トムラウシ山
旭岳付近から

山名考

トムラウシ山 その2

承前

★大雪山へ向かうトムラウシ

 以前、十勝川上流の現行のトムラウシ川と美生川支流のニタナイ川を確定的なトンラウシとみなして、この二つの川を地形図上で眺めて、いずれも周囲の山地が本流の上流の周囲より高く、源頭は本流よりかなり高い山地であり、その高い山地へ真っ直ぐ向かっている川であることから、アイヌ語のtom ra us -i[面の中ほど、ぶつかったりたたいたりめがけて向かって行ったりする対象の位置(側面)・の下の方・につく・する所]ではないかと考えた。この場合のtomとは十勝川支流トムラウシ川の場合、大雪山系のトムラウシ山から石狩岳へ連なる急峻で標高差の大きい屏風のような南斜面を指し、美生川支流ニタナイ川の場合はやはり急峻で標高差の大きい伏美岳北東斜面を指すと考えた。tomは位置名詞とされるが、トムラウシ山〜石狩岳南面に似た屏風のような地形の雄冬海岸にタンパケ/タムパケがあるのを、tom pake[側面・の頭]と解釈して普通名詞のように扱われた事もあったのではないかと考えた。


トムラウシ川周辺の地図

 だが、tom ra us -iと言う並びは意味の分からない「その側面が・低い所・につく・もの」や「その側面に・低い所・がつく・もの」と捉えられそうに思われた。「側面」である山の大斜面に向かっているならtomを普通名詞とするにしても、側面は急に立ち上がっているから側面であるわけで、その低い所に付くのは向かっているなら当たり前であり、tom us -iで済むように思われた。トムラウシ山へ向かうトムラウシ川は十勝川本流に比べて「側面」に真っ直ぐ向かっている事が顕著だが、ニタナイ川は本流に比べてその差は小さいように思われた。

 また、ru-tomで「道の途中」を意味するという。

 十勝川支流トムラウシ川には、中程でユウトムラウシ川とヌプントムラウシ川が支流として流れ込んでいる。ユウトムラウシは山田秀三(1984)が「温泉の・トムラウシ」としているが、トムラウシ川本流筋には地獄谷や新岳温泉や西沢温泉があり、ヌプントムラウシ川にはヌプントムラウシ(沼ノ原)温泉があり、近隣で「ユウ」の付くユウ十勝川やユウニペソツ川に温泉が知られていないので、疑っても良いように思われる。ヌプントムラウシは音をそのまま解釈するとnup un トムラウシ[野・にある・トムラウシ川]となりそうで、新得町史(1990)は「野原のトムラウシ」としているが、nupや「野」と言えそうな顕著な場所が流域に見られないので疑っても良いように思われる。音更川に近い所とニペソツ山の北西斜面にnupと言えそうな場所があるが、支流の源頭のごく一部であり、同じかそれ以上の規模のnupと言えそうな地形は他のトムラウシ川支流にもあり、それが名前の由来になるとは思えない。

 ユウトムラウシはru-トムラウシ[道の・トムラウシ川]の転訛であったと考える。ユウトムラウシ川を越えると辺別川や美瑛川の流域へ抜けられる(或いは忠別川もか)。ユウ十勝川とユウニペソツ川も空知川や然別川へ山越えに使い易そうな沢筋である。ヌプントムラウシは〔ru-par〕-トムラウシ[道の・口の・トムラウシ川]の転訛であったと考える。ヌプントムラウシ川を越えると石狩川本流の上流域へ抜けられる。石狩川上流域は深い山間だが、川筋は緩やかで広く、その先には無加川流域や湧別川流域がある。

 トムラウシは中ほどで道が分岐している、tom ru-aw us -iその中ほど・道の・股・ある・もの]であったと考える。トノカリウシュベツ川もユウトムラウシ川と近い所で美瑛川へ抜けられて、交通路である事が意識されているような名だが、トムラウシやユウトムラウシとは別の時期に名づけられたと考える。ユウトムラウシもヌプントムラウシも、トムラウシの意味が忘れられてからそれぞれ別の時期に名づけられた名と考える。

 ru-awのようにアイヌ語で母音が連続すると、母音の連続を嫌ってその一つが追い出される事があるという。ru-awはラゥになることが考えられる。ru-awusus-iが続いて、連声でラウシとなる。カタカナ表記のトムラウシのウはu ではなくwuと言う事になるので、ラウシの部分がラシやルシにはならない。


★美生川のトムラウシ

 tom ru-aw us -iその中ほど・道の・股・ある・もの]のアイヌ語の解釈で、改めて美生川支流ニタナイ川を見てみる。この川はそれほど長くなく、源頭をグルリと見てみても、途中で道が分岐しているようには思えない。


