キゴ山・戸室山

  福知山市の大内と坂室の間にある尾根の辺りのイオジという地名で呼ばれる所がある。坂室のこの尾根寄りには医王寺というお寺もあり、このイオジという地名を考える為に、多分日本で最も有名な医王山である金沢と福光の間の医王山に行ってみて、ついでに近くのキゴ山にも登ってみた。その後、キゴ山のキゴという地名を考えてキゴ山を見る為に隣の戸室山も登ってみた。

キゴ山地図

・キゴ山

 銀河河の里キゴ山口のバス停で下りて道路対面の銀河の里キゴ山の案内板を見て、スキー場のゲレンデを通るゲレンデコースか、めぐみの道がキゴ山山頂への最短路だろうと思ったのだが、9月上旬の日差しはまだきつく暑いのと事前にネットの他の方の登山記録でこの二つの道があまり整備されていないようなのを見ていたので、銀河の里の中に入り、わんぱく広場の奥から樹林下のツバキコースに入って階段を登る。一登りでスキー場の頂上へ向かう車道に出ると、車道の脇に配水池のタンクがある。車道にも木陰は十分あった。タンクの先で左手に入る地形図にある道が分岐しているが、案内板になかった道なので入らず、遠回りのようだがそのまま車道を辿る。

 山の斜面から山上の台地に上がると道の右側は畑か牧草地の跡のような草原であった。地形図では畑の記号がついているから、本当に牧草地なのか。

 車道が山頂の草原に突っ込むように終わっていて、その先にトイレ用のソーラーパネルを壁に並べた展望台があった。2階建ての展望台だが、山頂台地が広く平坦なので、2階に上がるだけでずいぶん展望が広がる。というか、ほぼ360°の展望で日本海から医王山から金沢市街からよく見える。南方は大門山と大笠山がよく見えるが白山は雲の中だったよう。


展望台

展望台1階

金沢市内方面

戸室山

医王山

宝達山方面

大門山

大笠山

 下山は展望台からまっすぐ階段で下る広葉樹の道へ。階段で少し下がった後ジグザグに斜面を下っていくが階段はところどころに続く。階段道下りは膝にどうもよくないので下半をめぐみの道に下るのはよして、一旦配水池タンクの上の車道に出て、車道を少しまた上がって地形図で緩い斜面を下っているように見えるヒサカキコースから南の方へ下りてみる。この展望台から直に階段で下って、めぐみの道と交差して林道に出る、案内板によっては書いてない道が「広葉樹の道」らしい。

 ヒサカキコースは古い作業道跡を転用したようで幅広で傾斜は緩く階段もない。大方下りた標高450m辺りで山道から小石貼り付け舗装の遊歩道に出る。この遊歩道の西側が地形図にも案内板にもないのだが、クロモジコースのどこかにつながっているのか。遊歩道は少々暗く、標高430mで周遊道路のアスファルト舗装路に出る。

 バス停に戻るには周遊道路を西へ銀河の里の方へ辿るのが早いが、時間が余っていたのと歩き足りない感じがしたので周遊道路を東へ進み林道王道線を経て見上峠の方を周る。植林下の暗い道。見上峠の直下には水田が黄金色だった。こんな山の上でも水田を作るのだなと思った。

 展望台で登頂と納得して下山してしまったが、帰宅してトラックログを地形図に合わせてみると地形図に546mの標高点の打ってある地点は展望台から北西140mの辺りだったよう。平坦で同じ高さの5m間隔補助曲線で囲われているので展望台の上は546mより高いのでないかと思うのだけど。


ヒサカキコース

周遊道路に出る
戸室山地図

・戸室山

 戸室山も銀河の里キゴ山口のバス停で下りて登る。バス停のすぐ上手に食堂どんぐり跡の建物があり、その脇から登山道に入る。はじめは右に斜面を上がっていくが地形図で道が分岐している所で左に折れる。医王山寺の石段の方に直進する路盤もあるが、道標もなく草木が刈られていない雰囲気。

 左に折れて一登りで分岐を示す道標があり、右が地形図にある道で山頂方面、左は戸室権現とあったが草木が刈られていない雰囲気。右を登る。

 滑りやすい赤土の道で、硬い粘土状の赤土に段がいくらか掘られている。深い樹林の中を登る。

 山上台地に上がると、三角点の所に直に向かう分岐があったが、倒木などが通せんぼのように積んであったので三角点の方には向かわず。道は左に折れて少し下り始めると戸室太神の碑石。すぐ下に「千山奉安師子殿」と扁額のある背の高い建物がある。獅子殿なのか・・・。その下には池がある。

