山名考

江無須志山
えむすしやま

 国土地理院の地形図では463.3mの三角点のところに山名が振られるが、同じ山塊の400mほど北東のコブの方が2.5万図で等高線が一本多く高い。標高は470m強といったところだろう。だが、470m強の所もその北東の720m標高点のピークの支稜上のピークに過ぎない。更に720m標高点のピークもその南東の884m標高点の山の支稜上のコブに過ぎない。


江無須志山周辺の地図

 松浦武四郎は安政5年の日誌に宿主別川筋の山の名前として「エムシユシ」を聞き取り、お爺さんが熊に襲われたので、敵討ちでこの山で熊を討ち取り、太刀で熊を切り刻んで、その太刀をそこへ納めて木幣を建てて神として祭り置いている所だという話を記している。

 まずは、emus us -i[太刀・ついている・もの(処])と解されたと考える。

 ところが、松浦武四郎のフィールドノートである手控を見ると、父がクマに襲われて亡くなったので、太刀を持ってホーヱホーヱ(ママ)と弔いをしたとか・・・とある。日誌にあった、熊を切り刻んで太刀を納めて云々は、松浦武四郎が盛ったのかもしれない。

 日誌の話も手控の話もいかにも地名説話という感じがする。アイヌ語の emus に近い音を含んでいたが、訛って emus と同じ音になったので、emus に付会されてのお話だったのだろう。太刀を持って踊って弔いをしただけなら太刀は自宅に持ち帰ったと言うことでそこには無い。逐語訳的に e- mus us -i[その頭・ハエ・ついている・する所]かと考えてみても季節性のある昆虫であるハエがいつも山の上にいるはずがないので現実的でない。類例の見られるモセウシに近い、e- mose us -i[その頭・オオバイラクサ・生える・する所]の転訛ではなかったかと考えてみた。山田秀三(1984)がアイヌ語のモセには「イラクサ」と「草を刈る」の意味があり、伝承でもなければモセウシのモセがそのどちらか分からないと指摘しているが、頭に e- の付いた e- mose usiを[その頭・草を刈る・する所]と訳せるのかどうかよく分からない。いちいち体力の要る山の上で草を刈ったとは思えない。

 今の地形図を見ても1970年代の航空写真を見ても江無須志山の山頂付近は樹林である。生育場所が山地・山間の湿地だというオオバイラクサ(エゾイラクサ)が乾燥しやすい山頂付近に生育すると言うことはないかも知れない。穿って考えれば珍しい事象だったからこそ名を付けて呼ばれたと考えることも出来なくはなさそうだが、e- mose usi から離れて更に考える必要がありそうだ。

 標茶の釧路川右岸の少し下手に落ちる川の名に「エムシヲマナイ」があったという。松浦武四郎の安政5年の日誌で「其形ち沢の如くして沢ならざるが故に号しとかや」とあり、フィールドノートである手控には「シベツチヤの事のよし。沢の成りしたる処のよし」とある。同日誌のシベツチヤは釧路川の西岸で「平の上平野に成」とあるので、少し高台の川上や開運の辺りと思われる。標茶の下手で釧路川に落ちていて標茶の事と言うことは、エムシヲマナイは川上地区と開運地区の裏手の駒ヶ丘公園から落ちる川と思われる。oma は目的語に場所をとるので、エムシヲマナイは「エムシにある」川か、その頭が「ムシにある」川と言うことで、江無須志山も「エムシにつく」か、その頭が「ムシにつく」ならハエや草刈りやイラクサではないということになりそうである。

 遠軽の市街地の西の山並みは松浦武四郎の安政5年の日誌で「イムシヲマイ」とされ、「平山。其処小沢弐すじ程、其傍陰樹たる木立原、槲柏葱欝たりと。其名義往昔太刀を置しと云う儀のよし。イムシは太刀の事、ヲマイは置しと云義也。」とされているが、山野において「太刀を置く」という行為は地名にしてまで記憶すべきことなのだろうか。翻刻の頭注で、「小沢」はサナブチ川支流の丸大川とされる。

