河内飯盛山(314m) 大東市の谷田川より北から

 道は2017年と2018年に確認したもので、ひどく荒れていたものや細かいものは省いた。山頂付近の細かい地図は飯盛山メインページの地図参照。北条古道、地獄谷古道の名は資料に、三好道の名は現地の看板に因ったが、これらの名の適否はおいておく。

  • 歩行日・・・2017年、2018年
  • 五万図・・・「大阪東北部」

地図1地図2
地図3地図4
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★墓谷

 光顔地蔵の辺りから登れないこともないが、左岸の砂防ダムの谷沿いは渋い。四條畷神社から南へトラバースして右岸から谷に入るのが比較的楽だ。四條畷神社からの道が左岸に渡ってから、谷の中の水線から離れた左岸の少し高い所に道が付いているが、かなり流れて細くなっている。中ほどから妙見谷右岸尾根に上がる。上がる辺りは明瞭に残っているが、ほぼ廃道と言いたい状態である。

 この谷の名が当初分からなくて谷下の住宅街を歩いていた数人に聞いてみたが知らないという。谷下の砂防ダムを見ると「城ヶ谷砂留工」の銘板があって、大東市の防災資料を見ると谷の名が「城ヶ谷」とあり、川の名は「北条川」とある。大東市の遺跡の報告書などではこの谷の「墓谷川」に「墓谷古墳群」とある。城ヶ谷の別名が墓谷で、北条川の別名が墓谷川かと考えていた。

 ところが大東市の遺跡調査の報告書でも、楠木台の下手の四條畷学園短大北条学舎の辺りの城ヶ谷遺跡の名はそこの小字名に因むという。小字「城ヶ谷」は北条学舎のすぐ南の妙見谷の別名のような印象である。小字図を見ると妙見谷一帯の小字名が城ヶ谷となっており、光顔地蔵の谷筋は教照寺の少し東から下手が飛井(飛升らしい)・上手が北谷となっている。

 3年かけて作られたという江戸時代の水論解決の為の宝暦4年の南野村北条村立会相絵図では妙見谷の谷筋に「城ヶ谷川」とあり、光顔地蔵の川筋は無名で山際の両岸に墓地が描かれる。

 現在、防災や土木事業で城ヶ谷とされているのは墓谷、別名で北谷で、城ヶ谷は妙見谷の旧別名である。北谷は北条村の北寄りにある谷と言うことだろう。

 「墓谷」など縁起が悪い名だと考える人も居るかも知れないが、四條畷神社創建の為に移転した北条村の墓地のあった谷と言うことで、記憶をとどめる地名である。偶々自分が聞いた時に知らない人ばかり通ったのかも知れないが、沢山人が住んでいるのに名前が知られていなかったり、別の場所の名と取り違えられたりしているのは残念な気がする。

★妙見谷右岸尾根

 北条4丁目の楠木台の団地に北条妙見堂があり、その奥に階段があって、上に地元の里山活動の地とイチョウの大木がある。イチョウの大木に「イチョウ広場」の銘板があり、木の下に地蔵があった。このイチョウの大木の辺りから妙見谷の右岸と左岸の尾根と、谷を少し登って左岸の尾根に付く道が分岐している。谷の奥は切り立った崖に囲まれており、島吉採石場の跡のようである。昭和35年の採石所の人によるらしい「白天龍王」と書かれた碑があった。白天龍王碑の裏手から右岸尾根に上がる薄い道がある。

 右岸尾根下部は草地に幾らか果樹が生えているだけの所で非常に展望が良い。その上でもしばらく笹地が続き展望が良い。草地の上端から白天龍王碑の方へトラバース道もある。笹地の上の尾根は疎林となるが、相変わらず足元には笹が多い。標高200m辺りより上がやや急峻でヤブっぽい。標高250m辺りで四條畷市からの「旧道」に合流して三本松郭に至る。


イチョウ広場

白天龍王碑

キャンパス裏山

★妙見谷(城ヶ谷)

 妙見堂は元はイチョウ広場の上の大堰堤の辺りの妙見谷左岸にあったようである。

 昭和6年の「北河内史蹟史話」で「城の大手と見るべきは大字北條字北より高櫓の北に通ずる城ヶ谷の山道」とある。昭和43年の「四條畷町の歴史」では「城ヶ谷を登る道」は「廃道になってい」たという。城ヶ谷からの道が山上に上がる地点は北河内史蹟史話に御体塚より南側で「本丸の北方低くなつて居る所へ北條から登る大手と瀧谷櫻池下から通ずる搦手とが落合って居る」とあるから、今の旧道の上がる三本松郭の南側の所のようだ。大字北條字北が四条畷学園短大北条学舎の下手の国道170号線の東側である。北河内史蹟史話にある城ヶ谷の「城門の址」は曲輪群Aのことか。曲輪群Aからは穴口郭に直に登れるが、広い道で緩やかに登るのは三本松郭の南へである。或いはずっと下手で、島吉採石所の採石かイチョウ広場の大堰堤の工事で失われたか。

