カムイエクウチカウシ山
北面

山名考

カムイエクウチカウシ山

 「カムエク」、「カムイエク」などと略称される。

 伊藤秀五郎(1929)が「カムイエクウチカウシヌプリ」と報告している。陸地測量部や道庁の測量隊に従事し、北大山岳部を案内した芽室のアイヌ水本文太郎に1929年の1月に聞いたと言う。水本文太郎は1928年にはその山名を忘れていたと言う。カムイを「この場合は『熊』の意」とし、「『エクウチカ』は『転ばした』の意」、「『ウシ』は処」、「『ヌプリ』は山」として、昔この山で熊を射殺したか、手負いの熊がこの山の急斜面を転がり落ちたのを見たかと推測している。伊藤の文章からはアイヌ語の単語毎の意味は水本に聞いたのか、机上で辞典等を参照したのかはっきりしないが、「『カムイ』とはアイヌ語で普通『神』の意であるが」と断ってカムイを熊の意としている点や、「エクウチカ」という管見の限りではあるがこの五文字での言葉の載るアイヌ語辞典を見ず「転ばした」と過去・完了の表現になっている事から、水本に単語毎にも聞いた故の書き方であったように思われる。

 だが、危険な獲物とは言え熊を獲物の一つとしていたアイヌの人が、コタンに近くて猟をする意味があるというわけでもない一箇所を熊を狩ったり、手負いにして転がり落ちたりした所と名づけるだろうかという気がする。猟と無関係に熊が転がり落ちるのも、それを見たアイヌの人はそう言うかもしれないが、見ていない人にはそこで熊が習慣的に(us)墜ちるのか判断出来ないことである。


北海道実測切図
「沙流」図幅(1893年)
現在の地名を記入

 橋本誠二(1940)はカムイエクウチカウシと言う山名は戸蔦別川上流の1756m峰(現行の神威岳/カムイ岳)を指すらしいとしている。その根拠としてカムイ岳(地形図では「神威岳」)の北面に発する一支流がカムイクチカウと言われ、「聖なる断崖のあるところ」という意味であり、カムイエクウチカウシと言う言葉の意味が不明であり、水本(文太郎)が老齢で初め(ママ)は知らないと言っていたということや、当時水本が老齢で忘れっぽかったことを挙げ、水本文太郎が「カムイクチカウ山(現在の神威岳)」と「札内岳第二峰(現在のカムイエクウチカウシ山)」を混同したのだろうと結論している。

  伊藤秀五郎(1929)は、「昨夏山県浩君らが、やはり水本を連れてその山に登った時には、彼はその山名を忘れていたというから、恐らくその後において、彼の旧い記憶を想い出したものであろう。」としている。

 高齢で忘れっぽくなっても若い頃の記憶は保たれるものなので、はじめは知らないと言っていたということは水本文太郎は若い頃も知らなかったように思われる。カムイエクウチカウシ山は大きくて高く、特徴的な山容を持つ目立つ山である。13歳から測量隊に従事したという水本が若い頃から歩き回って覚えたであろう山名と場所を忘失や混同しただろうか。特に伊藤が「当然名のあるべき山」とするまでもない高く大きな山をである。橋本が、意味は伊藤が書いているのに不明としているのは検証出来なかったと言うことだろうか。

 カムイクチカウの位置を橋本誠二(1940)は神威岳の北面としているが、明治時代の地形図で「カムイクチカウ」の文字があるのはエサオマントッタベツ川とカタルップ沢の間の対岸の戸蔦別川左岸の川岸から少し高い所である。妙敷山の南面にあたる。文字はその場所にあるのだが、文字の周りの地形図上のどこを指しているのか、地図を見てもよく分からない。谷筋に沿って傾けられていないので、沢や谷の名では無いようである。1893(明治26)年の北海道実測切図と1896(明治29)年の北海道仮製五万分一図にあるカムイエクウチカウシ山に似た音の「カムイクチカウ」を伊藤秀五郎(1929)が言及していないのは不審である。1920年発行の「カムイクチカウ」の無い第二版以降の五万図しか見ていなかったのだろうか。また、橋本誠二(1940)のカムイクチカウ山がカムイ岳(現在の「神威岳」)と言う前提は誤りである。

