山名考

稀府岳
まれっぷだけ

 安政3-4年の調査記録の野作東部日記の、市川十郎の安政3年調査分らしき有珠善光寺南西傍の海縁の小山の弁天山(有珠会所跡北北西約100mの標高20m弱の小山のようである)からの方位卯十七分、矢阿向能振(アイヌ語で「ヤアモイの所の山」の意のようで有珠善光寺東南東方約400mの標高35mの小山のようである)からの方位卯廿四分とある高頂の「笑鞠々府山」は現在の稀府岳のことのようである。

 松浦武四郎の安政4年の日誌本文に「イマリマリフノホリ」とあるのは稀府岳の事のようである。同年の手控のケップ子イからのスケッチには「イマリマリフ山」とあるが、スケッチを元にした日誌の挿画ではその山に山名がない。

 稀府の岳の意と思われる。稀府川の水源には位置していない。だが稀府の語源と言われるアイヌ語のイマリマリは谷藤川とされ、稀府岳は谷藤川の水源にはあたる。また、稀府川支流牛舎川の水源でもある。水源の一つであるが、谷藤川も牛舎川も稀府岳より奥に更に入り込んでいる。

広域地図

・イマリマリプ

 稀府(まれっぷ)は谷藤川を指すアイヌ語のイマリマリから来ているといわれる。イマリマリの永田地名解にある「苺ある所」という解釈は、omare が三項動詞で emawrip の二項しかなく、アイヌ語として文法的に破綻するので棄却される。イマリマリi- woromare p[それ・をうるかす・もの]の転訛でなかったかと考えてみたが、川が何かをうるかすとは考えにくい。何かをうるかすにしてもうるかすのは人で、うるかすことをいつもする川のように言うだろう。別の地形に即した本当の意味があったのではないかと考える。

 山田秀三(1984)は東蝦夷日誌の「名義、游ぐ形云り」を「どう読んだのか分からない」とし、続けて永田地名解の苺説とアイヌの人のイマリマレプ又はイマリマリプという発音を引用し「検討のいる地名である」とする。

シュウレルカシュペ付近の地図

 新冠川筋にシュウレルカシュペ沢とモウレルカシュペ沢がある。向かい合って本流の新冠川に落ちる支流である。永田地名解に「向合川」と訳がある。

 地名アイヌ語小辞典に ununkoy の項がある。語源は示されていないが u- rerke o -i[互い・の向こう・にある・所]で、峡谷の絶壁が両岸で向き合っていることを指すと思われる。rerke の訳をイタリックとしたのは辞典等に見ていない訳故。地名アイヌ語小辞典で rerrerke がほぼ同義であるので、rer の長形を rerke と推定し、rer の項にしかない「=kus」から位置名詞の「の向こう」と訳した。

 シュウレルカシュペ・モウレルカシュペのシとモを除いた部分は u- rerke us pe[互い・の向こう・についている・もの(川)]で、向き合う川であることを言っていたと考える。松浦武四郎の安政5年の聞き書きの手控では「モウレヽカシベ 右小川・・・源シヒチヤリ、イトンナイ山と合するよし」と、「シウレヽカシベ 左中川・・・源サル、ヌカ平より来りしシュクシヘツに枕するよし也」とあり、シが大きい方でモが小さい方ということだろうが、シとモは今の地形図の位置は反対で、モが左岸支流でシが右岸支流のようである。明治期の地形図でもモが左岸支流でシが右岸支流となっているが、いつどうして入れ替わってしまったのか。

 谷藤川沿いを河口から見ていくと、道央道の谷藤川橋が跨ぐ所(谷底の標高が100m付近)は箱型の谷藤川の谷地形で山裾に入り込んでおり、谷の側壁が平行して立っている。谷藤川の奥の谷底の標高が200m辺りの山間部にも側壁が立った深い峡谷になっている部分があり、多分 ununkoy と呼ばれうると思うが、山深く現地まで行かなければそういう所であると分からない所である。谷藤川橋の所なら谷藤川下流域や弄月川のある広い緩斜面のどこからでも箱型の谷から谷藤川が出てきているのが見える。

 地名アイヌ語小辞典に ururu の項があり、アイヌ語樺太方言で「どて;堤」の意とされる。バチラーのアイヌ語辞典では Ururu が「川岸ノ高キ個所,土穴ノユカ.」とある。

