稲村ヶ岳の位置の地図大峰山 稲村ヶ岳(1725.9m)
川迫川 モジキ谷

 大峰山は自分の登山の原点である。稲村ヶ岳に何度も登りたくて、「どうせなら違うコースを」と思って、山渓のアルペンガイドを見て、沢登りについてもよく知らないで渓流足袋だけ買って、遡行図に書かれた巻き道を出来るだけ使って、初めて遡行したのがモジキ谷だった。

 正直な所、もう山行記を思い出して書けるほど、記憶は残っていないが、優しく美しい沢であることはよく覚えている。

 現在は大日山と稲村ヶ岳が分かれているが、元々は大日山が稲村ヶ岳の主峰であり、三角点のある現在の稲村ヶ岳山頂が衛峰の御殿屋敷である。


 稲村ヶ岳は大峰山の北の中心部山上ヶ岳から派生している支稜上の大きく険しい姿の山。元々女人禁制ではなかったものの、山上ヶ岳が女性に開放されていない代償的に、戦後になって修験道として女性にも勧めていたようだ。山上ヶ岳より標高が高く、山容は鋭角で見栄えがする。

 近鉄下市口駅発洞川温泉行き奈良交通バスで、天川川合下車。ここから川迫川に沿ってモジキ谷出合まで5qほど車道を歩く。天川川合で下りる人は八経ヶ岳に向う人がほとんどだ。

 出合に着く頃は雨が降っていた。出合にある廃屋は二つあって、下手のものはボロボロの幽霊屋敷だが、上手のものは立派な二階建てであった。このあたりに演習林を持つ奈良県立吉野高校の宿舎だったようだ。昼食して天気を待つ。

 1時間ほど経つと雨はやんだので出発したが、すぐに取水堰。この後はほとんど覚えていない。ただ、多くのミミズがナメ滝を登っていたこと、赤いナガレヒキガエルが多くいたこと、滝壷で真っ黒な山椒魚(オオダイガハラサンショウウオ?)がペアリングして二匹でくるくる廻っていたことはよく覚えている。ほとんどの滝を巻いたと思うがいくつかは直登もした。「滝って登れるんだ!」という感激があった。

 バリゴヤ沢出合付近はガレた河原で伏流気味だった。丸い石の河原と滝ばかりを想像していたので少し意外だった。大岩に墨で書かれた案内を見て、ガイドブック通りだと安堵したものだ。

 詰めの状況も覚えていない。次に記憶のあるのは既に水がなく、苔むした涸れ滝に咲く美しい桜草(オオミネコザクラ?)。次第に傾斜がきつくなり赤テープが見つからなくなり、崖状の所をぐちゃぐちゃに茂る石楠花の中をモンキークライムしていくと、急に傾斜がなくなりバリゴヤの頭への踏み跡らしきものの上に出、数メートルで登山道に合流し、山頂のやぐらに立つことになった。

 山頂では小雨は降っていた。遡行中、ほとんどガスの中だったが山頂に着くと同時に雲が切れ、稲村ヶ岳を囲む大峰山脈中心部の全てが見えた。

 雲が切れたとはいえ、既に時刻は16時に近く、薄暗くなった道を小屋に急いだ。歩き出すとすぐにまたガスに囲まれた。


※下山コース

 クロモジ尾(助代尾)上の踏み跡は当時かなり不明瞭。尾根取り付きは目印などはなく、同じ頃この尾根を登った時は取り付きのヤブ漕ぎで時間がかかった。 

 岩本谷は一時期のアルペンガイドには沢沿いの登山コースとして稲村小屋まで紹介されていたことがあった。


★川名考・山名考

 仲西政一郎(1957)はモジキ谷の名の由来をクロモジの木かトリモチを採るモチノキに由来するのではないかとしている。最食谷、毛敷谷とも書かれたと言う。クロモジ尾はモジキ谷の北側の尾根(昭文社山と高原地図2000年版ではミオス尾+カンスケ尾)であるとする。また、山と高原地図2000年版におけるクロモジ尾(岩本谷の北側の尾根)は助代尾と記載している。1934(昭和9)年の「大峰山脈と其渓谷」ではミオス尾の下部をクロモジ尾(黒門蛇尾)と称するとする。助代尾も含め仲西政一郎と同じである。どうもクロモジ尾の位置がはっきりしない。

