山名考

北見富士(湧網)

 北海道に北見富士と称する山は二つある。いずれも道東、北見と呼ばれるエリアにあるが、当頁で取り上げるのは1306.3mの旧丸瀬布町と紋別市と滝上町の境にある北見富士である。

・北見富士

 北見富士の名は旧国名北見国の富士山となぞらえてと思われる。地形図上では北側から眺めると一応円錐形となりそうなのだが扁平で、里から仰いで富士型に見えそうにない。南側も里から遠い深い山間の細い谷の奥で富士型に見える所があるのか、疑問の残る所である。

 もう一方の旧留辺蘂町の北見富士は、先に名付けられた当頁の北見富士の場所が誤認されてその位置に北見富士の名が付されたのが始まりとの話が「北海道の百名山」にあるが、里から見て明らかに富士型である。或いは逆で、旧留辺蘂町の北見富士を記した小縮尺の不正確であった地図を参考に当頁の北見富士が北見富士とされたのではないかと疑ってみる。

・マウレセップヌプリ

 松浦武四郎の安政5年の日誌にヲシラン子フ(渚滑川支流オシラネップ川)の水源の岳としてマウレセツフノホリとあり、その後ろは「ユウベツの小川」とある。湧別川筋の支流ということで丸瀬布川のことであり、マウレセツフという川の水源の岳の意の山名であったと思われる。マウレセップは丸瀬布川のことである。


丸瀬布川落ち口付近地図

 以下、マウレセップ/丸瀬布について考える。

 松浦武四郎は安政5年の日誌でマウレセツフについて「其川すじ玫瑰(はまなす)多しと、よつて此名有るよし也。マウレは玫瑰の事也。」と記すが、日誌解読の秋葉實(1985)は丸瀬布川に「自生のはまなすはない マウレは『はまなす』なので誤記したものであろう mo 子の川が u 並んで re 三ツある sep 広い処」と注を付ける。ハマナスの実はアイヌ語で maw なので、ここでの「マウレ」は「マウ」の誤記と思われる。mo u re sep は語義でも語法でもアイヌ語として怪しいものがある。この解釈は新丸瀬布町史(1994)に昭和37年の新丸瀬布町史編者の照会に対する知里高央の解答とある。山田秀三(1984)は「土地では小さい小川の集まってできた広い処との説があるやに聞いたが、よく分からない。」とやんわりと否定している。また、丸瀬布についても「私には語義の見当がつかない。」としている。語義語法とも妥当であったとしても丸瀬布市街のある所が湧別川本流と武利川と丸瀬布川の三本の川の落ち合う所で湧別川の河谷が盆地状に広がっていることを説明しようとしており、市街地が広がる前からあった丸瀬布川の名の説明にはなりえない。知里高央は丸瀬布の町は知っていても丸瀬布川を指すマウレセップが川の名として近世記録からあると知らなかったのではなかろうか。新丸瀬布町史編者は知里高央に照会する時にマウレセップは川の名と伝えなかったのではなかろうか。

 丸瀬布の市街地を流れる湧別川は深い峡谷になっていて、松浦武四郎はニセイ(nisey[断崖絶壁])であると聞き取り、山田秀三(1984)は「駅からまっすぐ川に出で、橋から湧別川を見おろすと目がくらくらするような峡谷である。」としている。丸瀬布の駅前通りの橋の下の峡谷は市街地の湧別川上流側で河谷が広がり河川敷にスポーツ公園などがあるが、水面の高さは駅前通りより下流側と殆ど変わらない。スポーツ公園の川向こうに丸瀬布川が落ち、スポーツ公園のある低い所からすぐに離れていくように上流側に上がる丸瀬布川をアイヌ語で raor e- he- os -i p[低い所・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]と言ったのが転じたのがマウレセップと考える。湧別川沿いの低い所の両岸の後背の10mほど高い平坦地に丸瀬布の市街地が広がる。「後ろ」の os は地名アイヌ語小辞典では名詞の単語としてあるが、アイヌ語沙流方言辞典では位置名詞語根としてあって、語根などに接尾して他動詞を形成する接尾辞を受けうる。-e も語根につく他動詞形成の接尾辞としてあるが、つく対象が限られるようである。i/e以外の母音の接尾辞だとセップの音から離れると思う。

 raor は地名アイヌ語小辞典に単語として項があり、場所を示して位置名詞のようで、位置名詞だとしたら先行詞無しだと長形(raoro など)となりそうだが、ra or[低い所・の所]ということのように思われ、ra は位置名詞だが先行詞無しでも ra の形で用いられるようなので raor としておく。或いは ra + or の合成位置名詞で この場合は長形の raoro とするべきか。