 島吉採石所跡の右脇から谷筋に沿って上がる道型があり、曲輪群Aの中ほどから谷に下りる道型があるが、中間は斜面の道が流れてしまったのか道型を見いだせなかった。谷の中は地形図(2018年現在)の等高線の印象より複雑な感じで急斜面が所々あるがヤブは薄い。曲輪群Aのすぐ下の標高250mほどの谷間に、涸れることもあるが岩間から水が出ている所がある。

 妙見谷の名は採石所以前にあった露頭と岩海の「めげ(壊)・の(助詞)・たに(谷)」の転が「みょうけんだに」だと思う。「城ヶ谷」の表記に城ヶ谷は飯盛城と言う城に関する地名と考えたくなるが、「めげのたに」とほぼ同じことを指す「ぞれ(崩)・が(助詞)・たに(谷)」の転が「じょうがたに」だと思う。


曲輪群A直下の水

★三好道

 北条からのルートでよく整備されている。北條神社から短い距離で山頂の一角の穴口郭に上がるが、ジグザグの切り方が巧みなのか、あまり急勾配に感じない。尾根筋は風通しが良く、さわやかな道でもある。中ほどに一ヶ所岩場がある。岩場の南側の下手には尖った石の石垣で平場が作られていて、ここは石切場の跡のようである。イチョウ広場から妙見谷左岸に上がってもこの道に合流する。イチョウ広場から合流点までもよく整備されている。

 曲輪群Aの上の方から左手に三本松郭へのトラバース道が分岐している。三本松郭に向かうと頭上の穴口郭の石垣が高い。曲輪群Aの一番上の右手の削平地から千畳敷西端付近へのトラバース道があるが、急斜面では道型が完全に流れたりして荒れている。トラバース道には石敷きの部分もあるが古いものなのかどうか分からない。直進して穴口郭西面の石垣を見て穴口郭に出る。穴口郭までの最後の坂道に黒い瓦の欠片が落ちているが、コンクリ片や赤煉瓦と一緒であり、回収されていないと言うことは古いものではないのだろう。昭和一桁頃の遊園地化に用いられた瓦か。


岩場

掃き清められた道

曲輪群A辺りの
立った切石
飯盛山の道ではあちこちで見る
道標として立てられたか

穴口郭西面の石垣

黒い瓦片とコンクリ片

★北条古道

 北條神社前から直線的に飯盛山山頂の一角の千畳敷に上がるルートで、全体的にやや急坂である。道の途中に「下山道」の看板があったから、下山に使うと良いのかも知れない。距離的には三好道と大差ないが、三好道より急坂が続くように感じる。三好道の勾配処理が巧みなのかもしれない。

 下から1/3程登った所に石垣を巡らせた郭のような場所があるが、石切場の跡のようである。石垣の石は、割った角の立った平石を積み上げたような感じで、高櫓や御体塚の東側の石垣に比べると、石が小さく平たく尖っていて新しそうで、積み方の見た目も貧相である。石垣の上の平地の奥に大きな露岩がある。下手の道には矢穴のある切石が三つほど並んで落ちている。それより下の直線的な急坂は石材を橇に乗せて下ろしたのかと考えたくなる。石垣の郭のような場所の上の尾根の上には「雨乞紀念碑」がある。年記ははっきりしないのだが「大正十二年八月三十日」と書いてあるのでないかと思う。北條神社下手の大阪神愛福音教会の上手にあったという北条山行者堂(庭に大きな不動明王の絵像碑などの見えているお宅が跡か)の横谷宗吉氏が明治16(1883)年頃に雨乞いをしたというのが此処と記念したものだろうか。

 更に登って1/2を越えた辺りは竹林で、瓦やコンクリの小さな建造物がある。石垣も何段かあるが、隙間無く積まれた切り込み接ぎの新しそうなものである。その上の窪地で水が浸み出していて、四角いコンクリの枠の水槽に溜まっており、その横に大きな焚き火の跡があった。今でも何か行事が行われる場所なのだろうか。護摩を焚いたのなら北条山行者堂や雨乞紀念碑が下手に位置することを考えるに、焚き火跡もこれらに関連するのではないかという気がする。何段かの石垣は人が集まれるようにする足場で、下手にある小さな建造物はトイレ跡でないかと言う気がするが・・・。水の浸み出しの右手から顕著な尾根に上がり、緩い尾根上を登って小さな土橋を越えると千畳敷の東の一角に出る。


