山名考
ニセコアンヌプリ
![]() 松浦武四郎 巳手控 「第二十番フイラより」模写 「岩」の字は岩の存在を示すのではなく 岩内岳ということと思われる |
松浦武四郎の安政4年の尻別川下降の際の記録で、羊蹄山とニセコアンヌプリに挟まれる辺りの所々で尻別川右岸側に見える「岩内岳」とされる双耳峰が今のニセコアンヌプリである。
同年の洞爺湖の北の武四郎坂の上付近からのスケッチでもニセコアンヌプリの位置と山容の山に「岩内岳」とある。今のニセコ連峰北西端の岩内岳の、イワナイ(岩内)の岳としての岩内岳とは別物である。
山の履歴簿(2013)はこの尻別川から右岸側に見える岩内岳をイワオヌプリとするが、尻別川筋の比羅夫駅南方の第二十番フイラからの松浦武四郎が「岩内岳」として双耳峰のように描く山をイワオヌプリと見るのはニセコアンヌプリの裏になるのと山容の違いで無理である。イワオヌプリらしき山はニセコイトウ橋上手辺りの第五十四番フイラから「岩内硫黄山の巓を亥に始て見たり」とあり、岩内岳とは別の山と区別していることが分かる。
尻別川筋のイワオナイは、松浦武四郎の安政4年の日誌でハンケイワヲナイが今のニセコアンベツ川でハンケイワヲナイとある。下のパンケと対になる上の川はヘンケユワヲベツが今の硫黄川だが語末がナイでない。東西蝦夷山川地理取調図だとハンケイワヲナイに相当する川がハナワイワヲナイとあり、硫黄川に相当する川がヘンケイワナイとある。硫黄川源頭がイワオヌプリの北側に及んでいる所を見るに、硫黄川の源頭ではなく、ニセコアンベツ川源頭の岳としてのニセコアンヌプリの名があるように、パンケイワオナイの源頭の岳としてのイワオナイの岳、岩内岳であったように思われる。
![]() 松浦武四郎 巳手控 「左之図はトウヤの上の辺より見る処也」画角の左凡そ3/4模写 |
松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図にある「チセ子シリ」をデータベースアイヌ語地名1(1997)は現在のニセコアンヌプリとする。山の形状がチセ型であることによる。チセネシリに似た名で山容もチセ型でニセコアンヌプリと似ているチセヌプリが同じニセコ連峰の中にあるが、同じくニセコ連峰のイワオヌプリと思われるユワヲノホリより東にチセ子シリは東西蝦夷山川地理取調図で二つだけのニセコ連峰の山として名が振られていることから、チセ子シリはチセヌプリより高く目立つ現在のニセコアンヌプリということで首頷したくなる。
だが、チセ子ノホリという山が松浦武四郎の安政3年の聞書きにある。チセ子ノホリヤンヘツという尻別川の支流がチセ子ノホリから落ちて来ていて、その後ろが岩内岳に当るとかなどとある。聞き書きの地名の登場順序からチセ子ノホリヤンヘツは今の馬場川のようである。馬場川の奥にチセヌプリがある。チセ子ノホリとチセ子シリがチセヌプリとニセコアンヌプリの距離の間で別の山であったとは考えにくい。安政4年の記録同様に、ニセコアンヌプリが「岩内岳」で、チセヌプリとは別の山と考える。
ニセコアンヌプリという山名が出てくるのは1891(明治24)年の北海道実測切図が早いようである。
ニセコアンベツ川を指すアイヌ語は nisey ko- an pet[断崖・に向かって・ある・川]とされる。この川の名も1891年の北海道実測切図にニセィコアンヘッとあるのが早いようである。同年の永田地名解では「絶壁ニアル川」と訳され、同名の川が天塩の鬼鹿川筋にもあり「直訳絶壁ノ方ニ在ル川」と注釈がある。
データベースアイヌ語地名1(1997)はこの nisey をニセコアンベツ川の昆布温泉のさらに上流側としている。
データベースアイヌ語地名1は ko- の「〜に向かって」という訳の意味があるから、川は下流から上流へ向かっていくものというアイヌの人達の河川観で見るなら、向かってあるのは川尻の尻別川の峡谷ではなく上流側の断崖と考えたのではないか。だが新しいアイヌ語辞典には ko- が場所を受ける場合は「〜に」や「〜で」という進む向きに捉われない訳がある。ko- の訳の一つの「と一緒に」は近接という静的な関係である。ニセコアンベツ川の上流は峡谷だが、川の上流部が峡谷に向かってある川なら語頭に e-[その頭]が付いてエニセイコアンペッのように言うと思う。ニセコアンベツ川は上流部で峡谷を通り過ぎて更に上流の五色温泉のある開けた窪地に向かっている。峡谷をニセコアンベツ川上流域の峡谷と見ての nisey ko- an pet は違うと思われる。
山田秀三(1984)はこの nisey を尻別川本流の峡谷でないかとしている。
