手水鉢がある。ハランやサザンカや椿といった栽植があり、宗教的に整備された所のようだが、手水鉢の年記は大正年間と新しい。以前はイチョウの木もあって黄葉していたが風で傾いて根が浮いて2020年頃に枯れた。

 広場を後に進むと城跡の土橋を思わせる細い所を通って左に曲がり山頂の龍王石の前に出る。左に曲がる所から右手に僅かに斜面を下りる大正年間(近代)の年記の題目塔の背中があり、その下に交野市史考古編に「近世に架構された」とある石室がある。周りにはコンクリの池の跡のようなものがあり、通ってきた土橋を思わせる細い所も南側にコンクリの擁壁が設けられているのが分かる。石室の中の石の隙間の一部もコンクリで埋められている。大正頃に龍王社を大いに整えたようである。石室は上の題目塔とセットで大正頃に作られたのでないかという気もするが、近世にこの石室を作った経緯の分かる古文書などがあるなら読んでみたい。


最後の坂

広場から振り返る

祠と手水鉢

広場 秋

土橋風

近世架構との石室

 龍王石は巨岩で、上に狐の置物がある小さな祠がある。瓦が横に落ちているので昔は大きな祠だったのだと思う。巨岩でなく地面としては龍王石の裏手辺りが嬰児山の最高点で、その後ろに岩としての最高点であるように見える大岩のトガリ石がある。その後ろには平坦な部分が細長く続き、鉄骨コンクリの土台だけの昭和14年から16年にあった航空灯台跡があり、その奥にまた大岩が2つある。この一番奥(北側)の大岩も高く、トガリ石と同じ位の高さはありそうである。トガリ石は雨乞い石とも言うようで、龍王石と一体に見るものなのかもしれない。雨乞いでトガリ石を1000回まわったという。


土橋風の南側下の擁壁

龍王石

多分昔の龍王社の瓦

トガリ石

航空灯台跡

山頂北端の大岩

★オチゴ谷左岸尾根道

 住吉神社から右の車道に入って左手に赤山の壁土採取跡など見てオチゴ谷(乳母谷/落子谷)を渡った先から尾根に取り付いて、森から傍示への車道へ上がる道がある。寺集落の南の裏手から農道で「前川2号堰堤」と銘板にある砂防ダムに行き、砂防ダムの下手から斜面に取り付く尾根上で合流する踏み跡もある。尾根上の踏み跡ははっきりしており倒木も少ないが一部が急峻である。小さな岩場を越えて車道に出る手前に広い露岩があり、穴が開いている。この露岩からは寺の集落から北摂の山まで一望である。改訂増補交野町史に「竜王山の山頂に(昔の共有地内)いばり石という大石があり、その石に穴が開いている。雷神が小便をかけたので岩に穴が開いたのだと言われている」とあるイバリ石はこの岩で、この岩の下手の乳母谷の左岸支谷が今何と呼ばれているのか知らないが北河内史蹟史話に書かれた「溺(ゆばり)谷」でないかと考えている。小便のことを「いばり」/「ゆばり」という。「雷(かみなり)のイバリ(小便)が掛かった所に穴が開いた岩がある」のではなく「『上(かみ)の峰(を)』のイバリ(谷)が掛かった所に穴の開いた岩がある」という話であったと思われる。交野市史自然編は、かいがけ道沿いの南川の谷を「非常に深い谷です。村人はこの谷を『乳母谷(おちごだに)・溺谷(いばりだに)・地獄谷』などと呼んでいます。」としているが、似た音(チゴとジゴ)の入る乳母谷と地獄谷はともかく、北河内史蹟史話に「附近に奇岩の多い、乳母谷、溺谷等の名がある」とされる乳母谷と溺谷は別物でないかと思う。いばり石があったのは「竜王山の山頂」ではなく、竜王山の方の昔の共有地内の谷の頭と言うことでなかったのかと。

 穴と展望の岩のすぐ先で森と傍示を結ぶ車道に出る。右手(山側)に「南山弥生遺跡」とある石柱を見て、岩の切り通しを通って傍示の盆地に出る。かいがけ道のくぼみ石から登るのが嬰児山へ早い。


