越前田野駅から

越前下山駅から

行程図
荒島岳

 日本百名山。越美北線の乗り鉄のついでに登ってきた。勝原駅で下りて勝原園地で泊まって勝原スキー場跡から登るのが素直だとは思ったのだけど、勝原コースは人が多いと聞いていたのと、荒島岳の表口は荒島神社のある佐開(さびらき)らしいという本を読んでいたのと、小荒島岳からなら荒島岳がきれいに見えるだろうというのを期待して下唯野駅で下りて佐開を経て佐開コースから上がって中出(なかんで)コースを下りた。


・下唯野駅〜佐開〜佐開登山口

 下唯野駅から裏手の扇状地の段丘の上に上がり荒島岳の山裾を回り込んで佐開に向かう。真名川右岸のまっすぐな道にちょっとげんなりする。天候は小雨で荒島岳は見えず。佐開の荒島神社の前を過ぎて電話ボックス転用の入山届出所を見て鬼谷の林道に入り養魚場の横を通り、グネグネ曲がって山の斜面を登る鬼谷林道は急勾配。どんどん標高を上げて後ろに大野盆地の展望が広がる。鬼谷林道は標高500〜600mが湧水帯であちこち水が流れているが汲むと重くなるのでなるべく先延ばしして標高850mで渡る谷で水を汲む。鬼谷対岸の斜面に雪解け水の高い滝が落ちているのが見える。


下唯野駅

廻り地蔵

入山届出所

鬼谷

九十九折りの林道

大野盆地の展望

850mの谷水

鬼谷左岸に見えた
雪解け水の滝

佐開登山口から
鬼谷左岸の山を見る

・佐開登山口〜荒島岳

 登山口から登山道に入ると右手の谷から水音が聞こえる。標高1050mの水場は乏しい。1100mより上は残雪だが雪が腐っていて歩きづらい。小雨は登山口を過ぎる頃にあがる。シャクナゲ平の手前の尾根の広くなっている所の雪の上にツェルトを開いて寝る。上の方から下山しているらしい人の声が聞こえる。

 もちがかべは尾根上の急斜面でジグザグに登る。取り付きは雪に覆われていたが少し登ると道の上の雪は途切れる。朝から快晴。朝の冷え込みでキックステップが刺さらないくらいに雪が締まったのでアイゼン付ける。もちがかべを登りきるとほぼ一面残雪で、前荒島岳に着くと山頂が美しく望まれる。一登りで中荒島岳に着くとまた美しい。

 山頂が広くて驚く。西峰の丸い坊主のような雪原に驚く。


もちがかべの
取付き

もちがかべ

もちがかべを越えて
小荒島岳を振り返る

前荒島岳から
荒島岳を見上げる

中荒島岳から
荒島岳を見上げる

山頂から西峰を見る
遠くに恵那山

 天気は快晴。四方の山がよく見える。天気の良くなりそうな日と見込んで出てきたけれど、これほどの展望が得られる快晴になるとは運が良かったと思う。


白山

白山アップ

能郷白山

能郷白山アップ

銀杏峯・部子山

銀杏峯・部子山アップ

大日山

大日山アップ

屏風山
左奥は舟伏山

屏風山アップ
右奥は黒津の山

手前は木無山、奥は大日ヶ岳
更に奥に乗鞍・穂高・笠

大野盆地

・荒島岳〜中出

 シャクナゲ平辺りからブナの林が美しいが雪が腐って歩みが遅い。小荒島岳山頂は広場になっていて荒島岳が美しく見えるのでコーヒー沸かして大休止。830mより下は谷の中の道となるが谷の中に殆ど水はない。みずごうの駐車場の所まで水が汲めるような所がなかった。この谷の頭が今は樹林で殆ど展望のない雨降り展望台で、この谷が山頂での雨乞いの帰りにこの辺りで雨が降り出すなどと言われる雨降谷という名なのは、水のない所の上の方の谷ということの「うめ(埋)・うれ(末)」谷の転でないかと思う。北向きで深い谷だからか、標高500m辺りまで所々残雪があり、谷の中の雪は日が当たらないからか腐っておらず歩きにくいということはなかった。麓の道沿いでキクザキイチゲ、ヤマエンゴサク、カタクリの花を見る。中出コースを中休コースと書いているのを見るのは路線バスの中休バス停が中出コースの最寄りだったということでないかと思う。毎日向きが巡り変わるというので有名だという、天気予報もできるという廻り地蔵の向きが昨日から変わっていたかどうかを見るのを忘れて帰ってしまった。


