伯耆大山槍ヶ峰の地図伯耆大山 槍ヶ峰(1689m)

 1997年の記録。山体崩壊が進み、更に危険になっているのでないかと思う。登山道の抹消も当時より範囲が広くなっているようだ。烏ヶ山から縦走してきて鳥越峠から槍ヶ峰、天狗ヶ峰を経て上宝珠越から元谷に下りた。


 鳥越峠からキリン峠にかけてはややヤブ漕ぎである。しかし足元ははっきりしている。白いヤマシャクヤクとタムシバのピンクがまぶしい。


烏ヶ山からルートを見る

 キリン峠から槍ヶ峰を見上げると、鉛筆のようにとがっている姿からその名がふさわしいことがよくわかる。割りと下の方からお花畑状になっていて踏み跡はかなりしっかりしている。ショウジョウバカマ、ツガザクラなど当時の自分にはかなり物珍しかった。中でもシジミ貝のように小さなダイセンキスミレの大群落には感動した。

 畳一畳ほどの広さでずり落ちた、カーペット植物群落などがあり緊張するが足場そのものはしっかりしており、靴がスリップすることもなく慎重に登ればそれほど問題はない。道の両側は崩れつつある崖になっておりカラカラと乾いた音が続いているが上に凸な尾根の上で、落石がありそうなところは歩かない。ただ、数箇所尾根が踏まれた靴幅だけとなり、両脇が草の根でつながれているもののその下がハングしているようなリッジがある。両側は落ちても何とか止まれる斜度だが少々気持ち悪い。

 槍ヶ峰は登ってくると「峰」として独立しているわけではないことがわかる。尾根上の突起であり、西側の下を巻くように道は続いている。槍ヶ峰の先にも行ってきた。危険は危険だが落ちるような所ではない。峰ごと折れそうなやせ尾根であったが。しかし、その時点で既に本来の槍が峰は崩れ落ちていて、自分の登ってきたのは槍が峰の残骸だったのかもしれない。

 天狗ヶ峰は地形図にその名を見ないが大山主稜と槍ヶ峰尾根のジャンクションピークである。昔は天狗岩という大きな岩があったが、山体の崩壊とともにある日、天狗沢に落ちて影も形もなくなったという話である。槍ヶ峰も、もしかしたらこの時よりもっと槍状になった岩峰があったのかもしれない。

 当時、上宝珠越コースは剣が峰に至る唯一の(少しは)安全なルートとなっていたから、ここから先は行き交う人も多かった。上宝珠越から砂滑りコースに入る。このコースは生で砂だけが絶えず流れている沢の中を走って下りる、流れ下る砂で登れない下山専用のコースである。珍しい体験ができたが、かなりホコリっぽかった。土砂搬出トラック用の広い道となり元谷小屋が見えてくると行者谷コースに合流する。背景はブナの新緑がまぶしいものの、稜線までかなり砂ぼこりが掛かっているように見えた。


象ヶ鼻から
烏ヶ山を見下ろす

象ヶ鼻から
天狗ヶ峰と槍尾根を振り返る

元谷に下りて振り返る
主稜線

★山名考

 伯耆大山は大きな山である。「大山」と書いて文字通りだと思いたくなる。だが、大も山も呉音の字音だが、山陰地方には伯耆大山のすぐ南の烏ヶ山(からすがせん)のように前半が字訓で、「セン」の付いた名の山がある。「セン」も字訓で、「大(ダイ)」は何らかのセンを修飾する日本語音の訛音の宛て字でないかという気がする。

 甲武信山地で山の頭を「沢または谷のセリ」という。奈良県吉野郡では谷の最奥で登りあがっている所を「せり」と呼ぶ。他の地方にも「せり」は見る。「迫り上がる」の「せり」だろう。「せり」の転訛が「せん」と考える。勝田ヶ山、振子山など、伯耆大山周辺の「せん」の多くは突き上げる川や谷の名にそのまま或いは助詞の「が」を挟んで「せん」が付いている。

 伯耆大山は山体の崩れが露わな山である。この崩れつつある姿を動詞「つゆ(潰)」の連用形で言った「つえ(潰)・せん(山)」の転訛が「だいせん」と考える。「つえ(潰)」は今のローマ字で書けば tsue だが、続大山町誌(2010)が「伯耆大山」の初見とする新猿楽記の頃を含む鎌倉時代以前は tuye であり、dai とそれほど遠くなかった。