 寛政11(1799)年の東遊奇勝では谷藤川と思しき川はイマリマニヘツとある。

谷藤川橋付近の地図

 谷藤川の、この箱型の両側を堤防で区切られたような谷の中を通る姿を u- rere kari p[互い・の向こう・を通っていく・もの(川)]とアイヌ語で言ったのがイマリマリの語源と考える。イマリマニヘツは u- rere kari pet[互い・の向こう・を通っていく・川]と考える。

 kari の訳をイタリックとしたのは辞典等に見ていないからである。見たのはアイヌ語沙流方言辞典の後置副詞としての karipes、アイヌ語千歳方言辞典の格助詞としての karipes、言語学大辞典のアイヌ語の項の、多くは他動詞の転用の目的格人称接辞をとる後置副詞の同類であろうとされる人を表す名詞と結びつかない後置副詞の kari「〜を通って」と pes「~に沿って下の方向へ」の例である。新しい言語学者の手になるアイヌ語辞典を見てみると、アイヌ語千歳方言辞典に二項動詞としての karipes の項はなく、アイヌ語沙流方言辞典では他動詞としての pes はなく他動詞としての kari は「を回す」の意しかないが、少し古い言語学者の手になる地名アイヌ語小辞典には不完動詞(他動詞)としての pes[それに沿うて下る] がある。また、アイヌ語地名に頻出のルベシベツは pes を他動詞(二項動詞)として ru pes pet とするしか解釈のしようがないように思われる。以上より、他動詞(二項動詞)の kari[〜を通っていく]の存在を推定する。

 rere をイタリックとしたのも辞典等に見ていないからである。地名アイヌ語小辞典の rer の項には長形の記載がなく、アイヌ語沙流方言辞典とアイヌ語千歳方言辞典には rer の項がないが、先行詞のない場合の位置名詞は長形が用いられる(が、接頭辞も先行詞とされるのかもしれない短形の u- ka o p としか考えにくいウカオップの例がある)。ururu の、第二音節以降は rer の長形の短い形の一つが元で、それが rere であったのでないかと考えた。母音 e+子音に終わる語幹に付く所属語尾は -e の場合が多いので rer の長形として rere を考えたが、所属語尾の付き方には例外もあるようなので reru も考えられるか。根拠としては弱いかとも思うが、市川十郎が測量しながら聞いた音に漢字を宛てたのだとしたら、笑鞠々府の鞠(まり)の日本語でのアクセントは後ろの「り」にあるので三文字目が第二音節の閉音節末ではなく、開音節の第三音節と考えた方が適当と考えた。短形が閉音節で終わり、母音の接尾辞がつかずに長形になる位置名詞の例は長形に orke のある or がある。

 愛別町の石狩狩布川は山田秀三(1984)が愛別川の石狩川本流寄りを流れる支流なので知里真志保(1960)の「ishkari-ekari-p『石狩川・へ・廻って行く・もの』(ママ)」を取りたいとしているが、上流側を見て右に曲がっていく石狩川本流右岸の奥を石狩川に沿うように流れるということの Iskar e- kari p[石狩川・の先の方・を通っていく・もの]としたい。積丹半島の神威岬はカムイオプカルシで kamuy が槍を作ることをよくした所などとされるが、神威岬先端の急峻な細尾根を通っていくところということの kamuy ok kari us -i[非常に危険な・うなじ・を通っていく・いつもする・ところ]と考えたい。

茂草川付近の地図

 日本語だとガ行音とマ行音に音感の近似から「かもめ/かごめ」のような相通がある。松前町の茂草(もぐさ)は上原地名考に「夷語モムチヤなり」とある。u- rere kari p が意味に変化のない濁音化した UREREGARIP の第四音節をアイヌ語でも音感の近似から相通があったか、和人の日本語耳でマと聞いたと考える。

 また、アイヌ語ではラ行音とマ行音が相通していると考えたくなるアイヌ語地名がある。松前町の茂草は茂草川河口右岸に頭のような出崎があるので rum ca[頭・の傍(川)]の転がモムチャでないかと思う。石狩の望来は安政4年の松浦武四郎の記録に「ムライ 本名モウライなるよし。川有。」に続けて、堅雪の節には上川アイヌの人達等は「皆此処よりトウヘツえ出て、其より又二日路にてトツクえ越るよしなり。」とあるので重要な道の所であったことがわかる。この石狩浜から石狩川中上流域に向かう冬道の所の川であることを言う ru or o -i[道・の所・にある・もの(川)]の転がモウライと考える。