雪の斜面を下りる

シャクナゲ平は雪多い

小荒島岳から振り返る

荒島岳アップ

小荒島岳山頂に
雪無

雪に押された杉

残雪の道を下る
ブナ林

小荒島岳西斜面を
回り込んできた鬼谷林道

みずごう駐車場

前日は見えなかった経ヶ岳

キクザキイチゲ

ヤマエンゴサク

★山名考

 荒島神社の本殿には春日宮の扁額があり、元は春日社で荒島岳の荒島神社を合せて今の名と位置になったようであり、荒島の山名の発祥が佐開付近にあったということではなかった。上唯野に荒島堂があって蕨生では雨乞いに山頂まで登っていたというから荒島神社のある佐開が荒島岳の表口とも言い切れないと思う。荒島岳の名は荒島岳の南側の荒島谷の名に基づくのだろうと考えていたのだが、荒島岳の位置は荒島谷や荒島谷川の源頭とは言い難い。また、なぜ大野盆地から見て荒島岳の裏側となる荒島谷の名で荒島岳が呼ばれるのかにも疑問があって、荒島谷川が九頭竜川に落ちる所を見てみようと2022年12月に下山登山口のアプローチとなる越美北線の越前下山駅で下りてみた。

 越前下山駅で下車して国道158号線に出る八千代橋に向かうと後ろに荒島岳の山頂が見えた。八千代橋を渡って坂無の荒島谷落合に向かうと、荒島岳南斜面が壁のようにそそり立っているのがよく見えた。荒島谷の落合に立つと、この谷筋が荒島岳直下に入り込んでいるのは明白であった。


荒島谷川位置図

坂無東方九頭竜川端から荒島岳を見る

 この九頭竜川筋で荒島谷出合の辺りから上の方に山頂まで一枚の壁のように見える荒島岳の急峻な南斜面が「あら(荒)・そは(岨)」、転じてアラシマで、その斜面である岳ということが荒島岳、聳えているのが見えるアラシマの所に入っていく谷が荒島谷ということと考える。或いは「あら(荒)・せを(背峰)」で南斜面の上の稜線を言ったかとも考えてみたが、荒島谷の名とのつながりが弱くなると思う。

 寛政5(1793)年序の鯖江志の初稿本系と再稿本系の本に「俗称阿羅志麻。誤嵐山也。」とあり、文化10(1813)年に深山木を記した岡田輔幹の大野志に「荒嶋山一名嵐山」とある。「あら(荒)・せ(背)・やま(山)」からアラシャマなどを経て約まったのがアラシマかとも考えてみた。しかし鯖江志の写本の頭注に「未見称嵐山之称」ともあり、文化12(1815)年の越前国名蹟考に「延喜式に荒島神社有て昭々たる地名なるに何を以て俗称の誤とはいふや。且何の拠有て嵐山と種するや」と、京都から越前に来て5年経っていない人の書いた鯖江志の記述に対する批判がある。深山木には「あらしまのみね」、「あらしまやま」とあるだけのようである。延喜式の時点でアラシマで、江戸時代の地元の人が「あらしやま」と呼んでいるのは聞いたことがないと言っているのなら、実際の地形を言い表した言葉の転訛の推定は根拠の一つになるとも思うけれど、「あら(荒)・せ(背)・やま(山)」は違うのかと思う。 だけど、越前に来て5年経っていなくても妄想だけで「誤嵐山也」とは書けないのでないかとも思う。鯖江志を参照しただけで「一名嵐山」とも書けないのでないかと思う。