 北大山の会(1971)は「日高山脈」においてカムイエクウチカウシ山の山名について「アイヌ名の代表者のように聞こえるが、どうひねってもこんなアイヌ語はないという。」として、「山脈の開拓期、戸蔦別川のカムイクチカという所で露営中、札内川上流のこの山の名をたずねると、案内のアイヌがうるさくなって、カムイ……と答えた。それがこの山名のおこりであるという。」とする。「日高山脈」のこの箇所の執筆は橋本誠二である。この説に対して村上啓司(1976)が、この開拓期の戸蔦別川での出来事は北大山岳部々報2(1929)によれば、露営ではなく小屋掛けであり、地名は古い地形図に拠ればカムイクチカではなくカムイクチカウであり、1956年発行の知里真志保の地名アイヌ語小辞典にはアイヌ語の単語「エクチカ」の項があるので「こんなアイヌ語はない」とは言えず、案内したアイヌの水本文太郎もうるさくなったからといってデタラメなことを言うような人物ではないことが、それまでの北大山岳部々報などの水本文太郎に関わる記述をを読めば分かると、不正確で検討不足な点が見られることを指摘している。そして、カムイエクウチカウシの名は、本当にこの山がその名であったならそれはそれで良いのであるが、そうではなく水本が本当にこの山の名を知らなかったのならカムイクチカウに似た地形を擁するこの山を同様に呼ぶと良いのではないかとし、アイヌ語の意味を教えた辺りが真相ではなかったかと推測している。

 村上啓司(1979)は写真集日高山脈の解説で、昭和4年の冬季登頂の際に北大山岳部がカムイクチカウに根拠地を置いたが、その流域の違う所の地名が現在の山名となりうるのかという点についてはよく分からないとしている。

 相川修(1981)は昭和3(1928)年7月の山行で、札内川の八の沢合流点での後のカムイエクウチカウシ山登頂前夜の野営の際に同行の山口健児が水本文太郎に目標の高峰(カムイエクウチカウシ山)の名前を尋ねて「文太郎はしばらく考え込んでいたが、ややたってカムイエクウチカウシだなという返事が返ってきた。」という。「その意味は熊の転がり落ちるほど急峻な山ということだった。後年この名称について種々とり沙汰されているがどれも最初の由来を知らない憶測の解釈であって、由なきことをこの際明確にして置きたい。」という。

 ところが聞いた当人の山口健児(1928)に、この山名の話が無い。雑誌「山とスキー」の記事で、山行中の幾度かの水本の発言や現在の札内岳・戸蔦別岳・ピパイロ岳をアイヌの人がピリカペタン岳・戸蔦別岳・美生(ピパイロ)岳と、当時の地形図の「札内岳」・無名・「戸蔦別岳」と違う呼称を使っていることを記しているのに、現在のカムイエクウチカウシ山については「一九七九・四米の無名峰」などとされるだけで「カムイエクウチカウシ」や、水本が1979.4m峰の旧名について何か語ったと言う話が出てこない。この山行を北大山岳部々報に載せた水本・相川・山口と同行の山縣浩(1929)も、「カムイエクウチカウシと呼ぶのは伊藤秀五郎君の『山とスキー』第九十二号『日高山脈の地名に就て』に拠る。」として、カムイエクウチカウシという山名を聞いたという話が出てこない。水本を含めて5人のパーティーで、パーティーの少なくとも3人が目標の大きな山の名を知っていたとするには不可解な書き方である。登った大きな山の本来の名という登山の重要な情報は、5人のパーティーなら残りの2人にもすぐに共有されるのではないか。相川修(1970)が昭和3年7月のこの山行を回想して、後のカムイエクウチカウシ山登頂前々日の後の札内岳付近からの展望について、「1979.4メートル峰(後になってカムイエクウチカウシ山と名付けられた)の壮大さに感激するのであった。」とするのも、翌日に水本から山の名を聞いているにしては多少疑問の残る表現である。