美生川ニタナイ川付近の地図
茶色点線は冬道想定路

 美生川上流全体と旧記をもう一度見てみる。美生川上流には二股があり、右股を越えるとパンケヌーシ川で沙流川上流域に出る。松浦武四郎の安政5年の記録に二股の右股で「ルウトラシベツ」とある川と思われ、ru turasi pet[道・を遡っていく・川]で、十勝から右左府(旧日高町)に山越えするルートであったと思われる。右左府からは更に山越えをして西の夕張方面へ向かったと考える。パンケヌーシのヌーシも、豊漁などと言う事が地名になるとは考えにくいのでru us -i[道・ついている・もの(川)]の転訛と考える。美生川左股は地形図に「ピパイロ川」とある川で、こちらも沙流川上流域の千呂露川に出る。松浦武四郎の記録でトンラウシであったニタナイ川は伏美岳に上がって、同じ十勝側の戸蔦別川に出る。ピパイロ川は北大山の会の「日高山脈」や、近年のWeb上の溯行記録を見てもそれほど困難な沢に思われないが、松浦武四郎の記録には「川すじニセイケnisey -ke[崖・の所])多くして、上るに甚難所なりと」、案内したアイヌの人の意見が書かれている。

 トンラウシについては「此辺大笹欝叢として丈よりも高し」と通行する所ではないようなことが書かれているが、「此トンラウシより上る時は、凡川口従十丁も上りて、ホロナイ、是左りの方に有と。」とある。ニタナイ川の一番下の相応の右岸支流は落ち口から約2km遡った所なので、十丁(約1.1km)でporo nay[大きい・河谷]かと思われる名が出てくるのは不審である。「十丁」という里程を軽んじてしまう事になるが、約3kmの大きな右岸支流であるトヤマ川がホロナイで、しかし、大きいというわけでないpar o nay[口・ある・河谷]の転訛で、トヤマ川落ち口から左岸の傾斜の緩い妙敷山に上がる尾根がpar[口]で、笹が雪に覆われる冬の道ではなかったかと考える。

 ニタナイ川の中程までは雪崩や雪解け増水の危険と歩き易い傾斜を考慮して谷筋の狭まり源頭が急傾斜のピパイロ川を避けて稜線に上がり、北戸蔦別岳か戸蔦別岳まで南下して、沙流川下流域や新冠川筋に出る冬道のルートではなかったかと考える。

 美生川支流のニタナイ川を指したトンラウシはトムラウシ山に向かうトムラウシ川とは別の言葉の、トロウシtom ru ous -iその中ほど・道・の後につく・もの(川)]の転訛であったと考える。「道の後」とは、道の向かう方向の反対側の末端ということである。道の向かう方向が沙流川筋や新冠川筋であり、その道の付け根であるニタナイ川本流とトヤマ川の分岐の尾根がニタナイ川の中ほどにあるということを言ったものと考える。

 妙敷山(おしきやま)の名と、妙敷山の漢字の普通の読み方の「みょうしき」は主稜線に上がってからの冬道縦走路の始まる場所である、ロウru ouske[道・の根元の所]の転訛か聞き誤りでなかったかと考える。ousouskeのu は声門破裂音等で、はっきりとした声立てとなる。


★札内川のトムラウシ

 tom ru-aw us -iその中ほど・道の・股・ある・もの]、或いはtom ru ous -iその中ほど・道・の後につく・もの(川)]のアイヌ語の解釈で、改めて札内川上流のトムラウシを探してみる。サツナイコタン推定地(ヌプカクシュナイ川・西札内防災ダムへの農道付近)から札内川ダムの辺りまでで15〜16kmなので、堅雪の日帰りならユクルベシベが札内川ダムの辺りか。その下手の左岸支流とするとカルペシナベ川がやや大きな支流として考えられるが、山を越えても南岩内川しかない。それより下流の左岸支流も全て岩内川に出るだけで、川の中程に道の分岐があったとは考えられない。日帰りではなく片道と考えて更に15km遡ると八の沢出合の辺りで、左岸支流では六の沢が岩内川にも戸蔦別川にも出られることになるが、同じ札内川の支流であり手前の低い山からも越えられるので深い山間の高山まで遠回りするのは意味がないように思われる。


札内川上流の地図

 更に上流の左岸支流から札内岳に上がる本流を回って、右岸支流をユワウトロが考えられる辺りまで見ながら下っても、中ほどに道の分岐があり得る支流は札内川には無いように思われる。