 京都の嵐山は保津川縁の一枚のような斜面ではあるが、上の稜線まで荒々しく見えるかというと、比高が300m程度で勾配も荒島岳南面より小さく、そうでもない。京都の嵐山は「あら(荒)・せ(背)・やま(山)」ではないのだと思う。方言で山から伐り出した材木を落とす坂道を「あらし」というという。後立山でガリーや山崩れの崖を「あらし」というという。そうした材木を下すのを動詞で「あらす」とも方言で言うという。「おろし(下)」に近い言葉で「あらし」も考えられる気がする。坂道やガリーのような細い急傾斜を「あらし」と言ったのなら、京都の嵐山も下山から見た荒島岳も「あらし・やま(山)」ではないのだと思う。

 大野盆地に立っての、「うら(裏)・そは(岨)」の転がアラシマということはないと思う。美濃側から九頭竜川筋を下ってきて見える荒々しい斜面の岳を、大野盆地の平野部に出てから先に見た斜面の表側ということで裏の斜面の山とは呼ばないと思う。

 地形図を見て荒島谷落ち口右岸の小尾根(428m標高点のコブの尾根)を指して「うれ(末)・せを(背峰)」の転かと荒島谷出合を訪れる前に考えていたが、この小尾根は九頭竜川縁を八千代橋から白龍神社まで移動して見ても全然目立たなかった。また、その小尾根の荒島谷対岸の九頭竜川縁から引っ込む急斜面を指して「いり(入)・そは(岨)」の転かとも考えていたが、この急斜面も九頭竜川縁から全然目立たなかった。

 また、荒島岳南斜面が一段上の方に見えることから奥の斜面ということの「いり(入)・そは(岨)」の転がアラシマかとも考えてみたが、延喜式神名帳に載るような神の扱いになるなら、奥の斜面というランドマークの言い方は弱いと思う。

 「うれせを」は、九州の祖母山の「うるしわ谷」が天狗岩から下る尾根の末端の急な小尾根の所に入り込んで、本流の奥岳川から祖母山の斜面は見通せなさそうなので、荒島岳の名の元ではないが、ありうる地名でないかと思う。だが、うるしわ谷を奥岳川本流から覗くと、うるしわ谷下流左岸の急斜面が見えそうである。「いり(入)・そは(岨)」も、うるしわ谷の名の元として検討の余地はあると思う。


荒島谷川落ち口付近の地図

うるしわ谷落ち口付近の地図

坂無東方から荒島谷川落ち口方を見る
荒島岳が目立ち
428mのコブの小尾根は目立たない

坂無南西方から荒島谷川落ち口方を見る
写る大野油坂道路の橋脚間中央の上方に
急斜面があるが目立たない

荒島谷川落ち口対岸から428mの
コブの小尾根を見ても目立たない

荒島谷川落ち口対岸から引っ込む
急斜面を見ても目立たない
美濃側から下っても目に付く

大野市板倉から

谷戸橋から

 「越前若狭の伝説」所収の「そばつぼ山」の話に「荒島岳を土地の人はソバツボ山ともいう。」とある。大野盆地の方から見た蕎麦粒のような三角錐の山ということのソバツブ山が転訛してソバツボ山なのだろうと思っていたのだが、「そは(岨)・つ(助詞)・を(峰)」の転がソバツボかもしれないと考えてみる。

 明治6年の足羽県地理誌の荒島嶽の項には「後荒島前荒島ノ名アリ」とある。小荒島や中荒島が挙げられていないので、前荒島は今の前荒島岳ではなさそうである。荒島岳の本峰が前荒島で、西峰が後荒島ではなかったかと考えてみる。

 福井県大野郡誌の富田村の章の地勢の本文の荒島岳の登路についてと、引用の横田莠の嵐山紀行(抄)を合わせて見ると、小荒島岳は「大原」とも言ったようである。大きい原ということか。


