ウコタキヌプリ(747m)
芽室岳辺りより北の日高山脈が南部に比べて緩やかになっているのは既に隆起が停止し、代わりにウコタキヌプリを含む白糠丘陵が絨毯を横から押すイメージで隆起しているからだという説をどこかで読んだような気がする。しかし、日高山脈のようになるにはまだまだだ。深成岩が表面に露出してしまうほどの浸食にはまだまだ遠い。これからと言っても人間の寿命では変化がわからないほど遅いのが山の成り立ちであって、慌てて期待しても仕方ない。しかし見てきたくなるのがロマンというものだ。登山道は最高点より2m低い三角点までしかない。
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雨後滝林道入口に登山案内板がある。雨後滝林道はかなり荒れていて、まもなく普通車では進入できなくなるかもしれないような状態だった。歩いても大した距離ではない。延長500mほどである。林道の終点はそれほど駐車スペースがないので林道入り口に車を停めた方が賢明であろう。案内板の最後の文章はジョークが効いている。
林道終点には特に何の標識もない。目印テープに従って沢沿いの登山道を辿る。登山道は下の方の沢沿いの部分で何度も渡渉があるが殆ど一跨ぎだ。谷は非常に狭まり、一番狭いところでは谷幅が4mまで狭まるが、水が少なく傾斜が緩いのでどうということはない。ただ、これだけ狭まると大水の時は完全に登山道も水をかぶるであろう、踏み跡は次第に不明瞭になるが先を信じて進む。途中に鹿の白骨死体が落ちていた。谷の上から滑落死したのだろうか。
谷が再び広がると尾根に取り付く。尾根に取り付いてからは迷路のような作業道跡をつないで登っていくが、目印はたくさんあった。赤ペンキの木の看板と、ピンクの目印テープである。迷路のような作業道跡は荒れた印象も与えるが、周りの木は大きくなっており、しっとりしているように感じる部分もあって悪くはない。今後、20年も登られ続ければ馴染んで良い道になるのではないかと思う。しばらく道から山頂の方の高まりが見えるので、良い励みになるのではないか。
登山道を示す看板 |
作業道跡がジグを切るようになると後方の東大雪の展望が広がってくる。しかしその後、作業道跡が途切れて鹿道に毛の生えたような登山道になって林内に入る。展望はなくなるけれど、このような道の方が登山道としては好ましい感じがする。
再び作業道跡となり、逆「く」の字を描く。屈曲点は沢に向かっているので少し横道して寄ってみたが、水はなかった。
逆「く」の字が終わると残りは再び細い道となる。登るに従いトドマツ林からミヤコザサの茂るダケカンバの疎林となる。主稜線に出ると待望の太平洋が見える。東側斜面は急な角度で落ちている。ウコタキヌプリの稜線は本別町唯一の海の見える地点だそうだ。最後に急な一登りで山頂に着く。
山頂はわりと展望が良いが、北方と西方はダケカンバが多いので少し見づらい。東大雪はヤブに遮られてすっきりとは見えない。雌阿寒岳はとてもよく見える。南側には海とモコモコした白糠丘陵の周辺が見える。
ここは三角点はあるけれどウコタキヌプリの最高点ではない。最高点は400mほど先の北のピークである。最高点に至るにはミヤコザサの浅いヤブ漕ぎで片道30分程度だろうか。登山道は本別山岳会の管理の道だというが、三角点のある登山道の終点は本別町内ではない。主稜線に出るまでが本別町で、それより上は足寄町と白糠町の境界である。
最高点と三角点の鞍部には電波反射板があって、白糠町側からそこまで林道が延びているのが見えて少し興醒めだ。白糠町側は地図で見るより林道作業道が多くあるようだ。これらの作業道歩きでも登頂したという気分に満足できるというなら国道274号線からの入山も出来るのだろう。
山頂まであと少し |
三角点付近から雌阿寒岳方面を見る |
