大平山 (1190.6m)  泊川ガロ沢(ハコダテ沢)
おびらやま
地図

 登山口の先の泊川沿いの道はすぐ先で崖崩れで通行不能。泊川の河原を歩いてガロ沢に向かう。

 滝は二つだけ。沢の中は落ち葉と川虫がすごく多い。川虫は一見汚いと感じてしまうほど多くいる。だがこれも豊かなブナの森の象徴なのだ。1つ目の滝の上に大きな湧水あり。2つ目の滝(2段直瀑)の位置はうろ覚えで多分この辺りということで地図に記す。何か珍しい植物が見られるかと思ったが何も見なかった。

 710m二股から上の左股に水は無い(右股はある)。珍しい模様の石が多い。源頭は710m二股からまもなく灌木のトンネル、高茎植物のブッシュ。草いきれのヤブ漕ぎを早く終わらせたくて、左股の本谷から離れて左の枝谷に入って登山道に出ようとしたが、急斜面の高い草のブッシュが最後まできつかった。ハコダテ沢は西面直登沢より長いけれども登りやすいらしいと読んで入ってみたが、大平山に登るのは登山道が使えるなら登山道を往復するのが無難であると言うのが遡行の結論。


★山名考

 松浦武四郎の安政4年の、今の黒松内市街地北方あたりからのスケッチに大平山が「シマコマキ岳」とある。

 「大平」は大平川の源頭の岳の意であろう。

・オビラ

 山田秀三(1984)は大平川を永田地名解にあるピラコアンペッとと同一視しているようだ。永田地名解を見ると島牧郡部にピラコアンペッの項の他に「ピラコアンペッ川筋」の部があり、三つの川筋の地名の項がある。島牧郡部で川筋の部があるのは他に折川のオリカンペッと泊川のシペッだけで、折川と泊川と同等の島牧郡の川は大平川と千走川しかないので、オピラシュマの次に並ぶ永田地名解でのピラコアンペッは大平川のことと思われる。だが、松浦武四郎の安政3年の報文日誌である竹四郎廻浦日記では西からヒラコアンベツ小川、ワシノシリ、ヲヒラ川巾十五間とあり、ピラコアンベッとヲヒラは別の川で、ピラコアンペツが大平川の別名ではない。ヲヒラの次はヲヒラを渡って「ヲヒラシマ 前に暗礁島有」で大平川河口右岸の岩礁である。

 永田地名解のピラコアンペッ川筋の3つの地名は全て松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図にある。東西蝦夷山川地理取調図にあって永田地名解にない大平川支流名はいずれもその音のままではアイヌ語として意味が取りにくい。東西蝦夷山川地理取調図では大平川に相当する川の名がなく、ワシノシリの東側にヒラコアンヘツとあって、ヒラコアンヘツが大平川の名のように見える。東西蝦夷山川地理取調図の草稿である川筋取調図を見ると大平川はヲピラとあり、支流の名は東西蝦夷山川地理取調図と一致する。ピラコアンペッは大平川の別名や訛りなどではない。

大平川河口付近の地図

 報文日誌の竹四郎廻浦日記ではない一般向けに興を添えるアレンジのされた西蝦夷日誌ではヒラコアンヘツが大平川の扱いで「訛てヲピラと云」とされる。東西蝦夷山川地理取調図でも彫り師のミスではなく、松浦武四郎が川筋取調図を作った後にヒラコアンヘツを大平川の名とするような別の資料を見て自身のこの部分の調査に自信を無くし、東西蝦夷山川地理取調図でヲビラを彫らず、西蝦夷日誌でヒラコアンヘツとヲヒラを同一ということにしたのか。興を添えるようなアレンジではないと思う。東西蝦夷山川地理取調図にヲピラがないまでが彫り師のミスで。後の西蝦夷日誌を東西蝦夷山川地理取調図に合わせたとも考えにくいと思う。この辺りの図取りが天保4(1833)年の今井八九郎の地図では松浦武四郎の記録より地名の密度は低く床丹川に相当する地名もないのだが、大平川の河口の位置に「ビラコアンヘッ」の文字がある。松浦武四郎は川筋取調図を作り始めた安政5年秋以降、東西蝦夷山川地理取調図刊行の安政6年までに今井八九郎の地図かその類本を見たのではなかろうか。

 ワシノシリは大岩岬であるとを松浦武四郎が記しているので今の地形図にあるワスリと考えて間違いないだろう。西側からトコタンを過ぎて浜にハナレシマがあって人家続き少し行ってヒラコアンベツなので、ピラコアンペッは国道の大平トンネルの上の台地からワスリの端の断崖を浜に落ちてくる小河川である。pira ka o- un pet[崖・の上・その尻・はまっている・川]の転がピラコアンペッと考える。

 大平トンネルの上の台地にはアイヌの人の冬道があり、また、鷹の巣トンネル開通前の国道229号線の前身の道があった。松浦武四郎はトコタンから「此処より九折を少し上りて道無処一文字に平道ヲリカに下るによろしと。」と、ヲヒラの河口では「陸道を来るや此川端へ出るによろしと。」と聞き書きを記し、遠景はスケッチで近景は推測による鳥瞰の見取り図に一筋の道線を加えて「冬道凡十五丁」としている。ヲリカに下るとは大平川の東側の折川の方に下るということだろう。

 このアイヌの人たちが使っていた冬道の入口である ru paro[道・の口]の転が大平川の名の元になったオピラと考える。語頭にアクセントが来るので、中にはオーピラのように第一音節を伸ばして発音していたアイヌの人もいて、「大平」の字が宛てられたのではなかったか。道の反対側の、廃村(tu-kotan)があったという伝承もなさそうで、廃村があったとしても廃村がそのままそれだけで川の名になるとは考えにくい床丹川の名のトコタンは、ru ko- ran[道・と一緒に・下ること(川)]の転ではなかったか。

