山名考

乙部山

 「おつべ」とも「おつぶ」とも言うようである。1912(明治45)年選点の山頂に置かれる二等三角点の名「乙部山(おつぶやま)」が早いか。近世に伝わるアイヌ語の山名から考える。

・peker nupuri

 松浦武四郎の安政4年の日誌の今の士別市市街付近からと思われる三丁に渡る挿画に今の西内大部川を指す「ナイタイベ」の右側に「テケルノホリ」とあり、「テケルノホリ」の文字の左側の図版中最も高く描かれる山は「ナイタイベ」の山より一回り高く、東内大部山より一回り高い糸魚岳でないかと思わせるものがある。ところがこの挿画にはナイタイベの左肩に「ヘケレノホリ」というテケルノホリとよく似た音の文字が振られている。また、「ナイタイベ」の文字の脇に方位を指す「午」の字があり、ナイタイベ方面が南の方ということになるのだが、西内大部川は士別市街の凡そ東南東である。ヘケレノホリの文字の位置は山の左肩に当る所で右肩にナイタイベの文字があるのでヘケレノホリが図版中のどの山なのかよく分からない。最も高い右端の山がテケルノホリで、その次に高いのが隣に見えるヘケレノホリということなのか。


松浦武四郎 丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌第13巻20-22丁の挿画模写
縦の点線は丁の境、右から20,21,22丁
広域地図
広域地図

 松浦武四郎の安政4年の手控(フィールドノート)に日誌の挿画の元になったスケッチが二つある。その一つの翻刻で「ヌタップより北方眺望」と題されたスケッチの右脇に「ナイタイヘより凡七八丁下り、如此岬出る所有。其より針をふるに、巳に当りてテケルノホリと云見ゆ。是は本川より北東ニ当りをるよし也」と描画地を示唆しているように取れる文章が図付きで書かれている。西内大部川落ち口から800mほど下流の天塩川が南に袋状(nutap)に撓んだ所ということだが。明治期の地形図で見ても800mほど下流の上士別の二十線の辺りで天塩川は袋状に撓んでいない。袋状に撓んでいるのは天塩川左岸支流の三郷川が谷から出てくる西内大部川落ち口から天塩川旧河道にして2.3kmほど下った上士別の18線南1号と更に400mほど下った19線南2号の辺りで、図の天塩川がどちら向きに流れているのか読み取れないのでどちらか特定できないが、どちらかの袋の外側の岸が方位磁針を見た所と考えられそうである。

 文章の、テケルノホリが巳の方に見えるのにその山が本川(天塩川)の北東にあたるというのはどういうことなのか。

 このスケッチで中央に描かれるテーブル状で右に一段低い角と左手前に一段低いコブがある山の山容は地形図上に見た糸魚岳の山容を描いているように思った。右隣に「ナイタイヘイトコ」とある一段低い丸い山は地形図上に見た東内大部山の山容を描いているように思った。手控のテケルノホリの文字がナイタイヘイトコの文字のすぐ右の二つの山のスカイラインの鞍部の左寄りの上にあるので翻刻の秋葉實はナイタイヘイトコは山の名ではなくナイタイベの水源(etoko)というだけで、右の丸い山をテケルノホリと見たようで翻刻注でテケルノホリに「士風山646m」とするが、士風山が東内大部山より一段低い丸い山とはいえ(三角点のある646mの所だけでなくその南東方約1480mの703mの標高点の所も士風山と見なした。但し703mの所は士別と風連の境から離れるので士風山の名は合わない)、東内大部山は左手前に一段低いコブが上士別の18線1号から19線2号の辺りから見えないので頷けない。このスケッチはヌタップより士風山方の北方眺望ではなく糸魚岳方の北東方眺望でないかと考えた。

