山名考

室蘭岳/鷲別岳

 新日本山岳誌は「山名はアイヌ語の『チワシペツ』(波立つ川)からきており、1890年道庁20万図にも鷲別岳とある。室蘭の人たちは『室蘭岳』と呼んでいるが、正式な名称は鷲別岳である。」としているが、国土地理院の地形図の記載を以って正式とするならば、地形図に「鷲別岳(室蘭岳)」と書かれているのだから、鷲別岳も室蘭岳も今の正式であろう。道庁20万図の1890年より古い松浦武四郎の江戸時代の記録には今の室蘭岳に通じるモロラン嶽/モロラン岳が何度も出てくるが鷲別岳に通じる山名は見られない。山田秀三(1979)はこのモロラン岳/嶽を描かれた姿などから当時の鷲別岳(現在の室蘭岳)と同一としている。道庁20万図にあるというだけで室蘭岳を排他する「正式」と言えるのだろうか。

 当頁では私自身の個人的な山名の出た会話の体験で鷲別岳より室蘭岳の方が多かった印象と、北海道夏山ガイドの「室蘭岳の呼称が多く使用されている。」より、室蘭岳を主として扱う。

 Wikipediaの鷲別岳の頁(2020年1月現在)には「江戸幕府が正式に決めた鷲別岳の呼び方が正しい名称であるが、室蘭岳(むろらんだけ)の別名でも知られている。」などとあるが、江戸幕府の役割に山名を決めると言うことはあったのか。山名に「正しい名称」などというものがあるのか。Wikipediaの鷲別岳の項に挙げられた出典の日本歴史地名大系に「江戸幕府が正式に決めた鷲別岳」といった記述を確認出来ない。


東遊奇勝のスケッチ模写
六頁に亘る横長の絵の一頁分で、右頁中の手前の
エヒス岩(恵比寿島)の右端と奥の絵鞆岬が縦軸上に
並ぶことから描画位置を推定。モロラン山の文字は
下の海上なのでモロラン山とは元室蘭の丘越えの山の
事かとも考えたくなるが、左頁中のヲシヤリベツ山の
文字も海上にあり、奥の徳舜瞥山とホロホロ山を
指すのでモロラン山は室蘭岳の事である。

 寛政11年の東遊奇勝の、サワラ(砂原)から江友(絵鞆)への内浦湾の恵比寿島南西方の船中からのスケッチでは、元室蘭と思しき出崎の奥に「モロラン山」、その右手の大黒岩の後ろのモロラン山の奥側に「ワシヘツ山」とある。今の室蘭岳が「モロラン山」で、カムイヌプリが「ワシヘツ山」ということだろう。東遊奇勝は江戸幕府の蝦夷地調査の紀行でスケッチは隊員の画家の谷元旦だろうが、江戸幕府が決めたわけではないが、江戸幕府の末端が認めた今の室蘭岳の名は「ワシヘツ山」ではなく「モロラン山」であったとは言えなくもないかもしれない。松浦武四郎の安政3年の報文日記中の「モロラン岳」も江戸幕府に雇われての納められた記録であるから、江戸幕府の末端が認めた室蘭岳の名とは言えるかも知れない。江戸幕府開成所発行の慶応3年の官版実測日本地図は、松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図を元にしているが、モロラン岳はあるが鷲別岳に類する名が無い。

 安政年間の野作東部日記に鷲別川の水源が鷲別山とあり、宮武紳一(1990)が「江戸幕府の命により、蝦夷地調査に当った市川十郎の『野作東部日記』に『鷲別川の水源は鷲別山で北三里』と鷲別山の存在を示している。」として、「江戸幕府」と「鷲別山」が絡められて登場しているが、この記述かこの連載をまとめた本などに因って「江戸幕府が正式に決めた鷲別岳」と書かれたのなら、「山」と「岳」の違いは置くとしても曲解との誹りは免れまい。尤も他に出典はあるのかもしれないが。Wikipediaの鷲別岳の頁に最初に「正式」と「江戸幕府」が登場した前身の室蘭岳の頁の2011年2月5日午前4時の変更を見ると、新しく「正式名称は江戸幕府が正式に決めた'''鷲別岳'''(わしべつだけ)の方であり、今でも正式な地図上では"鷲別岳"と記載されている。」とあり出典は加えられておらず、三回もの「正式」の連続を見るに未記載の出典となった文献があったとしても、誰でも参加出来るが故に避け得ない百科事典としてのあり方にそぐわない変更だったのではないかと思う。地名というものがどのように出来上がってきたかを考える日本歴史地名大系を執筆するような人は、地名について「江戸幕府が正式に決めた」、「正しい名称」などと書いたりはしないだろう。