 根室の風蓮湖南岸に注ぐ川に「エモシウシ」があったようである。松浦武四郎の安政5年の手控に地名の訳の聞き書きで、昔太刀をかざして通った人がいたなどと書かれているが、太刀を持って通った人はどこかへ行ったわけで、太刀がそこについているわけではない。松浦武四郎の手控と川筋取調図では別当賀川の東辺りという事以外はどうも場所がはっきりしないのだが、明治28年の北海道実測切図に「イノスミ沢」とある(イノスシの誤記か)、河口の位置で第二トウバイ川の西約1.4kmで別当賀川の東約3.0kmの小沢が音が似ているのでそうかと思われる。


標茶の
推定エムシオマナィの地図

 以前、掲示板を通じて、tu に同義の situ があるように、so に同義の moso があるのではないかと教示された。但し、「平らになっているところ」という意味の moso と言う単語をアイヌ語辞典等に見ていない。

 アイヌ語地名でイラクサか草刈りかと言われる所は、イラクサも草刈りもランドマークとしては弱く、どうも付会のような気がする。モセの付く地名の所や、島の無いモシリのような地名の所は平らになっている所が多い気がしている。moso平らになっているところ]はあるのではないかと思う。

 江無須志山などの中のムシ等も moso だったのではないかと考えてみる。

 標茶の駒ヶ丘公園の川は源頭は幅が広く、傾斜が緩い。源頭の北側に幅130〜270m奥行き800mの凹凸のない平坦地が広がっている。源頭が広く平坦で沢なのに谷らしくないということなら日誌の訳の通りだが、源頭が平坦地についていることをいう e- moso oma nay[その頭・平らになっているところ・にある・河谷]と考える。この平坦地に登りつく沢は駒ヶ丘公園の沢の他にもあるが、シベツチヤのコタンから最も近い平坦地に頭がついている河谷という事で言ったものと考える。

 江無須志山の山頂には平坦地はない。400mほど北東に緩いコブがあるが、山裾ならどこにでもありそうなレベルである。

 今の江無須志山の位置が山名を付されるのにふさわしくないように思われるので、松浦武四郎の安政5年の日誌を読み直してみる。エムシユシの出てくる日誌の該当箇所は貫気別川落ち口での聞き書きなのでどうもはっきりしないところがある。シヨクシベツ(宿主別川)に入ってからの地名を見ていくと、今の地形図上で沢筋などを数えていくとどうも完全に一致しない。最初の左岸支流がルベシベとあり、次がまた左岸支流でヲ子トプで、その次が左(右岸側)に山があってその下の小川がルーヨイとある。その次が左の山のエムシユシである。

 ルベシベが南に総主別川筋と貫気別川筋を横断して厚別川筋と結ぶ道のある支流と言う事の宿主別第一川のすぐ下手の左岸支流だったと考えると、宿主別第一川がヲ子トプで、同じ巻の額平川筋を見ると似た音のヌーヨイが今の江無須志山の西面を下る支流名のようなので、今の江無須志山の西の山裾(標高300m以下)から宿主別川に落ちる川がルーヨイなのか。次に「しばし過てヱムシユシ左の方山也」と挙げられるので、松浦武四郎の記録を見て山名を付す場所としてに疑念はあっても今の江無須志山の位置がエムシユシと考える人はいたと思う。

 だが、次のイシカルンナイが「右の方小川」なのは第一号橋の右岸支流を跳ばすことになる。ヱムシユシの「しばし過て」を重く見れば、今の江無須志山の位置ではルーヨイと近過ぎるとも考えられそうである。その次は「左りの方小川」のイワナイで、イシカルンナイに似た音を含む左岸支流のシカルスナイ沢を跳ばすことになる。次は右の方のハンケルナイとヘンケルナイで、イシカルンナイとイワナイが、上下の順序か左右が間違っていたと考えると、今のパンケルナイ沢とペンケルナイ沢ということになりそうである。次の「左りの方小川」のナヱベはパンケトボチベツ沢かと考えたくなるが、これは後に説明することにして跳ばす。以降、左の方のハンケトマヲベツとヘンケトマオベツがパンケトボチベツ沢とペンケトボチベツ沢、次が左股のシユンベツで、本流右股更に上のハンケホリカシユクシナイとヘンケホルカシユクシベツは horka に流れるパンケシュクシュナイ沢とペンケシュクシュナイ沢で、本流は「此後ろはニイカツフ川すじ也」のシイシユクシベツである。

