和宇尻山の地図

山名考

和宇尻山
わうすやま

 張碓附近の海岸の地名「和宇尻」に基づく山の名であると思われる。

 明治時代の地形図には和宇尻山の中腹の標高500m台のコブに「止山」の名があった。読みは「とめやま」か。「とめやま」で魚付林とされたか、礼文塚川の治山治水の為に禁伐林とされた山であったか。

 「和宇尻」について考える。

 明治時代の地形図には礼文塚川河口と張碓川河口の中間附近に「ワウスリ」と記されている。近世絵図でも礼文塚川と張碓川の河口の中間附近の海岸を指してワウスリとしたものがあったようである。

 天保の頃の今井八九郎の北海道測量原図では張碓川河口と礼文塚川河口の間の二つの岬に西からマウシレヱト、シレヱトと記す。明治時代の地形図のワウスリはこの二つの岬に挟まれる位置である。

 松浦武四郎の弘化3年の再航蝦夷日誌では、船行で西から「八百石」を越えて「ハリイシ」とされ、振り仮名が無いが「八百石」が「やおいし」と読むならば、「ワウスリ」の音に近い気もする。八百石は「二八小屋有。此辺り追々上なる山も平なり。海岸も小石浜なり。」とされ、張碓川にもうほど近いのではないかと思われるが、ハリイシに続く地名「チヤラシナイ」「フレシユマ」は他の資料や地形から張碓の東に思われ、登場順序に怪しいものがある。安政3年の竹四郎廻浦日記では八百石の記載が無く、ハルウスに「前に岩島一つ有」とされているがその岩島の名は書かれていない。そのすぐ西のフウレシユマで「大岩海岸に突出す」とされている。現地ノートの辰手控ではフウレシユマは「ホンフレシマ」となっている。恵比須島のアイヌ語の名は pon〔hure suma〕[小さい・赤い・岩]或は hure suma[赤い・岩]であったか。そしてハルウスの東に「ワウレー」が「(ハルウスに)同じ様の浜」として登場している。稿本の竹四郎日誌では「ワウシー」、現地ノートの辰手控では「ワウシレ」であった。

 安政2年の村山家資料の当卯年鯡場出稼番人夷人名前書并鯡網員数書では、カムイコタン(/カムヱコタン(神威古潭))に続けてワウシリの鯡場の名が記されている。その東はレフンノツカ(礼文塚)である。張碓という音に相当しそうな鯡場の名前は記されていない。松浦武四郎のワウレー・ワウシーは「ワウシレ」の癖字への誤解読で、ワウシレはワウシリ/ワウスリの訛りと捉えるべきか。松浦武四郎が「市町の如し」と記したハルウスの和人達はワウシリやカムイコタンの鯡場に動員されたのか。明治時代の地形図でのワウスリの場所は現在の区分では張碓に含まれる。

 再航蝦夷日誌に引用される蝦夷行程記ではハルウシの8丁東にマウシリ、その5丁東にレフンツカとなっているが、ヲタスツ〜ホンナイが1里6丁、ホンナイ〜ヲタルナイが無記載になっており、どこかで里程の一行が脱落している事が考えられるので、この里程数をあてに出来ない。


和宇尻海岸付近の地図

 明治24年の永田地名解は「ワオ シレト゜ ワオ鳥ノ岬 ワオハ鳥名其啼声ニ名ク此鳥曾テ巣ヲ作リシヲ以テ岬名トナスト云フ」と記す。ワオシレト゜の項の両側は「レ ウン ノッカ」と「ハル ウシ」である。ワオ鳥は「ワーオー」と鳴くアオバトのことと思われるが、「ワオ鳥」がいたとしても岬に巣を作ったと言うのは語源俗解の行き過ぎであろう。

 ワウシリならアイヌ語の wawo o sir[アオバト・いる・島]かと思われる。マウシレヱトは松浦武四郎の西蝦夷日誌で「マウシレエト(岬) 名義?塊(はまなす)多き岬の義」とされている。アイヌ語で maw は浜茄子の実である。maw o sir-etu[ハマナスの実・ある・地の・鼻(岬)]ということか。だが、ハマナスは北海道の浜縁ならどこにでもある。西蝦夷日誌は興を添える為の脚色が入るとされる。復命書である竹四郎廻浦日記に無いこの記述は、蝦夷行程記や今井八九郎図にあった地名から松浦武四郎が机上で興を添えるために挿入したと考えるべきもののような気がする。アイヌ語の maw に同音異義語として「風」などの意味もあるが、何かに起こされた「風」であって自然現象としての「風」の意味ではなく、ほぼ一直線の朝里から銭函の海岸で、ワウスリ、マウシレヱトに特別に起こされた風があったとも考えにくい。特別な風が吹くとしたら最も崖が高くなる神威古潭附近であり、風待ちに泊まるとしてもワウスリ・マウシレヱトより神威古潭に近い張碓が船を着けるに良いのは松浦武四郎も「図合並弁才其辺りに懸る」と記している。音感の似たワウスリとマウシリは一つのアイヌ語の言葉の記録した日本語側の聞きなしの違いと考える。

