ウコタキヌプリ(747m)

 日高山脈北部(芽室岳より北)が南部に比べて緩やかになっているのは既に隆起が停止し、代わりにウコタキヌプリを含む白糠丘陵が絨毯を横から押すイメージで隆起しているからだという説をどこかで読んだような気がする。しかし、日高山脈のようになるにはまだまだだ。深成岩が表面に露出してしまうほどの浸食にはまだまだ遠い。これからと言っても人間の寿命では変化がわからないほど遅いのが山の成り立ちであって、慌てて期待しても仕方ない。しかし見てきたくなるのがロマンというものだ。登山道は最高点より2m低い三角点までしかない。

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★登山道

 雨後滝林道入口に登山案内板がある。雨後滝林道はかなり荒れていて、まもなく普通車では進入できなくなるかもしれないような状態だった。歩いても大した距離ではない。延長500mほどである。林道の終点はそれほど駐車スペースがないので林道入り口に車を停めた方が賢明であろう。案内板の最後の文章はジョークが効いている。

 林道終点には特に何の標識もない。目印テープに従って沢沿いの登山道を辿る。登山道は下の方の沢沿いの部分で何度も渡渉があるが殆ど一跨ぎだ。谷は非常に狭まり、一番狭いところでは谷幅が4mまで狭まるが、水が少なく傾斜が緩いのでどうということはない。ただ、これだけ狭まると大水の時は完全に登山道も水をかぶるであろう、踏み跡は次第に不明瞭になるが先を信じて進む。途中に鹿の白骨死体が落ちていた。谷の上から滑落死したのだろうか。


登山道を示す看板

 谷が再び広がると尾根に取り付く。尾根に取り付いてからは迷路のような作業道跡をつないで登っていくが、目印はたくさんあった。赤ペンキの木の看板と、ピンクの目印テープである。迷路のような作業道跡は荒れた印象も与えるが、周りの木は大きくなっており、しっとりしているように感じる部分もあって悪くはない。今後、20年も登られ続ければ馴染んで良い道になるのではないかと思う。しばらく道から山頂の方の高まりが見えるので、いい励みになるのではないか。

 作業道跡がジグを切るようになると後方の東大雪の展望が広がってくる。しかしその後、作業道跡が途切れて鹿道に毛の生えたような登山道になって林内に入る。展望はなくなるけれど、このような道の方が登山道としては好ましい感じがする。

 再び作業道跡となり、逆「く」の字を描く。屈曲点は沢に向かっているので少し横道して寄ってみたが、既に水はなかった。

 逆「く」の字が終わると残りは再び細い道となる。登るに従いトドマツ林からミヤコザサの茂るダケカンバの疎林となる。主稜線に出ると待望の太平洋が見える。東側斜面は急な角度で落ちている。ウコタキヌプリの稜線は本別町唯一の海の見える地点だそうだ。最後に急な一登りで山頂に着く。

 山頂はわりと展望が良いが、北方と西方はダケカンバが多いので少し見づらい。東大雪はヤブに遮られてすっきりとは見えない。雌阿寒岳はとてもよく見える。南側には海とモコモコした白糠丘陵の周辺が見える。

 ここは三角点はあるけれどウコタキヌプリの最高点ではない。最高点は400mほど先の北のピークである。最高点に至るにはミヤコザサの浅いヤブ漕ぎで片道30分程度だろうか。登山道は本別山岳会の管理の道だというが、三角点のある登山道の終点は本別町内ではない。主稜線に出るまでが本別町で、それより上は足寄町と白糠町の境界である。

 最高点と三角点の鞍部には電波反射板があって、白糠町側からそこまで林道が延びているのが見えて少し興醒めだ。白糠町側は地図で見るより林道作業道が多くあるようだ。これらの作業道歩きでも登頂したという気分に満足できるというなら国道273号線からの入山も出来るのだろう。


山頂まであと少し

★本別川三角点南面沢

 登山道の尾根取り付きからそのまま沢を詰めてみた。540m二股まで谷は非常に狭く、地形図で見るより曲がっていて、切り立った函地形だが、河床は全部ガラガラの岩屑だ。2mくらいの小滝が3つほどあったが問題はない。岩屑で伏流している部分も多い。やはり滑落死か、鹿の骨が多く落ちており、中にはまだ毛のついているものも見られ、水は飲用不適だろう。


岩屑の沢の中

540m二股から見上げる

 540m二股からは急に斜度が加わるが、大部分土付きだ。しかし土が薄く、中にはツルッと岩が露出している部分もあり登りにくいこともある。700mまで何も生えていない土付きで、意地になって最後まで沢型を詰めたが、途中で何本か鹿道が横断しているので、それで笹の生えた尾根に移動した方が安全だろう。尾根のヤブはミヤコザサでごく浅い。後は中部日高並に急峻である。