・シマコマキ

 竹四郎廻浦日記に「惣てシマコマキと号れどもシマコマキは此処より少し南の方の大岩の名にして、此運上屋の字にあらず。」とあり、運上屋のあるトマリの一つ西の地名にホロヘツ、二つ西に「シユマコマキ 大岩有」としているが、シマコマキ運上屋元に「夜に入着」ということで大岩を見たのかどうか、前半はスケッチの多い竹四郎廻浦日記だが大岩の描かれるスケッチも無く分からない。三つ西は「ホロナイ 小川有。」なので今の幌内川で、ホロヘツが poro pet[大きい・川]で泊川で島牧村役場の浜の辺りが運上屋の所在地でとすると、シマコマキの大岩というのは泊川左岸の57.1mの四等三角点「泊」のある山の尾の北面と、現在はコンクリートで擁壁化されている東面にあった岩の露出のことのようである。

 各地のアイヌの長に尋ねたという文政7(1824)年頃の成立という上原熊次郎の地名考では「夷語シマクマキなり。即、岳の至深く入ると譯す。扨、シとは至と申事。マクとはマクタの略語にて岳と申意。マキは入ると申事にて、此所渓間の深く地軸に入たる故、此名ある哉。亦は此岳に大なる高岩ある故、此名ある哉。両様未詳。」とある。

 山田秀三(1984)の「北海道の地名」の島牧・泊川の項は西蝦夷日誌の島古巻の地名考と永田地名解を引用し、「いずれにせよ近くにあった shuma(岩石)に因んだ名らしい。」とする。西蝦夷日誌の島古巻の地名考は上原熊次郎の地名考を参考にしているか参考にした資料を引用しているようで、大筋で上原熊次郎の地名考に似ている。永田地名解は「Shuma ko mak-i シュマ コ マキ 岩石ノ後背」とする。

 上原熊次郎の地名考を読む限り、文政の頃は suma に因むかというのは第二案だったようである。上原熊次郎の地名考はどこまでがアイヌの長の見解で、どこからが上原熊次郎独自の考察なのか分からないのだが、アイヌ語のマクとかマクタで「岳」の意にはならないと思う。マキで「入る」にもならないと思う。si- mak ta mak o -i と言えば「とても後ろに、後ろにある所」となりそうだが、「岳」という言葉は出てこなさそうである。日本語を少しは分かるアイヌの長と、通辞だがアイヌ語を完全には使いこなしていなかった上原熊次郎の会話を上原熊次郎が書き留めたということで、アイヌの長が岳の後ろに深く入る所だとシマクマキという地名の発祥地の状況を説明したのを、アイヌ語でシマクマキという言葉の指す意味の説明と誤認して上原熊次郎は聞いたと考える。高岩というのは竹四郎廻浦日記の「少し南の方の大岩」で、泊川左岸の出尾根の東面のことだろう。

大平川河口付近の地図

 シマコマキ運上屋の前の浜は一直線で風を避けられない。大きな泊川に入って三角点「泊」のある出尾根の「岳」の蔭に入れば風を避けられる。シマクマキという音から考えにくい「岳」という言葉が上原熊次郎の「訳」に入っていることと併せて、この泊川の河口から少し奥の「岳」の後ろに入った所が交易場ということの sir-ok makke[山の・うなじ・の後ろ]がシマクマキでないかと考える。

 永田地名解に近く、出尾根の露岩に注目して suma -ke makke[岩・の所・の後ろ]かとも考えてみたが、アクセントが第二音節となり、アクセントが置かれる「シとは至と申事」の上原熊次郎の地名考が出てこなくなると思う。或いは露岩で sir-ok pake[山の・うなじ・の岬頭]の転かとも考えてみる。

・ペンピラ/ウェンピラ?

 松浦武四郎の安政3年のトコタンとヲヒラ川の間の上の「冬道凡十五丁」の見取り図に「此ヲヒラとクロマツナイヲシャマンベとの川上にはペンピラと云高山有るよし」と書入れがある。

 大平川筋で高山というと大平山のことかと考えたくなるが、報文日誌の竹四郎廻浦日記ではヲヒラ川筋「ウエンヒラ」で登場し、更に二つ川筋の地名が続いて、川口から堅雪の頃に凡そ二日遡って「此辺え来るやヲシヤマンヘに近きよし也。高山さして無と。」とあり、ベンピラ/ウエンヒラは大平川沿いの山間の地名で、山の名ではないようである。

★川名考

ガロ沢落ち口付近の地図

 泊川というのは川に少し入って、左岸の三角点「泊」のある出尾根の山陰に入った所が船の停泊地(tomari)である川ということであったと考える。

 ガロ沢は泊川右岸の急斜面の下端が膨らんで突き出した所を落ち口右岸として泊川に落ちる。古語で歯茎を「どて」という。急斜面の下側に肉盛りして突き出したような形態を「どて」と言ったということで、「ほき(崖)・どて(土手)」の転が「はこだて」と考える。

 突き出した急斜面の下端を「ぐろ」と言ったのが転じたのが「がろ」と考える。ハコダテ沢もガロ沢も一つの落ち口の地形的特徴を言い換えた沢の名であったと考える。

参考文献
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松浦武四郎,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
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松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
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今井八九郎,北海道測量原図(西蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
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田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
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上原熊次郎,蝦夷地名考幷里程記,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.



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(2002年10月3日上梓 2022年2月20日URL変更・改訂 2022年7月6日山名考追加)