登山道の尾根取り付きからそのまま沢を詰めてみた。540m二股まで谷は非常に狭く、地形図で見るより曲がっていて、切り立った函地形だが、河床は全部ガラガラの岩屑だ。2mくらいの小滝が3つほどあったが問題はない。岩屑で伏流している部分も多い。やはり滑落死か、鹿の骨が多く落ちており、中にはまだ毛のついているものも見られ、水は飲用不適だろう。
岩屑の 沢の中 |
540m二股から 見上げる |
540m二股からは急に斜度が加わるが、大部分土付きだ。しかし土が薄く、中にはツルッと岩が露出している部分もあり登りにくいこともある。700mまで何も生えていない土付きで、意地になって最後まで沢型を詰めたが、途中で何本か鹿道が横断しているので、それで笹の生えた尾根に移動した方が安全だろう。尾根のヤブはミヤコザサでごく浅い。後は中部日高並に急峻である。
登山道より遠回りで面白いこともなく、所謂「遡行価値のない沢」であったが、急峻な斜面と大量に発生している岩屑に、白糠丘陵が今まさに隆起し続けている若い山地であることは感じた。
五万図の地形図で最も最高点に近い道路は入口に「本別沢第2線林道」という看板が立っていた。500mほど入ったところで崩壊しており、その先は歩くことになった。下山後、もう一本上流の「本別沢第3線林道」を見てきたが、こちらの方が奥まで入れた。しかし第3線林道の沢は直接最高点に突き上げていないのでヤブ漕ぎが多くなり、掛かる時間は同じくらいだろう。地形図を見ると等高線の分布が北西面沢に比べて最後に偏っているので上述の南面沢と同じような中身なことが予想される。
崩壊した先の林道は非常に荒れていた。林道終点には砂防ダムがあり、その上は砂地が広がって二股になっている。左に入るとそのまましばらく砂礫の伏流した沢が続いているが次の二股を左に入ると、沢が曲がっている部分に掛けて標高差で80mほどナメ滝が続いていた。水は少ないが水流の洗うホールドは使うので面白い。最後に門状になった滝を登って越えると傾斜が緩くなり、まもなく水流が消える。標高600mで作業道跡が横断すると沢型も殆どなくなり、シダのまばらに生える斜面を登っていくだけだ。700mを越えるとミヤコザサの斜面となるがヤブはごく薄い。
最高点は少し笹の薄いだけの何もない所であった。展望は三角点山頂と殆ど同じである。
最高点を南から見る |
登ってきた沢を下るのは急斜面が嫌なので、尾根伝いに下りた。上半分は疎林や作業道跡だが、下半分はトドマツの若木の密林で歩きにくかった。登りでも横断した標高600mの作業道跡はかなり幅広なので、これをうまく使えば、敢えて沢登りしなくても作業道跡のみで西側から最高点に達することは出来るのかも知れなかったが、下でどことつながっているかは分からない。
・先行説
ウコタキヌプリの名は明治27(1894)年の北海道庁による北海道実測切図にある。三角点の「雨後滝山(うごたきやま)」の選点は明治36(1903)年である。ウコタキヌプリのアイヌ語解はネット上にいろいろ出ているが、文法などの細かい点がしっくりしない。
抱き合っているように見える山として uko-ta-ki-nupuri[お互い・に・する・山]と言う解釈がある1)が文法的に怪しい。uko- は u- ko-[互い・に]と分解され、ko- は動詞の語幹につく接頭辞であり、ta は格助詞(後置助詞)である。ki が二項動詞(他動詞)なので項も不足している。「する」と、ぼやかすのも怪しい。白糠地名研究会(1987)は ukot ki nupri(ママ)[互いにくっついて・する・山]としているが、ウコッキヌプリと言う音はウコタキヌプリと言う音から離れてしまう気がする。
白糠町史(1954)では「二つの山がくっついて立っている山」という解釈をしている3)4)。その中で訳は示されるがアイヌ語解については書かれていない。u-kot を「互い・にくっついて」と訳したようだ。立っていることを表すアイヌ語は as か roski でないかと思う。u- kot as との修飾語+自動詞の合成自動詞で、ukotas nupuri[互いにくっついて立っている・山]と解したものかと思われるが、音はウコタキヌプリではなくウコタシヌプリとなる。横長で聳えているという感のない白糠丘陵のウコタキヌプリを「立っている」というのかどうか、疑問である。