 松浦武四郎の安政3年の手控に音威子府近傍の同所と思しき所が「イマウシヘツ」と「イワシヘツ」とある。また、安政4年の手控に長万部町と八雲町の境のルコツ川が「ルコチ」と「ムコチ」とある。アイヌ語で r と m の相通が考えられる。

 語末が「セップ」となるアイヌ語地名の語末の部分は sep[広い]と説かれてきたのを見ていたが、用言で固有名詞となる地名の語末になるとは考えにくい。但し自動詞なので名詞的用法は考えられる。


オニセップ沢落ち口付近地図

推定ナカセップ落ち口付近地図

老節布川落ち口付近地図

トセップ地図

 語頭が「マウ」でないかとされるアイヌ語地名の語頭の部分は maw[ハマナスの実]と説かれてきたのを見ていたが、一年の限られた時期しか目に入らないハマナスの実で地名を言うとは考えにくい。但し、「ハマナスの実の採取をいつもする処」のような命名はありうるのかもしれない。また、maw をハマナスの実と同音異義語の「風」と説くのも見ていたが、アイヌ語の maw は、例えば口が起こす呼気のような、何かに起こされた風であって、自然の空気の流れの風である rera とは区別されるようであり、自然現象としての風がどうかしていることを maw で地名に使うとは考えにくい。

 アイヌ語沙流方言辞典に後置副詞で hosi の項があり「...に背を向けて」とされる。萱野茂のアイヌ語辞典では hosi が「〜がいやだ」とされ、例文を見るに一項動詞と思われる。これらの hosi は語構成が he- os -i で母音の連続がまるめられて hosi になっているのでないか。

 以下に道内の他の語末が「セップ」のアイヌ語地名と、語頭が「マウ」でないかとされるアイヌ語地名を考えてみる。

・「セップ」が語末のアイヌ語地名

 清里町清泉のオニセップ沢とポンオニセップ沢は本流である札鶴川にほぼ垂直に合流しているのが湧別川に対する丸瀬布川と似ている。夏道であった札鶴川が河谷の西側の山の斜面に寄った所で合流しており、hur e- he- os -i p[山の斜面・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]の転がオニセップと考える。上流側が落ち口からすぐに離れるようにある様を言うので o- ru e- he- os -i p[その尻・道・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]の転がオニセップとは考えない。

 オニセップは標津川筋にもあり、本流に対して直角に合流してくるという特徴は札鶴川筋のオニセップと同様なのだが、斜面との関係が札鶴川筋と同じとは言えない。標津から中標津への尾根道が標津川に下りる辺りで標津川に落ちているので ru -na he- os -i -p[道・の方の・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]の転のオニセップでないかと思うのだが、更に考えたい。

 音更川筋のナイタイ川左岸にナカセップ線という林道がある。ナイタイ川の左岸支流の名がナカセップでないかと考えてナイタイ川を見ると、高い段丘から延びてきた低い小山になる突き出しの後ろに入り込み、ナカセップ線が上流で横切る「一号の川」という左岸支流がある。川の名としてのナカセップを見ていないのだが、notke o- he- os -i p[みさき・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]で、ナカセップというナイタイ川左岸支流ということでなかったかと思う。

 富良野の老節布川は親川にあたる西達布川に突き出した台地の頭の後ろに入り込んでおり、rum o- he- os -i p[頭・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]の転が「ろうせっぷ」でないかと思うが、rumo- で受ける場所名詞なのか分からない。場所名詞でなかったら rum e- he- os -i p[頭・そこで・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]か。

 丸瀬布川を含めた以上と、以下に見るマウタサップの二例より、he- os -i は本川に対してほぼ直角に落ちてくるような支流のあり方、海に落ちるなら海岸にほぼ直角に落ちるような川のあり方を言っていると考える。人間の行動なら完全に頭を背けて見ないようにするということが「〜がいやだ」ということでなかったか。

