寿都富士
歌棄から(右)
海岸沿いは寿都の街
左は月越山脈369m峰
寿都富士 (416.6m)
すっつふじ

 北海道に数ある郷土富士の中でもマイナーな山。寿都の街からはあまり望めないが、寿都の港外、湾内、同じ寿都町内でも寿都湾を挟んだ浜中や歌棄からは富士型の姿を仰ぐことが出来る。寿都の街の中では海岸段丘上の街の南端付近から望める。小型ではあるが日本一小さいと言うわけでも無い月越山脈の、一番高いと言うわけでもない富士。


 山の東側、滝の澗川の右岸の尾根から登ろうと計画していたが、国道を自動車で走っていて滝ノ澗川を見過ごしてしまい、一つ北側の小沢の右岸、滝の澗川の左岸から登ることになった。尾根に取り付いてから気が付いた。下山は計画通り右岸の尾根を下りた。

 海岸線の雪は殆ど無くなり、山肌も笹が露出している部分が広がっていたが、国道のすぐ脇から山頂まで雪がつないで登れた。上の方は木がないところが多くて開けた雰囲気だ。風で変形・矮小化したカラマツがポツポツと生えていた。登るに従い、真っ白な雷電山や積丹半島の山々が望める。羊蹄山もモヤの中に見えた。月越山脈の北側にはアンテナや風車が多い。

 滝の澗川左岸から上がってしまったので月越山脈の一部を縦走することになった(笑)。大雪山のように緩やかな広がりを持つ山脈だった。稜線上からは反対側の大平山や狩場山も見えた。狩場山は本当に巨大だった。


登り始めは低木の森

開けた斜面

雷電岬・雷電山

矮化したカラマツ

寿都の街とニセコ連峰

寿都富士がもうすぐ

 山頂の周囲は雪が切れ切れで三角点「新栄」が顔を出していた。北側の尾根は緩やかで少しのヤブもあったが、南側の尾根は雪稜になってちょっと怖いので少し戻って、一段下の平地で風も寿都富士に遮ってもらって昼食した。寿都富士の山頂から寿都の街はほとんど望めない。

 滝ノ澗川右岸の尾根に入って振り返ると昔の登山道跡が笹薮の中に続いているのが分かった。子供たちが駆け上った時もあったのではないかと思う。スキーに登ってきたこともあったのではないかと思った。


最後の登りはヤブ気味

山頂から見た母衣月山

狩場山・島牧方面

東稜は雪稜になっていた

東側は複雑な地形

昔の登山道が雪に浮き出る

 右岸の尾根の末端は複雑な地形だったが、こちらも国道まで雪が続いていた。月越山脈の稜線から離れると開けた斜面を下りてカラマツの森の中に入る。カラマツにはコクワやヤマブドウが絡まり、あまり手が入っていない雰囲気だ。カラマツの丈が斜面を下りるに従い急速に高くなる。稜線に近いところは風が強いと言うことなのだろう。230mあたりから林道(跡?)を見つけて沢を一つ路盤で渡渉、この林道は標高150m付近で途切れていて、そこからは尾根が小さく複雑になる。地形図上にある点線の登山道の存在は歩いていても感じられなかった。標高50mを下回ると開拓跡なのか森がヤブになり、林道が再び現れる。

 帰りに寿都湾を挟んだ、サクラマスを狙う釣り人集う朱太川河口と、ニシン漁盛んなりし頃の面影残る歌棄から寿都富士を見た。確かに富士形だった。寿都の街だけから仰ぐ富士ではなくて寿都の沖から仰ぐ富士だったのかもしれない。

寿都富士の地図


★山名考

 明治時代の北海道庁の地図や陸地測量部の地図では寿都富士と思しき位置に「エトコトカリ山」と振られていた。榊原正文(1997)は「水源の手前」と解し、月越山脈西側の歌島川の水源の手前と言うことではないかとしている。エトコはアイヌ語のetokoと思われるが、水源に限らず先端を指す言葉である(水源は川の先端)。現行地形図上の寿都富士や明治時代の地図のエトコトカリ山の位置は歌島川の水源の手前とは言い難く、水源そのものである。エトコ(その先端)とは歌島川の水源ではなく、日本海に突き出た弁慶岬のことではないか。tukariは手前の意味なので、先端(弁慶岬)の手前(の山)と言うことではなかったかと思う。

参考文献
1)北海道庁地理課,北海道実測切図「岩内」,北海道庁,1891.
2)陸地測量部,北海道仮製五万分一図「寿都」,陸地測量部,1896.
3)榊原正文,データベースアイヌ語地名1 後志,北海道出版企画センター,1997.



トップページへ

 資料室へ 
(2010年4月14日上梓)