角川日本地名大辞典によると、足寄町史では「互いについた玉石」と訳しているという3)。u- kot tak[互い・〜についている・玉石]、ukot tak[交尾する・玉石]かと思われるが、カタカナ表記の前四文字がウコタク・ウコタカでなくウコタキであることに、釈然としないものが残る。「玉石」と言う日本語訳はこの山名のこの場合、適当とは思えない。足寄町史6)を確認すると、アイヌ語をウ(互)とコッ(付く)とタク(玉石)に分けて、それぞれの音にアイヌ語の訳を示してはいるが、つなげて「ウコタキヌプリ」を「互いについた玉石」と訳しているわけではなかった。山名の意味では白糠町史の日本語訳(「二つの山がくっついて立っている山」)を引用している。
北海道実測切図の ユケランヌプリ |
ウコタキヌプリには kamuy から食料である鹿を下ろされる伝説がある1)7)と言う。そのことを言う i- ukotak ki nupuri[それ(鹿)・を皆一緒に呼んでくる・ことをする・山]ではないかと考えてみた。アイヌ語では異種の母音が隣り合うとはじめの母音を追い出してしまうことが多い9)ということで、知里真志保のアイヌ語入門に i-u>u の例が挙げられている。この辺り一帯の山々で鹿を呼んでくるという意である。だが、語頭で母音が並ぶ場合は音韻添加で発音がイユコタキヌプリになりそうな気もする。考えてはみたものの「鹿を皆一緒に呼んでくる山」というのはどういう山なのか、山が自分達で鹿を呼んでくるはずはない。白糠丘陵のウコタキヌプリの南方にはユケランヌプリという山が北海道実測切図・北海道仮製五万図にあり(721.4m三角点「雪乱山」の山)、ユケランヌプリをウコタキヌプリの別名とする説7)もある。ユケランヌプリは、その音の通りに解釈するならば yuk e- ran nupuri[鹿・そこに・下る・山]かと思われる。なぜ、i- ukotak nupuri ではないのか、ki を入れることでニュアンスがどう変わるのかも分からない。
・旧記
ユケランヌプリの、江戸時代の松浦武四郎の記録を見ると、一般向けにアレンジされた東蝦夷日誌の文中で音別川筋の源の「ユケラン岳」、安政5年の戊午の取調の際のフィールドノートである手控で「ユケランノホリ」となっているが、取調後にまとめられた幕府に呈上するべく復命書として書かれた日誌の中では、「ウユケランノホリ」となっている。手控のユケランノホリはヲンベツ川(音別川)の「シノマンヲンヘツ、シヲンヘツの間に有る高山」とあるが、日誌では釧路湿原東側のイワホク(岩保木付近)からの展望の中で雄アカン岳、雌アカン岳などと共に針位を記されて「申四分半ヲンヘツのウユケランノホリ」とある。
イワホクから「申四分半」というのが、「子」が真北なのか磁北なのかはっきりせず、安政5年の岩保木付近での磁気偏角もよく分からず、雄アカン岳(雄阿寒岳と推定)への角度が現在の地形図上での値と異なり、子が真北だとしても、磁気偏角を-10°程度(2015年で+8.2°)と仮定した磁北としても、ウユケランノホリの方向は三角点「雪乱山」より7〜8°南方に偏るので、どうも参考にしにくいが、より南方であり、「ヲンヘツの」とあるので、日誌のウユケランノホリは音別川の源頭にあたっている旧図のユケランヌプリ=三角点「雪乱山」のことかと思った。だが、方位磁石くらいしか方位を知るものを持っていなかったはずの松浦武四郎にしては240分割と針位が細かいのと、この行程中の手控には「イワホキ 左小川、小山、谷地有」とあるだけで、方位や眺望の記録やスケッチを見ていないので、何某かの測量による別の資料から日誌に補ったものではないだろうか。東西蝦夷山川地理取調図の始めに「予原経天測地ノ学ニ疎シ」と書いた松浦武四郎はもしかしたら磁気偏角についても知らなかったのではないかと思う。