 張碓はアオバトが汐飲みに訪れる場所として知られているが、アオバトが下り立つのは張碓川正面の恵比須岩のすぐ西側の「べったら岩」と呼ばれる岩礁だという。今井八九郎図のマウシレヱトとは約500m、明治の地形図でのワウスリとは約700m離れている。ワウスリやマウシレヱトの岩礁にもアオバトが汐飲みに訪れていたら、現代の探鳥家達の手に掛かれば、べったら岩以外の汐飲みスポットとして疾うに知られているのではないかと思う。昔は今より自然が豊かでアオバトの生息数が多く、今井八九郎図のマウシレヱトや明治の地形図のワウスリの辺りにもアオバトが汐飲みに来たと考えても、最後に残ったベッタラ岩はどうしてワウスリと呼ばれなかったのかと言う話になる。或は、べったら岩に下り立つ基地としてのアオバトのいるマウシレヱトと言う岬の森、ワウスリという場所の森ということもあったのか。アイヌ語の sir は「地」などと訳されて島の名や山の名の語尾に用いられ、sir-etok や sir-utur のように平野や地面を指すこともあるが、いずれも地形に区切られた「地」を指しているように見える。アイヌ語千歳方言辞典の sir の項には「視覚的にとらえられたものを漠然と指す」とある。その中で「アオバトのいる場所」といった地形に区切られていない視覚的に区切れないエリアもアイヌ語の sir と表現されたのかどうか。「アオバトがいる『島(或は山、平野など)』」のように「アオバトがいる『何らかの地形で区切られた地』」と考えるべきのような気がしている。張碓から礼文塚の海岸線には春香山・和宇尻山からの山の斜面がそのまま海に落ちて、小山でも山と呼べそうな地形は見当たらない。

 榊原正文(1997)は恵比須島を「アオバトの島」とし、wao sir etu(アオバトの・島の・岬)は明確な「岬」の形状とはなっていないが恵比須島附近の事であろうとしている。論拠はアオバトの飛来と永田地名解のワオ鳥の言い伝えである。今井八九郎図のマウシレヱトの位置と明確な岬になっていないと言う点で、恵比須島附近を wao sir etu とすることに関してはすぐには同意しかねるが、恵比須島が一目で島とわかる島であることと、アオバトの飛来から恵比須島を wao sir(或は wao o sir)であっただろうと考えるのは自然な気もする。だが、ワウスリなどの記された地点から釈然としないものが残る。恵比須島が wao sir であったとしても、東に約500mほど離れている今井八九郎図でマウシレヱトと記された岬を「恵比須島の岬(wao sir etu)」のように呼べたかどうかと言う気がする。

 和宇尻、和宇尻山では「尻」の字を「ス」と変則的に読む。地元ではワウスともワウズとも発音されていたようである。嘗てのバス停の読みは「わうす」であった。礼文塚川の右股の名は「ワウズ沢」である。ワウズは日本語東北方言でのスからズへの変化と思われる。

・張碓と礼文塚から考えてみる

 張碓は山田秀三の「北海道の地名」でアイヌ語の「ハル・ウ(食料・群生する)の意」とされるが、食料を狭い張碓川流域を採取する目途にしていたとは考えにくい。礼文塚は「repun-not-ka『海に出ている(入っている)・岬・の上』の意」とされるが、沖に入っているといえるほど深く突き出した出崎ではない。

 張碓川の西には神威古潭の山と崖が海に迫り、荒天時や積雪期の海岸伝いの移動は危険で、山の斜面の傾斜の緩む標高50〜100m以上の今の国道5号線や札樽道のある辺りにアイヌの人たちの連絡路があったと考えられる。その山の斜面の取り付きの張碓川の辺りが hur ous[山の斜面・の麓(場所/川)]で、訛りか聞きなしかでハルウスやハリウスになったと考える。

 張碓川の下流は谷が深く細かく屈曲しており通路に適していない。銭函側から朝里方面に海岸伝いで向かうなら今井八九郎図のマウシレヱトを過ぎてすぐに山に取り付き張碓本通りを抜けて今の国道5号線が張碓川を渡る辺りから山に取り付くのが無理がないように思われる。また、今井八九郎図のマウシレヱトは岩礁の岬なのでより東側から今の春香町の高台に出るという選択もありうるが海岸から高台に急斜面が続いており、高台に上がるとしたら急斜面の傾斜の緩む明治時代の地形図で「ワウスリ」と書かれた辺りか、更に東の礼文塚川からになると考える。アイヌの人達のグループや季節によって細かい取り付き場所はバリエーションがあったと考える。礼文塚は ru-par hurka[道の入口の・高台]ではなかったか。春香町のハルカは銭函川からマウシレヱトに連なる高台を指すアイヌ語の hurka の転ではなかったか。

 今井八九郎図のマウシレヱトの所が神威古潭越えの道の取り付きの所の岬である ru ous sir-etu[道・の尻についている・岬] 、ワウスリの所の小川が ru ous or[道・の根元・の所(川)]転じてワウシレ/ワウスリ、一帯を神威古潭の斜面の根元(ハルウス)と対比して ru ous[道・の根元]と言ったのがワウスに転じたと考える。

参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「札幌」図幅,北海道庁,1891.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「銭函」図幅,陸地測量部,1911.
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今井八九郎,北海道測量原図(西蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,松浦孫太,佐藤貞夫,竹四郎日誌 按西扈従,松浦武四郎記念館,1996.
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野村梧郎,アオバト(北海道の鳥と人11),pp40-46,375,林,北海道造林振興協会,1983.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
榊原正文,データベースアイヌ語地名1 後志,北海道出版企画センター,1997.
宮沢醇,桂岡から春香山へ,改訂 山スキールート図集2,白山書房,1994.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.



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(2013年12月31日上梓 2022年11月1日改訂)