 野作東部日記では海岸近くの鷲別川渡渉点辺りから北に三里ということと、東方の「白生(白老)ヨリ鮮ニ見ユ」とあるので、「鷲別山」は北西方の今の室蘭岳(鷲別岳)より、北方のカムイヌプリと考える方が妥当のように思われる。鷲別川は室蘭岳からもカムイヌプリからも流れ出ている。室蘭岳とカムイヌプリでは室蘭岳の方が標高が高いが、白老や幌別から見れば近いカムイヌプリの方が高いのではないかと思う程度の標高差である。

・ハソイワ・鷲別

 山田秀三(1984)は鷲別について「知里博士も『ワ・ペッ。チワペッ(chiw-as-pet。波・立つ・川)の上略形か』と書いた。」と、知里真志保(1958)の説を引用しているが、上原熊次郎の has pet[柴・川]説に傾いているようである。

 室蘭岳の別名として、ハソイワ/アソイワがある。池田実(2003)が胆振の漁師からの聞き取りと江戸期の資料の検討でハソイワ/アソイワを今の室蘭岳と確定している。ハソイワ(蓮巌)はハシの水源の iwa[霊山]ということで、ハシかアシといった音が鷲別の pet の前の音と考えてみる。


箸別川河口付近を入口とする
冬道推定

鷲別川付近から山間を通って西へ向かう
明治前期の地形図にある道の地図

 松浦武四郎の東蝦夷日誌に鷲別浜の辺りについて「ルウハロ」とある。山田秀三(1979)がどの方面への道の口かは分からないが ru-par[道の口]で、野作東部日記で「追分」とも書かれていることから鷲別が交通の要衝であったと分かるとしている(或いは ru paro[道・の口]か)。ルウハロの文字は松浦武四郎の手控(フィールドノート)や報文日誌に出てこないようなので、アイヌ語地名としてあったのか疑問は残るが、口頭だけで終わったアイヌの人とのやり取りの記憶に基づいて東蝦夷日誌に書かれたのかも知れない。

 増毛の箸別川は松浦武四郎の安政4年の日誌に「ハシベツは此川上に石炭有るによつて号るなり。バシは炭也。ヘツは川也。」とある。西蝦夷地名考では「バシベツ」で立項され「バシとは走り通る事、ベツは川也。」とされ、pas pet[走る・川]と解釈したようである。箸別(はしべつ)の元のアイヌ語の音が PASPET であったことを思わせる。また、寛文9年頃の記録をまとめた津軽一統志では「ワシ別」、「わしへつ」とある。箸別は鷲別の類例と考える。

 西蝦夷地名考は「以前は海ぎわばかり通りし由也。海底は高石もなく瀬もよわし。少々浪有時にても、浪待をして浪之節走り渡るゆへ名とす。」と続く。

 留萌などの北方から増毛方面に海岸沿いを移動してきて、積雪がある時期なら箸別川河口から今の国道のある台地に上がり、今の増毛の市街地の内陸側を横断してオタロマナイ(小樽間内)河口へ直進すると、日本海に突き出た増毛の中心部をショートカットするので早道となる。オタロマナイからはすぐ南西の別苅で増毛山道の尾根に上がれば浜益方面へ抜けられる。オタロマナイは、o- ru or oma nay[その尻・道・の所・にある・河谷](或いは内陸路と増毛運上屋方面への道が分岐する o- ru awe oma nay[その尻・道・の股・にある・河谷]か)、箸別川は pa us pet[口・についている・川]で、母音が連続することで片方が落ちて PASPET になったと考える。

 白老など東から来ると、鷲別川河口付近で絵鞆方面へは外海に沿った浜道へ、長流・有珠方面へは白鳥湾岸の崖岬とヤチを避けて楽山の後ろを通る山道へ分けるのが早い。文化2(1805)年にこの山道が開削され馬での通行も出来るようになったというが、元はアイヌの人々が歩いて使っていた道を改修したものだろう。明治23(1890)年の地形図に同様の道が記され、松浦武四郎の江戸時代の通行記録を読むと、大体明治の地形図と同じだったようである。この長流・有珠方面への山道の入口である pa[口]で、そこに付いている川と言うことの、pa us pet[口・についている・川]がワシベツと考える。pet を省いてその川の水源の霊山ということの、pa us iwa[口・についている(川の水源の)・霊山]がハソイワではなかったか。