松浦武四郎は弘化2年の蝦夷日誌では凡例に「此編中天度は東部之分伊能勘解由之測る処をしるし」と書いているので、伊能忠敬の測量資料は見ていたようである。伊能忠敬は磁気偏角の存在を疑っていたという。また、伊能忠敬の測量の頃の日本の辺りの磁気偏角は小さく、享和3(1803)年の江戸で+19.0′(分)だったという。伊能忠敬測量日記では海際のクスリから内陸のイワホクに入った様子が窺えない。松浦武四郎が参照した測量の結果が何年の、磁気偏角をどう扱ったものか分からないので、戊午日誌の方位を子を大体真北とみなして考えておく。
また、三角点「雪乱山」のピークは白糠丘陵で抜きん出て高い所というわけではなく、多少主稜線より手前にあっても岩保木山から見れば手前の具合は小さな差であり、松浦武四郎が岩保木山から「あのピークがウユケランノホリだ」と明確に意識して記したものでは無いように思われる。
カタカナの「ユ」は「コ」と似ている。「ケ」は「タ」と、「ラ」は「キ」と似ている。公刊されている戊午の日誌は東京の松浦家に残された草稿が翻刻されたものだが、正本は記録や原本が見られないことから呈上されなかったのかもしれないと言う。明治維新後に松浦武四郎本人によって新政府に「ウユケランノホリ」と書かれた日誌の抄録等が持ち込まれて19)筆写され、開拓使などを経て北海道に運ばれて、すこぶる読みづらい19)という松浦武四郎の字の「ウユケランノホリ」が「ウコタキ(ン)ノホリ」と読まれて北海道庁による地形図に山名の載った、ユケランヌプリはウコタキヌプリの別名ではなく、ウコタキヌプリがユケランヌプリの誤写/誤読によって始まった山の名だったのかもしれないと考えてみる。ユケランヌプリは三角点「雪乱山」の辺りを中心とした白糠丘陵の山地の名として、拡充されて扱われていたのではなかったかと思う。
戊午日誌と現在の地形図の岩保木山からの針位の比較 | |||
戊午日誌 | 針位 | 現地形図 | |
雄アカン岳 | 亥六分半(349.5°) | 348.5° | 志計礼辺山? |
亥正中(330.0°) | 331.7° | 雄阿寒岳 | |
雌アカン岳 | 戌五分半(316.5°) | 314.3° | 雌阿寒岳 |
ホンノホリ | 戌四分半(313.5°) | 313.0° | 阿寒富士 |
309.2° | 徹別岳 | ||
シヨロロ山 | 戌正中(300.0°) | 303.7° | 三角点「庶路山」 |
酉四分半(283.5°) | 285.6° | ウコタキヌプリ | |
酉正中(270.0°) | 271.3° | 三角点「雪乱山」 | |
ウユケランノホリ | 申四分半(253.5°) | 251.6° | 三角点「志別山」 |
イワホクからの針位に戻る。日誌に「此処一ツの山有る故に、其頂え上り針位を見る」云々とあるので、現在の岩保木山山頂を眺望地点と考えて良さそうである。岩保木山からの針位をカシミール3Dで、現在(2017年)の地形図上で測ってみた。日誌ではじめに書かれるのは「亥の六分半(349.5°)雄アカン岳」で、次が「戌五分半(316.5°)雌アカン岳」、三番目が「戌四分半(313.5°)ホンノホリ」と、次第に視線を南下させている。雄アカン岳は雄阿寒岳(331.7°)と思われるが、戌五分半はかなり北方に偏っている。
雌アカン岳は雌阿寒剣ヶ峰(316.1°)、ホンノホリがポンマチネシリとも言われる雌阿寒岳(314.3°)と考えると、雌アカン岳とホンノホリの針位はだいたい正確だが、大きな雌阿寒岳本峰が pon nupuri[小さい・山]というのはどうも疑わしい。
松浦武四郎の安政5年の日誌には他にも展望の針位を書いた箇所があり、西別岳と思われるニシベツノホリからの針位にもホンノホリが雌阿寒岳付近と思われる雌岳と共に登場する。ニシベツノホリは地元のアイヌの人の話で同じ位の高さの頂が三つあるとされ、三峰に分かれている西別岳と考えて良さそうである。松浦武四郎は手控の行程を見ると西別岳には登っていないようなので、この日誌の箇所も何らかの資料で補われたもののようである。このニシベツノホリから方位は120分割のようである。伊能忠敬測量日記ではニシベツからニシベツノホリに登った様子は窺えない。