 登山道より遠回りで面白いこともなく、所謂「遡行価値のない沢」であったが、急峻な斜面と大量に発生している岩屑に、白糠丘陵が今まさに隆起し続けている若い山地であることは感じた。


★稲牛川本流最高点北西面直登沢

 五万図の地形図で最も最高点に近い道路は入口に「本別沢第2線林道」という看板が立っていた。500mほど入ったところで崩壊しており、その先は歩くことになった。下山後、もう一本上流の「本別沢第3線林道」を見てきたが、こちらの方が奥まで入れた。しかし第3線林道の沢は直接最高点に突き上げていないのでヤブ漕ぎが多くなり、掛かる時間は同じくらいだろう。地形図を見ると等高線の分布が北西面沢に比べて最後に偏っているので上述の南面沢と同じような中身なことが予想される。

 崩壊した先の林道は非常に荒れていた。林道終点には砂防ダムがあり、その上は砂地が広がって二股になっている。左に入るとそのまましばらく砂礫の伏流した沢が続いているが次の二股を左に入ると、沢が曲がっている部分に掛けて標高差で80mほどナメ滝が続いていた。水は少ないが水流の洗うホールドは使うので面白い。最後に門状になった滝を登って越えると傾斜が緩くなり、まもなく水流が消える。標高600mで作業道跡が横断すると沢型も殆どなくなり、シダのまばらに生える斜面を登っていくだけだ。700mを越えるとミヤコザサの斜面となるがヤブはごく薄い。


最高点を南から見る

 最高点は少し笹の薄いだけの何もない所であった。展望は三角点山頂と殆ど同じである。

 登ってきた沢を下るのは急斜面が嫌なので、尾根伝いに下りた。上半分は疎林や作業道跡だが、下半分はトドマツの若木の密林で歩きにくかった。登りでも横断した標高600mの作業道跡はかなり幅広なので、これをうまく使えば、敢えて沢登りしなくても作業道跡のみで西側から最高点に達することは出来るのかも知れなかったが、下でどことつながっているかは分からない。


★山名考・川名考

 ウコタキヌプリの名は明治27(1894)年の北海道庁による北海道実測切図(通称「道庁20万図」)にある。三角点の「雨後滝山(うごたきやま)」の選点は明治36(1903)年である。ウコタキヌプリのアイヌ語解はネット上にいろいろ出ているが、文法などの細かい点がしっくりしない。

 抱き合っているように見える山としてuko-ta-ki-nupuri[お互い・に・する・山]と言う解釈がある1)が文法的に怪しい。uko-はu- ko-[互い・に]と分解され、ko-は動詞の語幹につく接頭辞であり、taは格助詞(後置助詞)である。kiが二項動詞(他動詞)なので項も不足している。白糠地名研究会(1987)はukot ki nupri(ママ)[互いにくっついて・する・山]としているが、文法的に無理がある上にウコッキヌプリと言う音はウコタキヌプリと言う音から離れてしまう気がする。

 白糠町史(1954)では「二つの山がくっついて立っている山」という解釈をしている3)4)。その中で訳は示されているがアイヌ語解については書かれていない。u-kotを「互い・にくっついて」と訳したようだ。立っていることを表すアイヌ語はasroskiでないかと思う。u- kot as nupuriと解したものかと思われるが、これらの動詞が二つそのまま並ぶとアイヌ語として文法的に破綻する。どちらかと言えば扁平なウコタキヌプリの山容にも合わない気がする。昔はアイヌ語asiを「立っている」と訳したこともあったが、新しいアイヌ語辞典では見ていない。asiは「〜を立てる」とされるが、ウコタキのタキの音から離れるのはasの場合と同じである。

 角川日本地名大辞典によると、足寄町史では「互いについた玉石」と訳しているという3)u- kot tak[互い・〜についている・玉石]、ukot tak[交尾する・玉石]かと思われるが、カタカナ表記の前四文字がウコタク・ウコタカでなくウコタキであることに、釈然としないものが残る。「玉石」と言う日本語訳はこの山名のこの場合、適当とは思えない。足寄町史5)を確認すると、アイヌ語をウ(互)とコッ(付く)とタク(玉石)に分けて、それぞれの音にアイヌ語の訳を示してはいるが、つなげて「ウコタキヌプリ」を「互いについた玉石」と訳しているわけではなかった。山名の意味では白糠町史の日本語訳(「二つの山がくっついて立っている山」)を引用している。角川日本地名大辞典も少し罪作りではあった。