尻別川の峡谷は松浦武四郎が安政4年にポーテージとライニングダウンを多数交えて川筋を舟で下り踏査している。その記録によると尻別川の峡谷の難所は樺山地区辺りのシベッチャンと真狩川落ち口付近の二ヶ所が主とアイヌの人達の間で見なされていたようである。安政3,4年の調査に基づくとされる東西蝦夷山川地理取調図の下図の一つである川々取調帳に「ニセケイ(ママ)」と「ホロニセイケ」の文字がマッカリペ(真狩川)の河口より上手のシリベツ川筋に振られ、この二ヶ所が真狩川落ち口付近とシベッチャンの難所にそれぞれ相当しそうである(東西蝦夷山川地理取調図では「ホンニセイケ」と「ホロニセイケ」の文字と夫々の峡谷描写)。ニセケイはニセイケ(nisey -ke[峡谷・の所])の音韻転倒か、松浦武四郎の誤記か。真狩川河口より下手のニセコアンベツ川落ち口付近が尻別川筋のニセケイやポロニセイケであったとは考えにくい。ニセコアンベツ川落ち口付近の尻別川の谷底の幅が狭まっているということもなく、谷壁が特別高いということもない。ニセコアンペッの言う nisey が尻別川本流の峡谷というのも違うように思われる。
川々取調帳の尻別川筋は安政3年の紀行時の隊長にあたる向山源太夫が所持していた文政4年以降成立の間宮林蔵による北海道実測図から抜き写したものと思われるが、間宮林蔵の北海道実測図ではニセケイとホロニセイケの記載はない。
日高の袴腰山に突き上げる、ニカンベツ川支流の明治期の地図にニシュクアンペッとある沢は、落ち口より上手の本流のニカンベツ川沿いが峡谷になっており、nisey -ke o- un pet[断崖・の所・の尻・にはまる・川]と考えられそうである。
ニセコアンベツ川と思しき川は松浦武四郎の安政4年のアイヌの人からの聞書きでパンケイワナイとある。「その水わろくして硫黄の気有」と書かれ、データベースアイヌ語地名1にニセコアンベツ川が通常乳白色とあるから、上流の昆布温泉の温泉水が流入していることによるのだろう。層雲峡温泉の源泉のアイヌ語地名で usey[湯] が使われているものがあり、usey -ke o- un pet[温泉・の所・の尻・にはまる・川]が訛ってニセコアンベツでないかと考えてみたが、usey はアイヌ語沙流方言では無色透明の白湯のような主に飲用の湯をいうようである。石狩上川地方よりは沙流に近い尻別川流域で usey で飲用不適で有色の昆布温泉を言っていたとは考えにくそうである。
永田地名解にある天塩のポロオニシカ(温寧川)筋のニセイコアンペッを明治期の二十万図と五万図に見ないのだが、松浦武四郎の安政3年のホロヲニシカ(温寧川)筋の調べに「ニセーコアンヘツ」とある。この調べで他にホロヲニシカ筋で挙げられるのは下手側にサンケヲニシカ(永田地名解ではサンゲペッ)だけで、フィールドノートである手控を見ても、案内のアイヌの人からの教授であったことを思わせる他の天塩海岸の河川の支流では一部にある左岸支流か右岸支流かの追記もない。東西蝦夷山川地理取調図には安政3年のこの調べを活かさなかったようでニセーコアンヘツもサンケヲニシカもホロヲニシカ筋に登場しない。
向山源太夫所持の北海道実測図には「ニセーコアンベツ」があって温寧川の右岸支流である。安政3年の松浦武四郎はこの隊長所持の図から抜き出したようである。大きな右岸支流として描かれており、温寧川の大きな右岸支流の鈴木ノ沢かと考えたくなるが、北海道実測図の一部の大きな川筋に見られる測量に基づく測線はホロヲニシカ筋にない。明治期の北海道実測切図では温寧川本流標高40m弱の右岸支流に「ポンオニウシュカペッ」とあり、鈴木ノ沢は付名がない。だがこの支流のポンオニウシュカペッは流長も流域も小さく、右岸支流で流長や流域面積で見て温寧川の最大の支流である鈴木ノ沢の方がポンオニウシュカの名にふさわしいように思われる。
![]() 北海道実測図の ホロヲニシカとホンヲニシカ筋模写 奥に沼があるといった伝があったか |
![]() 北海道実測切図の オンネオニウシュカペッとポンオニウシュカペッ筋模写 上流部の四ヵ所に滝の印がある |
![]() 東西蝦夷山川地理取調図のホロヲニシカとホンヲニシカ筋模写 北海道実測切図のオンネオニウシュカペッ支流のポンオニウシュカペッはこの図を参考に付されたと思われる |
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温寧川を指すポロオニシカのオニシカについて山田秀三(1984)は「語意ははっきりしない」とする。温寧川はポロオニシカの他に単にオニシカともオンネオニシカともされた。
ポンオニシカが温寧川のすぐ南に並流する番屋沢であることを考えると、番屋沢と温寧川とで共に持つ間の尾根にオニシカの名の元があったと考えられそうである。番屋沢を単にオニシカとする伝もある。