ヌタップより北方眺望模写
松浦武四郎 巳手控「ヌタップより北方眺望」模写
中央の山の右手の点線は帖の綴じ目

 「ヌタップより北方眺望」にヘケレノホリが出ていないのだが、手控の少し後の「サッテクベツより東方眺望」と翻刻で題されたもう一つのスケッチにある。このスケッチは線が細く粗く、山容はどの山も茫洋としている。ヘケレノホリは描かれるどの山なのか見ても判然としない。右端の文字が「ナイタイヘ」であり、「ヌタップより北方眺望」の「ナイタイヘイトコ」と重ねて並べると日誌の挿画になりそうである。サッテクベツは松浦武四郎の記録では今の士別市街の北東に当る天塩川の九十九橋の東詰の辺りのように思われるが明治期の地形図では今の士別市街の東方の九十九山斜面が天塩川に直接面している対岸辺りにサッテクペッの落ち口があって位置がはっきりしないのだが、どちらにしても上士別のヌタップとは離れた異なる場所である。松浦武四郎は手控の二ヶ所でのスケッチを日誌で一つにまとめて天塩川右岸の山並みの挿画としたということなのか。手控の翻刻注で日誌挿画の「類似図」とするのは「原図」とは言えないということなのか。日誌の挿画でヘケレノホリとテケルノホリが別に振られているので松浦武四郎はテケルノホリとヘケレノホリを別の山と考えていたということになるが、別の場所からのスケッチを一枚にまとめて報文日誌の挿画にするようなことを松浦武四郎がしたのか。

 「サッテクベツより東方眺望」は今のワッカウェンベツ川に相当するワツカウエンと中士別十線川に相当するキイカルシの間に九十九山付近から東に見えるはずの士風山のスカイラインが抜けているように見えるのが異様である。

サッテクベツより東方眺望模写
松浦武四郎 巳手控「サッテクベツより東方眺望」模写
点線は帖の綴じ目
ナイフツ向山は名寄川の向こうの山ということ。

 カシミール3Dで上士別のヌタップ付近と松浦武四郎の記録からサッテクベツと思われる辺りからの数値地図によるシミュレーション眺望を描かせてみた。

 まず、スケッチの詳細な「ヌタップより北方眺望」と比較するべくヌタップ付近から北方を含むよう北東方を描かせてみた。士風山も東内大部山も糸魚岳も手前の山に隠れて見えない。士風山の手前の山は丸く見えるがスケッチとは雰囲気が異なる。東内大部山や糸魚岳方向に見える手前の山はスケッチのような台形に見えない。

 ヌタップから「巳に当て」を素直に読んで南南東方を描かせてみると「ヌタップより北方眺望」とほぼ同じ図像が得られた。「ヌタップより北方眺望」は「ヌタップより南東方眺望」で右側に描かれた台形の山は乙部山であった。「ヌタップより北方眺望」の下部には天塩川らしき川が描かれているので、描画地は上手のヌタップの外側、天塩川右岸の上士別の18線南1号付近である。

 手控翻刻の「ヌタップより北方眺望」の注に日誌の「類似図」共々方位がおかしいとの指摘があり、「巳に当て」の「巳」にも「(丑)」と注があるが、乙部山はヌタップから見て南東である。松浦武四郎が安政4年に持参していた方位磁石は時計回りに30度ほど時計回りにずれていた可能性が平隆一(2003)で示唆されており、松浦武四郎の方位磁針で巳の方の南南東と見たのを30度戻せば凡そ南東である。「是は本川の北東ニ当りをるよし也」は案内のアイヌの人の説明の聞き書きである。日誌本文でテセウ(天塩川)源頭のテセウノホリの後ろの「西は石カリ川すじえ落、南はユウベツえ落入るよし」と聞き書きの体であり、松浦武四郎に教示したアイヌの人の感覚で天塩岳山頂からの方位が凡そ90度時計回りにずれていたことが窺える。天塩川本流の朝日町茂志利より上流の天塩岳までから見れば乙部山は北西にあたり、時計回りに90度ずれて考えているので北東にあたると案内のアイヌの人が松浦武四郎に説明したのではなかったか。


ヌタップ付近(上士別の19線南2号交差点の北東250m)より北東方眺望カシバード。
国土地理院数値地図10mメッシュ、名寄市・下川町・士別市分使用、
対地高度10m、レンズ10mm、高さ強調2倍。
上空のピンは左から395.4、士風山、703、東内大部山、糸魚岳で、高度は全て1500mで近いほど上に見える。
士風山も703も東内大部山も糸魚岳も山頂は見通せない。スカイラインは「ヌタップより北方眺望」と異なる。

ヌタップ付近(上士別の18線南1号交差点の南東250m)より南東方カシバード
国土地理院数値地図10mメッシュ、名寄市・下川町・士別市分使用、
対地高度10m、レンズ28mm、高さ強調2倍。
上空のピンは左から644.8、乙部山で高度は共1500m。
地上のピンはヌタップ付近から北東方の描画地。
「ヌタップより北方眺望」に相当。