 中ほどに道の付け根のありそうな支流は札内川にある。コイカクシュサツナイ川である。コイカクシュサツナイ川の上二股より上流の溯行は難しいと聞いており、上二股付近で尾根に取り付いてコイカクシュサツナイ岳に上がる夏尾根と冬尾根がある。コイカクシュサツナイ岳からヤオロマップ岳〜1839峰〜シビチャリ山と尾根を辿れば静内川筋のサッシビチャリ川落ち口付近に着く。

 だが、午手控ではトンラウシは「右小川」とされ、右岸支流であるコイカクシュサツナイ川と合致しない。現行のトムラウシ川でもサツナイコタンからかなりの距離があり、遠方での聞き書きなので左右を誤ることがあったかとも考えてみるが、挙げられた地名がわずか四ヶ所で誤ることがあるだろうかという気もする。

 村上啓司(1979)は、トムラウシと言う名の三本の川が全て小支流であれば何か共通点が見つかるのではないかと考えたようだが、tom ru-aw us -iだとすると、逆にある程度大きな川でないと名の意味が出ない気がする。山間に入った札内川本流の別名がtom ru-aw us -iであったのが、上流域まで下流域の名で呼ばれるようになり、一部にtom ru-aw us -iの名が残ったと仮定して、もう一度札内川を見てみる。

 札内川の西札内より上流の中程に「札内二股」という顕著な二股がある。コイカクシュサツナイ川を分ける場所である。札内二股から更に札内川本流を遡って、本流を札内岳まで上がってしまうと戸蔦別川に出るしかないが、11の沢を上がると新冠川筋に出る。新冠川と静内川は下流域では近接しているので、新冠川下流域へ行くのに11の沢まで上がって新冠川を下るのは手間なだけだが、新冠湖の辺りから山越えすれば門別や沙流の方に向かえる。雪の多い時期なら9の沢左岸の尾根からイドンナップ岳まで縦走して新冠湖に下りるのも早そうだ。

 以下はかなり松浦武四郎の記録を曲げての見方である。

 午手控では「右小川」「左小川」とされるトンラウシとユクルベシベだが、札内二股の右の札内川本流がトンラウシで、左のコイカクシュサツナイ川がユクルベシベでなかったかと考えてみる。トンラウシは昔はもっと下手からtom ru-aw us -iだったのが、サツナイの名が上がってきて札内二股より上の札内川本流だけを指すようになったと考える。ユクルベシベのユクはアイヌ語での鹿(yuk)を思わせるが、必ず居るとも限らない鹿の峠道と呼ぶのは少しおかしい気がしている。rik-ru pes pe[高い所の・道・それに沿って下る・もの]の転訛がユクルベシベであり、稜線上にあたるのは鞍部だけの11の沢から新冠川に越える道に対して、コイカクシュサツナイ岳からヤオロマップ岳或いは1839峰まで日高山脈主稜線を辿る道をrik-ruとしたのではないかと考えてみる。だが、午手控は同時に「ユクルベシベ 左小川」に続けて「是より上未だ川大きけれども名なし」としている。

 ユクルベシベは美生川筋でもトンラウシのすぐ上で左岸支流として戊午日誌等に挙げられ、曲げずに素直に読んで美生川支流二ノ沢の事と読める。パンケヌーシ川から上がり、ルウトラシベツの美生川本流に下らず、芽室岳〜久山岳を経て美生川に下る道がrik-ru pes peかと考えてみる。

 札内川支流の戸蔦別川も中程と言うにはやや上流だが沙流方面と新冠方面を川筋で分けるエサオマントッタベツ川の出合がある。エサオマントッタベツ川より少し下手のオビリネップやピリカペタヌも道の分岐を示唆する地名である。歴舟川にも日高幌別方面と札内方面を分ける分岐が中程と言うにはやや下流だが、尾田の辺りにあったようである。tom ru-aw us -iはアイヌの人々が行動圏を拡げていく過程の初期に当座のものとして名づけられ、コタンが出来て、コタンの名で川が呼ばれるようになっていく内に次第に忘れられて、コタンを成すには山奥で地形も急峻だった大雪のトムラウシだけが確りと残っていたのではなかったかと考えてみるが、札内川のトムラウシについては更に考えなければならないと思っている。

参考文献
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松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「浜益御殿」図幅,陸地測量部,1897.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
新得町史編さん委員会,新得町史,新得町役場,1990.
萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
北大山の会,日高山脈,茗渓堂,1971.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
新中札内村史編纂委員会,新中札内村史,中札内村,1998.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
村上啓司,北海道の山名10,pp82-85,36,北の山脈,北海道撮影社,1979.



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(2017年5月25日その1より分割 6月21日改訂)