ニシベツノホリからの針位は、ホンノホリが申三分(249°)、雌岳が申四分(252°)とされる。西別岳から見ると剣ヶ峰(248.4°)と雌阿寒岳本峰(248.4°)は同じ針位で重なってしまうので、ホンノホリは阿寒富士(247°)としか考えにくい。
四番目は「戌正中シヨロヽ山」である。「正中」の使い方がよく分からないのだが、ニシベツノホリから「卯の申中(ママ)」とされるカンチウシ岳がカンジウシ山なら91.4°で90°に近い事から考えると「戌零分(300.0°)」ということか。「戌五分(315.0°)」と考えると北側に戻ってしまう。ニシベツノホリからの針位では子の方から順繰りに書かれ、最後に挙げられた戌四分チナイフ(藻琴山)だけ直前の亥正中マシウ岳(カムイヌプリ)から針位が戻っているが、十二支で戻っているのと実際に藻琴山の方がカムイヌプリより南方に見えると言うことで、最後の所でチナイフを飛ばしてしまったか後から付け足したのではないかと考える。現在(2017年)の地形図に「庶路山」といった山名を見ないので、庶路川の奥の辺りで目立つ徹別岳(309.2°)のことかと考えてみたが、徹別岳の針位でもやや南方に偏っている。庶路川上流域の右股であるコイカタショロ川と左股であるコイポクショコツ川の間にある、742.3mの三角点「庶路山」の針位を見ると、303.7°と近い。三角点「庶路山」のある高まりは標高700m強の峰が南北に連なって延びており、700m等高線の南端付近で測ると更に1°ほど南に偏る。雌阿寒岳の南方で目立って高まっている徹別岳も無視出来ない気がするが、徹別岳山頂は稜線の東側に張り出して厳密には庶路川流域に無く、針位も北に偏っているので、シヨロロ山は三角点「庶路山」の辺りと考えておく。
岩保木山から展望地の地図 |
次は針位が書かれずに「シヨクワウンベノホリ」とある。シヨクワウンベノホリがシヨロヽ山の別名なのか、地形図上では見当たらないが同じ方向に見える別の山なのか、少し南方に見える別の山なのか、はっきりしない。シヨクワウンベといった川の名も知らない。庶路川はシヨコツ川ともされる20)ので、シヨロロ山のアイヌ語の名で「シヨコツウンベノホリ」の松浦武四郎の誤読か誤翻刻ではないかと思う。ニシベツノホリから針位に「シヨウヤウシヘツ岳」という山の名があり、針位が「申一分(243°)」とされ、三角点「庶路山」の方向(243.5°)に近い。元の資料の字はかなり読みにくかったのではないかと思う。その次が「申四分半ヲンヘツのウユケランノホリ」で、それより南の方は一面の海だという。
シヨロヽ山を三角点「庶路山」のある高まりと考えたが、徹別岳や雌阿寒岳に比べると顕著なピークではない。「戌正中(300.0°)」の方向に、庶路川の流域の源頭と地形図上から見なせそうな山らしい山がないと言うことで南方に視線を移すと、「酉正中(270.0°)」が三角点「雪乱山」の方向(271.3°)とかなり近い。シノマンヲンベツはよく分からないが、三角点「雪乱山」の場所はシーオンペッを含む音別川源頭域の中ほどの程々の高山である。「申四分半」の方向にも山らしい山がないということで北方に視線を移すと「酉四分半(283.5°)」がウコタキヌプリの方向(285.6°)と近い。雄アカン岳と雄阿寒岳は差が大きかったが、雄アカン岳が亥正中(330.0°)であったとして、それより北に寄る相応の独立峰として辺計礼山の針位を見ると、349.8°と亥六分半(349.5°)にかなり近い。