 ナヱベには「是何故かむかしより名なし。ナヱへはナイの延たる語なり。」と一読してよく判らない説明がある。複数の案内のアイヌの人からの聞き取りなので、案内の一部のアイヌの人は両岸の山が迫った宿主別川の谷筋の奥(延びた先)で緩くなって渓相が変わるペンケルナイより上については宿主別川の河谷の上(かみ)の方ということで nay pe[河谷・の上(かみ)]の訛ったナヱベと呼んで、ナヱベの領域にある支流には特に名前を付けて呼んでいないが左の方に、後で別の案内のアイヌの人がシュンベツだと説明した本流よりは小さい支流があると言いたかったのが「左りの方小川」ではなかったかと考える。

ruの推定地図 第一号橋の右岸支流とシカルスナイ沢を地形図で見ると、どちらも源頭に急峻な斜面がある。衛星写真で見ると第一号橋の右岸支流の源頭は植生のつかない崖になっている部分が720m標高点の東側に屏風のように1kmほどの幅で横に広がって複数あるのが見てとれる。シカルスナイ沢は急峻な上流域に入って中ほどの側面に二ヵ所ほどの崩れがあるだけで、源頭は全て樹木で覆われている。「其名義は奥の方つき当り閉りて有る処を云よし。」とあるイシカルンナイは右の方ではなく左の方(右岸支流)で、e- si- kut un nay[その頭・大きい・崖・にある・河谷]の訛ったもので本来のシカルスナイ沢と考える。ンとスの違いは誤写か、usun で言ったものと考える。するとシカルスナイ沢のこととしか考えられないイワナイに「其名義は岩崖有りと云。またユウナイの転じ、むかし温泉気有りしともいへり。」とあるのは、奥の急峻な斜面までは遡らず、標高300m辺りから左岸の緩斜面に入って東側の540m以上の急斜面に入らずに山裾を巻いて南下して貫気別川筋までトラバースする道があった、ru w o nay[道・(挿入音)・ある・河谷]の転がイワナイとユウナイだったのではないかと考えてみる。ルーヨイとヌーヨイも急斜面にまでは入らず山裾をトラバースする道が上流域にある、ru e- o -i[道・その頭・ある・所]の転と考える。推定ヌーヨイの北側から額平川に下りて渡ると、その向こうは桂峠の鞍部に向かう額平川本流筋のイワナイとペンケイワナイである。


884m標高点の山の
平らになっている所の地図

 ヱムシユシの「しばし過て」は、ルーヨイ辺りまでが山裾で、ルーヨイの少し上からエムシュシの険しい山地になっているということの含意であったと考える。884m標高点のピークがエムシュシの最高点で、そびえ立った斜面の上に884m標高点を含む平坦地がある。本来の江無須志山は884mのピークであり、エムシュシはアイヌ語の e- moso us -i[その頭・平らになっているところ・ついている・もの(山)]の転であったと考える。

 遠軽の丸大川の源頭には太陽の丘えんがる公園が広がり、平坦ではある。丸大川が「イムシヲマイ」で、山並みはその源頭という事で呼ばれたと考えると、e- moso oma -i[その頭・平らになっているところ・にある・もの(川)]か。だが、標茶のエムシヲマナイの上の平坦地に比べると傾斜があり、沢筋を下から通して見ても全体の傾斜が緩く広い。どうも「その頭」だけが平らになっているところにあるとは違う感じがする。

 根室の風蓮湖のイノスミ沢の源頭はかなり平坦で広い。だが、風蓮湖の南側はあちこちに平坦な所が広がっており、e- moso us -i[その頭・平らになっているところ・につく・もの(川)]ということで、場所の識別をする事ができるのか、疑問である。

 遠軽と根室の emus のアイヌ語地名については後考を俟つ。

参考文献
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
鮫島惇一郎・辻井達一・梅沢俊,新版 北海道の花,北海道大学図書刊行会,1985.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
北海道庁地理課,北海道実測切図「根室」図幅,北海道庁,1895.



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(2015年10月4日上梓 2017年8月22日改訂 10月16日改訂 29日改訂 2021年4月30日改訂)