大野富士とも
大野市森目から

亀山(越前大野城)より見る
富士型でなくもまた良い

・越前若狭山々のルーツにある山名について

 上杉喜寿著「越前若狭 山々のルーツ」(以下、山々のルーツ)の荒島岳の項に、「和銅六年(七一三)に書かれた風土記によれば『蕨生(わらびょう)山』という名で表されており、延喜式には『阿羅志摩我多気(あらしまがたけ)』と書かれている。」とあるのが、私の知っている限りの延喜式と和銅6年の官命に発する風土記の書き方と違っているように見えるのが気になっていた。

 延喜式で地方の地名がまとまって出てくるのは九巻と十巻の神名帳と二十八巻の諸国馬牛牧と諸国駅伝馬で、神名帳に地名を冠したと見える神社名があるならその地名が延喜式の頃にあったとは考えられそうである。延喜式神名帳に荒島神社はあるが、神名帳は一覧であり、阿羅志摩我多気の神を祀るなどと言った説明は延喜式の荒島神社の文字の周りにも戦国時代に付けられて流布本にも付いた延喜式神名帳頭註にもない。諸国馬牛牧と諸国駅伝馬に荒島らしき地名は登場しない。延喜式は大部で全部に目を通してはないのだが、阿羅志摩我多気といった表記を延喜式に見ていない。

 山々のルーツの荒島岳の項ではまた、荒島神社について「延喜式によれば、継体・安閑・宣化・欽明・敏達天皇の朝廷に仕えた物部氏らの祖霊をまつり、社の麓には佐比良気(さびらき)村(佐開村)、和良比婦(わらひふ)村(蕨生村)ありと書かれている。」とあるが、全文を読んではいないけれど延喜式が佐開村や蕨生村といった地方の小さな村まで言及していることはありえないと思う。

 越前若狭地誌叢書続巻所収の足羽社記略を読むと、荒嶋嶽についてその音が「阿羅志摩我多気」とあり、「延喜式云、荒島神社。按継体・安閑・宣化・欽明・敏達朝廷棟梁之臣、物部氏等神霊坐山也。麓有佐比良気村和良比婦村。」と山々のルーツによく似た文があって、山々のルーツの荒島神社に関する箇所は足羽社記略か足羽社記略を引用か参照した書物からの引用だったのでないかと思う。足羽社記略は延喜式が云っているのは荒島神社ということまでで、物部氏や佐比良気・和良比婦については延喜式とは無関係に足羽社記略著者の牧田敬明の考えが述べられているだけというのが分かる。足羽社記略は享保2(1717)年という江戸時代に書かれた、収める越前若狭地誌叢書続巻の解題が「地誌そのものの価値によってではなく、安易な考証に対する批判資料として収載した。」とする、記述を地誌としてそのまま信じてはいけないものだが、擬漢文で地名には万葉仮名が多用され、一見上代の書物を思わせるものがある。延喜式は万葉仮名が使われなくなった頃のものだが、山々のルーツ或いは山々のルーツが参照した本では足羽社記略か引用本か類本の荒嶋嶽条の「延喜式云」以降を「按」の字を無視して全て延喜式が云っていると誤読して、読み方の「阿羅志摩我多気」も万葉仮名風に表すのは近世地誌でよくあるが、延喜式に基づくと誤認したか、誤認したものを参照してそのまま引き写したのでないかと疑う。

