ウェンシリ岳(1142.3m)
ポロナイップ(ポロナイポロ)川西面直登沢
地図

 ウェンシリ岳の沢と言うと難しいことで知られているが、西面沢は面白みのない沢であった。ゴロ石ばかりで滝は1つもない。イラクサとヤチブキとイタドリばかりが生い茂り、押し分けるのに腕が疲れて標高差のわりに時間がかかった。地形図を見て下流部は何もないことは想像できたけれど、源頭ではナメ滝の階段が少しはあるかなと期待していたのが・・・。沢の名前は地形図ではポロナイポロ川になっているが、現地の林道の名前ではポロナイップとあり、明治期の地図ではポロナイポとある。

 林道を自転車で遡って見た名寄川本流もポロナイポロ川も川の水の流れよりずいぶん谷の幅が広い気がする。ポロナイポロ川沿いに入りウェンシリ岳下川登山口の入口前を過ぎるとすぐに自転車で辿るには躊躇する作業道跡となり、自転車を置いて作業道跡を進む。480m等高線がポロナイポロ川を横断する広い川原の下端は湧き水の池のようになっていてちょっとした上高地のようであった。この辺りまで作業道が続いている。湧き水から先は作業道とも干上がった河道とも見えるゴロ石の上を歩く。

 直登沢出合は地図で見ると前後に同じような出合が幾つも並んでいて、下流の広い川原では完全に伏流しており、支流の水流も涸れた沢床も見当たらず、河原の脇の高い樹林で見通しも得られず出合を確認できなくて直登沢かどうか不安で、ひとつ上の左からの出合を確認に行ったりして40分ほど逡巡した。出合から山頂までは、地図では見通せそうな雰囲気だが見通せない。ヒグマの糞が多い。形跡も多い。


ポロナイップ岳

 直登沢に入ると地下水位は古い山らしく高く、950m辺りまで汲めるくらいの水があった。水が切れるとすぐに猛烈なネマガリタケのブッシュとなり、漕いでいる1時間は殆ど地面に足が付かず、竹を踏んで山頂間近の登山道に出た。

 ウェンシリ岳からポロナイップ岳までの稜線に太い刈分けが続いているのが見えた。夏山ガイドに「廃道状になった」とあるが、刈分け直されたのだろうか。

 下山は下川コースの登山道を使った。よく手入れされていて歩きやすい道であった。西面以外の北、東や南側の沢はいずれも中部日高の山岳を思わせる切り立った沢筋であるのが見えた。ヤブ漕ぎは少なそうに見えた。北方の稜線は二重山稜が見られた。

 ポロナイポロ川西面直登沢は難しいと言われる「ウェンシリ岳の沢に登ったぞ!」と猫だまし的に使える体験を得る沢登りであった。


★山名考

aun 地図

 wen はアイヌ語で「悪い」だが何が悪いのか、どこが悪いのか分からない、などとされるが、何がどこが悪いのか一言聞いて分からないというのは釈然としないものが残る。ウェンシリ岳の東側の沢は現代的な感覚ではどれも悪いようではある。地名アイヌ語小辞典で ahun-ru-par の方言名として wen-ru-par が挙げられているのが気になる。また、ahun aun から出たとされている。ウェンシリ岳近くの藻興部川の左岸小支流にアイヌ川というのが地形図にあるのが気になる。アイヌ川はウェンシリ岳に突き上げていないが、本来は藻興部川の札久留峠より上流側の名であり、aun -i[入りこんでいる・もの(川)]か awe -n -i[内・に向かう・もの(川)]で、小支流のアイヌ川の名と誤認されたもので、興部川・藻興部川一帯の内側向きに流れている事を指し、aun -i awe -n -i の水源の山と言うことで、aun sir[アウン・(川の水源の)山]か awe -n sir[アウェン・(川の水源の)山]の転訛がウェンシリではなかっただろうかと考えてみるが、類例を集めたい。

 天塩川上流の似峡岳は明治30年の北海道実測切図に「ニイサマウェンシリ」とある。地名アイヌ語小辞典に「木のこぶ;淋巴腺腫:ふくれ波」とある nin がコブのような地形も指して、似峡川落ち口右岸のキャンプ場と神社のある377mのコブの横にある川と言うことで nin samaコブ・のそば]が音韻規則で NIYSAMA となっていたと考える。似峡岳は NIYSAMA e-(/o-) aun sir[似峡川・そこに・入り込んでいる・山]と思われる。よく聳えた山らしい山である。似峡川とサックル川に挟まれているが、特にどちらの支流の水源と言うことも無い。衛星写真(GoogleEarth)を見ても、似峡川側に崖などは無いようである。サックル川側にも崖などは無いようである。

 天北峠の西側の、一の橋の北西の剣山は北海道実測切図にウェンシリとある。地形図でも南斜面に崖記号があり、衛星写真でも広範な露岩が確認できる。ここは wen sir[悪い・山]なのだろう。