 山上台地の緩い谷地形を下っていくと広場があり、戸室権現。西側にベンチと展望があり俵町から金沢市街、日本海まで望める。この地方の伝統家屋のように屋根に比べて壁の大きな古い石祠が二基あり、多分、ここが里を見下ろせる昔から戸室山の山頂とされていた所なのだと思う。


登山口

道の様子

戸室太神

師子殿

戸室権現

金沢市街方面の展望

 戸室権現の広場から三角点のある山頂へ向かうとすぐに左手に「戸室の大ブナ」の道標があり、ブナの木が目に付く。大ブナは道標から50mほど奥にあるが、道標の所で既に見えている。大ブナへの道は大ブナを通り越して更に続いていて、別所から直に戸室山に登る地形図にある道と交差する辺りまで辿ってみたが、その先はヤブのようだったので引き返す。

 大ブナ分岐から緩やかな斜面を登っていくと、より太い別所から北の尾根を登ってくる道に合流。ここでもう登りはなくなる。合流点から東斜面の上に出る枝道があってわずかに入るとベンチがあって医王山が望める。

 平坦な台地の上を進んで三角点のある山頂。山頂の左に宝達山方面の望めるベンチがある。7月末だが涼しい風が入って雲が厚くなり、まだ15時だったがヒグラシの蝉時雨となった。

 下山は医王山寺の方へ。山上台地の平坦が終わるとこちらも滑りやすい赤土の道。西側に回り込んで石段の上の少し下に出る。しめ縄のかかった大岩有。石段の上には地形図に鳥居マークがあるが祠の類は見ず。一直線の石段を少し下ると左手に人工岩窟。中ほどまで下ると左手に鮫玉大黒天の碑。石段の段差はそれほど高くないけれど、こちらから登っていたらなかなか大変だっただろうと思う石段の長さ。ネットの少し前の戸室山登山の記事に人工岩窟か鮫玉大黒天の所の踊り場から撮ったらしいキゴ山が一目の写真を見て、自分もキゴ山を見ようと思っていたのだが、木々が伸長したのかすっきりとはキゴ山が望めず。


戸室の大ブナ

三角点の山頂

医王山

宝達山方面

大岩

人工岩窟

★山名考

・戸室山

 キゴ山と戸室山は医王山の山裾に近い中腹の双子のような高まりである。戸室山が里側にあり、戸室権現からは里側の登り口となる別所から金沢市街や日本海まで見渡せる。医王山という山地の手前の辺りということの、「つ」が今の tsu ではなく鎌倉時代以前の tu で、「つま(端)・ら(等)」の転が「とむろ」とまずは考えたが、西の山麓に戸室新保と戸室別所の集落がある。

広域地図 戸室新保と戸室別所は山麓最奥に位置する2つの集落で、戸室別所より奥は戸室山の急斜面が立ち上がる。バス通りだと戸室別所の奥に湯谷原の集落があるが山裾の最奥という位置付けは戸室別所と湯谷原に差はない。戸室の発祥は戸室山の西麓で、山裾の果てという意味の「とまり(止/留)」、或いは山裾の果ての所の山ということの「とまり・を(峰)」の転が「とむろ」でないかとも考えてみた。

 だが、戸室権現は戸室山の山上にある。戸室の発祥は戸室山であり、「つま(端)・ら(等)」の転と第一に考えておく。

 臥行者が飛ばした飛櫓が落ちた所というのは、樒を「しきび」というようなマ行音とバ行音の相通が白山禅頂私記の書かれた戦国時代頃に起こっていたと考える。

・キゴ山

 キゴ山は地形図で見ると南北に二段の山上台地があり北側が最高点を含む。この二段の段差をいう「ちぐ(違)」か、段差の山ということの「ちぐ・を(峰)」の転がキゴかと考えていた。

 段差が見える山容の写真が撮れないかと、キゴ山を戸室山から銀河の里天文学習棟と、見上峠から菱池小原町を歩いてキゴ山を見続けたが、キゴ山を段差の山と見られる所がなかった。銀河の里天文学習棟の辺りからは目を凝らせば段になっているのはわかるのだが、段というよりはローリングストーンズのトレードマークのような舌ベロの突き出しのように見えた。菱池小原町からはほぼ右肩上がりと言いたい山容だった。キゴ山山頂から南へ下る、スキー場頂上への車道とヒサカキコースをつないで歩いても一応斜面のきつい所で車道がジグを切っており段があるなとは思ったのだが、他の直線状の区間もなだらかに下がり続ける道であった。