 次に風土記に登場だという蕨生山について考える。蕨生は中出の辺りである。

引用・参照の流れ
顕昭 古今秘注抄 古今集註
藤原定家 顕注密勘
伴信友
風土記逸文

 越前国の和銅6年の官命に発する古風土記は全体で見つかっておらず、武田祐吉(1937)の言う所の第三類(原文を省略し又は書き下し分に改めたもの)の顕注密勘の中の逸文が知られる。顕注密勘の為に藤原定家が写した顕昭の平安時代末の古今秘注抄の中の越前国風土記の逸文とされたことのある部分は在原棟梁の「白雲の」の歌の註で「ふるきものには、風土記を引て、あはての森とも、わらふ山なといふ所をは、みなかやうにいひならはせり」と、「かへる山」が山が深くて道が見えないので道がないから帰るので帰山と名付けられたのだという説明と同様の形式で、風土記で「わらふ山」が説明されていたとする。福井県大野郡誌下編(1912)の富田村の沿革の章に「古風土記に見えしと断ずべき笑山、即ち蕨生山(全郡誌沿革章参照)是なり。」(()は割注)とあり、福井県大野郡誌上編(1911)の全郡誌の沿革章を見ると「笑山は、実に我郡蕨生山なること定論あり。」とある。但し福井県大野郡誌(以下、大野郡誌)は蕨生山が蕨生地区に絡む古い地名の記録だとするだけで荒島岳のこととはしていない。この大野郡誌の記述か、引き写した書物、或いは蕨生山なら蕨生から一番近くて目立つ荒島岳のことだろうと推定した書物を上杉喜寿が見て、延喜式の場合と同様に、風土記逸文の引用に続けて按じた部分に登場した「蕨生山」も風土記に書かれていたと誤認して書いたのでないかと疑う。「かへる山」は越前国の鹿蒜近傍の山でないかと比定される。大野郡誌の富田村の沿革の項の笑山=蕨生山の次の段落は延喜式神名帳の荒島神社についてなので、急いで読むと蕨生山が荒島岳のことと引きずられて考えてしまうことはありそうである。

 伴信友の風土記逸文では、顕注密勘から抜き書きした越前国の風土記逸文が「あはての森 わらふ山」というタイトルである。伴信友の風土記逸文を元にした栗田寛(1898)の纂訂古風土記逸文や武田祐吉の「風土記」の越前分も同様である。大野郡誌の「定論」の引証とするのは牧田敬明の足羽社記(引用文は足羽社記略と同文)と岡田輔幹の深山木だが、深山木は読んでみれば足羽社記を参考にしているのは明らかなので、実質的に大野郡誌で挙げられた定論の論拠は足羽社記だけだと思う。蕨生山に直接は繋がらないのだが、足羽社記略に「和良比婦者、笑原訛也。」とある。この笑原(ワラヒハラ)を大野郡誌の著者自身か、誰かの教示があったかは分からないが、古風土記逸文の「わらふ山」と合わせて一歩進めて蕨生山ということとしたのが大野郡誌だったのではなかろうか。顕注密勘では「白雲の」の歌に詞書と詠み人の名が無いのだが、続々群書類従15所収の顕昭が古今秘注抄の後に書き直した古今集註では在原棟梁の「白雲の」の歌に詞書と詠み人の名が付き、詠み人の名は苗字無しの「棟梁」とされ、重臣を指す棟梁と同じ字なのが気になる。だが、栗田寛(1898)も武田祐吉(1937)も「わらふ山」は「蕨生山」で荒島岳の事などとは注を入れていない。秋本吉郎(1987)はこの逸文を所属国不明とする。

