山名考

暑寒別岳 +浜益岳
しょかんべつだけ はまますだけ

 マシケ岳/マシケ山ともされた。松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図には「シヨカンヘツノホリ」とある。丁巳日誌には「シヨカンヘツ岳」とある。

 暑寒別岳とは暑寒別川の源流に位置する岳との意味合いである。渡辺隆(2002)は「廻浦日記などに書かれているマシケ山や浜増毛岳(ママ)は「増毛の山々」の意で、その代表格的な暑寒別岳のことと思われる」としている。松浦武四郎のスケッチを見る限りその通りである。「増毛の山」と言うことだろう。

 暑寒別川の名について松浦武四郎は「シヨウは滝、カンは当る。此川滝の下まで行居るより号るとかや」と記している。これに対して山田秀三(1984)は「川を遡った人に聞くと特に大滝があるわけでなく、小滝状の連続する急流だという。」としている。更に「川名はショ・カ・アン・ペッ(滝・の上に・ある・川)と聞こえるが、滝の上の所に入っている川の意だったのかもしれない。」としているが、ショ・カ・アン・ペッでは動詞 an のとる項が一つなのでアイヌ語として文法的に破綻する。カとアンの間に充当接頭辞の e-o- が入って母音の連続が丸められていると考えるか、「滝の上の所に入っている川」などということでショ・カ・ウン・ペッと考えると文法的には成り立つが、小滝が連続するだけなのに「滝の上にある川」、「滝の上の所に入っている川」とはよく分からない解釈である。また、アイヌ語の位置名詞「カ」は、接触した「の上」を指すのだという。小滝が「滝」だとしても、暑寒別川の小滝に接した上はもう暑寒別岳の山頂間近の小流である。そのような高山の川の源頭ならどこにでもあるような特徴を指しての命名で海に注ぐ暑寒別川の広い流れが呼ばれるのだろうかという気がする。アイヌ語の so には滝以外の意味もある。so ka[滝・の上]から離れて考えた方が良いのでは無かろうか。

 暑寒別川の名は so ka un pet[平らになっているところ・の上・に入る・川]であったかと考えてみる。「平らになっているところ」とは暑寒別川の場合、標高50mから下の水田と果樹園になっている別苅地区の北東の方の山側と暑寒沢地区を為す暑寒別川の扇状地であると考える。河口付近から見ても非常に目立つ緩傾斜の平坦地であり、暑寒別川はその上を接触して流れている。だが、接触して上を流れているが、川が地表の「上」を流れるのは当たり前のような気がする。単に海岸線を移動して交通する際に河口付近から上流を見て、so ko- an pet[平らになっているところ・に・ある・川]ということではなかったか。so[平らになっているところ]が場所をあらわす名詞なのかどうかどうもはっきりしないが、訳語の最後に「ところ」が付いているので場所を表す名詞として扱った。

 次にマシケ山/マシケ岳のマシケ(増毛)について考えてみる。合わせて浜益岳の名の元のハママス(浜益)についても考えてみる。浜益岳の名の古い記録は見ていない。

 増毛のマシケの名の発祥は現在の浜益(浜益毛)である。浜益の運上屋を増毛に移してから増毛が増毛と呼ばれるようになり、浜益には「浜」をつけて区別するようになったのだという。

 山田秀三(1984)は浜益の地名について永田地名解の「マキニ(剰余の処)」説と、松浦武四郎西蝦夷日誌の「マシケイ(鴎の処)」説を挙げている(mas-ke[鴎・の処]にも解されたようだとしているが、西蝦夷日誌ではマシケイで「鴎になる」)が、旧説の紹介に止まっている。アイヌ語辞典を見るとマキニという項は無く、maskin という副詞の項があり、「あまりにも。非常に。」と意味があった。永田地名解を見ると「『マシュキニ』剰多ノ処義ヲ鯡漁多キニ取ル」とあるが、「マシュキニ」の最後の「ニ」は直前の i の音の響いた n だったと考えるとしても、副詞だけで終わり、しかも何に何がどうなのかと言うようなことが一部略されることがあるにしても全く含まれていない地名というのは考えにくい。また、鯡が豊漁だったのは浜益に限らない。「原名ヘロクカルシ鯡場ト訳ス」ともあるが、ヘロキカルシなどの同名異所は道内に他にもあるのに、浜益だけが鯡が「余りにも」(「多い」のか「少ない」のか将又全く別の様なのか、本当に鯡のことなのかも分からない)とされるのも考えにくい。鴎の処説も鯡漁の際は鴎は殊更集まってくるかも知れないが鯡漁をしていた所は他にもあり、海辺ならならどこにでも居る鴎で「鴎の処」と呼んだところで地名としても、その土地を名指しできない。鴎説を「すこぶる怪しい解釈であって信じがたい」とする更科源蔵(1966)を支持したい。