 角磐山/角盤山は崩れて欠けていく所の山と言うことの、「かけ(欠)・ば(場)・の・せん(山)」の転訛した「かくばんせん」ではなかったか。


大江川と大ノ沢の位置の地図

大江川
国道181号線の
郡界橋より

大江地区から
望む
伯耆大山

 大神山は、西面を下る大江川の上流の方の岳の意の、「おほ(大)・かみ(上)・せん/やま(山)」ということだろう。大江川の最上流は「大ノ沢」で弥山に突き上げている。大江川は「川」の付かない「おほ(大)・え(江)」という川名だったのだろう。大江川は大きな川ではないので、別の言葉が転訛して「大」になっていると思われる。或いは、大江とは会見郡と日野郡の間の川と言うことの「あひ(間)・え(江)」の転か。大江川河口左岸の大江地区の名は、大江地区を新田開発した近くの村の庄屋の苗字に因むとされているが、新田開発より前からあったであろう溝口道(大山道)に入って500mほどで渡る大江川と、その源頭の大ノ沢の存在を考えると、どうだろうか。

 大江川の上の方の源頭の山と言うことの「おほ・かみ(・せん/やま)」を大江川の源頭の山というだけに言い換えて「おほ(大)・せん(山)」と呼んで、書くなら「大山」と思われていた時期があって、「つえ(潰)・せん(山)」の訛った「だい・せん」も字音に依って同じ「大山」を使うようになったかと考えてみる。「上(かみ)」と「神(かみ)」はアクセントが違うが、語が続いてアクセントが変わることはある。

 続日本後紀の承和4(837)年2月戊戌(5日)の条の伯耆国会見郡の「大山神」に、文徳実録の斉衡3(856)年8月乙亥(5日)の条の伯耆国の「大山神」などに神階を加える記事は「大山」の古い記録の一つだろう。斉衡3年の神階を加えたのは前月後半に3回書かれた地震を宥める為であったか。伯耆国が震源とみなされた地震であったか。

 伯耆国大山寺縁起にある「佛峯山」は、昔は「ぶっぽう」と言った大山の別名もあったということか。切れ落ちた山頂一帯に注目した、「ばば(崖)・を(峰)」の転が「ぶっぽう」ではないかと考えてみる。

 出雲国風土記で伯耆大山のこととされる「火神岳」は、出雲国風土記諸本で「火神岳」だが、江戸時代中・後期の書写と見られるという紅葉山文庫本と、寛政9(1797)年脱稿だという刊本の訂正出雲風土記の2つでは「大神岳」とされる。また、善本の一つとされる倉野本では「火神岳」とされるが、「火」の字の始めの二画が直線的に繋がって、「火」か「大」か迷って写したように見えるようである。「火神岳」と「大神岳」の少なくともどちらかは出雲国風土記には書かれていなかったということである。文字の異同が多く、「安来郷」を「安東郷」とするなどの固有名詞も誤られる出雲国風土記の現存諸本の祖本は「相当読みにくい草書体であったことが想像され、同時に、その祖本を写した筆写者は草書の読解に不得手であり、また出雲の現地や地名などにもあまり通じてゐない人であった」と考えられるという。また、これらの諸本は「すべて一つの祖本から出たものらしく」、その祖本は「恐らく平安中期以前に遡れる」と考えられるという。

 平安中期の延長5(927)年には延喜式神名帳に伯耆国会見郡で「大神山神社」が載る。「大」と「火」の草書体は形が似ている。後の似た音の記録のない「火神岳」は、読みにくい草書体の「大神岳」の、当地に詳しく無い人による誤写で、内山真龍の大山神と大神山を挙げた示唆や本居宣長の玉勝間10巻の「火字は、大を誤れるにあらざるか」の推測が当たっていて、紅葉山文庫本と訂正出雲風土記の改訂が注に親本から補訂・改訂したことも記してあれば正解だったのではないかと思う。

 伯耆大山は伯耆国のほぼ中央に聳え、伯耆大山の裾野が伯耆国の領域の多くを占める。元の音は「ははき」だったという伯耆は、稜線(山の端)が崩壊して傷んできている「は(端)・ほけ(惚)」、稜線が崩れてどんどん無くなっている「は(端)・はけ(捌)」、稜線が崩れ落ちている「は(端)・はげ(剥)」のどれかの転で、元は伯耆大山の山の名だったのではないかと考えてみる。

参考文献
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久松潜一,風土記 下(日本古典全書),朝日新聞社,1960.
植垣節也,風土記(新編日本古典文学全集5),小学館,1997.
加藤義成,校本出雲国風土記,出雲国風土記研究会,1968.
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本居宣長,本居豊穎,増補 本居宣長全集 第8,本居清造,吉川弘文館,1926.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第二版 第12巻 ほうほ-もんけ,小学館,2001.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第二版 第10巻 な-はわん,小学館,2001.



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(2002年6月22日上梓 2002年10月13日改訂 2018年6月17日山名考追加)