ニシベツノホリからの針位に「申の初針(240.0°) タンタカノホリ」があり、翻刻の頭注では方向(240.7°)が一致する故か志計礼辺山とされている。岩保木山から志計礼辺山の針位は348.5°で辺計礼山のものと近い。イワホクからの針位で雄アカン岳と書かれていたのは辺計礼山より少し低いが、ニシベツノホリから観測対象として申の初針の志計礼辺山かもしれない。だが、西別岳から志計礼辺山の方向と、3°未満の差でその先に三角点「庶路山」(243.6°)がある。どうも不確実なことが多い。
雄アカン岳もずれていることだし、「音別のウユケラ(ン)ヌプリ」が申四分半でなく酉正中なら、顕著なピークとの先入観があると場所の分からないシヨロヽ山別名シヨクワウンベノホリの戌正中も酉で空席の出た四分半だろうということで、その方向の最高点のウコタキヌプリが北海道庁の中で注目されたのではないかと考えてみる。
しかし、その方向は山名の順序で考えるとシヨロヽ山別名シヨクワウンベノホリである。松浦武四郎が新政府に持ち込んだ資料とは別に「ウユケラノホリ」を「ヲンヘツの」と付けずに読みにくい字でイワホクから方位を測って書いた、松浦武四郎が日誌を書くのにも参考にした多少ズレのある江戸時代の古い測量資料(或いはその写し)が道庁にあり、松浦武四郎はウユケラノホリかウユケランノホリと読んで細かい針位はよく分からないので気にせずにユケランノホリと同一としたが、道庁の人はウコタキノホリかウコタキンノホリと読んで東蝦夷日誌のユケラン岳とは別の山と考え、庶路川の源頭でも無さそうだということでシヨロロ山(又はショコツウンベノホリ)の名を棄却して針位をいろいろ入れ替えて考えてウコタキヌプリをユケランヌプリと別の山としたのではないかと考えてみるが、様々な誤認との推測が多すぎる気もする。松浦武四郎と北海道庁に参照された古い測量資料を捜したい。
ニシベツノホリからの「申の初針(240.0°) タンタカノホリ」を現行名で一致する低山ながら目立ちそうな山容の鍛高山(221.9°)と考えると、岩保木山からの針位は271.1°で三角点「雪乱山」とほぼ重なるのが気になる。戊午日誌に書かれたニシベツノホリからの針位も正確でないと言うべきか、写し間違いがあったのではないかと言うべきか、タンタカノホリの方向以外にもよく分からない点が幾つかある。イワホキのような遠望して目立たない地点も挙げられているのは、高性能な望遠鏡の類を用いたものだったのではないかと思う。
以上を松浦武四郎の日誌に書かれた針位の「分」を「10分の1」と考えてきたが、伊能忠敬の山島方位記での「分」は「一支を三十分したる一分」で、「正」は「零分」である。戊午日誌の針位の列挙は山島方位記を読み上げたような書き方だが、10の桁の分がイワホクでもニシベツノホリでも一つも出てこない。ニシベツノホリでは分を欠く書き方もしている。また、伊能図での交会線に記された方位では一支を10分割して一分としている。松浦武四郎は山島方位記のクスリ辺りからの方位をイワホクに、ニシベツ辺りからの方位をニシベツノホリにして書いたのではないかと疑ってみたが、クスリから申四分半では海に出てしまって音別川流域の山という条件が満たせない。或いは伊能忠敬の測量を引き継いだ間宮林蔵や、他の測量者の山島方位記のようなものがあったのか。山島方位記を見てみたい。また、今の所、松浦武四郎の蔵書目録等に山島方位記は見ていない。
・再考
ユケランヌプリの名が yuk e- ran nupuri だとしたら、その名は地形などのランドマークに基づかない地名という事になる。アイヌの人々の重要な食料であった鹿が避雪の為に冬前に道東の方に移動するのに、また、春になって西に移動するのに山が海に迫っている白糠丘陵南側の海岸を避けて、それほど高い山ではない白糠丘陵を越えた事は考えられるが、それを山の名にするかは疑わしい気がする。鹿が下りてくることに注目するにしても、知里真志保(1956)はアイヌ語入門で ran が単数形なので、永田地名解にある釧路郡の「ユク エラン ウシ 鹿下リ来ル処」について、「鹿が1頭だけいつもそこを降りて来るなどと考えるのはナンセンスだ」と指摘している。大抵は群れで行動し、その群れも一つではなく毎年鹿が下ってくることは複数形の rap で言うようである。どこかにユケランの音に転訛しそうな、ランドマークに基づいた名の川があって、その水源の山として呼ばれていたのが白糠丘陵全体の名に拡充されていったのではないかという気がする。
