富良野西岳(右)と
芦別岳(左)
中富良野駅跨線橋から

山名考

富良野西岳

 「富良野西」岳という名だが富良野市街地の南西方にある。富良野盆地の西側ではあるが、やや南に偏っている。

 昔は登山者の間では「ポンアシベツ岳」と呼ばれていたようである。芦別岳よりは低いが、富良野周辺から芦別岳のように鋭峰として芦別岳と同じ方向に望めることからアイヌ語の pon[小さい]を付けての呼称だったと思われる。

 富良野市役所所蔵の古地図に富良野西岳の場所に「ヌツパオマナイ山」と、十線川と思しき川に「ヌツパオマナイ川」とあるという。ヌッパオマナィで nup pa oma nay[原野・の上手・にある・川]が十線川、十線川の水源の山と言った意味合いの山名と思われる。nup は御料と五区を隔て北の朝日ヶ丘から十線川を南限とする標高300m前後の南北に連なる丘陵地を山でも川原でもないものとして指したものか。

 この山を富良野西岳と呼ぶ提案が杉本紀久四郎(1962)にある。その理由として「地形図上と語るならば富良野岳に属しているので」とされているが、「富良野岳」という地形図の図幅は無く、富良野岳と富良野西岳は富良野盆地を隔てて離れている。「富良野岳」は現在の十勝岳連峰の富良野岳でなく、芦別岳の夫婦岩が「富良野岳」と称された事があったようである。それでも富良野西岳は夫婦岩の西に寄っているとはいえ北方であって西方ではなく、西方だったとしても芦別岳の衛峰的な夫婦岩に対して独立峰的な富良野西岳が「属している」と言う表現は分かりにくい。また、「1331.1m峰(富良野西岳)は芦別に全然属していない」ともされている。富良野西岳は芦別市内でもなく芦別川にも接していないので、これは一理ある。「富良野岳に属してい」るのではなく、地形上「富良野盆地に属してい」て、その西の山ということであったように思われる。

 富良野西岳の名が国土地理院の地形図に載るようになったのは杉本紀久四郎(1962)の提案の3年後の1965年発行の二万五千分一地形図の布部岳図幅からである。

 富良野スキー場の頭に「北の峰」がある。富良野西岳の北の尾根上のコブで、山麓から見上げてもスキー場がなければ「あれが北の峰」と指呼しにくい目立たない山である。この「北の峰」も富良野市街地の南西なのに「北」とは多少異な感じのする山の名である。山部から布部にかけての富良野盆地から夕張山地を見て最も北側に聳えるポンアシベツ岳の呼び方の一つが「北の峰」で、その峰続きの下手に広がるスキー場を「北の峰スキー場」と呼んでから、北の峰の名がスキー場の頭まで下りて来て、和名のなくなった富良野西岳の場所に新たに名を付けようということで採用されたのが富良野西岳ではなかったかと考えてみる。

 新日本山岳誌(2005)は富良野西岳の「富良野」について「富良野とはアイヌ語の「フラヌ」(火の山)、または「フーラヌイ」(赤い川)からきている」としている。明治の永田地名解は「フーラヌイ 臭キ火焔」と書いたが、フラヌ/フーラヌイに山や川の意は含まれていない。「火」ならヌィ nuy で、「赤い川」ならフレナィ hure nay であろう。フレナイがフーラヌイに転訛したかもしれないとは音が似ているので考えてみるのも良さそうだが、山田秀三の「北海道の地名」は富良野の語源を富良野川を指したアイヌ語のフラヌイ hura nu-i[臭い・持つもの]としている。

参考文献
一原有徳,北海道の山(アルパイン・ガイド11),山と渓谷社,1960.
岸本翠月,富良野市史 第一巻,富良野市役所,1968.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
杉本紀久四郎,芦別岳スケッチ漫歩,pp51-53,14,北海道の山,清水孔版印刷所,1962.
千田豊治,山部村誌,山部村誌刊行所,1930.
安田成男,富良野西岳,新日本山岳誌,日本山岳会,ナカニシヤ出版,2005.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.



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(2014年5月18日上梓)