 ウコタキヌプリにはkamuyから食料である鹿を下ろされる伝説があると言う1)6)。そのことを言うi- ukotak ki nupuri[それ(鹿)・を皆一緒に呼んでくる・ことをする・山]ではないかと考えてみた。アイヌ語では異種の母音が隣り合うとはじめの母音を追い出してしまうことが多い8)ということで、知里真志保のアイヌ語入門にi-u>uの例が挙げられている。この辺り一帯の山々で鹿を呼んでくるという意である。だが、語頭で母音が並ぶ場合は音韻添加で発音がイユコタキヌプリになりそうな気もする。考えてはみたものの「鹿を皆一緒に呼んでくる山」というのはどういう山なのか想像がつかない。白糠丘陵のウコタキヌプリの南方にはユケランヌプリyuk e- ran nupuri[鹿・そこに・下る・山]という山名も北海道仮製五万図にあり(721.4m三角点「雪乱山」の山)、ユケランヌプリをウコタキヌプリの別名とする説もある6)。なぜ、i- ukotak nupuriではないのか、kiを入れることでニュアンスがどう変わるのかも分からない。

 ユケランヌプリの、江戸時代の松浦武四郎の記録を見ると、東西蝦夷山川地理取調図で「ユケランノポリ」、一般向けにアレンジされた東蝦夷日誌で「ユケラン岳」、安政5年の戊午の紀行の際のフィールドノートである手控でも「ユケランノホリ」となっているが、取調後にまとめられた幕府に呈上するべく復命書として書かれた日誌の中では、どういうわけか「ウユケランノホリ」となっている。東西蝦夷山川地理取調図や東蝦夷日誌の挿図からは、この山の大まかな位置しか分からない。手控のユケランノホリはヲンベツ川(音別川)の水源の名として登場しているが、日誌でのウユケランノホリは釧路湿原東側のイワホク(岩保木山)からの展望の中で雄アカン、雌アカンなどと共に針位を記されて登場している。そこで書かれるウユケランノホリのイワホクから「申四分半」という針位は現在のウコタキヌプリや三角点「雪乱山」より更に南方に偏っており、どうも参考にならない。

 カタカナの「ユ」は「コ」と似ている。「ケ」は「タ」と、「ラ」は「キ」と似ている。公刊されている戊午の日誌は東京の松浦家に残された草稿が翻刻されたものだが、正本は記録や原本が見られないことから呈上されなかったのかもしれないと言う。明治維新後に松浦武四郎本人によって新政府に「ウユケランノホリ」と書かれた日誌の抄録等が持ち込まれて14)筆写され、開拓使などを経て北海道に運ばれて、すこぶる読みづらい14)という松浦武四郎の字の「ウユケランノホリ」が「ウコタキ(ン)ノホリ」と読まれて北海道庁による地形図に山名の載った、ユケランヌプリはウコタキヌプリの別名ではなく、ウコタキヌプリがユケランヌプリの誤写/誤読によって始まった山の名だったのかもしれないと考えてみる。ユケランヌプリは特定のピークの名ではなくウコタキヌプリから三角点雪乱山にかけての白糠丘陵の山地のとしての名ではなかったかと思う。

 ユケランヌプリの名がyuk e- ran nupuriだとしたら、その名は地形などのランドマークに基づかない地名という事になる。アイヌの人々の重要な食料であった鹿が避雪の為に冬前に道東の方に移動するのに、また、春になって西に移動するのに山が海に迫っている白糠丘陵南側の海岸を避けて、それほど高い山ではない白糠丘陵を越えた事は考えられるが、それを山の名にするかは多少疑わしい気がしている。どこかにユケランの音に転訛しそうな、ランドマークに基づいた名の川があって、その水源の山として呼ばれていたのが白糠丘陵全体の名に拡充されていったのではないかという気がするが、ユケランかユケランに転訛しそうな音の川の名は見ていない。

参考文献
1)平成12年度白糠教室アイヌ語ラジオ講座テキスト(PDF)<<財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構
2)松本成美・白糠地名研究会,アイヌ語地名と原日本人,現代史出版会,1983.
3)角川日本地名大辞典編纂委員会・竹内理三,角川日本地名大辞典1 北海道 上巻,角川書店,1987.
4)渡辺茂,白糠町史,白糠町役場,1954.
5)足寄町町史編纂臨時専門委員会,足寄町史,北海道足寄郡足寄町役場,1973.
6)更科源蔵,アイヌ伝説集(更科源蔵アイヌ関係著作集T),みやま書房,1981.
7)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
8)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,1992.
9)渡辺隆,蝦夷地山名辞書 稿,高澤光雄,北の山の夜明け,高澤光雄,日本山書の会,2002.
10)松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
11)松浦武四郎,吉田武三,新版 蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌,時事通信社,1984.
12)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
13)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1988.
14)吉田武三,評伝松浦武四郎,松浦武四郎紀行集 上,吉田武三,冨山房,1975.



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(2004年1月19日上梓 2012年12月2日加筆)