推定ユケランヌプリの地図 |
ウコタキヌプリの「酉四分半」と、三角点「雪乱山」の「酉正中」は戊午日誌に無いが、辺計礼山の「亥六分半」は雄アカン岳の針位として書かれたものである。ウユケランノホリの「申四分半」の方向にも、三角点「庶路山」の高まりのような目立たない山があるのではないかと考えてその方向を見てみると、白糠丘陵の主稜線がはっきりしなくなるほど標高が落ちているが、直別川の左岸の三角点「志別山(372.8m)」のある台地状の山が、最高点の三角点「志別山」の位置で251.6°となり、値が近い。音別川の流域でもある。明治27年の北海道実測切図を見ると、北側の鞍部から直別川に落ちる支流に「ルークン子ナイ」とある。ルークン子ナイの直別川対岸の沢が「ルソシナイ」とある。ルソシナイを上がった所から稜線を越えた常室川支流に「ルペシュペ」とある。直別川支流の二つの名も最初のルはアイヌ語の ru[道]を思わせる。常室川支流のルペシュペは道に沿って下りる川であることを言っている。ルークン子ナイの東側の音別川支流シペッ(シベツ沢)の名も重要な川である事を思わせる。道がある所のすぐそばの山と言うことで、名づけられて注意されていたことは考えられそうである。
手控の「シノマンヲンヘツとシヲンヘツの間」と言う条件は満たしそうにないが、この聞き書きはその前にシノマンヲンヘツと思われるシノヲマヲンヘツが「北えさし女アカンの下え落る」とされ、シヲンヘツも「此川すじウラホロ水源より、アショロのイナウシの方へさし、此処高平。」とあるので、音別川の二つの支流ではなく庶路川と茶路川のことを聞いた事が疑われ、針位も酉四分半より北方に偏ってしまう。庶路川流域と茶路川流域の間の別の山のことかとも考えてみるが、両川の間に標高700mを超えるピークは無く、名のある山があったとしても、庶路川〜コイポクショコツ川より東の山並みに遮られて、岩保木山から見通せるのかどうか疑問である。この辺り(直別川〜庶路川)の手控の翻刻の頭注には「近代地名とは全く一致しない」とある。
ルークン子ナイの名を考えてみる。音の通りの ru kunne nay[その道・暗い・河谷]は、道が暗いと言いたいことがあり得るのか、道が暗いならその所属する河谷も暗いのだから、ru を付ける必要があるのか、疑問である。地形的にはルークンネナイより、同じ道の続く西側のシベツ沢上流域の方が南側の斜面が立って、北岸も立って暗そうである。
シベツ沢から常室川への道は、一度狭い直別川の谷に下りる、一繋がりではあるが直別川徒渉という切れ目のある道である。平坦地であるムリ川と常室川の間の一連の山道でのこの一旦切れるを部分を「関節」と言った、関節の部分の過半を占める河谷の名としてのルコンネナィ ru-ik or ne nay[道の関節・の所・である・河谷]が、ルークンネナイと考える。或いは ru-ik ではなく地名アイヌ語小辞典に「中凹み」との訳がある ok で、直別川に一旦下りる ru-ok[道の中凹み]かと考えてみたが、ok は背中と後頭部に対しての首筋のような滑らかな尾根筋の中凹みのようである。或いはリキルネナィ rik-ru ne nay[高い所の道・である・河谷]の転かとも考えてみたが、山越えの道だとしてもそれほど標高が高くないと思う。
ru-ik or ne nay[道の関節・の所・である・河谷]のすぐ横にある三角点「志別山」のある台地状の山を、ルコルンヌプリ ru-ik or un nupuri[道の関節・の所・にある・山]と言ったのが訛ったのがユケランヌプリの名と考える。或いはリキルンヌプリ rik-ru un nupuri[高い所の道・にある・山]か。