 山口健児(1929)はカムイエクウチカウシ山の山名を「水本文太郎の古き記憶より我々にて命名せり。」として、伊藤秀五郎(1929)の和訳を引用する形に続けて「或は『熊の群がる所』の義なりと云へり。」としている。山口は水本から直接に伊藤が聞いたのと同様のことを先に聞いているのなら、伊藤秀五郎(1929)を引用する形にする必要があったのだろうかという気がする。相川修(1981)が、山口・相川が1928年夏にカムイエクウチカウシの名を水本から聞いたとするのは、伊藤秀五郎(1929)の山縣らと1928年に登った時は水本が忘れていたという話とも合わない。若い頃とはいえ、会話の当事者でなく傍で聞いていただけの相川修(1981)の記憶だけでは説明出来ない何かがあるのではないかと疑ってみる。

 新日本山岳誌(2005)は「山名はアイヌ語で『ヒグマの転がり落ちる所』との意味だとされている俗説があるが、アイヌ語ではないようだ」としているが、カムイエクウチカウシにしてもカムイクチカウにしても誤認や誤植・音の転化を含んでいたとしても元はアイヌ語であり、シュードアイヌ語地名でアイヌ民族の人が名付けたものではなかったとしても言語はアイヌ語以外に考えられない。「1929年に北海道大学の伊藤秀五郎らが戸蔦別川上流の『カムイクチカウ』という場所に小屋を建設し、戸蔦別岳、幌尻岳に登頂したが、案内人がこの地名を誤って山名として伝えたため、現在の山名になったのが真相であるという。」とするが、案内人が誤ったと言う根拠は何なのか。宿営地の落ち着いた状況でのピパイロ岳や戸蔦別岳など他の山と合わせての伝達で、聞き誤りというのはまだあるかもしれない気もするが、言い誤りというのはあまり無いような気がするのだが。通説を覆すような「真相」だというなら根拠も記すべきだと思う。


カムイクチカウ
位置推定の地図

・カムイクチカウ

 カムイクチカウとカムイエクウチカウシは音が似ている。カムイクチカウから考えてみる。


推定カムイクチカウ
戸蔦別川沿いの崖に
挟まれた支稜の地図
崖は2017年にGoogleマップの
衛星写真を見て起こす.
2016年豪雨水害の後だが
植生があるので新しく崩れた
ものとは考えない.

 衛星写真(Googleマップ)で戸蔦別川筋の明治の地形図でカムイクチカウと書かれた辺りを見る(2017年)と、カタルップ沢と六ノ沢の間の戸蔦別川左岸に支谷と支谷を隔てる支稜の両面に大きな岩壁が見られる。尾根筋に沿った幅が60mほどで、地形図であてはめると高さも50m以上ありそうである。昔の地形図での「カムイクチカウ」の文字の左端の辺りにあたる。地形図では裂溝状の崖記号が一帯に多く描かれているが、2017年現在では樹林に覆われている。1970年代の航空写真(国土地理院)では伐採の影響か、この辺りに細長い裸地が多く見える。地形図の裂溝状崖記号はこれらを反映したものと思われる。

 この両側面に高い崖のある支稜を指した、kamuy kucikkew(<kut-ikkew)[非常に危険な・ひどい岩崖からなる背筋]が「カムイクチカウ」とされたと考える。kucikkew をイタリックとしたのは辞典等に見ていないからである。臨時的にもどんどん作られるという名詞+名詞の合成名詞として、kut[ひどい岩崖]+ ikkew[せすじ]と考えた。バチラーのアイヌ語辞典に、Ikkeu が「The backbone.」などとあり、その所属形と思われる IkkeweIkkewehe に「The backbone.」の他に「A ridge of mountains.」などとある。山の尾根筋も ikkew と呼ばれたことはあったのではないか。

 カムイエクウチカウシ山山頂付近一帯にも両側面が崖で成っている支稜は見られるが、険しい日高山脈中部の高い稜線近くではカムイエクウチカウシ山周辺に限らず見られるので識別の対象とならないように思われる。交通路となる川筋に近く、他に顕著な高い露岩の崖のない尾根末端近くで高い崖で目立っている支稜、稜線上から川筋に下りてはいけない危険な所がカムイクチカウとして注目されたと考える。