 中村啓信(2005)は顕注密勘からの引用に対して「ふるきものには」より前に「後撰集に」とあるのだから「後撰集に」より前の部分にしか越前の風土記逸文は含まれえないだろうとしているが、前にある「白雲の」の歌は「寛平御時」と詞書のある歌なので出雲風土記に150年以上遅れるから和銅6年に発した越前国風土記に載った歌とも考えられない。続く「かへる山は越前に有」は古今集註を見ると「顕昭云カヘルヤマハ越前ニアリ」とあり、平安時代末頃の顕昭の認識であって逸文でないことが分かる。古今集註では「後撰云」より後の部分に「私云フルキモノニハ風土記ナドヲヒキテアハデノモノワラフ山ナドイフトコロヲバミナカヤウニイヒアラハセリ」とある。「後撰云」の更に後の「或人云カヘルヤマハ播磨ニアリ」云々に続いての「私云」で、「ふるきものには」以降は顕注密勘の古今秘注抄の引用にもあるので顕昭自身或いは古今秘注抄に注を入れた後人を指しての「私」で「風土記ナド」と風土記ではないかもしれない、和銅6年に発する風土記でもないかもしれない、越前とも限定されない書物を引いて、あはでの森とわらふ山をかへる山同様に説明した本があったとの顕昭或いは古今秘注抄に注を入れた後人の見解であったことが分かる。あはでの森は尾張国の阿波手神社近傍と比定される。伴信友も栗田寛も武田祐吉も、あはでの森とわらふ山が越前風土記逸文に登場したかのように顕注密勘を引用したのは拙速だったのでないか。特に顕注密勘を逸文の引用として脚注で古今集註にほぼ同じ文があるとする武田祐吉は古今集註をどう読んだのか。ゆっくり読めば風土記逸文ではなさそうに見える顕注密勘の古今秘注抄を引用する「あはでの森 わらふ山」を伴信友がどういった経緯で加えたのかを知りたい。同じ丁に加えた「気比郡気比神社」については、加筆が誰かの教唆によるものであったことを思わせる「古風土記ノ文トハキコエカタシ」とした伴信友は「あはでの森 わらふ山」を加えた後にどう考えていたのか。

 「わらふ」から、或いは別の語が接尾するなどしてワラビョウ(蕨生)になる可能性は皆無とはしないが、足羽社記略が越前国の各地の地名は足羽社の社司の先祖という継体天皇とその近親やその時代に威勢を誇った物部氏の一族に由来すると言いたい宗教的な目的を全面に出して書いている以上、足羽社記略並の考証の体しか想定しえないのなら可能性を論じるにも別の前提が必要である。風土記と蕨生山と荒島岳を関連付けている資料を山々のルーツ以外に見ていない中で考えたので乱暴な言い方だとは思うのだが、和銅6年の風土記に荒島岳が蕨生山と書かれているとするのは乱暴だと思う。

 また、山々のルーツでは「和名抄という本には『大山』と書かれており」ともある。和名抄で地方の地名があるのは二十巻本の国郡部で、大野郡の郷名の部に「大山(於保也末)(()内は割注)とあり、後の小山郷/小山荘かとされ領域としては佐開も含まれたこともありそうだが、山として荒島岳を和名抄が「大山」と書いているとは言えない。大山郷の名は荒島岳を大山と呼び、その麓の郷ということで名付けられたのだろうかという推測までなら和名抄を見ただけでも成り立つだろうが、和名抄にある「大山」が荒島岳のことを書いたとか、郷名の大山が荒島岳を大山と呼んだことに基づくとするには和名抄以外の根拠が必要だろう。

 山々のルーツの荒島岳の項ではまた、「絵図記(貞享二年、一六八五)には『嵐間ヶ嵩』の字を使い、仙人がいた山で『仙山』ともいうと、但書をつけている。」とあるが、越前国名蹟考が越前国絵図記とする貞享2年の国絵図作成の調査書類である「越前地理指南」、「越前地理梗概」、「越前地理便覧」を見ても仙山ともいうという但書を確認できない。「嵐間ヶ嵩」とは記載事項調査の越前地理指南にある。記載方法の越前地理梗概と記載事項をまとめた越前地理便覧では「荒嶋ヶ嶽」である。帰雁記の享保2(1717)年頃の改訂本の四四章に「荒しまヶ嶽といへる仙山なり。昔残夢と云仙人の住けるとかや。」とある。この場合の「仙山」は山名としての固有名詞でなく普通名詞である。或いは越前地理指南の嵐間ヶ嵩を引いて、帰雁記改訂本を参照して「仙山ともいう」と嵐間ヶ嵩に但書をつけた上杉喜寿が参照した本があったのかもしれないが、あったとしてもその本は絵図記よりも帰雁記よりも後であり、ここでも延喜式の場合同様、後半部分は冒頭登場の絵図記によるのではなく別の資料に書いてあることの説明であって、絵図記に仙山という別名が但書で書かれていたように受け取れる誤解を招く書き方であったと思う。