ヌタップ描画地地図

 次にサッテクベツ付近と思われる九十九橋東詰辺りから東方を描かせてみた。東方には予想通り士風山の山並みが中央に大きく見え、茫洋さを考慮しても「サッテクベツより東方眺望」とは印象が違う。「サッテクベツより東方眺望」で最も高く描かれる右端の山は「未」の字より右なので真南より西寄りかと思われ、最も大きく見える士風山に重ねることはできない。


推定サッテクベツ付近(九十九橋東詰)より東方眺望カシバード
国土地理院数値地図10mメッシュ、名寄市・下川町・士別市分使用、
対地高度10m、レンズ5mm、高さ強調2倍。
上空のピンは左から395.4、士風山、703、東内大部山、糸魚岳、565.7、644.8,乙部山で高度は全て1500m。
地上のピンはヌタップ付近から南東方の描画地。
士風山の方向がワツカウエンに相当し、565.7の方向がキイカルシに相当するが
「サッテクベツより東方眺望」ではその間のスカイラインが低い。タヨロマ(多寄川)水源は395.4の方向。

 このシミュレーション画像を見て、サッテクベツからより士風山の山並みが両脇側の山並みより目立たなくなるよう距離をとり、名寄川の向こうの山並みがより大きく見えるように、よりサッテクベツより北西の位置で「サッテクベツより東方眺望」は描かれたのでないかと考え、松浦武四郎がサッテクベツに着く前日に泊まったリイチヤニと思われる辺りからの東方の眺望を描かせてみた。リイチヤニ(リイチャニ)は日誌で泊まった所の名として出てくるのだが、手控では「リイヨウ」、明治期の地図では「ルイヨヤ子」(ルイヨヤネ)とあってリイチヤニという地名がどこまで通用していたか疑問はあるのだが、ここではリイチヤニとしておく。


推定リイチヤニ付近(士別市北町北6号の剣淵川右岸堤防)より東方眺望カシバード
国土地理院数値地図10mメッシュ、名寄市・下川町・士別市分使用、
対地高度10m、レンズ5mm、高さ強調2倍。
上空のピンは左から395.4、士風山、703、東内大部山、糸魚岳、565.7、644.8,乙部山で高度は全て1500m。
地上のピンは左から九十九橋東詰。「サッテクベツより東方眺望」に相当。ナイフツ向山はピヤシリ山。

推定リイチヤニ付近(士別市北町北6号の剣淵川右岸堤防)より東南東方眺望カシバード
国土地理院数値地図10mメッシュ、名寄市・下川町・士別市分使用、
対地高度10m、レンズ28mm、高さ強調2倍。
上空のピンは左から士風山、703、東内大部山、糸魚岳、565.7、644.8,乙部山で高度は全て1500m。
地上のピンは左から九十九橋東詰。上のレンズ5mmの画像の中ほど右寄りを望遠した。
「サッテクベツより東方眺望」のワツカウエンの文字からヘケレノホリの文字の幅に相当。
九十九山から南へ延びる稜線も見えている。

 推定サッテクベツ付近からのシミュレーション画像より士風山の山並みが低くなり、「サッテクベツより東方眺望」により近い雰囲気となった。「サッテクベツより東方眺望」右端の高い山は遠景の山ではなく、剣淵川左岸の岸からすぐの手前の山と考えられる。ヲラヽマニシの文字のすぐ下のスカイラインの山が乙部山で、右隣のヘケレノホリの文字は乙部山を指していると考えられる。「未」は西に寄り過ぎているが南の方を見ていると考えれば、あながち間違っているとは言えない。チヨイタルンケシは音の雰囲気に共通するものがある、今の士別市街を流れるチューブス川と関わりのある地名でないかと思う。ヲラヽマニシは九十九山の南麓で長い切通しのような鞍部で天塩川本流と剣淵川を短絡する ururu kari usi[土手・を通る・いつもする所]の転がオララマニシでないかと考える。リイチヤニ到着は日暮れ後で、夜雨後に晴れた翌朝に描いたとすれば湿度の高い逆光になるので茫洋なスケッチになるのも致し方ない。松浦武四郎は手控帖を必ず前から順繰りに使っていたわけではないようである。