「下山道」の看板

一直線の急な道

石切場跡の石垣

矢穴のある切り石

雨乞紀念碑

建物跡

新しい石垣が残る

水槽と焚き火跡

★北条小学校コース(地獄谷古道)・古戦田

 千畳敷の南の虎口から出た道はこの谷筋をメインとして続いているように感じる。地獄谷の下流である猪谷は細く急峻で溯行するのは難しそうである。そんな谷の少し上の斜面にトラバースの道が付いている。猪谷の難場の上で谷は狭まり、左岸の斜面をジグを切って登る。ジグザグの途中に分岐があって猪谷に下りると滝がある。この分岐から滝の所は猪谷が緩く少しだけ広くなっており、右岸に更地や石垣、寄進のようなことの彫られた石柱があったので、この滝にも名前があって水行する人もいたのではないかと思ったが、滝の名前が分からない。滝の右手には土砂に半ば埋もれた八大龍王の碑がある。

 小字図ではこの谷筋の小字の全てが「地獄谷」ではなく、山に入ってすぐの下手が「井谷」と、中ほどが「竜王」と、その上の勾配が緩やかで幅が広がった源頭一帯が「地獄谷」とある。宝暦4年の南野村北条村立会相絵図では川筋が猪谷川とある。井谷は猪谷の別表記であろう。

 柴田昭彦(1998)の「飯盛山付近略図」では、「地獄谷古道」が「谷道」で、地獄谷左岸尾根上の竹林コース分岐よりは東で辻の新池分岐よりは西の谷中に「不動尊祠跡」とあり、そこで道が二股に分かれているが二股より上はどちらの股もすぐ先で道の点線が途切れている。上記の滝は竹林コース分岐より西だが、谷中の地獄谷古道がどこに繋がっているのか分からない中で不動尊祠跡の位置が推定されたもので、石柱の残る上記の滝の滝壺辺りが不動尊祠跡であり、滝の名は「不動滝」ではなかったかと考えてみる。或いは小字「竜王」にある「竜王滝」か。

 この滝の滝壺の所で谷筋は瓶の底のようなどん詰まりになっている。落ち窪んだ所と言うことの「ふ(節)・ど(処)」だったから不動尊が祀られたのではなかったか。猪谷川左岸の北条小学校の上手の住宅地の山際には大嶽不動堂(北条不動尊)がある。大嶽不動明王は、元は地獄谷八合目ぐらいの所に祀られていたが、険路で遠い為に北条小学校の辺りに移され、更に現在の大嶽不動堂へ移されたという。不動の滝から興ったお堂ではないだろうか。


不動尊祠跡
石柱など


水量は少ない

滝横の埋もれた
八大龍王碑

最後は正面に
南丸が聳える

 滝より上では地獄谷の谷筋に忠実に登る。緩やかな谷筋だが曲がりくねっていて結構長く感じる。正面に南丸が聳えるようになると、まもなく尾根の道に上がる。そこからすぐに虎口である。

 穏やかな地獄谷の名が、谷が地獄のようだからその名であるとは考えられない。猪谷と地獄谷の間に高い滝のある段差があり、段差の所の谷ということの「ちぐ(違?)・が(助詞)・たに(谷)」の転訛が「じごくだに」と考える。


古戦田・ハラキリの地図

 四条畷市史1巻は地獄谷の道を、その下にある十念寺付近の小字「古戦田」の存在からか、この道を四條畷の戦いで佐々木道誉の軍が飯盛山城から駆け下りて楠木正行軍を破った古道であろうとしている。だが、一帯が耕地化され宅地化もされて元の地形がよく分からないので確実には言えないが、古戦田の音は飯盛山の山裾の緩斜面と北条中学校以西の平坦地の境となる道(こせ)である東高野街道に隣接する「こせの田」や「こせの処(と)」などの転訛が考えられるので、音読みから古戦場であることをとどめる地名と考えるのはどうだろうかと思う。古戦田伝承地は深野池跡から続く低平地が飯盛山の裾に東高野街道脇まで近づく所にある。明治頃の地図を見ると古戦田伝承地は北条の四條集落と辻集落の間の人家の無い所で、東高野街道の西側すぐに古戦場の記号がある。