 キゴ山は江戸時代後期の亀の尾の記に「ケイゴ山」、「ケゴ山」とある。飛騨方言で雪を踏みつけて滑らかにしたよくすべるようにした所を「けら」と言う。滑るような滑らかな姿を「けら」と言ったと考え、キゴ山の広く滑らかに斜めになった舌ベロのような斜面を指す「けら・か(処)」の連濁した「けらが」か、「けらが・を(峰)」の転が「ケイゴ」と考える。福岡市の警固も福岡城址から下警固にかけてのなだらかな丘陵地を「けらが」か「けらがを」と言ったのが約まって「けご」となったのでないかと考えてみる。加能越三州地理志稿に「有梨樹。僧蓮如所植。」とあるのは、亀の尾の記に「ぐんどう・なしの木などゝ故ある地名多し。」とあるので、何らかの地貌を指した言葉の転が「なしのき」で地名であるとも考えられそうだが、「なしのき」がキゴ山のどこにあたるのか分からない。或いは広い山上が草地になっていた時代の「の(野)・ひらき(開)」の転が「なしのき」だったのではないかと考えてみる。


キゴ山
医王山寺の上から

キゴ山
銀河の里天文学習棟付近から

キゴ山
菱池小原町から

 加賀国の「かが」はキゴと似た音で、「かが」とは草生地の事でないかと柳田國男(1936)が言っているが、山火事や経時で一変することのある植生でそう大地名となるものだろうかと思う。大きな集落の傍や内部の小字ならあるかもしれないが、キゴ山は集落に隣接していない。植生より変化しにくい地形が地名となることの方が多いと思う。加賀国の「かが」発祥の地は特定されていないようである。

 柳田國男(1936)のカガという地名の音の検討では考察の材料となる資料が集められており、カルガやカヌガという音がカガの元と考えられそうなことが示唆されている。地名用語語源辞典はカガとカヌカが通ずるのは語源的、音韻的に無理が感じられるとしているが、カルガ/カヌガ自体が既に訛音で、第一音節にアクセントがあればルやヌが落ちてカガまで縮むのはありうるのでないかと思う。だが、キゴ山の今の山上台地が草地とはいえ、側面は樹林であり、隣の山容も成因も似て山上台地もある戸室山は全山樹林である。キゴ山の山上台地が昔からずっと草地であったとは考えにくい。

附 金沢

 小立野台地の切り立った北側段丘崖を指す「かね(矩)・そは(岨)」或いは「かね(矩)・を(峰)・そは(岨)」の連濁した転訛が「かなざわ」と考える。金沢の名の発祥とされる兼六園内から小立野台地の南側に流れ出る「金洗いの沢」は「かねを(矩峰)・うらへ(裏辺)」の転が「かねあらい」、金洗いの沢で芋掘藤五郎が砂金を掘り出したというのは「芋掘藤五郎(いもほりとうごろう)の砂金出た」のではなく「井も掘れて壟(ぐろ)の先(さき)に(ん)出た」ということで、築城適地ではあったが水に乏しい小立野台地先端に金沢城を築くにあたって金洗いの沢の源頭に井戸を掘りあてて水の手を確保できたということではなかったか。兼六園の名も切り立った小立野台地北側段丘崖に注目した「かねを(矩峰)・か(処)」や「かね(矩)・ぬけ(抜)」の転など「かねろく」という音に「兼六」の字を宛てた旧記があったのを庭の名に音読みで用いて六勝を兼ねると意味付けしたのでないかと疑ってみる。

参考文献
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫青151-1),岩波書店,2007.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
橋本進吉,古代国語の音韻に就いて 他二篇(岩波文庫青151-1),岩波書店,2007.
「角川日本地名大辞典」編纂委員会,角川日本地名大辞典17 石川県,角川書店,1981.
勝慶,日置嫌,白山禅頂私記,白山比盗_社文献集,石川県図書館協会,1935.
金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
柴野美啓,亀の尾の記,石川県図書館協会,1932.
富田景周 et al.,加能越三州地理志稿,石川県図書館協会,1934.
柳田國男,地名の研究,柳田國男全集20(ちくま文庫),筑摩書房,1998.



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(2022年8月21日上梓)