 カムイエクウチカウシは、このカムイクチカウと関係したのではないかと思う。カムイクチカウと言う地名として知られていたが、水本(か、その先達)はカムイクチカウそのままでは意味が分からず、アイヌ語で一部が急に言うことで落ちているのかもしれないと考えて、一部を想像で補って元の音がカムイエクウチカウシだったとして、「カムィエク(ー)チカウシ」、「熊を転ばした処」のように伝えたのではなかったか。

 カムイクチカウとカムイエクウチカウシが離れていることについて考えてみる。まず、水本も山口も伊藤もカムイクチカウの載る地図を見ていなかったとしておく。上に推定したカムイクチカウはカムイエクウチカウシ山に比べれば目立たない場所である。水本はカムイクチカウを険しい山とどこかで聞いた覚えがあったが、場所の記憶が曖昧だったのではないか。下降に危険な地点としての名であったら、機材を持って登ることから始まる測量では使われない場所である。昭和3年の時点ではまず山縣が水本から忘れたと聞いて、一両日の間に山口が水本にまた尋ねて「しばらく考え込んで」答えた水本のカムイエクウチカウシを傍で相川が聞いたが、水本に直接尋ねて聞いた山口がカムイエクウチカウシを書かなかったのは、相川の覚えの外に水本の「あるとしたらだが。この辺りにアイヌ語で”正確に言うと”カムイエクウチカウシという名の山があるらしいが場所がよく判らない。他に山名は知らないのでこの辺りで最も目立って高い1979.4m峰のことだったのかもしれない」といったことを、前後に山口が聞いていたからではなかったか。翌年に伊藤が偶々カムイクチカウの近傍で、山口に返答してから時間が経ったが”正確な”意味と山容が合うカムイエクウチカウシ山に悪い山名でもない、或いはその場所で合っていたかもしれないと思っていたか、場所ははっきりしないがこの辺りにあったはずのカムィエクチカウシということと思われるアイヌ語の山の名が、年長者にもっと聞いておくべきだったという後悔があったらしい山の地理の最長老のようになった水本自身の記憶を最後に消えていくのは惜しいと思ったか、水本から山口の時より強い推しでまた聞くことで、伊藤は水本の記憶が聞き出せたと思い、前年に水本から聞いたことを考えると伊藤の報告に引っかかるものがあった山口も水本の記憶だけではこの山の元の名とは言い切れないはずだが悪い名前でもないということで北大山岳部としてもそれでいこうということになり、山口は「我々にて命名せり」と記したのではなかったか。

 或いは、カムイエクウチカウシは KAMUYKUCIKAW us -i[カムィクチカゥ・についている・所]で、妙敷山の別名だったのではないかと疑ってみる。

・カムイエクウチカウシ

 カムイエクウチカウシの音と意味について考える。

 高橋喜久司(1931)に水本文太郎宅を訪問した時のことが書かれている。昭和3(1928)年に56歳ということで明治5(1872)年頃の生まれで芽室の十勝川北岸のアイヌコタンに住んでいた水本文太郎は、明治18(16?)年に十勝川南岸の芽室太から移ったアイヌの一員ということで、芽室村の和人入地が明治19(1886)年からなので、昭和3年頃にアイヌ語を「昔の言葉」と言って北大山岳部の人々と日本語で会話をしていても、13歳で測量に従事して日本語に頻繁に接するようになる前の幼少時にアイヌ語を十分聞いていたと考えられる。水本は北大山岳部などの人と同行中でもアイヌの人同士ではアイヌ語で話すことがあったようである。まずは大凡、水本から直接聞いた伊藤秀五郎(1929)の報告している通りの意味と取りたい。アイヌ語を話せるアイヌの人がアイヌ語として言った言葉を「どうひねってもこんなアイヌ語はない」と思うのは、単にそのアイヌ語の言葉を知らなかったと言うことだろう。母語でも語源や意味の分からない方言を初耳した時に自分の知っている母語と同じなのだろうかと思うのはよくあることだ。