 枝幸ウェンナイ川の流路は海岸線の内側にあるように見える。

 遠別川は日本海岸に対して十手の鍵のような入り込んで並行する流れ方である。

 冬道として名寄川筋から天北峠を経て興部川流域に入り、尾根伝いに興部川の西興部の集落より上流と藻興部川に挟まれた山地を尾根伝いに南東進して藻興部川を渡り鬱岳の南西尾根を経由してオホーツク海側に出るルートとすると、藻興部川の札久留峠登り口より上流側はルートに対して十手の鍵のような位置となる。

 藻興部川の札久留峠登り口付近より上流の名が aunawe -n-i で、その水源としてのウェンシリ岳が aun sirawe -n sir であったと考えるが、更に考えたい。


★川名考

 ポロナイポロ川は名寄川筋で札滑川筋へ抜ける天北峠や札滑川六線の沢の低い山並みの上手に広がる細長い盆地の入口にある大きな名寄川支流である。細長い盆地の東側は札滑岳、ウェンシリ岳の高く急峻な山並みが連なりオホーツク海側に抜けにくい。

 この峠越え可能な天北峠の辺りに川筋を越える入口となる par o nay[口・にある・河谷]と呼ばれた谷筋があり、その上手ということで PARONAY pe[パロナィ・の上(かみ)]とウェンシリ岳西側の細長い名寄川に沿った盆地の東側の山並みを言い、そこの最初に見る大き目の川ということの PARONAYPE or[パロナィペ・の所(川)]と呼んだのが転じたのがポロナイポ/ポロナイップと考えてみた。だが、天北峠一帯でポロナイやパロナイという川の名の記録は見ていない。天北峠の谷筋にはペンケルペシペと言ったアイヌ語の別の名があった。

 明治期の地図にはポロナイポとあるが、江戸時代の松浦武四郎の記録ではフィールドノートである手控でも報文日誌でも「ホロナイボ」で一文字目に濁点がない。永田地名解はポロナイポを「大澤口」と訳しているが、天塩国上川郡の分は地図に拠って測量者に質して訳を下したとあり、地元のアイヌ古老に尋ねて調べた音や訳ではない。

hur o- honne -i pe 地図

 河谷ではなく、山並みが低くなっている所ということの hur o- honne -i[山の斜面・そこで・たるんでいる・もの(処)]で、天北峠一帯の低まった国境稜線の山並みを指し、HURONEI pe[フロネイ・の上(かみ)]の転がホロナイポで、名寄川筋右岸で天北峠一帯の上手の札滑岳やウェンシリ岳の西側斜面を指し、そこにある大きな沢であるポロナイップ川の名でもあったと考える。また、川の名として斜面一帯と区別する為に HURONEIPE or[フロネイペ・の所(川)]とも言ったのがポロナイポロ川という名の元になったと考える。

 永田地名解にはもう一つポロナイポの項があり、枝幸町の枝幸の市街地の北側を流れるホロナイポ川である。ホロナイポ川も明治期の地図でポロナイポだが、松浦武四郎の江戸時代の記録ではホロナイボで一文字目に濁点がない。ホロナイポ川は枝幸市街地西側の臥牛山(194m)と北側の枝幸山(306.4m)の間の標高約130mの鞍部に突き上げる。この鞍部が hur o- honne -i で、HURONEI pok[フロネイ・の下]の転がホロナイポでホロナイポ川を指したと考える。

 ポロナイップ川と同音かと考えたくなる積丹町の幌内府川は、安政3年の松浦武四郎の報文日誌に「ホロナイ 二八」とある。二八は二八小屋があるということで、河口左岸に集落のある今の幌内府地区の姿と同然である。東側の野塚町から海岸段丘崖が続き、小さな岩岬の向こうに幌内府川がある。小さな岩岬を hur o- ne -i[山の斜面・その尻・である・もの(岬)]と言ったのが転じてホロナイで和人集落の名となり、HURONEI pok[フロネイ・の下]の転が幌内府川を指すホロナイプでないかと考える。或いは HURONEI pa[フロネイ・の下]か。だが、松浦武四郎の安政3年の幌内府付近の報文日誌にあらわれる地名は同年の手控(フィールドノート)と違いがあり、手控からは上のようには考えにくい。幌内府については更に考えたい。

参考文献
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梅沢俊・菅原靖彦・中川潤,北海道夏山ガイド6 道東・道北・増毛の山やま,北海道新聞社,1995.
北海道庁地理課,北海道実測切図「名寄」図幅,北海道庁,1897.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
北海道庁地理課,北海道実測切図「枝幸」図幅,北海道庁,1897.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
新岡武彦,枝幸郡の伝説と昔話,枝幸町,1987.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.



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(2003年8月19日上梓 2022年2月20日URL変更・改訂)