大台ヶ原山 筏場道 地名考

引水・三十三荷地図・引水

 北村意沙民(1936)によると、本沢川の釜之公谷落合付近一帯を指すようである。「吹水」と書いている資料もある。釜之公谷落合のすぐ下手の本沢川沿いの筏場道は岩場が左岸に突き出ているような所の桟道になっている。この突き出た岩場が「ほき(崖)」で、ほきを廻る所の辺りということの、「ほき(崖)・み(廻)・ど(処)」の転が「ひきみず」また「ふきみず」と考える。

・三十三荷/三十三階・三津河落山

 引水から本沢川本流側の山の斜面を登って釜之公谷側へ尾根を乗り越す地点に三十三荷と振っている資料を見るが、同地点から銀嶺水を越えて大台辻までの登りを「三十三回ノ坂」などとしてる資料もある。同じ所を指して三十三荷と書くものと三十三階と書くものがある。前者を「さんじゅうさんか」と読むなら「さんじゅうさんかい」と同じ言葉の最後の「い」が落ちたのだろうかという気もするが、「荷」を「カ」と普段の生活で読むことはあまり無い。

 釜之公谷の源頭に「さんじゅうさん」とよく似た音が前半にある三津河落山(さんづこおちやま)がある。紀ノ川、宮川、北山川の三河川の水源故の山名と言われるが、その音に「三津河落」の字が宛てられてから考えられた語源説ではないだろうか。「河落」は源頭を指す「かっち」で、本沢川流域源頭の最も高まる尾根である「せり(迫)・そ(背)」の「かっち」が三津河落と考える。

 その「せりそ」の訛った「さんず」の山の下方の端の尾根と言うことの「さんず(迫背)・すみ(隅)・ね(嶺)」の転が「さんじゅうさんに」、「さんず(迫背)・すみ(隅)・が(助詞)・を(峰)」或いは「さんず(迫背)・すみ(隅)・が(助詞)・ね(嶺)」の転が「さんじゅうさんがい」でないかと考える。引水から尾根に上がった壊れた東屋のあった尾根の末端だけでなく、大台辻までの登り全体を含む尾根のことでなかったか。

三津河落山
三津河落山 日出ヶ岳から

・銀嶺水・金明水

 どちらも冷たく豊富な湧き水である。金明水は「神明水」と書いている資料がある。銀嶺水は「銀明水」や「銀良水」と書いている資料がある。「キンキンに冷えた」などという時の「きん」という形容動詞で「きん(冷)・みず(水)」の訛った「きんみぃず」のように聞こえた音にあてられた字が「金明水」、「ぎんりぃず」のように聞こえた音にあてたのが「銀嶺水」、「銀良水」と考える。「しんみぃず」のように聞こえたのにあてたのが「神明水」で、神明水は尾鷲道にもある。銀明水は、「ぎんみぃず」のように聞こえたか、金明水と区別する為に敢えて「銀」としたか。

拳峠・安心橋地図・拳峠(げんこつとうげ)

 「拳骨峠」とも書かれた。

 北山の方言で石垣を組んで山の斜面にかけた桟道を「つじかけ」という。「ついじ(築地)・かけ(桟)」の縮と思われる。つじかけは拳峠より下にもあるが、拳峠で登り勾配はほぼなくなり、高いつじかけが川上辻まで延々と続く。つじかけの入り口ということの「かけ(桟)・の(助詞)・くち(口)」の転が「げんこつ」と考える。

・安心橋

 「安神橋」とも書かれた。

 「世界乃名山大台ヶ原山」に「もと無名の小橋に過ぎざりしが」岩本武助氏が中学生だった頃に同級生数十人を誘って大台ヶ原に登りにここまで来たけれど、空腹で遭難しかかって、一行を止めて自分だけ大台教会に走って飯を作って戻ってきて食わせて難を逃れて大台教会まで一行が着けたことがあったが、その時「其の飯を見たる一行は思はず安神々々と肺肝より出せしとなん是れより然か名づけしとぞ」と安神橋についてあるのは付会だろう。

 三津河落山の北斜面の深く狭い谷間に掛かる橋である。日当たりの悪い所の橋ということの「おんじ(隠地)・の(助詞)・はし(橋)」の転の「あんじんはし」であったと考える。

・不動休

不動休地図 昭和8年の山上1巻2号の大台ヶ原山略図によると川上辻の北北西方約400mの筏場道が谷筋を渡る地点のようである。この谷筋の筏場道の少し下の、標高1400mから1450mにかけて少し谷筋が広がり、しかし側壁は立って瓶の底のようになっているのが地形図から見て取れる。この西ノ谷源頭の支流の名がくぼんだ所の谷ということの「ふど(節処)・やつ(谷)」で、その谷筋の奥ということの「ふどやつ・すみ(隅)」の転が「ふどうやすみ」でないかと考えてみるが、更に考えたい。或いは「ふどやつ」の迫り上がった所のということの「ふどやつ・せり(迫)」の転が「ふどうやすみ」でないかとも考えてみる。

・如来月

 三津川落山の北西の、地形図上では1630mの等高線で囲まれたコブから南に延びる尾根上の1530mの等高線に囲まれたコブの名のようである。和州吉野郡群山記に「如来附 三津川落に添へる小山なり。三途に附きしゆゑ、如来附といふ。」とあるが、三途に対峙するのは如来だけではないだろう。明治18年に高野谷から日出ヶ岳に踏査した松浦武四郎も乙酉紀行で大台第一の高山の「三途の川落」の手前の如来月を大和谷の源の日本が鼻から「少し行て、如来月。此山少々左りの方に入りたる小さき山」としている。如来月から「是より下に下る。是名古屋谷の源なり。上りて、三途の川落。」なので、現在の北側の西大台周遊路が尾根を越える辺りから一旦、中ノ谷(ナゴヤ谷左股)に下りて三津河落山に上がったことが分かる。前日の行程記録から松浦武四郎は中ノ谷の名は知らず、ナゴヤ谷は二股になっており、二股の間の中尾という尾根の上に三津河落山があったと認識していたことが分かる。