 地名アイヌ語小辞典は ekucika[岩崖を踏み外して下へ落ちる]を完動詞としており、完動詞(自動詞)と考えると、とる項が一つとなるので、kamuy ekucika usi は「『熊が』岩崖を踏み外して下へ落ちる処」という意味にならない。kamuy は、「非常に立派/危険な」のような意味で連体詞的に後ろの ekucika usi 全体を修飾していると捉えるべきである。kamuy はヒグマに限らない。カムィを尊崇しているアイヌの人々は、カムィが落ちる等を名付けることはありえないといった指摘は文法的に当らなかったということになる。尤も、尊敬される偉い kamuy でも雷のカムィが人間の毒づきに腹を立てて村を燃やしてしまい、老婆に叱られて落ち込んで天に戻ったといった失敗するような伝承はアイヌの人々の間にあったようである。

 kamuy e- ekucika usi が約まっていると考えれば「熊がいつも落ちる所」にもなりそうだが、水本は伊藤に分析的に伝えたので、伊藤がカムイエエクウチカウシとしていないことから ekucika の前に e- は挟まっていなかったと考えられる。

 しかし ekucika と言う言葉は20世紀末に相次いで発行された新しいアイヌ語辞典には載っていない。地名アイヌ語小辞典では ekucika エクチカは「ク」にアクセントがあるとされ、それが故にカムイエクウチカウシ山の山名のカタカナ表記の中で「エクチカ」ではなく「エクウチカ」と「ク」を延ばしたかのようになっているとされるが、アイヌ語で音が伸びるのは”語頭で”アクセントがある場合だという。

 アイヌ語の合成自動詞に、修飾語+自動詞のものがあり、修飾語は不定だという。合成自動詞として kucika(<kut-ika)崖溢れする(崖から墜ちる)]を考えると、kamuy e- kucika usi[熊・そこで・崖溢れする・する処]となる。kucika が kut-ika と構成される単語としてあったなら、第一要素が1個の閉音節からなって第二要素が母音で始まる場合と言うことで、カムイエクウチカウシ全体を分析的な意識を持って発音する場合に kucika が語頭にアクセントのある単語と言うことで、「クーチカ」となることがありそうである。水本は、カムイクチカウはアイヌ語地名によくある語末のウシの最後のシが落ちているのではないか、シを補ったカムイクチカウシを『丁寧に言う』と、kamuy e- kucika usi だと考えたのではなかったかと考えてみる。

 地名アイヌ語小辞典の ekucika は、伊藤秀五郎などによって知られるようになったカムイエクウチカウシ山の名を説明する為に、発行の1956年の時点のアイヌ語語形成の理解で想定された単語であって、当時の理解から完動詞とされたがクウチカ(クーチカ)と音が延びていることを説明出来なかったのではないかと考える。エクウチカは、言語学者ではない水本が接頭辞と自動詞を一体として説明したと考える。地形図にカムイエクウチカウシ山の山名が記載されるようになったのは1959年発行の地形図からのようである。

 伊藤秀五郎(1929)の聞いた「転ばした」から、kucika が構成単位まで還元した意味ではなく、合成語として自動詞の「転ばされる」のような意味を十勝地方方言で持っていたのではないかと考えてみる。或いは「転ぶ」か。但し、熊が転んだり転ばされたりしたのが目撃されても、それで地名になるとは考えにくい。ランドマークやその場所の役割などの、そこを訪れた時にすぐに分かるようなことでなければ地名にはなりにくい。山に登れば必ず熊を見るというわけでもなく、熊とて崖から落ちたり転んだりしたいわけではないのだから、登れば熊が転んだり崖から落ちたりする場面が折々見られる山などあるはずがない。

 カムイクチカウの中の「クチカ」も kucika と考えると、最後の「ウ」の説明も出来ないが、「崖溢れする」(崖から落ちる)所は誰にとっても非常に危険なのだから、kamuy[非常に危険な]で修飾するのはあまり意味が無いように思われる。kucikkew も危険そうだが、両側面が崖で幅が狭くとも尾根線上が歩くのに十分な幅があって滑らかであったり、崖の上部の傾斜が緩いなどで、「非常に危険」とまでは言えない状況はありうるように思われる。