オチゴ谷を渡って

地道の入口 左へ

溜池が多い

石垣の所から細道

尾根上の道

岩場

露岩に
出る

露岩のコブ
穴がある

穴アップ
いばり石でないかと

大阪平野北部の展望

露岩を後に

傍示への車道へ

★かいがけ道の嬰児山鳥居前から傍示までと、かいがけ道のくぼみ石から龍王社参道

 かいがけ道を龍王社鳥居をくぐらずに直進すると傍示の車道に出る。車道に出る前に、傍示の盆地に上がってから鳥居からの道に合わさる嬰児山への登路がある。車道に出た上手に北側の袋地のような谷間の農地に上がる道があり、昔はこの道が傍示から龍王山への道だったようだが、谷間の農地から龍王山参道へ上がる直前までがほぼ流れて失われている。

 鳥居を後に緩やかな道を進むと右下に農地が見え始める。その農地への下り口の向かいに、ごみの木地蔵がある。農地は傍示の農地のようで、ごみの木地蔵より上は、かいがけ道が一部コンクリ舗装されている。ごみの木地蔵を過ぎてすぐに道の右側に金比羅の伏拝の石柱がある。金比羅の伏拝を過ぎると傍示の盆地が近づいて上の方が明るくなる。ずっと下にあったオチゴ谷の水がすぐ横になる。オチゴ谷に石造りの古い堰堤を過ぎると傍示の盆地に出る。

 道の左(北側)に「くぼみ石」という目立つ石があり、石の裏から道が嬰児山から南に延びる尾根に上がっている。踏み跡は二列あり、左側の浅い谷筋がより古い道のようだが荒れており、右側の斜面を直に登る新しい感じの踏み跡の方が登りやすい。くぼみ石の頭にはくぼみがある。くぼみ石の奥側にある一回り小さい石の頭にも浅い窪みがある。くぼみ石は寺の住吉神社の脇にもあり、くぼみの大きさはここのものとほぼ同じである。住吉神社脇のくぼみ石は、たこ焼き器のようにくぼみが複数並んでいるものと、ここのと同様頂点に一つのくぼみのものとがある。住吉神社脇のくぼみ石は、昔子供らが餅搗き遊びや米搗きのママゴトをしたのだという。

 かいがけ道が車道に出る所の左脇の田の畝に手水鉢のような石が埋まっている。

 交野市史民俗編は、室町期と推定されるというごみの木地蔵が今のかいがけ道を正面にせず、下の農地から上がってくる道を正面にしていることから、室町時代以前のかいがけ道は今の宮山・赤山の小尾根上ではなく、オチゴ谷の谷筋を通ったと思われるとしているが、オチゴ谷の谷筋は狭く急峻で地質は崩れやすいので、昔から小尾根上にかいがけ道はあったのでないかと思う。今のかいがけ道からも、寺から登ってくる分に、ごみの木地蔵が気付きにくいということはない。今のオチゴ谷には谷筋に沿って道があるが、谷筋にあった石切場から石を下ろす為に造られた道であり、幅は広いが歩くには急である。


ごみの木地蔵

ごみの木地蔵アップ

金比羅の伏拝

オチゴ谷に石造りの
古い堰堤が見える

くぼみ石
ここから登る道もある

くぼみ石の頭の
くぼみ

くぼみ石の後ろから登る

傍示に出る

田の畝に手水鉢?

住吉神社脇の
くぼみ石

住吉神社脇のくぼみ石アップ
くぼみ複数

住吉神社脇のくぼみ石
くぼみひとつのもの

参考文献
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寺の古墳を見て歩こう,pp1-2,43,石鏃,交野市古文化同好会,1980.
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赤松啓介,赤松啓介民俗学選集 第3巻 口承文芸と民間信仰,明石書店,1998.
交野市教育委員会,交野市史 考古編,交野市、1992.
うごき,pp1-4,4,石鏃,交野市古文化同好会,1973.
山添義政さんと地名について,(pp2-3),12,石鏃,交野市古文化同好会,1976.
木村博,第六天信仰の展開,pp61-71,127,日本民俗学,日本民俗学会,1980.
交野市史編纂委員会,交野市史 民俗編,交野市,1981.
片山長三,改訂増補 交野町史 2,交野町,1971.
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奥野平次,ふるさと交野を歩く 山の巻,交野古文化同好会,1981.
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交野市史編纂室,交野市史 自然編1,交野市,1986.
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大平豊,グラフ 河内の石の物語り ―石造遺物を尋ねて― 10 くぼみ石,39,まんだ,まんだ編集部,1990.



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(2021年3月7日上梓)