松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図のホロヲニシカ筋の支流名は安政5年の聞き取りによる。最も下手の左岸支流のヲニシカイカリを、ONISIKA e- kari -i[オニシカ・の先・を通っていく・もの(川)]と考えると、オニシカの発祥は温寧川と番屋沢の下流域の間の尾根にあったと考えられそうである。
松浦武四郎の安政5年のヲニシカ筋の聞書きに「ニセイコアンヘツ 此処こゆるやコタンヘツのサンケヘツの源えこゆるよし」とあるが、最後の二つの支流名のサンケヲニシカとニセイコアンヘツだけ、左右と大小の説明がない。またこの最後の二つの支流名は北海道実測図にあって東西蝦夷山川地理取調図に無い。アイヌの人から聞き取って、安政3年に隊長持参の図で見た支流名が出てこなかったので問うたら、「そういう支流の別の呼び方もあったような」という感じでアイヌの人が最後にニセイコアンヘツを過ぎた所から三毛別川の上流に越えるのだと説明したように見える。
サンケヲニシカはオニシカの名を受けており、温寧川の大支流と思われ、松浦武四郎の安政5年の古丹別川支流サンケベツ(三毛別川)の名についての聞書きで「近き川と云事也」とあることから、三毛別川同様に本流に対して浜手に近い大支流である鈴木ノ沢のことであったと考える。サンケは hanke[近い]か。
サンケオニシカの次の右岸支流で、二つだけ挙げられた支流で、過ぎてすぐの所で三毛別川方面に越える所があると考えられるのは北海道実測切図でポンオニウシュカペッとされた温寧川本流標高40m弱の右岸支流である。これがニセーコアンベツ/ニセイコアンヘツと考える。
温寧川筋はニセイコアンペッを過ぎてから谷幅が狭まり谷壁が立ってくる。ニセーコアンベッ/ニセイコアンペッはニカンベツ川筋のニシュアンペッに同じく nisey -ke o- un pet[断崖・の所・の尻・にある・川]と考える。
尻別川筋で谷幅が狭まり谷壁の崖が高くなるのは真狩川落ち口より上手で、真狩川落ち口からニセコアンベツ川落ち口までの間にルベシベ川と名無川という相応の川があり、ニセコアンベツ川が断崖の所の尻にあるとは言えない。
ペンケイワナイの硫黄川とパンケイワナイのニセコアンベツ川は五色温泉の上で谷中分水界で連絡している。イワナイが e- aw ne -i[その頭・内・である・もの(川)]と考えると、ペンケイワナイとパンケイワナイの上下がこの位置であることを説明できそうである。
ニセコアンベツ川の落ち口が尻別川の断崖の所の下端にあるとは言えないが、上流域は尻別川の断崖の所に平行する位置にあり、通過困難な尻別川の断崖峡谷部を避けてその下流側(尻の方)から山地の内側に入りこむ川とは言えそうである。パンケイワナイ/パンケイワオナイを言い換えた nisey -ke o- o- aun pet[断崖・の所・の尻・そこで・入る・川]の転が尻別川筋のニセィコアンペッであったと考える。
そういう名の川の源頭の岳ということで、川を指す pet を除いて山を指す nupuri を付けてニセコアンヌプリという山名である。
参考文献
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
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松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
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永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
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松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
木崇世芝,近世日本の北方図研究,北海道出版企画センター,2011.
北海道実測図,国立公文書館蔵(178−0182).
北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
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松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
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