 小島誠孝(1991)は地元の人から「もじける=へそ曲がり」で支沢が複雑に入り組んでいるからと言う理由を聞き取ったことを記している。

 地名語源辞典には「モジ」で「捩じったような曲がった地形」「破壊された地形」とある。

 モジキ谷の中が全体として支谷で入り組んでいると言う印象はなかった。だが、大滝周辺のモジキ谷核心部はモジけていると表現したい地形であった。大滝のある水流が本流なのに、大滝は本流のように見える支流の谷に注ぐように合流している。しかし、大滝はモジキ谷の名の発祥となるには奥に過ぎるのでないかと思う。特別美しいというわけでもないモジキ谷大滝程度の滝は大峰山脈の源頭付近には幾らでもあると思う。川迫川のモジキ谷より少し上流には「モジケ谷(鉄山に北から上がる沢)」があり、モジケ谷の方がモジ地名として日本語の文法に即しているように思う。また、同じ川迫川流域の狭い範囲にモジケ谷とモジキ谷が同じような意味の近い音で並んでいて混乱しないのかと言う疑問を感じる。仲西政一郎は、モジキ谷と言う谷が大峰には四、五箇所あるとしている。

 モジキ谷を歩いた頃、自分はクロモジの木を識別できなかったが、特別目立つ木でもないクロモジの木が多かったとしても尾根をクロモジの木の名で呼ぶことはないと思う。クロモジ尾が岩本谷の北側か南側かだが、古い資料にある南側の方でないかと思う。ミオス尾の下部だけという半端さから南側ではないかもしれないと思ってて、北側でないかと考えた人がいたのでないかと邪推する。

 クロモジ尾はモジキノヤケーや、その西のモジキ谷右岸斜面の上の1236m標高点直下の急斜面がある、「くら(ー)・をせ(峰背)」の転が「クロモジ」でないかと思う。と考えるとクロモジ尾とモジキ谷の名に関係はなさそうだ。

 モジキ谷の川迫川への落ち口付近の谷筋は比較的広く緩傾斜である。広く緩傾斜な谷間になっているので車道は広い谷間の上を迂回して回り込むように作られている。モジキ谷落ち口で川迫川は北向きから西向きに向きを変える。この川の曲目の所にあるちょっと広い谷間ということの「み(廻)・さこ(硲)」の転がモジキでないかと考える。モジケ谷の落ち口付近に同様の地形はないので、モジケ谷の語源は別だと思う。

 稲村ヶ岳は元々は現在の大日山の名であった。尖った姿が稲村(稲積/ニオ)の姿に例えられている。大日山は、てんこ盛りにした御飯に例えられての方言でオッパン山ともいう。大日山は大日如来が祀られていることによるという。江戸時代、畔田翠山は大日山の脇に御殿屋敷を地名として記している。三角点のある現在の稲村ヶ岳が御殿屋敷である。川迫川に囲まれた一帯を廻川山と記している。仲西政一郎は御殿屋敷の他にもこの付近に点在する屋敷地名について木地屋か曲物師が住んでいたことによるのではないかと考察しているが、どうであろうか。御殿屋敷は、広い西面のゴツゴツした岩場の上の山頂ということの、「ごつ・を(峰)・すく(頂)」の転がゴテンヤシキでないかと思う。大日は、同様にゴツゴツに露出した岩場の尖った先っぽである「つえ(潰)・の(助詞)・と(利)」の転がダイニチでないかと考えてみる。大日の付く山名はあちこちにあるので更に考えたい。

参考文献
森沢義信,大峰奥駈道七十五靡,ナカニシヤ出版,2006.
仲西政一郎,大峯の山と谷(マウンテンガイドブックシリーズ21),朋文堂,1957.
小島誠孝,大峯の山と谷,山と渓谷社,1991.
中川秀次・冨川清太郎,大峰山脈と其渓谷,朋文堂,1934.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
吉岡章,大峰山脈 吉野・弥山・玉置(山と高原地図57),昭文社,2000.
畔田翠山,御勢久右衛門,和州吉野郡群山記,東海大学出版,1998.



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(2002年9月17日上梓 2012年4月21日改訂 2021年11月9日改訂)