 音更川筋のメトセップ川は明治27(1894)年の北海道実測切図に「メトッセプ」とあり、えぼし山(1057m)や屏風山(1291m/1286m)の山並みの後ろに音更川本流から見て入り込んでいる。このことをいう、metot os -i p[山奥・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]がメトッセプと考える。

 えりも町庶野の東のトセップは松浦武四郎の安政5年の日誌に「少しの岬の上を通る也。其岬は大岩峨々として海中に突出すといへり。 トセフ 此岩浪打際に有。此神はエリモの神様と兄弟にして、至て恐しき神なるが故に此処え置くといへり。トセフは広きと云儀也。また幅と云にも当る也。」とあり、集落の南側に膨らんだ低い緩斜面地の先の岩岬の岩が名の発祥で、松浦武四郎はこの岩岬を見ることなく緩傾斜地を通過したということのようである。明治26年の北海道実測切図には「ト゜ーチェプ」とあって、永田地名解は「二魚(フタツウヲ) 鱈、オヒョウ魚ノ二魚ヲ漁スルニヨリ此名アリ」とするが、語呂合わせだ。松浦武四郎の伝の襟裳岬と兄弟というのと、二魚説で、共にペアということが関わるということに何らかのヒントがありそうな気がするが、アイヌ語の解釈は思いつかない。地形図上で見れば緩傾斜地の先が二つに割れて岬になっているからと tu he- os -i p[二つの・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(岬)]と考えるのは小さな岬が庶野の集落までの南西側に幾つも並んでいるので安直に過ぎると思う。ただ語末が「セップ」のアイヌ語地名として挙げるに留める。「幅と云にも当る」というのは sep の名詞的用法ということなのだろうと思う。

 旭川市のオサラッペ川上流に「其辺の岳をイセツフノホリ、ヤニノホリと云、相応の川有るよし也」と安政4年の松浦武四郎の記録にある。明治の北海道実測切図では現在の伊阿根山に「イセップヌプリ」、現在の雲居山に「エアネヌプリ」と山名が振られる。ヤニノホリ/エアネヌプリを e- ane nupuri[その頭・細い・山]と考えると伊阿根山でなく雲居山の山容が合致するので、現在の伊阿根山がイセツフノホリ/イセップヌプリと思うのだが、イセップという川の水源の nupuri なのか、山そのものがイセップなのか、イセップという川の記録を見ず、よく分からない。語末が「セップ」のアイヌ語地名として挙げるに留める。

・「マウ」が語頭でないかとされるアイヌ語地名

 永田地名解から見ていく。

 新ひだか町静内真歌の地名の発祥であるマウタサップは静内川河口から南東約1.2kmと1.4kmの海岸線の急斜面から落ちる小川で、1.2kmがポンマウタサップ、1.4kmがポロマウタサップである。扇谷昌康(1997)が maw tasa p[風・を交わす・もの(丘)]と考えるとするが、地名としては丘ではなく川であり、交わされるにしてもここでの風は自然の空気の流れであって目に見えず、気象条件で大いに変動する。急斜面の海岸から、海岸線に対してほぼ直角に急に丘に上がる、hur or ta he- os -i p[山の斜面・の所・で・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]の転がマウタサップと考える。扇谷昌康(1997)が類例として挙げる日高町清畠の賀張川河口の西方約500mのマウタサップも海岸の急斜面の所で海岸線に対してほぼ直角にあり、同じと考える。永田地名解が同所を「マウタサン 玫瑰ヲ採リニ下ル処」とするのは、続けて「『マウタサ』は悪気ノ義ナリト説クハ非ナリ」とあるので、語末の p が m に訛っていたのを maw tasum(風・病)だと聞かされたのを元の音だと思って解釈を試みたものではなかったか。


静内真歌地図

清畠地図

豊牛地図

万揃地図

 同じく類例として挙げられる浜頓別町豊牛のマウタサエは北見神威岬の山地の急斜面が海岸に沿って連なるのが途切れた北の端の辺りから海岸線に対してほぼ直角に海に出る小川だったようだが、hur or ta he- os -i -i[山の斜面・の所・で・頭・後ろ・(他動詞形成)・もの(川)]と考えるには山の斜面から離れているように思う。マウタサエの源頭の脇に明治の地形図でチペイカウシュヌプリという山があり、アイヌ語の ca pe ika us nupuri[その縁・上手・を越えて近道していく・いつもする・山]と思われ、海浜後背の豊寒別川の中上流域から豊寒別川下流部の湿地を避けてチペイカウヌプリの縁を越えて海浜に出て往来する為の mak ta san -i[後ろ・で・ 浜へ出る・処]の転がマウタサエでないかと思う。