 アイヌの人同士でその場所と言うことで使われたかどうか怪しい山名であったとしても、水本の説明に対して伊藤(1929)が「それは似つかわしい名前である」と書くように、北大山岳部員がその指している場所と、その指す意味に納得して使い始めているということで、現在の位置での地名としての要件は満たしていた。

 地名アイヌ語小辞典には助動詞的な用法のウus[いつもそこでその動作が行われる]があり、これを用いると kamuy e- kucika us nupuri と伊藤秀五郎の記した「カムイエクウチカウシヌプリ」という「ヌプリ」まで含めて解釈できそうだが、この用法が20世紀末の新しいアイヌ語辞典には載っていない。アイヌ語沙流方言辞典には動詞接尾辞として -us の項があるが「後に -i《所、時》を伴って」と言う条件付きでの「習慣として・・・する所/時」の意味とある。札幌の藻岩山を指すインカルinkar us pe[見る・いつもする・もの]としか解釈しようが無いように思われる音の記録もあるので、或いはこうした us の用法はアイヌ語の古語なのかなどと考えてみるが、新しいアイヌ語辞典に沿って伊藤秀五郎の記した音は、まず kamuy e- kucika usi など語尾が usi の山名があり、そこの山(nupuri)と言う表現だったと解釈しておく。藻岩山にはエンカルシベノホリとする松浦武四郎の記録も見られる。これもカムイエクウチカウシヌプリと同じように考えて、「inkar us pe nupuri」ということであったと考えておく。

・ユックチカウシ

 山田秀三(1969)は「ユックチカウシ物語」で、崖から鹿を追い落として仕留める猟がアイヌに有り、「ユックチカウシ」と言う地名がその猟の行われた場所に有ったことを報告し、yuk-kut-ika-us-i「鹿が・断崖を・こぼれ落ちる・(動作のくりかえし)・処」かと解釈している。yuk kut ika us i では自動詞か他動詞とされる ika のとる項が3つになってアイヌ語の名詞句としては文法的に破綻する。萱野茂のアイヌ語辞典に拠って ika を他動詞「踏み外す」として扱って、yuk kut e- ika usi[鹿・断崖・そこで・踏み外す・する所]の約まったものと考えると、カムイエクウチカウシ山の名の音に近いか、カムイユックチカウシということもありうるかと以前は考えていたが、kut-e-ika がクチカとなるのかどうか怪しい気がしてきた。カムイエクウチカウシ山のようなコタンから遠く離れた所、しかも「非常に危険な(kamuy)」とされるような処で獲物を仕留める意味もない。また、鹿落とし猟に使われる鹿を追い込みやすい地形をカムイエクウチカウシ山付近に見いだせない。連続する異種母音の連続で一つが脱落するにしても、子音も転化してしまうクチカではなくクテカになりそうな気がする。また、言語学者の手によるアイヌ語沙流方言辞典/千歳方言辞典は ika を「溢れる」と言う意味では自動詞としている。

 「ユックチカウシ」も修飾語 yuk[鹿]と自動詞 kucika崖溢れする]による合成自動詞 yukkucika鹿の崖溢れする]を用いた、yukkucika usi鹿の崖溢れする・する処]だったのではないかと考えてみる。二段階の合成自動詞ということになるが、kucika は水本文太郎も知っていて昔は程々に使われていたのではないかと考えてみる。だが、ユックチカウシで kucika を「転ばす/転ぶ」と考えるのは合わない。「崖溢れする」の方が合致するように思われる。アイヌ語の辞典を見ても語呂合わせでもその義になる気が私にはしない「或は『熊の群がる所』の義なりと云へり。」と山口健児(1929)が記したのは、カムイエクウチカウシは熊のユックチカウシということで熊を群がらせる所というようなことなのかもしれないと水本に1928年7月の山行で聞いていたのでないかと考えてみる。

参考文献
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(2012年12月30日上梓 2017年11月21日改訂)