推定如来月地図 だが、松浦武四郎が日本が鼻と如来月の間で「また行や左りの方桧、杉、樅の陰森たる谷有。是勢州大杉谷の源なりと。」とするのを、大杉谷の源頭にあたる谷を見ていたと読むと三津河落山西面の山裾からは伊勢側は見えないので合わない。しかし、このコブでないと、左の方に少し入った小山という条件を満たせる場所が他にない。大杉谷(の支谷の西ノ谷)の源頭の谷を見たのではなく、三津河落山西面の山裾の道から見上げる谷の向こうは大杉谷の源頭だという説明だったのではないかと思う。

 このコブから更に南西に稜線を下ると標高1450m辺りで広い台地状となっている。この台地状の広がりのある尾根ということの「なる(平)・を(峰)」が、このコブの南西の尾根の名であり、その尾根の登った頂上を「なるを・ずっこ(山頂)」と言ったのが訛ったのが「にょらいづき」と考える。

 松浦武四郎の乙酉紀行に如来月について「忠兵衛の申には、如来月は逆川の上なりと云るが、誰も此処なりと云なり。」とある。西大台の西にある逆川の両岸の尾根も緩く平坦で台地状で、その最奥に緩く平らなまま逆峠の山頂がある。逆峠も「なるを・ずっこ(山頂)」と呼んだ人がいたのだと思う。

・ナゴヤ谷・巴ヶ淵・片腹鯛

 和州吉野郡群山記によると今のナゴヤ谷の左股(中ノ谷)が東之川中ノ又の本流で、ナゴヤ谷の右股が本来のナゴヤ谷のようである。右股の源頭に溜水の七ツ池があり、熊野川にも紀ノ川にも宮川にも水が溢れると言われた巴ヶ淵も七ツ池のことであった。また、西大台と東大台をつなぐ古い道が七ツ池の脇を通っていたようである。七ツ池のある谷ということの「ぬ(沼)・が(助詞)・やつ(谷)」の転が「なごや」と考える。

 巴ヶ淵は、西原や伯母峰から来て、川上辻の稜線の撓みの手前の三津河落山の山裾の縁ということの「たわ(撓)・まへ(前)・が(助詞)・ふち(縁)」、或いは撓みの手前にあるナゴヤ谷の両岸の斜面が緩まった奥ということの「たわ(撓)・まへ(前)・かひうち(峡内)」の転が「ともゑがふち」で、「ふち」の音を「淵」と解釈して縁や奥の一部であった七ツ池の水面に限局されたと考える。

 七ツ池に居るという源義経が片側だけ食べて捨てたという片腹鯛は七ツ池の所が小さな鞍部になっていて、北側が三津河落山の斜面で南側が緩やかな丘で、片側だけに山の斜面があるということの「かた(片)・ひら(枚)・たわ(撓)」の転が「かたはらたひ」ではなかったかと考えてみる。

 七ツ池の位置の推定は今の西大台の七ツ池とされる場所(推定如来月の南西約400m)と合っていないが、七ツ池は三津河落山の真南と考えなければ和州吉野郡群山記や松浦武四郎の乙酉紀行と合わない。七ツ池のような池が大台の所々に他にもあるとは和州吉野郡群山記にあり、また、大台ヶ原山略図では「七ツ池峠」が中ノ谷の奥の、上で推定した如来月の辺りにあるように描かれている。だが、大台ヶ原山略図では松浦武四郎碑の位置が名護屋谷の左岸となっており、実際は右岸にある松浦武四郎の分骨碑の位置と異なる。中ノ谷の水流の源頭がそのまま七ツ池峠となり、七ツ池峠から三津河落山最高点に直に上がる道が分岐しているのも頷けない。開拓から七ツ池峠を経て大台教会に至る道の各地点間の距離の配分や屈曲に誤認があったものと考えられる。現在、七ツ池とされる場所は大台ヶ原山略図をそのまま地形図に写して近傍となる、より大きな尾根越えの地点である推定如来月直下の鞍部こそ峠の名にふさわしいと考えて七ツ池峠と見なし、推定如来月直下にあった沼地を古い記録の七ツ池だろうとしたものではなかったか。

参考文献
北村意沙民,奥吉野の渓谷,pp46-53,9,山嶽,大和山岳会,1936.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
住友山岳会,改訂増補 近畿の山と谷,朋文堂,1936.
泉州山岳会,近畿の山 ―登山地図帳―,山と渓谷社,1957.
岡本勇治,世界乃名山大台ヶ原山,大台教会本部,1923.
米田信雄,冬の大台を探る,pp59-61,9,山嶽,大和山岳会,1936.
吉野山岳会,大峰・大台・西吉野(アルパイン・ガイド51),山と渓谷社,1964.
木村博一,下北山村史,下北山村,1973.
天野正善,大台ヶ原山略図,付図,1(2),山上,奈良山岳会,1933.
御勢久右衛門,和州吉野郡群山記 その踏査路と生物相,東海大学出版会,1998.
松浦武四郎,松浦孫太,佐藤貞夫,松浦武四郎大台紀行集,松浦武四郎記念館,2003.



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(2021年5月9日上梓)