・室蘭

 山田秀三(1984)が、「語意には,諸説あるが,たぶんモ・ルラン(mo-ruran 小さい・坂)から来たものであろう。正確にいえばモ・ルエラニ(mo-ruerani 小さい・坂)である。崎守町に入る坂の名から出た名らしい。」としているが、何に比べて小さいのかがはっきりしない。この説は上原熊次郎の地名考をベースとしている。


元室蘭・崎守町の地図

 永田地名解の室蘭郡の項に「取ルニ足ラズ」な説として、「和人某附会シテ云室蘭ハ『モールラン(Moru ran)ナリ肉襦袢ニテ阪ヲ下ル義昔シ婦人アリ山中熊ニ逐ハレ衣ヲ脱キ棄テ僅ニ肉襦袢ノミニテ山ヲ下リ『ホト゜エウシ』ニ来リ舟ヲ呼ビ乗リテ纔ニ熊害ヲ免レタリ故ニ名クト」というものがある。

 この説は山田秀三(1979)も取るに足らないと考えたようで永田地名解から諸説を抄出しながら「尚和人付会説を掲げてあるが省く」としている。松浦武四郎の安政3(1856)年の手控(フィールドノート)にも同様の話があり、「モロラン 袋着て上(あがっ)た むかしエトモの岬に軍(いくさ)が有てせめられし時、女一人残り、其女袋を着て游ぎ此処に上りし由」とある。アイヌ女性の肌着の mour は袋状である。和人が語ったのかアイヌの人が語ったのかは書かれていないが、前後がチマイベツ川の川上を含めた詳細な状況と鷲別川の漁獲についてであり、更に前後は他の胆振の川筋の内陸側や人家の過去を含めた所在についてであり、片言のようなモロランの「袋着て上た」を合わせて見るに、アイヌの人の語ったことの聞き取りと思われる。

 mour ora yan[女性の肌着・その次に・陸へ上がること]とアイヌ語の音で解釈したと思われるが、mour を着るのはともかく戦で残された女性が絵鞆発で白鳥湾を泳ぎ渡る必然が話の筋にない。肌着と女性は別物で、この話で大事な上がった主体は肌着より女性だろう。室蘭の音の説明に絵鞆から元室蘭に白鳥湾を渡ることに合わせて他の事が含まれていたが、伝承される過程で肝心な所が落ちて面白おかしく入れ替わったと考える。また、永田地名解は絵鞆のアイヌの人の言い伝えとして、絵鞆と元室蘭を舟で往来して元室蘭側の山で猟をしていた話を記す。

 アイヌ語で「ETOMO tumius -i」と言えば「エトモで戦があった時」だが、「ETOMO tomo(/tom) eus -i」なら「エトモの向かっていく対象の位置が先に付いている所」となりそうである。「mat puyne iyokane」と言えば「女が一人で残る」だが、「mak par ne. e- ok un -i」と言えば「後ろが口である。その上の方が『うなじ』(たわみ)にあるもの(/川/所)」或いは「後ろが口である。『うなじ』(たわみ)の方に向かうもの(所/川)」となりそうである。説明は全て北方から来て室蘭半島先端部へ行くのに白鳥湾を渡る時に使う所ということであったと考えられそうである。また、mour に附会されているのは、「むろらん」の「む」が元は二音節であったと思わせる。

 有珠や室蘭岳山腹など北方から元室蘭の白鳥湾という入江(moy)に長尾根の撓んでいる所を越えて下った処から白鳥湾を渡ると室蘭半島先端部にある絵鞆などのコタンに帰るのが早くて便利ということの、moy or o- ran[湾・の所・そこに・下ること]が「むろらん」の元の言葉だったと考える。アイヌ語沙流方言で室蘭を Muroranusi というのは、moy or o- ran usi[湾・の所・そこに・下る・する所]と考える。崎守町の「さきもり」は元室蘭の坂が越えた長尾根の所の川ということの元室蘭川を指した、sikuma or o -i[(大きい)横山・の所・にある・もの(川)]の転ではなかったか。

 松浦武四郎の弘化2(1845)年の記録には「モロラン。訳し而(やくして)?(はだか)ニ而(て)游ぎ渡りしと云ことなるよし。」とある。白鳥湾を渡ることに合わせて、mour o- ran[女性の肌着・そこで・落ちること]と解したものか。

参考文献
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(2020年1月19日上梓)