 松浦武四郎は現在の浜益川について「川有、即ヲタコツヘツと云、またマシケヘツとも云。ヲタコツヘツと云は浜中の川と云事也。・・(中略)・・川巾二十間計、遅流にてふかし。またホロヘツとも云よし。」と記している。同氏「川筋取調図」では浜益川の上流にポンマシケ・ポロマシケと名が振られている。浜益の中でも浜益川がマシケ発祥のような印象である。浜益川が海岸線を往来する際に、「遅流にてふかし」よりアイヌ語の ma uske[泳ぐ・ところ]がマシケの語源で、海岸線を移動する際に大きく流れが遅く深い浜益川を泳いで横断していたことを言ったものではないかと考えてみる。が、浜益川はほどほどに大きな川なのでそういった習慣ではなく、何かしら地形などのランドマークで表現した言葉があって、それが転訛して分からなくなっているような気がする。それがどういうランドマークを表していたかについては思いつかない。

 浜益川の流域にアイヌ語では tay or us pe[林・の所・につく・もの]と言われる黄金山がある。ユーカラにも出てくるというので古くからある地名なのかと思うが、湿原や浜辺や火山でない元々森林に覆われていたはずの浜益川沿いにおいて、tay[林]で黄金山のような目立つ山を呼ぶことは意味が無かったのではないかという気がする。tay ru-aw の転訛で、浜益川の南側の愛冠海岸とルーラン海岸を避けて南下する道が浜益川支流逆川(明治の地形図でポロナイとあるのは par o nay[口・ある・河谷]か)と厚田川を繋げてあり、逆川に入らず更に浜益川を詰めて徳富川筋へ抜ける泥川(明治の地形図にルペシュペナイとある川と思われる)の道もあり、それらの分岐である実田の辺りが ru-aw or[道の股・の所]と言うことではなかったかと考えてみる。ru-aw or には pinne TAYORUSPE の黄金山と matne TAYORUSPE の摺鉢山があり、それらの根源の浜益川がラウォウru-aw ouske[道の股・の根元の所]だったのが、長い歴史で tay とは別の音で、マシケまで約まって訛ったのではないかとも考えてみる。

 山田秀三(1984)は「浜益は元来は浜益川筋、特にその下流一帯の名である」とする。浜益は増毛に運上屋を移してから「浜」をつけて浜益毛になったとされ、山田秀三(1984)は上原地名考にアイヌ語でハママスが解かれているのはアイヌの人が浜の字がついたのを元来の地名と捉えて解釈したものかとしているが、最後の ke が無いラウォウru-aw ous[道の股・の根元]とも呼ばれていたのがハママスとなった下流一帯であり、ke の付いたラウォウケが浜益毛(はまましけ)の語源ではなかったかと考えてみる。ous の u の子音は声門破裂音ないし声門の緊張またはせばめで、母音の前に付くと、はっきりした声立てとなるが、wou の部分を母音の連続と捉えた初期の和人が日本語の母音の連続を避ける傾向で縮めて「益毛」の字を宛てたり「マシケ」と書いたりしたかと考えてみる。語頭がマになっているのはアイヌ語の内から訛っていたかとしか説明できない。増毛場所を分けた後、砂浜があるからハママシケ場所となったとされるが、アイヌの人に聞き直して、より近い音に改めたのではないかと考えてみる。上原地名考でハママシケが amam[穀物]に関連づけられて説明されているので、更にアイヌ語の方で訛って r (或いは r の転訛した m )が落ちていた最初の音節を日本語耳がハと聞いたかと考えてみる。

参考文献
1)松浦武四郎,三航蝦夷日誌 下,吉川弘文館,1971.
2)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
3)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
4)松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
5)渡辺隆,高澤光雄,蝦夷地山名辞書 稿,北の山の夜明け,高澤光雄,日本山書の会・サッポロ堂書店(発売),2002.
6)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
7)中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
8)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
9)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
10)松浦武四郎,吉田常吉,新版 蝦夷日誌 下 西蝦夷日誌,時事通信社,1984.
11)更科源蔵,アイヌ語地名解,北書房,1966.
12)松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
13)北海道庁地理課,北海道実測切図「増毛」図幅,北海道庁,1893.
14)萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.



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(2015年7月17日上梓 2017年8月16日改訂)