 四條畷市の塚脇町と米崎町に跨がる、西側に小字「コセ西」のある小字「コセンダ」も緩傾斜地の末端に東高野街道が走りその西側の低平地なので同様と思われる。明治頃の地形図でのコセンダは東高野街道の西側の水田で、街道東側に塚脇集落があり、コセンダの南側に米崎集落がある。四条畷駅東口の南約300mの小字「ハラキリ」も四條畷の戦いと付会すると面白い地名だが、切腹した場所なら「腹切り場」のように場所であることを示す接尾語が付くであろう。そもそも切腹などと言う墓も無い所での一度きりの出来事は後の見ていない者は確認出来ないのだからそう簡単に地名にはならない。やはり元の地形がよく分からないので確実には言えないが、権現川右岸という位置で対岸に妙見谷から古い屋敷の家並の間を流れてきた市場川の水路が権現川に落ちていることを考えるに、水路がある所や水路尻と言うことの「堀切(ほりきり)」の転訛が「ハラキリ」ではないだろうか。

 但し、地獄谷の道が北条からの主な飯盛山の登路であっただろうと言うことを否定するつもりはない。三好道は中ほどに岩場があり、宮谷の道(北条古道)は少々急傾斜に過ぎるように思われるのに対し、千畳敷南方の虎口から出た道は自然な形で地獄谷の中へつながり、全体的に傾斜は緩い。しかし、不動尊祠跡の上の辺りの急斜面はジグザグに切っているので、「一気に駈けくだ」るのは難しいように思われる。

★狐追谷(仮称)左岸尾根(五条山)

 この道のある尾根の北側は住宅地の上端で地獄谷〜猪谷川と合流している谷で、猪谷とは別の谷だが、谷の名前が分からない。小字図によるとこの谷のエリアは小字「狐追」にあたるようなので「狐追谷」と仮称しておく。コース名は、或いは中尾根コースに合流するまで辿る尾根の名らしい小字「五条山」の「五条山コース」と言うべきか。

 北条小学校コースを登り、砂防ダムを越えた先で道は分岐して左の地獄谷古道の方がはっきりしているが、右の尾根に上がっていく道もほどほどはっきりしている。尾根までは中々上がらずに斜面を登っていく。

 尾根に上がって一登りで右から古い道型が合流してくる。昔の地図にあった北条7丁目の南端辺りから山に入る道だが、上から少し下ってみると尾根筋はヤブや倒木で覆われ斜面の道型は流れ、消えようとしているようだ。

 北条東古墳群とされる辺りまで登ると、土塁の脇や切り通しのような地形に道が付いており、城郭の一部なのではないかと感じさせるものがあるが、飯盛山城の本体から離れた所なので人工地形ではなく自然地形が偶々土塁のような形なのか。土塁のようなものを含めて幾つかある道の脇のコブに上がって見ても、古墳がどこにあるのか分からない。谷田川筋からの中尾根コースと合流した先はよく踏まれた道となる。


合流点跡を振り返る
左が廃道の道型

五条山最高点付近
土塁の下を思わせる

参考文献
柴田昭彦,飯盛山,pp70-73,43,新ハイキング 関西の山,新ハイキング社,1998.
大東市地域防災計画,大東市防災協会,1991.
寺川・北条遺跡発掘調査報告書(大東市埋蔵文化財調査報告 第1集),大東市教育委員会,1987.
城ヶ谷遺跡発掘調査報告書(大東市埋蔵文化財調査報告 第6集),大東市教育委員会,1990.
大東市北条部落史研究会,被差別部落 北条の歴史 大東市史追録,大東市教育委員会,1975.
大東市精密住宅地図,吉田地図,1981.
平尾兵吾,北河内史蹟史話,平尾學・中島敏子,1973.
大東市教育委員会,大東市埋蔵文化財分布図,大東市教育委員会,2002.
山口博,四條畷町の歴史,山口博,1968.
中井均,飯盛山城の構造と歴史的位置,pp34-37,149,大阪春秋,新風書房,2013.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
松田太郎,北河内五市の史跡を探る,旭書房,1979.
四条畷市史編纂室,四条畷市史 第1巻,四条畷市役所,1972.
河内飯盛山 登山コースガイドマップ,大東市政策推進部都市魅力観光課・四條畷市市民生活部産業観光課,2017.
四条畷市教育委員会,四条畷市史 第4巻 史跡総覧,四条畷市役所,1990.
地図資料編纂会,正式二万分一地形図集成 関西,柏書房,2001.



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(2018年12月19日上梓 2019年6月19日改訂)