 尻別川筋のメクンナイはニセコ連山を岩内方面に山越えする rik-ru ne -i[高い所の道・である・もの(河谷)]の転と考えている。音別川筋の霧里川のムリは釧路方面と十勝方面を結ぶ望来同様の ru or o -i[道・の所・にある・もの(川)]と考える。 

 東蝦夷日誌でイマリマリフに「游ぐ形」と訳があるのは直訳で ma noka[泳ぐ・形]と考えると何だか分からないが、ma ru noka[泳ぐ・することの・形]だったと考えると、u- rere un oka[互い・の向こう・に(連用句をつくる格助詞)・ある(複数形)こと]ということで、谷藤川橋付近の地形がイマリマリフの名の発祥地だと言いたかったのが伝言ゲームのように言い伝えられる間に「游ぐ形」になったのではなかったかとつながると思う。イマリマリはサツテキイマリマリフやポンイマリマニヘツといった谷藤川の支流や傍流らしき記録があるので複数形が使われたと考える。安政3年の松浦武四郎の報文日誌である竹四郎廻浦日記に出てこない「游ぐ形」は安政4年のアイヌの人から聞き取りで手控に「イマリマリフ 游ぐ形ちを云り」とある。松浦武四郎は蝦夷地の海岸沿いについては一部を除いて安政3年に竹四郎廻浦日記でまとめたので、安政4年の報文日誌には書かず、後の一般向けの東蝦夷日誌に書いたのだと思われる。

・アイノウセ/天狗岩

 天狗岩はその岩影が遠望して人がいるように見えるので aynu us -i[人・ついている・所]だという。東蝦夷日誌のイマリマリフ筋に「アイノチセと云窟有」とあるのは近傍のシャミチセについて竹四郎廻浦日記に「少々の土塁様の者有。是は昔夷人の貴人住せし処なりと」から翻案した興を添える脚色と思われ、竹四郎廻浦日記には「アイノウセ、夷人に能く似たる石有るよし号る也」とあり、手控でもアイノウセである。

・サマツケワ/サマチケワ/サマッキワ

 サマッキワは永田地名解にある山名で「横山」と訳されている。samatki iwa[横たわっている・霊山]。森美典(2008)はサマッキワを稀府岳の山頂稜線の北端(標高約670m)が、幌美内方面から見て三角形で一方にだけ長く伸びて見えることからサマッキワでないかとしている。渡辺隆(2013)は幕末の御渡諸書物の内のホロベツ絵図でイマレマレフ山の南隣り辺りに「サマチケワ山」が描かれていることを指摘している。道内のサマッケなどとされる山を見ると、横たわっているように見える山なのだからその稜線の走向の軸方向から見れば三角形に見えることはあるだろうが、三角形に見える要素は必要条件でないのでないかと思う。サマツケワ/サマチケワ/サマッキワは標高約650m以上で南北に900mほどの長さのある山頂稜線を持つ稀府岳の別名だったのではないかと考えてみる。明治初期に村名表記となった今礼稀府はホロベツ絵図などのイマレマレフに後から宛てられた漢字と思われ、二文字目の「礼」を u- rere kari p の第二音節が閉音節でない根拠とは考えない。

・オピリネップ/稀府川

 稀府川のアイヌ語の名のオピリネップは ru paro ne p[道・の口・である・もの(川)]の転ではないかと考える。胆振幌別川支流の鷲別来馬川から山越えすると稀府川支流の牛舎川に出て幌別から紋別方面への短絡路となりそうである。胆振幌別川には来馬の付く支流が他に来馬川と幌別来馬川があり、はじめのライの音が ru[道]を含んでおり何らかのルートの存在を示していると考えている。

参考文献
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野作東部日記 自第一至第四 全,北海道立図書館蔵複写本.
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渋江長伯,山崎栄作,東遊奇勝 下,山崎栄作,2006.
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森美典,豊浦町・洞爺湖町・伊達市・壮瞥町のアイヌ語地名考,森美典,2008.



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(2022年9月25日上梓)