 浦河町絵笛のマオナイは、松浦武四郎の安政3年の日誌に「マヲナイ」とあって、マヲナイのすぐ西のチヤシコツから絵笛川を上流側で渡って更に西のシリエト(浜東栄)に下りる山越え道があったことが書かれている。マオナイは ru w o nay[道・(挿入音)・ある・河谷]の転でないかと思う。

 長沼町にあった馬追沼に北方から注いだマオイ川は maw o -i[ハマナスの実・ある・処]と言われ、今もハマナスが自生しているのは古石狩湾の浜辺であったからなどと言われるが、岸辺にハマナスがあっても巨大な沼の名が注いだ小川に生えたハマナスの実の名で呼ばれるとは考えにくい。馬追沼に注いでいた河谷の一つにポロナイがあり、今の幌内神社と国道274号線の間の谷である。松浦武四郎は安政4年にこの谷から古山・由仁へ山越えしている。アイヌの人たちの使う馬追丘陵越えの道があったということで、ru w o -i[道・(挿入音)・ある・処]の転がマオイと考える。明治時代の地形図で馬追沼の北方から注ぐ小川にマオイ川と振られているのは馬追沼の北方の一部が小川並みに細くなっているということではなかったか。

 新冠の万揃川(まんそろがわ)は松浦武四郎の安政5年の日誌に「マウニシヨロ」とあって、ハマナスの木が生えているなどと言われるが、万揃川は深い河谷が新冠川の河谷から引っ込んでいる。rawne us or[深い・湾・の所(川)]の転がマウニショロでないかと考えてみるが、moy のように陸上の湾状の地形も us という資料は見ていない。万揃村(まんそろえむら)の名として指す領域を広げて rawne us or o -i[深い・湾・の所(川)・ある・処]が訛ったのがマンソロエでないかと考えてみる。

 厚岸町末広(まびろ)のマウピロロは永田地名解に「風蔭ノ処 『マウピリオロ』ノ急言、『マウ』ハ風、『ピリ』ハ蔭、『オロ』ハ処」とあり、湾をなして風当たりは周辺より多少弱そうだが、言うなら風の蔭ではなく山の蔭だろう。松浦武四郎の安政5年に日誌に「マヒロ」とあり、「浜也。此処に小川有。上は平山赤楊原。昔し此処船澗なりしが、今は不宜由申て、今は船澗ならず。」とある。また、しばし東行してケニホキ(嶮暮帰)などの島を見て「ホンマヒロ」とある。マピロから丘に上がって東行して嶮暮帰島など見て、ポンマピロは下に見下ろして通過だったようである。末広の前浜は緩く大きな湾である。moy pa(ca) or[入江・の縁・の所(川)]の転がマピロと考えると、末広の浜の最も西の小川と、滝の下よりは西で末広の浜の東寄りの小川らしいポンマピロを説明できると思う。マウピロロは moy pa(ca) w or[入江・の縁・(挿入音)・の所(川)]でないか。

 末広に前半が似た音のマーパオマナイが明治期の地図で苫小牧の有珠川にあり、樽前山側から落ちてきて札幌本道に突き当たって東に折れて札幌本道の山手側に平行して流れ、樽前山神社の辺りで苫小牧川に合流していた。苫小牧川のすぐ手前で海に落ちる水路があった時代もあったという。入江(us)は考えにくいとは「有珠の沢」や「ウシの沢」の表記例も記す山田秀三(1984)が指摘している。os -na[後ろ・の方]の転が「うすの」で道の後ろの方であり、大きな道の傍にあるということが注目された、ru pa(ca) oma nay[道・の縁・にある・河谷]の転がマーパオマナィのような気がする。

 島牧村千走川上流のマウニウシは松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図とその下図の川筋取調図にあるが、安政3年の日誌の高倉新一郎解読本ではマウスウシだが、松浦孫太解読本ではマウニウシである。音もはっきりしないが、図の川筋を見ても日誌の文を読んでも千走川のどの支流にあたるのか位置の見当がつかないのでマウで始まる千走川筋のアイヌ語地名として挙げるに留める。

参考文献
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(2023年11月19日上梓)