 また、山々のルーツ(1987)では時期不明で「越の黒山」とも呼ばれたとある。角川日本地名大辞典福井県の巻(1989)では「越の黒山」で三国港入津の目印とされるが、引証がなく時期は分からない。改訂本の帰雁記に「渡海の船入津の時目当にする由」とあるが「越の黒山」とはない。同様に目印になりうる「越の白山」との対比で黒山は「こくさん」なのかと思ったのだが、越前古名考の黒竜川(九頭竜川)の項に「案ニ、三才図会ニ黒田郡アリ。若クハ古ヘ此処ヲ黒田邑ト云津所ナル故、黒田津ト云ツルヲ川ニ名ケシナルヘシ。皇国古ヘヨリ言ヲ伝ヘ、字ハ仮ノ目印ナレハ黒竜トモ九郎竜トモ書ケルヲ、郎・頭ノ艸相似タレハ、誤テ九頭竜ト書ケシヲ、終ニ浮屠ノ徒附会ノ説ヲ作」などとあり、九頭竜川の水源とみなしうる山としての荒島岳の別名であったのなら「くろさん」か「くろやま」のようである。用字が仮の目印の場合が多いのには同意するが、邑(或いは津)の名が九頭竜川のような大きな川の名より先あったのではないかというのと、「郎」と「頭」の草書体が似ているから九郎竜が九頭竜になったのでないかという文字が先で音が後の説明には同意しかねる。発音の位置の近いダ行音とラ行音で「くろりゅう」と「くづりゅう」が大きな川の名として相通していたと考える方が自然だと思う。越前古名考の寛政13年の頃は「今くすれ川ト云ハ訛ナリト云ヘリ」とあって「くずれ川」と九頭竜川は呼ばれていたようである。福井平野北部の広大な沼沢地から流れ出る川ということの「くで(湫)・うれ(末)・ゑ(江)」の転が「くづりゅう」また「くろりゅう」、「くで(湫)・うれ(末)」の転が「くずれ」と考える。九頭竜川の名と関わる「くろ」の音からその水源の山として黒山と呼ばれていたのでないかと考えたのだが、「くで(湫)・うれ(末)・ゑ(江)」で九頭竜川のことだったとすると「くろりゅう」を「くろ」で切れない。黒田郡の名から「うれ(末)」を言わずに九頭竜川を「くで(湫)・ゑ(江)」とも言い、「くで(湫)・ゑ(江)・と(処)」の転が「くろだ」と考えると、「くで(湫)・ゑ(江)・せり(迫)」の転が「くろさん」或いは「くで(湫)・ゑ(江)・やま(山)」の転が「くろやま」と考えられそうである。越の黒山の出典を探したい。

 山当ては荒島岳単独では成り立たない。北行の船は永平寺の奥の仙尾山の蔭、南行の船は浄法寺山・冠岳の支峰の650.3mの三角点のある山の蔭から荒島岳が現れて三国港の岸に寄せたのでないかと考えてみる。


九頭竜川河口の三国港突堤基部から白山・荒島岳を見る(2023年春)

白山拡大
白山は遠いが
大きく見える

荒島岳拡大
荒島岳は小さいが、九頭竜川の
水源にあたるように目立って見える
三国港位置の地図

参考文献
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越前地理梗概,越前若狭地誌叢書 上巻,杉原丈夫,松見文庫,1977.
越前地理便覧,越前若狭地誌叢書 上巻,杉原丈夫,松見文庫,1977.
松波伝蔵,帰雁記,越前若狭地誌叢書 上巻,杉原丈夫,松見文庫,1977.
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坂野二蔵,越前古名考,越前若狭地誌叢書 続巻,杉原丈夫,松見文庫,1977.
寺島良安,倭漢三才図会,吉川弘文館,1906.



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(2023年1月15日上梓 29日追補 3月22日改訂)