ルソシナイの名は、低いのに急峻なことがある白糠丘陵の短い沢の源頭を避けて、末端付近から尾根に入って道としていたことをいう、ru ousi -na -i[道・の麓・の方の・もの(川)]と考える。声門破裂音ないし声門の緊張またはせばめの u がソのように記録された例として、雄冬海岸の千代志別のチセソシベ/チセウシヘ(pes eus pe[水際の崖・の先につく・もの(川)])が考えられる。
道はルペシュペから常室川に入り浦幌に向かっても、白糠や阿寒の市街地辺りを起点に考えると海岸伝いより距離が長くなってしまう。海岸伝いに大きな難所があるわけでもない。北海道実測切図にはルペシュペと分かれた常室川の右岸支流である双運川にコキルペシュペとあり、それを越えるとルシン(留真)で、道の存在を思わせる地名が続く。ルシンから更に西方へ瀬多来川〜毛根別川と繋いで、釧路から十勝川中流域へ短絡するルートではなかったかと考える。コキルペシュペは東西蝦夷山川地理取調図等にあるトヒルヘシベで、双運川の中ほどに道が下りてきていることをいう、tom ru pes pe[その中ほど・道・それに沿って下る・もの]ではないかと思う。
手控のユケランノホリの登場するヲンベツ川すじの前にはチョクヘツ川すじ(直別川)があり、その水源が「山平にて、シベと云よし。此処えヲンヘツと并び行よし也、・・・此うしろはウラホロに当よし也」とあり、挿図ではシベに向かってヲンベツイトコ〜ムリと、直別川と、ウラホロ〜ルシンが集まっている。シベは直別川上流の別名のような描かれ方である。音別川の大支流のムリ川の奥にシベ(シペッの源頭の意か)があり、直別川を挟んでその向こうにルシン〜ウラホロがあるということで、明治〜現在のシベツ川がムリ川の支流としてあるので、音別川と直別川の間にユケランノホリがあると言うことだったのではないかと考えてみる。
参考文献
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2)松本成美・白糠地名研究会,アイヌ語地名と原日本人,現代史出版会,1983.
3)角川日本地名大辞典編纂委員会・竹内理三,角川日本地名大辞典1 北海道 上巻,角川書店,1987.
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8)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
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15)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1988.
16)松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,吉川弘文館,1970.
17)大谷亮吉,伊能忠敬,長岡半太郎,名著刊行会,1979.
18)伊能忠敬,佐久間達夫,伊能忠敬測量日記 第1巻,大空社,1998.
19)吉田武三,評伝松浦武四郎,松浦武四郎紀行集 上,吉田武三,冨山房,1975.
20)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
21)松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
22)伊能図 ―東京国立博物館所蔵伊能中図原寸複製―,武揚堂,2002.
23)北海道庁地理課,北海道実測切図「十勝」図幅,北海道庁,1894.
24)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
25)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
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