 「ヌタップより北方眺望」は「サッテクベツより東方眺望」の右半分の中ほどを、より山並みに近い所で描いた拡大ということになる。日誌挿画では「ヌタップより北方眺望」が「サッテクベツより東方眺望」の右半中ほどの拡大になることを失念して、リイチヤニでの「サッテクベツより東方眺望」の剣淵川左岸の手前の山を「ヌタップより北方眺望」の左側の644.8m峰だったと誤認し繋げて描いたか。ナイタイベは明治期の地図でペンケヌカナンプと書かれるベンケヌカナンをヌカナンペと言っていたアイヌの人もいてナイタイペと間違えたか。ヌカナンを ru ko- ran[道・と一緒に・下ること(川)]と考えれば、ru ko- ran pe[道・と一緒に・下る・もの(川)]で、同じ川を指すことはありえそうである。ペンケヌカナンプ川は乙部山を東から回り込んだ奥に水源があるので、テケルノホリはヌカナンペイトコであるということなら「ヌタップより北方眺望」の図中の文字は通ずる。

 GoogleMap の衛星写真や国土地理院の航空写真を見ると乙部山の山頂一帯は樹木が少ない。地名アイヌ語小辞典の peker の項に Peken-nupuri[<〜-nupuri 木のない見通しの明るい・山]の用例があり、松浦武四郎に教えたアイヌの人によって訛り方に差があり、音韻転訛しないで発音されたのを聞いたのがヘケレノホリ(peker-nupuri)、語頭の p が同じ破裂音の t に訛っていたか、t のように聞こえたのがテケルノホリと考える。知里真志保の「アイヌ語入門」にある「n の前の r は n になる」のような音韻転訛は方言によって差があり、必ず起こるというものではないようである。乙部山は一筋の尾根の山だが、幅が広く平坦な山頂部が広いので、tu-ikkewe[尾根]の転がテケルとは考えない。


パンケヌカナン〜アイベツ地図

・put pa?

 乙部山を水源として、その水源としての山の名となりうる「おつべ」や「おつぶ」と言った音を含む川は無いようである。

 ハンケヌカナン(パンケヌカナンプ川)は松浦武四郎の日誌に「此処より石狩の上川アイヘツえ山越有るよし也」とある。ペンケヌカナン(ペンケヌカナンプ川)は「此源よりも石カリ上川ルベシベツの源えこゆるによろしと」とある。

 アイベツ(愛別川)は「右の方イシカリカリ しばし上りて左りの方サツクルベシベツ、此処よりテシホ川すじケ子フチえ山越によろしと。また少し上りて左りの方マタルウクシナイ、此処堅雪の節越るよし也」とある。ルベシベナイ(留辺志部川)について「右に当りてタツカルウシナイ、此処二股に成、右を本川とし越る時はテシホ川すじのヌカナンえ出るとかや、左りを越る時はナイタイベ辺え出るよし承りけり」とある。

 留辺志部川の左股のポンルベシベ川より上流から天塩川筋に入ろうとすると一旦渚滑川筋に出る大幅な遠回りとなる。ペンケヌカナンからルベシベナイへのルートは置いておくとして、パンケヌカナンからアイベツ(愛別川)へのルートを考えると、パンケヌカナンプ川から乙部山の南西の鞍部を越え、一旦ペンケヌカナンプ川へ下り、大正山の西の肩へ登って愛別川本流に出るのが早道となりそうである。ペンケヌカナンプ川の上二俣から右股に登り返して愛別川支流のパンケ川に下るのも早そうに思われるが、松浦武四郎の記録のパンケ川らしき「ハンケアンヘ」は特に越え道の言及がない。

 乙部山の南西の鞍部が、アイベツから天塩川筋への put[出口]であり、その傍らの乙部山のことを put pa[出口・の傍]と言ったのが転じたのが「オップ」と聞こえ「乙部」の字が宛てられたのでないかと考えてみる。アイヌ語地名では語頭の p が落ちる例がある。語末の母音が落ちる例もある。

参考文献
北海道庁地理課,北海道実測切図「名寄」図幅,北海道庁,1897.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
平隆一,松浦武四郎描画記録における空知のアイヌ語山名,pp7-24,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2003.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.
服部四郎,アイヌ語方言辞典,岩波書店,1964.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.



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(2024年3月24日上梓)